<吉祥寺残日録>【百年前⏩1921.3.3】皇太子裕仁、欧州歴訪のため横浜港から出航 #210303

63歳の誕生日だった昨日は、激しい風雨が吹き荒れる嵐となった。

大きく揺れる公園の樹々を眺めながら、シリーズ【百年前】をスタートさせようと思う。

日本はなぜ、戦争への道を歩んでしまったのか?

昭和の戦争から教訓を学ぶために、100年前の出来事を私なりにトレースしていく超長期のシリーズである。

日本国内の動きだけではなく、当時の世界各国の状況も同時に調べて、可能な限り自分の足で現地を訪ねて書いていければと思う。

「時代」全体を大きく捉え、その時代に生きた人々の「気分」を想像しながら、今を生きる私たちに役立つ教訓をそこから見つけ出せることを期待して・・・。

今からちょうど百年前の1921年は、大正10年にあたる。

昭和までは、まだ5年ほどある。

日清日露の戦争を経て一流国の仲間入りを果たした明治も終わり、「大正デモクラシー」や「大正ロマン」の呼び名で知られる比較的平和でリベラルな時代だったようだ。

国民の間でも戦争の記憶は次第に過去のものとなり、巷には軍縮を求める声が湧き上がっていたという。

第一次世界大戦による好景気は、戦争の終結とともにうたかたのように消えた。輸出は停滞、産業全体が不振に陥り、大正9年(1920)には深刻な「戦後不況」が始まったのである。その一方で日本を含む戦勝国の間では海軍力の増強がなかば競争のように行われ、逼迫した国家予算をより一層、苦しくしてもいた。そうした状況のなか、大正10年からワシントンで開かれた会議で、海軍の軍縮が話し合われ、合意する。これを受けて、国内では陸軍にも軍縮を求める動きが沸き起こり、議会では衆議院が陸軍軍縮建議書を可決するなど、陸軍に対する風当たりがにわかに強くなった。

引用:近現代史編纂会『ビジュアル 大正クロニクル』

そんな大正期の日本が、どうして再び戦争への道を進むことになったのか?

真珠湾以降の戦史よりも、その戦争に至る過程の方に私はずっと強い関心がある。

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1921年は、天皇家にとって、大きな出来事が頻発する極めて重要な節目の年だった。

百年前の3月3日、皇太子裕仁(のちの昭和天皇)が欧州歴訪の旅に出発したのもその一つである。

今でこそ、皇室とヨーロッパ各国の王室の交流はよく知られるが、すべてはここから始まっている。

皇太子による欧州訪問はもちろん史上初めてのことである。

しかも、訪問先のヨーロッパは第一次世界大戦の甚大なダメージからまだ立ち直っておらず、戦争の傷跡が生々しく残る中での旅行だった。

その頃、大正天皇の病状がかなり悪化していた。

そんな時期に、皇后をはじめとする強い反対を押し切ってまでなぜ皇太子裕仁の訪欧は実現したのか?

皇太子出発までの流れを見ていくと、当時の日本のリーダーたちが今の政治家たちに比べて、長期的な視点や戦略性を持っていたという印象を受けるのだ。

保阪正康著『昭和天皇 上』

私が信頼するノンフィクション作家の保阪正康さんは、この本の中で、当時の指導者たちの狙いについて次のように書いている。

皇太子の渡欧計画は、前年7月ごろから宮中や元老らによって急速に実現に向けて練られるようになった。大正天皇の健康がすぐれないという発表がなされた時だが、その発表内容も具体的で執務も停滞しつつあるかのような意味を含んでいた。皇太子の渡欧計画は、大正天皇の健康と微妙に絡んでいて、皇太子が君主としてのふさわしい態度を身につけることを急ぐことでもあった。元老の松方正義の発意によるとされているが、ヨーロッパに赴いて世界の情勢を直接肌で知ることは、これからの君主の重要な責務という説得に、西園寺公望や原敬も即座に賛成したし、山県もまたその計画に特別に異議は挟まなかった。

東宮御学問所で学ぶ知識に加えてヨーロッパでの見聞を併せ持つことは、確かに必要なことだったからである。加えて、松方をはじめとする指導者たちには、明治35年に結ばれた日英同盟が、この期にアメリカの抵抗で破棄の方向に向かうのを避けようとの考えもあった。イギリスとの強い絆を確かめようという思惑であった。

引用:保阪正康著『昭和天皇 上』

『皇太子が君主としてのふさわしい態度を身につけることを急ぐ』ことに加えて、『イギリスとの強い絆を確かめる』ことが主な狙いだったというのだ。

大正天皇の「体調悪化」については、前年の1920年3月30日に初めて宮内省から発表され、政権内部では摂政の必要性が議論されていた。

軍事にあまり関心を示さなかった大正天皇に代わって、皇太子を「明治天皇型」の君主に育てようという狙いもあったかもしれない。

イギリスとの関係でいえば、1902年の締結以来、日本外交の基軸となっていた日英同盟に対し、アメリカが解消を働きかけていた事情もあった。

第一次大戦の戦勝国として五大国の仲間入りした日本に対し、アメリカが警戒心を強めており、事実1921年12月にはアメリカ主導の「四カ国条約」と引き換えに日英同盟は解消される。

日露戦争、第一次大戦での同盟国だったイギリスが、第二次大戦で敵対国となったことを考えると、日英同盟の解消は一つの重大な転機だったと言える。

 

出発までにはすったもんだがあった。

皇太子訪欧に強く反対したのは、皇太子の母であり、大正天皇の后であった貞明皇后だった。

保阪さんの本から経緯を引用する。

だがこの渡欧計画に、当初難色を示したのは皇后であった。皇后は、皇太子がまだ若い年齢であるために、ヨーロッパの文明観に染まってしまうのではないかと危惧していた。加えて、天皇の健康がすぐれないときに、皇太子が6ヶ月近くも国外に出ているのは、もしもの場合には不安であるとの懸念も示していた。

皇后のこうした懸念は、折から反山県で動いていた杉浦らにも洩れていき、そのため頭山満らの民間人も「御出発反対」を訴えたりもした。しかし、御学問所総裁の東郷平八郎が反対論を抑える役割を担い、杉浦も「御洋行になられても、決して御精神が欧化せられるようなことのないのは無論のことと信ずる」と最終的に納得した。

こうした動きに応じて、松方や西園寺は、皇后にこの見聞は君主に是が非でも必要であり、日本とイギリスは今後も特に深い関係を持っていかなければならないと、執拗に説得を続けた。

皇后も次第にその説得を受け入れ、渡欧計画は、「結局政事上必要とあれば、政治の事は干渉せざる積なり」との考えを洩らすようになった。大正10年1月に、松方が皇后に正式に伝える形を取り、皇后も諒解して、大正天皇に伝えられた。そのうえで正式に裁可になったのである。2月15日には、この計画が正式に発表された。

引用:保阪正康著『昭和天皇 上』

正式発表の後も、反対派の動きは続いた。

『随行団には、この外遊に反対するグループから時に圧力がかかり、たとえば式部官の西園寺八郎は自宅前で右翼の暴漢に襲われるという事態にもなった』というから、皇太子の出発までは予断を許さないピリピリした緊張状態が続いていたのだろう。

皇太子裕仁による初めての欧州歴訪の訪問先に選ばれたのは、イギリスとフランス、出発後にベルギーとイタリアが追加されるというバタバタだった。

この外遊、中でもイギリス王室との交わりは、のちの昭和天皇にとって、立憲君主制への理解を深める大きな経験となる。

それと同時に、フランスやベルギーでは激しく破壊された戦跡も訪ね、戦争の惨禍を直接目にする貴重な旅でもあった。

ただ旅とは言っても、当時はまだ飛行機ではなく軍艦である。

保阪さんは、その様子を次のように書いている。

大正10年3月3日、皇太子は東京から列車で横浜に向かい、横浜港で軍艦「香取」に乗艦した。埠頭には神奈川県知事、横浜市長、さらには横浜の小学校、旧制中学校の代表者が並び、皇太子を見送った。一般の国民も多数集まっていて、皇太子の乗艦した「香取」に向けて何度も万歳の叫びをあげた。

「香取」の護衛にあたる供奉艦「鹿島」には、当然海軍の軍人、水兵なども乗っていて、この外遊自体、日本海軍の機動部隊の威容を見せる意味ももった。

3月6日には沖縄の那覇に寄港し、その後は香港、シンガポール、セイロンのコロンボに寄港しながらの旅となった。イギリスのポーツマス港に着くまでには2ヶ月を要する旅であった。

この間、艦内での皇太子の生活は、ヨーロッパの生活習慣に慣れる実習の場と化した。初めて海軍の高級士官と食卓を囲んだ時には、日頃から限られた侍従との食事であったために、皇太子はナイフやフォークの使い方にそれほどこだわっていなかったのだが、士官たちから見ればいささか西洋風のマナーに欠ける点が目についた。その空気を察した東宮御用掛の海軍大佐山本信次郎は、スープの飲み方、ナイフとフォークの正しい持ち方、料理の食べ方などを一つずつ丁寧に伝授して行った。

引用:保阪正康著『昭和天皇 上』

この時、皇太子は弱冠19歳。

寄港する国々で見聞するすべてが新鮮な体験だったに違いない。

感性豊かな若い頃に、違った世界を見る経験は人格形成に大きな影響を及ぼす。

この時代の日本には、「世界から学ぶ」という明治の精神がまだ息づいていたのだろう。

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ついでながら、皇太子の訪欧問題に先立って、皇室を揺るがすもう一つの重大事件があった。

『宮中某重大事件』と呼ばれる、皇太子の結婚相手をめぐる騒動である。

皇太子は久邇宮良子女王(のちの香淳皇后)との婚約が決まっていた。

貞明皇后自ら学習院の女学生の中から花嫁を選び、すでに花嫁教育も始まっていた。

ところが、久邇宮家の家系に色弱の遺伝があることが判明し、それを知った当時の最高権力者・山県有朋が結婚に強く反対、婚約辞退を迫ったのだ。

事件の発端は、学習院での健康診断が行われた時に、良子女王の兄にあたる朝融王に色弱の傾向があると分かったことだ。「わが家系に色弱症の遺伝があるかもしれない」というのは、久邇宮が婚約の申し入れを受けた時に、宮内大臣の波多野に伝えている。そのために皇后は、宮内省の侍医を通して眼科医に調査をさせて、良子女王に色弱の不安はないとの診断結果を確認していたのである。良子女王にはその遺伝はなく、将来にわたって次の世代にもそれがあらわれることはないと宮中内部では誰もが諒解済みのことでもあった。

ところが朝融王の色弱という結果が、軍医から元老の山県有朋に伝えられた。山県はそれを耳にすると、すぐに元老の松方正義や西園寺公望にいささか大仰に伝えた。そして国の三宅には、「皇太子妃を辞退せよ」と迫った。神聖な皇統にお店を残すことになるではないかというのであった。

山県の政治力はこの頃まだ大きく、山県の言とあっては松方も西園寺も、そして当時首相だった原敬とても無視できず、久邇宮家にそれとなく圧力をかける者もあらわれた。こういう動きによって、久邇宮家を取り巻く環境は次第に厳しいものとなった。

しかしその一方で、久邇宮家側に立つ医師や宮中の天皇側近も反論していった。久邇宮家側の眼科医は、良子女王は色弱ではないと根拠を示し、次の世代に影響を与えることはないと再び結論づけた。ところが山県側の眼科医はそれに反論して医学論争も起こった。このような論争とは別に、「綸言汗の如し」という言を引き、皇室が一度約束したことは決して取り消してはならぬと久邇宮家を支援する動きも広まった。

その中心に立ったのが杉浦重剛である。

もし宮内省が久邇宮家に婚約破棄を伝えるなら、それは人倫の道に反すると杉浦は怒り、久邇宮家の儒学問所に辞職届を提出して、一切の拘束を離れて反山県の動きを始めた。自決さえ覚悟しての闘いであった。

杉浦のこの説得は、極めて正論であった。浜尾東宮大夫、入江侍従長などの大正天皇と皇太子を支える人たちが同調し、さらに杉浦に人間的信頼を寄せている政界、経済界、学界、それに玄洋社など民間団体の要人にまで支援の輪が広まった。このような人たちが、一斉に反山県で動き、そのため久邇宮家に同情を寄せる声が高まった。

山県と反山県の対立という様相も帯びたが、2年ほどの争いの後、波多野の後任である宮内大臣中村雄次郎が「良子女王東宮妃御内定の件、何等変更なし」という声明を発表することで事態はおさまった。

引用:保阪正康著『昭和天皇 上』

皇室の結婚問題は、いつの世も複雑怪奇な騒動を巻き起こす。

有力者だけでなく、一般国民までも「皇室のため」と言いながら要らぬ口を出すので、ご当人たちがお気の毒で仕方がない。

だが、宮中某重大事件の結果、明治以来政治の中心にいた山県有朋は自ら謹慎して、死ぬまで小田原の屋敷から出なかったというから、当時の政治への影響は少なくなかったといえる。

今の政治家に比べれば、山県の方がはるかに潔いとも感じる。

いずれにせよ、1921年2月に決着したこの事件の影響は大きかった。

山県有朋が象徴する明治以来の藩閥政治が力を失うきっかけとなっただけではなく、昭和に向けての新たな問題の芽を生むこととなった。

文芸評論家の福田和也さんは次のように指摘している。

天皇が命じるならともかく、臣下が皇族間の婚礼に注文をつけるなど、いかに元老であろうと増上慢のかぎりであると。久邇宮は、どんな手段を用いても、山県を斥ける腹を固めた。

宮家属官の分部資吉が、黒龍会と関係する大陸浪人来原慶助なる人物に、「宮内省の横暴不逞」という怪文書を執筆配布させたのをはじめ、久邇宮家の周辺は、国粋主義者を中心とする様々な人物と関係を求め、活動資金を提供し、山県周辺を揺すぶろうとしていた。怪文書の執筆者には北一輝も含まれていた。

久邇宮家独特の、君臣の隔てない協同というにはあまりに見苦しい、皇族にはあるまじき行為と非難されても仕方がない有様であった。

皇太子の婚姻問題という、皇室内部で処置されるべき問題が、結局は大衆が参入する水準で決着してしまったことは、極めて不吉なことである。しかも、その口火を切ったのは、皇族だったのだ。ここから、統帥権干犯問題や天皇機関説問題にいたる、皇室が大衆政治の俎上に上る混乱が始まった。

引用:福田和也『昭和天皇第一部』

強権的なトップダウンの政治も危険だが、政治が機能しない「大衆政治」もまた危ういという教訓は、私たちも強く肝に銘じておく必要があるだろう。

民主主義の主役たる国民には、「衆愚政治」に陥らないだけの見識と責任が求められる。

面白がってばかりいると、いつの間にか正常な秩序まで失われてしまうのだ。

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結婚問題に決着がついた皇太子は、半年間にわたる欧州歴訪の旅を終え、1921年の11月に「摂政」に就任する。

聖徳太子、中大兄皇子に次ぐ、歴代3人目の摂政就任であった。

この11月には、「平民宰相」と呼ばれ大正期の政治の象徴だった原敬が東京駅で暗殺され、イタリアではムッソリーニの「ファシスト党」が産声をあげた。

軍を統率する大元帥の天皇が病の床につき、若き摂政は就任当時まだ陸海軍の少佐に過ぎなかった。

ここから始まる「摂政」時代の5年間が権力の空白を生み出し、「下克上」と呼ばれた昭和の空気を醸成したとの指摘も説得力を持つ。

100年前の歴史を振り返る時、ちょっとしたところに重大な岐路が潜んでいることに気づかされるのだ。

シリーズ【百年前】、2045年の終戦100周年まで書き続けることができたなら本望である。

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