<吉祥寺残日録>定年後を考える😄 アバタローで聴くニーチェ著「ツァラトゥストラ」〜ラクダと獅子と幼子と超人〜 #220505

物事との出会いというのは不思議なもので、今年のゴールデンウィーク、私は突如「哲学」にハマってしまった。

きっかけは妻の不眠症をなんとか改善したいと、心を穏やかにして睡眠に導いてくれるようなコンテンツはないかとYouTubeを探したことだった。

一つの動画を再生するとリコメンド機能で次々に「これはどうですか?」と関連の動画を紹介してくれるのだが、その中に異質な謎のコンテンツがあった。

『心を癒す最高の安眠法とは』というコピーと共に、ヒルティという人の「眠られぬ人のために」という本が紹介されているらしい。

タイトルに惹かれて早速再生してみた。

『【究極】眠られぬ夜のために|ヒルティ 今日も頑張ったあなたへ ~疲れた心と体を癒す、快眠の思想~』

カール・ヒルティは19世紀のスイスの哲学者である。

私は全く知らない人だったが、彼の代表作である『幸福論』は、世界三大幸福論の一つとされ今も広く読み継がれる名著だという。

この『眠られぬ夜のために』も日本語に翻訳され岩波文庫で出版されていて、就寝前に読めるよう365の短い文章から成り、眠れぬ夜を過度に恐れることなく有効利用しようと説いている。

それはそれで、腑に落ちるところもありキリスト教徒ではない私には違和感があるところもあるが、「これが哲学か。哲学って意外に面白そう」と初めて私に気付かせてくれた。

この動画は、「アバタロー」という書評ユーチューバーがアップしたものだった。

映画「ブルースブラザース」のようなキャラクターがアバターとして使われている謎の人物。

彼のプロフィールを探してみた。

書評YouTuber。早稲田大学文学部卒業。日中はふつうのサラリーマンとして、某外資系企業にて管理職をしている。趣味である読書の延長として、書評YouTubeチャンネルを立ち上げたところ2020年1月に大ブレイク。「読書が苦手な人でも、古今東西の難解な名著がラジオ感覚で楽しめるチャンネル」として話題となり、本格稼働から僅か1年で、登録者数は15万人を突破

『自己肯定感を上げるOUTPUT読書術』より

外資系企業の管理職にして書評ユーチューバー、しかも取り上げている本を見ると難しそうな哲学書や古典が並んでいる。

ユーチューバーといえば、日本ではヒカキン的なバラエティー系か私も愛用させてもらっている「○○の育て方」的なハウツーものばかりかと思っていたが、これは全く趣を異にしている。

ちなみに現在のチャンネル登録者数はさらに増えて25万人、私もさっそく登録させてもらうことにした。

ずらりと並んだコンテンツは、プラトン、アリストテレス、セネカ、パスカル、マルサス、ショーペンハウアーなどなど・・・。

世界史や倫理の教科書では見たことがあるが、人生で一度も読んだことのない古典がずらりと並んでいる。

この手の本は学生時代、何度か手に取ったことはあっても、いざ読み始めると意味不明で何も理解できず、数ページ読んだところで寝てしまうか放り出してしまうのがお決まりだった。

でも、2000年間も人々に読み継がれている本に何が書いてあるのか、ちょっと好奇心が刺激された。

アバタローさんの動画は、ラジオのDJ風に早口でその本の重要なメッセージを現代風に解説して教えてくれる。

喋りも軽快で、要約も簡潔でわかりやすい。

これは岩波文庫よりもずっととっつきやすいと感じ、この連休中アップされている名著を次から次へと再生して聞いているのだ。

そんな中から、今日「こどもの日」にちなんで、ニーチェの名著『ツァラトゥストラ』について書いておこうと思う。

『【永遠の名著】ツァラトゥストラ|ニーチェ ~無敵の自己肯定感を生み出す、究極の思想とは?~』

ドイツの前身プロイセンで牧師の息子として生まれたフリードリヒ・ニーチェ。

「ツァラトゥストラかく語りき」といえば、映画「2001年宇宙の旅」でも印象的なリヒャルト・シュトラウスの交響詩で有名だが、その元とのなるニーチェの哲学書については受験勉強で暗記はしたがその中身については何一つ知らない。

アバタローさんによれば、ニーチェ哲学のテーマは「生の肯定」。

その集大成であるこの作品は、人生を前向きに肯定的に生き抜くための世界的名著であり、自分の人生に意義を見出せない、気の弱い自分を吹き飛ばしたい、もう一回人生をやり直したい、自己肯定感の低さをどうにかしたい人におすすめだという。

ではアバタローさんの解説に沿って、この膨大な作品のポイントとなる部分を書き残しておこう。

まず、「ツァラトゥストラ」というのは人の名前である。

ニーチェの分身でもある「ツァラトゥストラ」というおじさんが10年間山にこもって知識を蓄え、それを他の人にも教えてあげようと山を降りて様々な人と語るという構成になっている。

山を降りたおじさんはまず森の中で老人と出会う。

この場面で登場するのが「神は死んだ」というニーチェの有名な言葉だ。

ではこの「神は死んだ」という有名な言葉はどういう意味なんでしょうか?簡単に言ってしまうと、もうこの世の中には絶対的な真理や価値なんてものはないと言っているんです。自然科学が発達する前の人類は、自分たちの頭で理解できない事柄については、神のなせる技、神の意図と解釈し納得してきたました。ところがこの神の深淵なる意図を解明しようと、人類は科学技術を発達させ神の存在を前提とする世界観を自らの手で破壊してしまったのです。例えば天動説、地球は宇宙の中心でありその他の天体は地球の周りをぐるぐる回っているだけだというこの説は、中世のキリスト教世界ではまさしく絶対的真理でした。しかし地動説という科学に基づいた新たな解釈が生まれたことによって、じわりじわりと神を前提とした世界観は崩れていったのです。人間の存在も同様です。神が天地を創造し自分をかたどって男と女を作り出したという創造論、これも旧約聖書をベースとしたストーリーですが、進化論という新たな学説によって揺らいでしまいました。つまり、ニーチェは、人間は自分たちの手で絶対的な真理はないと証明してしまった、もっと乱暴に言えば自分たちの手で神を殺してしまったのだという主張をして、西洋社会のそれまでの常識をまるまるひっくり返しにいったわけです。となりますと、その影響は哲学にも及んできます。ニーチェ以前の哲学は、神の存在、絶対的真理の存在を前提として成り立っていました。(ソクラテスもプラトンも)ニーチェ以前の哲学者はそれぞれの説明・解釈の仕方は違えど、普遍的な善ってあるよね、普遍的な徳もあるよねというように絶対的な真理の存在を前提に物事を考えていたんです。ところがニーチェは「ない、そんなものはない。絶対的な価値、絶対的な基準、絶対的な真理、そんなものはあるわけない」と主張しました。それゆえ彼はそれまでの哲学を破壊した人物とされているわけです。

「アバタロー」YouTubeより

「神は死んだ」という言葉、確かに高校時代に習ったような記憶があるがその意味については教わらなかった気がする。

今から考えれば別に驚きもしないが、19世紀のヨーロッパではきっと衝撃的な過激思想だったのだろう。

では絶対的な真理がなくなるとは信じるものがなくなるということ。

すると、どういう問題が生じるのか?

人が絶対的に信じるものを失い、何のために生きるのかその意義を見出せなくなる状態のことを「ニヒリズム」と言います。そしてこの「ニヒリズム」が蔓延していきますと、「末人」と呼ばれる人間が大量発生するとニーチェは警鐘を鳴らしたのです。「末人」というのは、「最後の人間」とも訳されるのですが、簡単に言えば将来に対して何の憧れも希望もなくただ楽に無難に惰性的に生きることをよしとする人のことを指します。この「末人」にだけは絶対になっちゃダメというのがニーチェの揺るぎないスタンスなんです。いやいや私だって好きで希望を失っているわけじゃないんです。「末人になるなっておっしゃるのなら、私たち一体何人になればいいんですか?」とツッコみたくなりますが、結論「超人になってください」これがニーチェの回答です。「えっ? 超人ですか?」「はい、超人です」 そして今から紹介しますニーチェの「超人思想」が、ツァラトゥストラの前半、一部と二部のメインテーマとなるわけです。ここはとても重要で面白いところですので、ぜひおさえていただきたいところです。

「アバタロー」YouTubeより

「ニーチェ=超人思想」、完璧に忘れていたが確かに高校で習った。

超人というとスーパーマン的なものをイメージするが、実は全く違うようだ。

老人と語ったツァラトゥストラが森を出て町に入ると綱渡りのショーを目当てに多くの人が集まっていた。

ここでおじさんは演説を始める。

「みなさんよく聞きなさい。これからみなさんに超人について教えてあげます。みなさんはかつて猿でした。しかし今も人間は猿以上に猿なのであります」

群衆はおじさんを笑いバカにするが、ツァラトゥストラは演説をやめない。

そしてここで非常に重要なセリフを口にするのです。「人間という生き物は、動物と超人との間に張り渡された一本の綱である。渡って彼方に進むのも危うく、途上にあるのも危うく、後ろを振り返るのも危うく、おののいて立ちすくむのも危うい」

はい、ここで一旦止めます。彼が何を言わんとしているのか考えてみたいと思います。まず「超人」って何というところからお話ししていきます。結論から言いますと、不屈の精神力、そして力強い意志を持ち、自らの人生を肯定しながらより高みに向かおうとする存在、それが「超人」のイメージです。なぜイメージと申し上げたかというと、『ツァラトゥストラ』では、具体的に超人とはこういうものですと定義づけをしていないんですね。もし定義づけをしてしまえば、ニーチェは自ら絶対的な存在を認めたことになってしまいますから、ここはあえて読者の想像に委ねられているのかもしれません。そして人間というのは、その超人という存在に向かって綱渡りのような危険を乗り越えていく、そういう存在なんですよと言っているわけです。

それではどうやったら超人の域に到達できるのでしょうか?

ツァラトゥストラが言うには人間の精神には3段階あって、どんどんそのレベルを上げていくことによって超人に近づくことができるそうです。その段階には名前がついていて、第一段階がラクダ、第二段階が獅子、第三段階が幼子(おさなご)です。順番に見ていきます。まず初めのラクダの段階というのは、重い荷物を背負って我慢するステージです。自分の身に積極的に負荷をかけ、そこで自分の強みを獲得するわけです。学校での勉強、会社での仕事、体を鍛えること、人それぞれにラクダのステージがあります。そして忍耐力や自分の強みが磨かれたのならば、次の段階は獅子です。このステージは、窮屈な状態から解放され自由を求める者が進む段階です。既存の価値観、常識、権威に対して、はっきり自分の言葉でノーと言える、そんな独立の精神を持った段階、それが獅子のステージです。

そして最後第三段階になると、獅子は幼子に変身します。自らの想像力に身を委ね、勝手に自由気ままに遊ぶ。まるで幼い子供のような無邪気な精神、それこそが最終段階だというわけなのです。どれだけ大人が世の中の理不尽さを嘆いても、将来を悲観しても、幼い子供には関係がありません。彼ら彼女らにとって無条件に肯定されるものであり、心のままに戯れ無心に遊び、自由に創造的に今この瞬間瞬間を生きています。つまり超人たるものはこの3つのプロセスを経て、最終的には幼子のような精神を身に宿すものなのだというわけです。

「アバタロー」YouTubeより

若い時にこの話を聞いてもピンと来なかったと思うが、今なら理解できる気がする。

特に会社を辞め、自分なりに自然に触れたり内省に時間を使ったりした今だからこそ、幼子のような精神を持つことを最終段階と位置づけるニーチェの「超人思想」にも共感できるようになったのだ。

私自身の人生を振り返ってみると、ラクダの段階が物理的には長なったのだろうが、恵まれたことに比較的自由に発言したり行動したりできる職場だったので、同時に第二段階の獅子のステージも同時に歩んだ気がする。

でも、幼子のような解放された気持ちになったのは、会社を辞めた後のことだ。

意図してその状態を求めたのではないが、毎日その日やりたいと思ったことをやる生活を始めたことで、私の心は童心にかえっていった。

知らないものに素直に興味が湧き、それを調べるとまた知らない物事に遭遇する。

他人と比べることもなく、好奇心のままに生きていれば心はとても平穏で、時間がいくらあっても足りないぐらいだ。

そうか、私は「超人」に近づいているのかもしれない。

アバタローさんが言うところの「超人」=「不屈の精神力、そして力強い意志を持ち、自らの人生を肯定しながらより高みに向かおうとする存在」ほど高みは目指していないけれど、自らの人生を肯定する気持ちはサラリーマン時代よりも強くなった気がする。

「ツァラトゥストラ」の後半のテーマは「永遠回帰」という中心思想で、「同じ人生が無限に繰り返されるという仮説」である。

もう少し具体的に言うと、あなたは今の人生を永遠に繰り返している。前世も来世もずっと同じ人生を繰り返して、無限ループの中をぐるぐると生き続けているんですよという仮説です。これは仮説であり、事実か事実でないかはあまり重要ではありません。仏教の世界にも輪廻思想というものがありますが、永遠回帰とは全く異なる概念となります。生命は無限にいろんなものに生まれ変わり続ける、これが輪廻思想です。一方永遠回帰の場合は、同じ人が同じ人生を永遠にループし続けるというものです。

仮に本当にループし続けるとしたら、永遠にネガティブで否定的で不幸な人生か、永遠にポジティブで肯定的で幸福な人生か、極端な2つの選択肢が目の前に浮かび上がってくるはずです。どちらがいいかと聞かれたら、どう考えても後者でしょう。そしてもし後者を選べば、永遠に繰り返してもいいと思えるような人生にしようと前を向いて生きていくしかなくなるのです。つまり「永遠回帰」というのは、神が死んだ後の世界、絶対的に信じるものが失われた世界で、「末人」に陥ることなく人生を肯定的に力強く前向きに歩んでいくための思考法と言えるわけです。

「アバタロー」YouTubeより

ちょっとこの辺になると、ビジネスセミナーのインチキ講師みたいで個人的には好きになれない。

だからこのパートは飛ばして、アバタローさんの動画の最後で登場するニーチェが提唱した「運命愛」について引用しておこう。

「運命愛」というのは一言で言うと、自分の人生を全て受け入れ肯定し愛する心の態度のことを意味しています。ニーチェの思想に基づくならば、この世の中に絶対的な善も悪も存在しないということになります。であれば、自分の人生で出会う様々な出来事一つ一つにこれは楽しかったからマル、これはキツかったからバツと部分的に受け入れるのではなく、その全てを愛することの大切さを説いたわけです。ただそうやって綺麗さっぱり気持ちの整理がつけばいいんですが、それができなくていろいろ悩むのが我々人間であります。自分の存在、自分の人生に価値を見出せず、できるならもう一度過去に戻ってやり直したい、そんな気持ちが夜な夜な出てきてしまうことだってあるんです。しかしニーチェは次のように言います。

「たった一度でいい。本当に魂が震えるほどの悦びを味わったのなら、その人生は生きるに値する」

つまり生きている間に、言葉では言い表せないような悦びを手に入れられれば、全ての苦しみ全ての悲しみを引き連れてでもあなたは自分の人生をもう一度生きることを望むはずだ。だからどんな運命だろうと愛し、自分の人生を前向きに生きればいいのだと言っているわけです。ニーチェ哲学のテーマは「生の肯定」ですが、この運命愛はまさにその象徴的な概念と言えます。

しかし、そんな前向きでパワフルな思想の持ち主であるニーチェですが、彼自身の人生といえば、実に苦悩と悲哀に満ちたものでした。才能があっても仕事は評価されず、発狂するほど苦しみ精神を病んでこの世を去るんです。これが永遠に回帰するのかと考えますと、正直ゾッとしてしまいます。ただ彼は晩年に書いた自叙伝の中で、彼自身の人生を次のように書いています。

「どうして私は、私の全生涯を感謝せずにおれようか? そして、だからこそ私は私自身に私の生涯を、語り聞かせようとしているのである」

ニーチェの精神が崩壊するのは、この言葉を残したわずか数ヶ月後と言われています。つまり彼は、最後の最後まで苦悩に満ちた自分の運命を愛し、生の肯定という自分の哲学を貫き通し、その人生を全うしたのです。そしてニーチェは、自分の死後何百年か先にきっとニヒリズムが世界を覆い尽くし、人々から希望を奪い、生きる意味を失わせてしまうだろうと予見していました。だからこそ彼は、自分の魂と声を宿した人格ツァラトゥストラを作り上げ、絶望の前に立ち尽くす未来の人類への贈り物としたのです。どこまでも生を肯定し、運命を愛した天才哲学者フリードリヒ・ニーチェ。彼の贈り物が開かれるべき時はまさに今なのかもしれません。

「アバタロー」YouTubeより

ニーチェの超人思想はあまりにパワフルすぎてちょっと疲れてしまう。

ただ、最終目標となる超人が幼子の精神を宿すという部分はとても気に入った。

私もせいぜい幼子の遊び心を大切にして、これからの人生の指針とすることにしよう。

アバタローさんのYouTubeで取り上げられている他の哲学者の作品の中には、ニーチェよりもずっと私の心にしっくりくるものがいくつもあった。

このブログでも、ぼちぼちとそうした先人たちの思想を記録していければと思っている。

こうして思いがけず哲学に触れたことで、私の脳裏に遠い昔のあるシーンが蘇った。

大学に入学した時のこと、クラスメートに「大学で何の勉強をしたい?」と問われ、私は「哲学」と答えた。

なぜそんな些細なことが記憶の底に残っていたのかは定かではない。

哲学がどういう学問かも知らずにそう答えたのだが、私が入学したのは経済学部であり、周囲に哲学を学びたいなどという学生は一人もいなかった。

そして私自身、難解な哲学書を前にすぐに挫折し、それっきり40年以上、哲学とは一切関係のない浮ついた人生を歩んできた。

60代も半ばとなり、今になって偶然めぐり合った哲学の入り口。

学生と社会人を経験し、結婚して子供をもうけ、一通りの人生の要素は味わった今、学生時代にはちんぷんかんぷんだった哲学書の中身が少し理解できるようになったのかもしれない。

残りの人生を豊かなものとするため、そしていつかくる死を正面から受け止めるため、今が哲学を学ぶ好機だと感じる。

妻の不眠症という不測の事態が私にそれを気づかせてくれた。

これも何かの啓示かもしれない。

とりあえず、アバタローさんのYouTubeを我が師と仰ぎ、たくさんの名著にざっくりと触れていきたいと思う。

そして、また挫折してしまうかもしれないが、自分で読んでみたいと思えるような古典を巡り合えることを期待している。

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