<吉祥寺残日録>定年後を考える😄 アバタローで聴く世界三大幸福論① バートランド・ラッセル『幸福論』〜私心のない興味の大切さ〜 #220523

まもなく会社を辞めて2年になる。

退職前に思い描いていた生き方とは多少違ってはいるが、その日やりたいことをやる生活というのは悪くないものだ。

人との交流をミニマイズし生活もかなりダウンサイジングしたため、お金の方も入りと出がほぼ均衡するようになり貯金が大きく目減することもなく暮らせている。

多くを望まなければ、今の調子で心の平穏が保たれた老後が送れそうな気がする。

最大の懸念は、不眠症に苦しむ妻の体調である。

定年後は一緒に海外旅行をしようと勝手に思っていたが、私に比べて体力のない妻をあちこち連れて歩くのは難しいのかもしれない。

同年齢で心の病に苦しむ人は多いようだ。

今月11日にはお笑いトリオ「ダチョウ倶楽部」の上島竜兵さんが自殺したとのニュースを見て絶句した。

上島さんはまだ61歳。

直接お会いしたことはないが、テレビで拝見するその姿からはとても自殺などという最期を想像することはできなかった。

報道によれば、師と仰ぐ志村けんさんがコロナで亡くなってことがその後も上島さんを苦しめていたという。

それに先立つ今月3日には、俳優の渡辺裕之さんが自宅のトレーニングルームで命を絶った。

66歳だった。

ダンディーでスポーツマンで、およそ自殺とは縁のなさそうに見えた渡辺さんがなぜ自ら死を選んだのかは定かではないが、コロナ禍で自律神経失調症を患い投薬を受けていたとの報道もある。

端緒はやはり眠れなくなったことだったという。

会社を辞め、隠居生活に入ってつくづく感じるのは、人生にとって最も重要なのはカネや名誉ではなく、自分は「幸福」だと感じられる生き方ができるかどうかということだ。

妻の不眠症をきっかけに偶然興味を持った哲学について、今日も書いてみようと思う。

世界には「三大幸福論」というものが存在するらしい。

書評ユーチューバー「アバタロー」さんのサイトで初めてそれを知った。

スイスのカール・ヒルティ、フランスのアランことエミール=オーギュスト・シャルティエ、そしてイギリスのバートランド・ラッセルの書いた『幸福論』が、「世界三大幸福論」と呼ばれるのだそうだ。

これらを紹介した「アバタロー」さんのYouTubeを聴きながら、その内容をこのブログに記録しておきたいと思う。

まずは3つの名著の中で最も新しいラッセルの『幸福論」から始めよう。

イギリスの哲学者、数学者で、平和運動家としても名高いバートランド・ラッセルは、今からちょうど150年前、1872年の5月にイギリスの貴族の家に生まれた。

祖父はイギリス首相も務めた名家に生まれたが、幼くして両親を亡くし祖母の厳しい躾のもとで不遇の少年時代を過ごしたとされる。

そんな彼が生きる糧としたのが数学と哲学だった。

ではアバタローさんの解説を聴きながら、ラッセルの「幸福論」の内容を見ていこう。

不幸の原因は「自己没頭」

ラッセルは、人間が不幸になる原因について「自己没頭」が原因だと書いている。

「自己没頭」には3つのタイプがあるという。

まず不幸になってしまう最大の原因を伝えておこう。

それは「自己没頭」だ。

つまり自分のことばかりに気持ちが向いてしまうと、人はどうしようもなく不幸になる。

自己没頭にはさまざまな種類があるが、ごくありふれた3つのタイプが存在する。罪びと、ナルシスト、誇大妄想狂、この3つだ。

まず最初に罪びとについてだが、これは何か悪いことをした罪人のことを意味しているのではない。「なんて自分はダメな人間だ」と、常に自分に非難を浴びせているような罪の意識に取り憑かれた人間のことを意味している。こういう人は、「本来自分はこうあるべきだ」という理想像とありのままの自分との間にある大きな差に苦しんでいるのだ。特に幼い時、自分の親から「あれをしちゃダメ、これもしちゃダメ」と刷り込まれた人間は大人になってようやくその呪縛から解放されたと思っていても、実は心の奥底では未だにその禁止令に縛られ続けているものだ。こういった犠牲者たちが幸福に至るためには、まずは幼少期に刷り込まれた親から心情と愛情の圧政から解放されなければならない。

次に話すのはナルシストについてだ。まずナルシシズムというのは、自分自身を賛美し人から称賛されたいと願う習慣を本質としている。こういった習慣の全てが悪いとはさすがに思わないが、度が過ぎた場合は弊害でしかない。世間から称賛されたいということばかり考えている人間はそれを達成できたとしても、完全な幸福を手にすることはできないだろう。虚栄心というのはある限度を超えると、あらゆる活動を純粋に楽しむ気持ちを殺し、必然的に無気力と退屈をもたらす。結局のところ自分に自信がないとこうなってしまうのだ。つまり、この問題を解決するには、自尊心を育てることに尽きる。そのためには自分の興味に刺激された活動を立派にやり遂げるしかない。

3つ目のタイプは誇大妄想狂だ。少しナルシストと似ているようだが権力を求め、愛されるよりも恐れられることを望む点において両者は異なっている。権力に対する欲求は、虚栄心と同じように正常な人間の要素であり全てを否定するわけにはいかない。だが、度が過ぎたり、現実的ではないほど権力を求めたりしてしまうと非常に厄介なものだ。たとえば、アレキサンダー大王を見るがいい。彼は数々の偉業を達成したが、それと同時に自分自身の夢も大きく拡大していった。そして自分が世に知られる偉大な征服者であることが明らかになった時、自分をまるで神であるかのように思い始めた。果たしてアレキサンダーは本当に幸福な人間であったのだろうか? 彼が大酒飲みで猛烈な癇癪持ちで、女性に対しても無関心で自身を神とみなすような態度をとったことを考えると、おおよそ幸福な人間の姿とは思えない。人間らしさの悉くを犠牲にして、何か一つの要素を開発したところで究極の満足は得られるものではないのだ。

「アバタロー」YouTubeより

「罪びと」「ナルシスト」「誇大妄想狂」。

私の妻の場合は、かなり「罪びと」の要素が強い。

幼い頃、父親の厳しい支配下に置かれ、人気のテレビや漫画を見ることを禁じられ、その結果として友達と共通の話題を持つことができなかったことが妻の大きなトラウマとなっている。

ラッセル自身、ピューリタン的な祖母の厳しい躾を受けて自殺願望を抱きながら成長した。

こうしたトラウマを受けた人は、自己肯定感が低く、真面目で、常に自分の行動を反省し遊ぶことが苦手である。

妻はまさにこのタイプに当てはまると感じた。

これまでの人生で出会った私の周囲の人たちを考えただけでも、確かに「ナルシスト」や「誇大妄想狂」的な人物を思い描くことは容易にできる。

幸い私自身のことを考えてみると、自分を責めたり、人の評価を気にしたり、権限ある地位につきたいと思ったことはあるが、度が過ぎるほどの欲望を持ったことはなかったと思う。

ラッセル的な人間観察で言えば、私の場合は「自己没頭」には当てはまらないだろう。

今、比較的「幸福感」を得られているのは、自分のことよりも、世の中のさまざまなことに興味が向いていることが良い影響を与えているのかもしれない。

競争・ねたみ・世評に対するおびえ

さらにラッセルは、不幸になる要因を深掘りしていく。

その一つが「競争」だ。

人生の主要目的として「競争」を掲げるのは、あまりに冷酷で、あまりに執拗で、あまりに肩肘の張ったひたむきな意志を必要とする生き様だ。確かに成功したという気持ちが得られれば、生活は楽しいだろう。無名の画家が才能を世に認められたのであるならば、以前より幸福になる見通しがあると言える。ただ成功することも、カネを手にすることも、ある一点を越えてしまえばそれ以上幸せが上乗せされていくというわけではないのだ。

私が強調したいのは、成功というのは幸福の一つの要素でしかないということだ。それを得るために自分の健康、あるいは自分の家族など他の要素の全てが犠牲になったのであるならば、その代償はあまりに大き過ぎるだろう。競争は絶えず加速するものであり、それに囚われ続けていたらキリがない。そこから脱却するにはバランスの取れた人生の理想の中に、健全で静かな楽しみの果たす役割を認めることにある。

「アバタロー」YouTubeより

「成功というのは幸福の一つの要素でしかない」

この歳になって考えると、非常に腑に落ちる分析だ。

しかし若い時にはこれがなかなか難しい。

私はもともと競争心の強い人間ではないが、それでも若さには大きな可能性があり、自分が将来どこまで行けるのかという興味を捨てて、ラッセルの言うように「健全で静かな楽しみ」に身を委ねることはできなかっただろう。

ラッセル自身、この本を書いたのは58歳の時で、還暦を迎える頃になってようやく人間は冷静に人生を考えることができるようになるのだと思う。

次にラッセルは「ねたみ」について次のように述べている。

ねたみは人間の情念の中で最も普遍的で根深いものの一つだ。また普通の人間性の特徴の中で、ねたみこそが最も不幸なものだ。たとえば、私が何不自由ないだけの月給をもらっているとしよう。その時私は満足すべきだが、どう見ても私より優秀でない人間が私の2倍稼いでいるという情報を耳にしたとする。その時私がねたみ深い人間であるならば、自分の月給に対する満足が色褪せ不公平感にさいなまれるだろう。仮にもしあなたが栄光を強く望む人間ならば、ナポレオンを羨むかもしれない。しかしナポレオンはカエサルを羨み、カエサルはアレキサンダーを羨み、アレキサンダーは実在しなかったヘラクレスを妬んだことだろう。したがって、あんたがどれだけ成功の道を突き進んだとしても、ねたみから逃れることはできない。なぜなら、歴史や伝説の中にはいつもあなたより成功した人間がいるからだ。

ねたみの情念から解放されたければ、今すぐ他者との比較をやめなさい。また不必要に謙遜することも、ねたみと大いに関係がある。一般に謙遜は美徳の一つとして考えられているが、謙遜のし過ぎは美徳でもなんでもない。そういう人は周りの人よりも自分の方が下だと信じ込んでおりねたみを抱きやすい。そしてそのねたみによって不幸になり、悪意を持つようになりやすいのだ。

ただねたみというのは人間であるがゆえの苦しみであり、完全なる悪魔とは言えない。ならば人間は自己を超越することを学び、自己を超越することで宇宙の自由を獲得することを学ばなければならない。

「アバタロー」YouTubeより

「自己超越」というのは、自分のことばかりに目を向けて内側に籠るのではなくて、もっと自分の思考を外側に向けなさいということらしい。

つまり「自己没頭」の反対にあたる言葉なのだ。

これはとても大切なアドバイスであり、自分のこと以外に興味を向けている私は穏やかに暮らしているのに、自分や家族のことばかり気にしている妻は心を病んでいることからもその重要性が理解できる。

そして「宇宙の自由の獲得」とは、物事を宇宙規模で捉え思考を客観的にコントロールする重要性を説いているという。

ただ今の妻に自分のことや家族のことばかりではなく、宇宙規模で興味の対象を見つけろと言ってもなかなかうまく伝わらない。

その人その人の性質もあり、真面目な人ほど目の前のやるべきことを放置しておくことができず、無意識のうちに内側にこもってしまうのだ。

私はこのブログを始めるにあたり、「世界の森羅万象に想いをはせるブログ」と定義した。

宇宙規模とはいかないものの、無意識のうちに設定したテーマは「自己超越」のためにとても重要な要素だったんだと、ラッセルのメッセージを聞きながら感じた。

もう一つ、不幸になる要因としてラッセルが指摘しているのは「世評に対するおびえ」である。

誰かからどう思われるとか、どう見られるとか、そうやって周囲の目線や雑音に対して「おそれ」を抱くことは、自分を抑圧し成長を妨げるものだ。この「おそれ」がある限り、いかなる偉業も達成することができないし、幸福を成り立たせる精神の自由の獲得も困難だ。世評の暴虐性は犬に似ている。犬は自分をあしらう人間より、自分を恐れる人間に対してひどく吠えたり噛み付いたりするだろう。世評も同じく、それを恐れる人間に牙をむくのだ。

つまり、世評に無関心であるということは一つの力であり、同時に幸福の源泉でもあるのだ。たとえばあなたがいずれは大きな舞台に立ちたいと願っている若い青年だとしよう。その時、まわりの年寄りや親が「そんなことはやめろ」とか「後悔するぞ」とかあなたの夢に反対する圧力をかけてくるかもしれない。ひょっとするとその親の意見が当たっているかもしれないし、あなたにはその才能がないかもしれない。しかしたとえそうだとしても関係がない。なぜなら、そんなことは遅かれ早かれあなた自身が自覚することだし、そこで挫折しようが、他の職業にチャレンジする時間だって十分残されているからだ。そんな反対ぐらいで全て自分の夢を放棄すべきではない。

また今働いている環境がどうも馴染まないという若い人は、自分の気心のあった仲間が得られやすい仕事を選ぶべきだ。仮に収入が相当減ろうがそんなことは気にしている場合ではない。若いうちはそれが可能だということをよく覚えておくといい。私たちの生き方というものは、そこら辺の知り合いとか親族の意向とかで決まるものじゃない。私たち自身の深い衝動によって生きる道が切り開かれていく。そういう経験が幸福にとって必要不可欠なものなのだ。

「アバタロー」YouTubeより

非常に力強い若者に対するメッセージだ。

私はこれほどまでにはっきりと若者に語れる何かを持っているだろうかと自問しながら聴いた。

全てにおいて放任主義だった私は、息子たちにもあれこれ指図はしなかった。

その結果として息子たちは自分たちで学校も決め、就職も決め、結婚相手も決めたのだが、そこに私の哲学はほとんど関与せず、ただただ放置していたに過ぎない。

子育てに悩む妻から相談を受けても、私は忙しさにかまけて「放っておけ」と言うで妻にも息子たちにも有益なアドバイスはほとんどしたことがなかった。

しかし、結果として息子たちが自分で自分の進路を決めたことは本当に良かったと思う。

今のところみんなそれなりに幸せな家庭を築き、仕事の方も大過なく過ごしているようだが、たとえうまくいかなかったとしても息子たちは自分でその道を選択したと考えるだろう。

それは私が重要視していた子育ての基本だったと、ちょっと後付けのようだが感じている。

幸福をもたらすもの

ラッセルの『幸福論』の後半は「幸福をもたらすもの」がテーマだ。

幸福をもたらす様々な要素について解説されているが、「アバタロー」さんはその中から、「仕事」「私心のない興味」「努力とあきらめ」という3つをピックアップして紹介している。

ではまず「仕事」から。

仕事というのはたまらなく嫌のものもあるし、多すぎるのもしんどいものだ。ただそれとは反対に何もすることがないという状態はそれ以上に辛いものだと思う。つまり何か仕事があるということは、退屈の予防策としてもいいし、休日もその分楽しくなるので全然仕事がない状態よりはまだ幾分か幸福だろう。しかし、仕事が面白い場合は、単なる退屈凌ぎとはまた違ったもっと大きな満足が得られるものだ。

では、仕事を面白くする要素とはなんだろうか? それは2つある。一つは技術を駆使することだ。つまり必要とされている技術が変化に富み無限にレベルアップすることが期待できる、熟練を要する技術が求められる、そういう仕事だ。仮に技術に限界があって、もうここまでという天井が決まっていたら、その仕事はきっと面白くなくなってしまうだろう。そしてもう一つの要素が、建設性だ。最初の状態はデタラメだったものが最終的には一つの目的に具体化される、これが建設だ。こういった何かを作るという仕事は完璧な完成形がない。最も満足すべき目的というのは、一つの成功から次の成功へと無限に続いて行き詰まることのない目的のことを指すのだ。他人に干渉されず自分の仕事をやれる人は誰でもそうした満足を手にすることができるのだ。ただ幸福な人生を手にするためには、人生の目的が守備一貫していなければならない。そして首尾一貫した人生の目的というのは、仕事において具現化されるものなのだ。

「アバタロー」YouTubeより

年を取っても極め続けられる仕事を持つことは幸せだが、仕事が人生の目的ではない。

仕事の目的が人生の目的と一致できれば幸せな人生が送れるとラッセルは説いたのだ。

私の場合には幸いにもメディアという私の人生の目的に近い仕事につくことができたので比較的恵まれたサラリーマン生活を送ることができた。

その仕事はたとえ収入にならなくても生涯続けることができるものであり、この点も私が今「幸福感」を抱いている理由かもしれないと思った。

次に紹介されるのは「私心のない興味」について。

私心のない興味があると気晴らしにもなるし人生におけるバランス感覚を保つのにも役に立つ。私もあなたもこの世界にそんなに長く存在しているわけではない。この短い人生のうちに、この地球という不思議な惑星とその惑星の宇宙において占める位置などわかる範囲のことは何でもわかっておきたいものだ。たとえわからないものであろうと、不完全なものであろうと、それを知ろうとしないのは劇場に行って芝居を見ようとしない人間と同じだ。この世界は不思議なことだらけで謎に満ちている。この壮大なスペクタクルに対して一切興味を示さない人は、人生の差し出す特典の一つを失っていると言えよう。自分の職業、自分の仕事、自分の仲間内、そんなものは人間活動のほんの一部に過ぎない。であればもっと視野を広げ、広くいろんなことに興味を持ち、人生のバランスを保つべきだ。

あともう一つ、私心のない興味は悲しみを癒す効果があるということも覚えておいてほしい。人生における悲しみとは、誰であろうと避けがたく、常に覚悟しておかなければならない。しかし運命だからしょうがないとただ受け入れるのではなく、それを避けることや悲しみ自体を小さくすることに最大限の力を注ぐべきだ。だからどんなつまらないことでもいい。自分の思考を新しいチャンネルに切り替えられるような気晴らしを探しなさい。本当の不幸が訪れた時、あなたがそれに耐えられるよう心に余裕があるうちに興味の幅を広げるのだ。人間いつ死が訪れるかわからないし、あなたの最愛の人を奪うことだってあるかもしれない。人生の意義とか、人生の目的とか、そういったあなたに重要なことを偶然なんかに任せるべきではない。そんな激しい狭さを人生に与えてはいけないのだ。

「アバタロー」YouTubeより

これもとてもよく理解できる。

私も会社を辞めてからというもの、それまで興味を持ったことのなかった植物の名前だとか、野菜の作り方だとか興味の幅が確実に広がっている。

それは誰かに言われたからそうしたのではなく、自分がその日やりたいと思ったことをやっているうちに自然と興味の幅が広がってきたのだ。

しかも、おカネのためとか名誉のためではなく、純粋に知りたいと思う気持ちに素直に行動しているのがポイントだ。

そうすることで、私の頭の中は常に日常生活とはかけ離れた事柄で占有されていて、それが雑事から気を紛らせてくれていることは間違いない。

そして最後のテーマ「努力とあきらめ」について、ラッセルはこう説いている。

中庸という教えは、実に面白くないものだ。私も若い時、「何事もバランスだ、何事も中庸だ」なんて聞かされるとむかっ腹が立って仕方がなかった。何しろ私が賛美していたのは、英雄の如き極端さであったのだ。ただこの際だからはっきり言わせてもらうが、物事の真理というのはいつも面白いわけではない。中庸なんていうのはまさにその典型だ。たとえば「努力」と「あきらめ」、その2つのバランスについて考えてみよう。幸福というのは熟した果実がポトリと偶然口の中に落ちてくるというようなものではない。であれば、幸福を手に入れるためには自分で努力しなければいけないというわけだ。ただ努力だけしていれば幸せになれるんだろうか。いや違うだろう。諦めるということも幸福の獲得において大切な役割を果たすことだってたくさんあるはずだ。本当に賢い人間は、自分で防げる不幸を防ぎ、なおかつ自分の力ではどうしようもない不幸に貴重な時間と感情を浪費しないよう努める人間なのだ。

「あきらめ」には2種類ある。一つは絶望に根ざすもの、もう一つが不屈の希望に根ざすものだ。結論、前者はダメな「あきらめ」で、後者が良い「あきらめ」だ。自分の活動がうまくいかなかろうが、挫折しようが、チャレンジは決して無駄ではなかった。自分以外の誰かに希望を与えられたかもしれない。人類にとってプラスになったかもしれない。そうやって希望に根ざした「あきらめ」は敗北でもなんでもない。己の真実の姿に向き合い、人生を歩んでいこうとする人間の中にはある種の「あきらめ」があるものだ。ただこういった生き方は苦痛を伴う。しかし自分に嘘をつき、自分を騙しながら生きたとするならば、その先にあるのは失望と幻滅だ。それを唯一防ぐ防御、それこそが希望に根ざした「あきらめ」なのだ。毎日毎日自分を騙して生きる努力ほど疲れるものはない。まずはこうした努力を捨て去りなさい。それこそが確かなそして永続的な幸福を獲得する上で不可欠な条件となるのだ。

「アバタロー」YouTubeより

私が大切にする「中庸」という言葉が出てきた。

私もラッセルと同じく若い頃は「中庸」なんていうものは打倒すべきものとみなしていたが、年を取り様々なニュースを取材する中で、威勢のいい言葉を口にする指導者ほど信用ならない危険な者はないと悟った。

真実は大体つまらない「中庸」に存在するのだ。

そして努力と同時に「あきらめ」の大切さを説く点も大いに共感できる。

それは年齢を重ねるほどに残された時間が減り、自分の才能や性格についてもおおよそのことがわかってくることも影響しているのだろう。

こうして見てくると、ラッセルの『幸福論』が「世界三大幸福論」と呼ばれる理由がよくわかる気がする。

私から見てすべてが合点のいく指摘ばかりだからだ。

そしてぼんやりと私が感じていたことを明確で力強い言葉として明示してくれている。

今後私の余生でこの言葉を生かすだけではなく、子孫や後輩たちに対しても自信を持って伝えていきたいと思える大切な言葉が詰まっている。

ラッセルは第二次世界大戦の勃発に衝撃を受け、戦後は平和運動にその人生を捧げた。

核兵器に反対し、1955年には核兵器廃絶を訴える有名な「ラッセル=アインシュタイン宣言」を発表、著名な科学者で作る「バグウォッシュ会議」へとつながった。

反戦運動によって2度逮捕されたが、2回目の逮捕はラッセル89歳の時だったという。

そんなバートランド・ラッセルの『幸福論』。

YouTubeで聴くだけではなく、一度原本を読まなければなるまい。

<吉祥寺残日録>定年後を考える😄 いのちは時間!「日野原重明 100歳の金言」でセルフチェックする #220507

定年後を考える😄

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