<吉祥寺残日録>「経営の神様」稲盛和夫と「ソ連最後の大統領」ゴルバチョフの訃報 #220831

今日で8月もおしまい。

今朝起きると、珍しく霧がかかった。

コロナで思うように活動ができなかった今年の夏。

高齢者にとってはいつも以上に厳しい環境だったようで、このところ連日300人前後の死者が報告されている。

その多くはコロナの代表的な症状である肺が原因ではなく、コロナ感染がきっかけで持病が悪化するケースが多いようだ。

そんな夏の終わり、2人の偉大な90代が亡くなったとのニュースが流れた。

一人は、「経営の神様」と呼ばれた京セラ名誉会長の稲盛和夫氏、享年90。

今月24日に京都市内の自宅で亡くなっていたことが明らかになった。

鹿児島大学を卒業後、京都の小さなメーカーに就職する。

給料も遅配されるような会社で同期は全員辞めてしまったが、稲盛さんは不満を持ちながらも研究室に残り、独自のセラミックの開発に成功した。

その会社の仲間を引き連れて独立したのが1959年、京セラの前身である「京都セラミック」を創業する。

会社経営と格闘する中で編み出した「アメーバー経営」や自社製品を海外の大企業にも自ら売り込む努力の末に会社を成長させた稲盛は、1984年通信事業が自由化されるとすぐに民間初の「第二電々」を立ち上げた。

電電公社の独占体制だった通信事業に飛び込んだ勇気と先見性により稲盛氏は「経営の神様」と呼ばれるようになり、稲盛さんの経営哲学を学ぼうと各地で若手経営者たちが「盛和塾」を組織するようになる。

株主よりも社員を大切にした稲盛哲学は中国でも信者を増やし、アリババやファーウェイの創業者も稲盛さんの教えの信奉者として知られる。

今回の訃報は中国でも大きく報じられ、中国のソーシャルメディア「ウェイボー」でも稲盛さんの訃報が一時ランキングのトップになるなど大きな反響を呼んだそうだ。

さらに稲盛さんが広く世間で知られるようになるのは、2010年、破綻状態にあった日本航空の会長を無報酬で引き受けた時だった。

当時の民主党政権の依頼に応じ、JALに乗り込んだ稲盛さんはエリート意識の強い幹部社員たちを叱りつけ組織の意識改革を断行、わずか3年足らずで再生させて再上場を達成した。

部下を叱ることについて問われた稲盛さんは、2013年に「週刊朝日」の取材で次のように語っている。

問:稲盛会長は部下をどんなふうに叱りますか?

答:部下が間違ったことをすれば、人前であろうと、厳しくストレートに叱ります。若い頃、会社が成長し、部下が増えてくるにつれて、どう部下と接すれば良いのか悩んだことがありました。その時、本を読んで勉強もしましたが、やっぱり問題があるのなら、厳しく叱っていいのだと思うようになりました。これは、若い時から今日まで一貫して実践していることです。

問:人前で叱るのは避けるべきだとの意見もありますか?

答:周りに人がいるところで叱ると、その人のプライドが傷つくとか、周りからも色々な目で見られるからかわいそうだという声もあります。叱る側も、叱り方に気をつけなくてはいけないと言われますが、私はそうは思いません。必要な時は、たとえ人前でも、容赦なく、本気で叱ります。

問:なぜでしょうか?

答:厳しく叱った後、部下と気まずくなるのを恐れ、迎合すれば、その部下は成長しませんし、周囲にも示しがつかない。厳しく叱る勇気がなく、部下の機嫌をとっている上司ばかりでは、会社は伸びていかないのです。

問:とはいえ、どんな叱り方でも良いというわけではないと思うのですが?

答:私は、叱られる人の人格を傷つけるような叱り方はしていないつもりです。その人がやったこと、仕事に対して、「なぜお前はこういうことをしたんだ。これはこうあるべきではないか」と厳しく叱るわけです。けれども、相手をただけなすようなことはしません。

問:具体的には、どんな場合、叱りますか?

答:人間的に少し、ねじれた見方をしている部下に対しては厳しく叱ります。突き詰めて考えれば、その人の人間性にいきつく場合は、懇々と諭します。あと、会議で報告された数字を聞き、叱ることも多いです。なぜ売り上げが上がったのか、下がったのか、経費がこれだけかかったのはなぜか、きちんと説明ができず、また問題に対する対策も考えていないようなら、発表者を厳しく注意します。

問:稲盛会長がJAL(日本航空)の会長に就任された当初は、よくJALの幹部を叱っていたと聞きましたが?

答:当時のJAL幹部は、エリート意識が強く、私の言うことを素直に聞かず、会社経営はこうあるべきだと説いても、何を今更言っているのだと半信半疑の様子でした。日々の会議や打ち合わせでも、「君らは評論家か」「俺は君らの親父かじいさんぐらいの年なんだから、素直に言うことを聞け」とずいぶん叱りましたね。

問:それで、JALは変わりましたか?

答:毎日毎日、機会をとらえては叱っていたんです。すると、78歳の年寄りが給料ももらわず、必死になって会社を再建している姿が社員の心を動かしてくれたのでしょう。私の考えに納得してくれた人が一人現れると、連鎖反応のように広がっていきました。私が提唱する経営哲学や、「全社員の物心両面の幸福を追求する」という経営理念が一気に会社全体に浸透していきました。JALは確実に変わり始めたのです。

引用:AERA dot.

なるほど、サラリーマンとしての私の弱点はここだったなと思った。

私のようないい加減な人間は他人を叱ることに抵抗がある。

自分にそこまで自信がないからである。

しかし稲盛さんは自分が正しいと思うことをやり抜き、常に「パーフェクト」を目指したと言われる。

トップリーダーとは、そういうぶれない信念が何より大切なのだろう。

人に厳しくする以上、自分もその責任を自覚し他人以上に絶えず努力を続ける。

その経営哲学の根本にあったのは「利他」であり「敬天愛人」であった。

同じく週刊朝日のインタビューの中で、稲盛さんは現代社会で大切なものは「足るを知る」ことだと語っている。

――世界は今、資源・エネルギー問題や環境問題を抱えておりますが、今後、人類はどのような道を進むべきだとお考えですか?

 現在の資本主義社会では、経済成長をしなければ、社会は発展しないと見なされています。経済成長が至上命題となると、大量生産、大量消費、大量廃棄が繰り返されます。物を使い捨て、贅沢な生活をしてくれればしてくれるほど、経済成長する仕組みになっているのです。このやり方を続ければ、せっかく人類が築きあげてきたすばらしい現代文明が、そう遠くないうちに崩壊してしまうのではないか、と危惧しています。

 京セラでは40年ほど前、第1次オイルショックを契機に再生エネルギーとして太陽電池を開発してきました。最近では、メガソーラー発電などもずいぶん普及してきましたが、それでも全体に占める割合は一部にしか過ぎません。再生エネルギーの普及は人類の課題ですが、それだけでエネルギー問題が解決できるわけではありません。同時に、限りある資源やエネルギーの消費を抑制するように努力しなくてはいけません。

――これまでのような生活ではいけないのでしょうか?

 いずれ、地球の人口は100億人を超えると言われています。100億人全員が、現在の先進諸国の人たちが暮らしているような消費生活を望めば、いろいろなものが不足していく。エネルギーにも食糧にも限度があります。どう考えても、今のような生活を永遠に続けることは不可能でしょう。

――では、どうすればよいでしょうか?

 まず我々、先進諸国に住む人間は「足るを知る」ことが必要です。

――東洋的な教えですね?

 はい。「足るを知る」とは、「もうそんなに強欲にならなくてもよいのではないか。欲望にも節度が要るのではありませんか」という、古来から東洋にある教えです。自然界を見ると、植物は草食動物に食べられ、草食動物は肉食動物に食べられ、肉食動物の糞(ふん)や屍(しかばね)が土の栄養となるという食物連鎖があります。

 ライオンは満腹な時は獲物をとりません。動物が欲望のおもむくままにえさを食べ尽くせば、食物連鎖が途切れてしまいます。この命の連鎖を、自然界は自ら壊しませんが、それは本能的に足るを知っているからこそ、安定と調和が保たれているのです。これから必要なのは、このような「足るを知る」生き方だと考えています。

――今の人類は、そうではありませんね?

 近代社会において人類は、さまざまな科学技術を発展させてきましたが、やがて傲慢(ごうまん)となり、欲望を肥大化させ、豊かな生活を送るために自然を利用すればよいと思い、徐々に自然を破壊するようになりました。その欲望は、やがて地球全体の環境を脅かすほどに肥大してしまったのです。

引用:AERA dot.

「足るを知る」、私も好きな言葉である。

稲盛さんは1997年に在家得度し、雲水と共に修行を重ねたという。

仏教は稲盛さんの哲学の中心をなす。

日本経済が強かった頃、日本の経営者には稲盛さんのような人が多かった気がする。

「企業は株主のもの」という欧米流の経営思想が流行り始めた頃から日本企業はおかしくなったと私は感じている。

私は経営者になったことがないので孤独な企業トップの心は理解できないが、「株主を大切にする」という発想は、常に上司のもとで優秀な部下であった人が社長になり、自分を評価してくれる存在を失った時に株主を上司と見立てて株主に褒められる経営を目指しただけなんではないかと思ってしまう。

社長を首にできるのは株主であり、株主に評価されている限り自分の地位は安泰だということだ。

つまり、企業の哲学や会社を支えてくれる社員よりも株主の評価を気にする社長というのは単なるサラリーマンに過ぎず、とても経営者とは呼べないと私には見えてしまうのだ。

だからやたらに数字やコンプライアンスなど株主総会で問題になりそうなことばかりが優先され、その企業が目指すべき社会的な使命だとか、チャレンジングな新規事業に及び腰になり、似たような小粒な企業ばかりになってしまったのではないかと思ってしまう。

日本にも個性的なさまざまな経営者が生まれてくるような土壌が必要だろう。

稲盛さんは政権交代な野党が絶対に必要だという信念のもとでずっと民主党を応援していたという。

安倍さんが推し進めた新自由主義とは一線を画すこうした日本的経営も、欧米型の経営の対抗軸として今後も日本社会に生き残ってほしいものだ。

もう一人の偉大な90代は、ソ連の最後の大統領ミハイル・ゴルバチョフ氏。

30日モスクワ市内の病院で91歳で亡くなった。

ゴルバチョフさんは1931年ロシア南部のスタブロポリで生まれ、誕生日は私と同じ3月2日だ。

1955年にモスクワ大学法学部を卒業すると故郷で党官僚のキャリアをスタートする。

閉鎖的なソ連共産党の中で順調に出世し、1985年、54歳の若さで共産党のトップである書記長に就任した。

この頃にはすでにテレビ局で報道の仕事に携わっていた私も、ゴルバチョフの登場を驚きの目で見つめていた。

生まれてから東西冷戦が当たり前の世界で、東側の盟主であるソビエト連邦のトップが「ペレストロイカ」を掲げ民主化を進め西側に大きく歩み寄ったのだ。

ゴルバチョフ氏はそれまでのソ連指導者とは明らかに違っていた。

朗らかな表情、爽やかな弁舌。

西側のメディアはこぞってゴルバチョフさんを称賛した。

ゴルバチョフさんは国内の改革にとどまらず、アメリカとの間で核軍縮も進める。

東西冷戦下で核戦争の恐怖に怯えていた世界中の人々にとって、

ソ連で始まった民主化の動きは東ヨーロッパ諸国に波及し、ベルリンの壁崩壊へとつながっていく。

まさに私が報道番組のディレクターとして活動していた時代で、東ドイツやソ連に何度か取材に行き、時代の大きな流れを肌で感じたものだ。

全てはゴルバチョフという一人のリーダーから始まった。

もしも彼が登場していなかったら、その後の世界はどのようになっていたのだろう?

そして1989年、アメリカのブッシュ大統領と共に冷戦の終結を宣言、この歴史的な偉業によりノーベル平和賞も受賞した。

しかし皮肉なことに、西側の評価が高まるにつれて、ソ連国内での権威は失われていった。

ゴルバチョフさんが進めた改革は連邦としての締め付けを失わせ、連邦内の各共和国がそれぞれの思惑に従ってバラバラに動き始める。

中でも発言力を強めたのがロシア共和国のエリツィン大統領で、1991年8月のクーデターにより2人の力関係は完全に逆転した。

そしてその年の12月、エリツィンのロシアが連邦からの離脱を決定したことにより、ゴルバチョフさんはクリスマスの日に大統領を辞任することを発表した。

これによりおよそ70年続いたソビエト連邦が崩壊したのである。

この歴史的な一日を、私はモスクワで取材していた。

多くの市民が「ゴルバチョフがソ連をぶち壊した」と手厳しく非難するのを聞いて衝撃を受けたのを憶えている。

日本から見ていたゴルバチョフとソ連国内でのゴルバチョフはまさに別人であった。

長年ずっと沈黙を強いられてきた国民が自由に意見を言えるように改革した男が、自由にものが言えるようになった国民によって葬り去られたのだ。

晩年のゴルバチョフさんは最愛の妻に先立たれ病気との戦いが続いていた。

そんな年老いたゴルバチョフさんを取材した『ゴルバチョフ 老政治家の“遺言”』というドキュメンタリー番組の中で、彼はこんなことを話していた。

私は自分を社会主義者だと考えている。率直に言えば、今でもレーニンは神だと思っている。

社会主義とは揺るぎない視点だ。人々が人生の新たな高みを見出し、自分自身を極めようとすればするほど社会主義の必要性は高まる。私が社会主義を破壊したと言う人もいるが・・・。

私は高校の卒業作文で最高の評価を得た。選んだのは文学的なテーマではない。テーマは自由に選んだ。

「スターリンは我らの闘いの栄光 青春と飛翔」

これが当時の私の考えだった。私は優れた教育を受け、責任感を備えていた。

だがその後、書記長になった時、私は秘密にされていた資料の内容を詳細に調べ上げた。ひどいものだった。

何十年にもわたる処刑のリスト、100人、200人単位のリストだ。ぞっとするような記録だった。人としても、党としても。

スターリンは社会主義者ではなく、むしろ独裁主義者だったのだろう。しかし今でも、非常に多くの人がスターリンを支持している。

引用:『ゴルバチョフ 老政治家の“遺言”』

世界初の社会主義国家を崩壊させたゴルバチョフさんは今でも社会主義を信奉しているという。

本当に人間というものは面白い。

そして現在のロシアの指導者プーチン大統領についても冷めた見方を隠そうとはしない。

いちばん大事なのは命だ。さらに大事なのは、その命をどのように扱い、扱われるか。

あの日、「ロシアの日」の6月12日、赤の広場にはテントが設営され料理のテーブルが並んでいる。歩いてきた2つのグループが出会う。

プーチンと私だ。その時の会話を明かそう。

「こんにちは。ご無沙汰だね」と言うと、「そんなことはない」と彼は答える。

「いや、君は私を避けている」「なぜ、そんなことを?」「君は私との会合を3回セッティングしたが3回とも姿を現さなかった」

泣きはしないが、私の気持ちを想像してみたまえ。

するとプーチンは、人生は複雑なものだという説明を始めた。人生は人生だ。

そして、我々と彼らと別れクレムリンへと向かった。彼らはバーベキューを楽しむために広場の方へ行った。我々がすでにたもとをわかっていたことがわかるエピソードだ。

引用:『ゴルバチョフ 老政治家の“遺言”』

プーチンさんは所詮社会主義者ではない。

彼の理想はソ連ではなくロシア帝国の復活である。

プーチンさんに比べれば、ゴルバチョフさんはずっと人間的で理想主義者だったと言えるだろう。

しかし歴史は往々にして強権的な人間を勝たせ、理想主義者の夢は破られる。

甘いといえばきっとゴルバチョフという人は政治家としては甘いのだろう。

しかし私が生きた時代のリーダーの中で、今もゴルバチョフの名は燦然と光り輝いて見える。

格差と分断と対立が深まる今の世界を眺めていると、ゴルバチョフさんが切り開いた1980年代後半の希望に満ちた時代がとても懐かしい。

人間は話し合いによって対立を乗り越えて前進することができる。

自由と人権、そして民主主義は世界を支配する普遍的な価値となる。

そうした希望と解放感をあの時以上に感じたことはなかった。

ソ連崩壊後、ロシアの人たちはとにかく喋りまくった。

取材のカメラを向けると誰もがもう話が止まらない。

それまで自由にものが言えなかった反動とはこういう形で表れるんだと強烈な原体験となって今も私の中に残っている。

ロシアでも中国でも、政治について自由に話すことは事実上できなくなってしまった。

アジアでもアフリカでもラテンアメリカでも、そういう国の方がむしろ多いと思って間違い無いだろう。

ゴルバチョフさんが残した改革は、その後の世界に何の爪痕も残さなかったのだろうか?

そう考えると無力感に押しつぶされそうな気分になるが、稲盛さんの教えが中国で芽生えたように、きっとゴルバチョフの改革も強権政治から脱却しようとする国において再び脚光を浴びることがあると私は信じている。

<吉祥寺残日録>ソ連崩壊から30年!あの歴史的な日を私はモスクワで取材していた #211225

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