大虐殺記念館①

南京の旅シリーズ第7弾。今回の旅行でぜひ訪れたかった場所だ。

南京大虐殺記念館、正式名称は「侵華日軍南京大虐殺遇難同胞紀念館」。「南京事件」をテーマにした博物館のような施設だ。広島や長崎の原爆資料館が日本人から見た原爆の記録であるように、この施設は中国人の視点から記録された南京事件について現代に伝えるものだ。

いわゆる南京事件から今年で80年目を迎える。今なお、論争が続いている。

このブログは、現地に足を運べない日本人のために、この記念館が何を展示し伝えているかをできるだけ詳しく紹介することを目的として書くことにする。

日本側からすれば異論がある表現も多々ある。ご興味がある方は、ぜひ日本で出版されている書物やネットの情報と比較しながら、80年前に起きた戦争の悲劇について思いを馳せていただければと思う。

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5月5日金曜日の朝8時40分、私は南京地鉄2号線の新街口駅から地下鉄に乗った。日本同様、ラッシュの時間帯だ。

西に進んで「云錦路」という駅で降りた。2番出口を出ると、目の前に目的の記念館はある。

広大な敷地。なんと入場は無料だ。

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手荷物検査を受けてゲートを抜けると、まず屋外の彫刻群が並んでいる。

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中国語と英語でメッセージがつけられている。

タイトルは「破壊された家族」という感じか。私の英語力がちょっと怪しいのはご勘弁を。

「殺された息子は帰ってこない。生き埋めにされた夫は帰ってこない。強姦された妻は溺れる悲劇。ああ、なんということだろう」

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それぞれの彫刻にメッセージが・・・。

「1937年12月13日。非人道的な虐殺が始まった。武器を持たない守るすべのない市民たち。逃げる。それが生き残るための唯一の希望」

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「走れ! ・・・悪魔たちが来ている」

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「空爆で死んだおばあさんを13歳の孫がかつぐ。逃げろ、逃げろ、逃げろ」

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「神聖な魂は悪魔たちの辱めに耐えることはできない。死ぬしかない!死ぬしかない!この汚れを落としてくれるのは死のみだ」

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「寒さと恐怖が泣く赤ん坊を凍らせる。かわいそうに。お母さんが殺されたことも知らず。血とミルクと涙は凍ってしまった。もう溶けることはない」

一つ一つメッセージを読みながら進む私の横を、中国人観光客たちが通り過ぎていく。この彫刻群にはほとんど関心を示さないようだ。

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通路の前に石のオブジェが現れる。犠牲者や抵抗する人たちの姿が刻まれている。この門を通って、展示施設へと向かう。

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庭に建てられた壁には「遭難者300,000」の文字。多くの言語で同じ内容が書かれている。「遭難者」とは「死者」の意味だ。中国側は南京事件の死者数を30万人と主張している。

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展示施設につながる広々とした庭には玉砂利が敷き詰められている。なぜだかは不明だ。

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こちらが展示施設の入口。開館後すぐの時間だったため、まだ入場者の数はそれほど多くはなかった。

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展示施設では、中国語、英語と並んで日本語の説明が随所に掲げられていた。

入口を入ってすぐの壁にはこのように書かれていた。

「すべての都市には自らの独特な歴史を持っています。当記念館にはいれば南京大虐殺の歴史真実を振り返る教室、平和を教育する場所に入ることになります。」

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続いて「南京大虐殺」について3ヶ国語で書かれたボードがあった。

「南京大虐殺は、侵華日軍が国際公法と人類の基本的な道徳規範に公然と違反し、1937年12月から1938年1月までの六週間にわたって、南京で兵を使って無辜の人々への虐殺をほしいままにおこない、その手立てが野蛮残忍で、その上強姦、略奪、放火、破壊などの暴行も行ったという事件である。戦後、極東国際軍事法廷と南京戦犯裁判軍事法廷が特別案件として調査審判を行なった。その中で、南京戦犯裁判軍事法廷は、調査した結果、日本軍による集団虐殺は28件で、その犠牲者数は19万人に達し、個別分散虐殺は858件でその犠牲者数が15万人にも達したという判定を下した。それはこの世のものとも思われない大惨事であり、歴史に凄惨で恐ろしい一ページを残した。」

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破壊された南京の街をイメージした装飾を施した階段を降りる。ここから80年前にタイムスリップする演出だ。

正面のスクリーンには戦争の映像が映し出される。

日本軍に抵抗する中国軍のトーチカでの戦闘が大規模なセットで再現される。

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先に進むと、南京事件の犠牲者を偲ぶ大きな部屋が作られていた。

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正面のスクリーンに犠牲者の写真が次々に浮かび上がる。天井には中国側が主張する南京事件の死者数「300000」の数字が印象的に配置されている。

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犠牲者一人一人の名前と殺害場所が次々に表示される。

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両サイドの壁面には犠牲者の名簿が刻まれていた。

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沖縄・摩文仁の丘にある「平和の礎」を思い出すが、ここあるのは中国人の名前だけだ。

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さらに進むと今度は犠牲者の写真が壁に並ぶ。青年の写真も多い。

南京陥落後、日本軍は軍服を脱ぎ市民の中に紛れ込んだ便衣兵の掃討作戦を進めた。その過程で大量虐殺が行われたと言われている。この青年たちが兵士なのか市民なのか、混乱の中で見極めるのは困難だったろう。

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中には老婆や子供の写真もある。補給ができない日本軍は現地での物資調達を命じた。これが兵士と市民の接触を生み、略奪や強姦を誘引したとされる。

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人々の感情に訴えるプロローグ部分はここまで。これからは南京事件に至る歴史の展示に移る。壁には3ヶ国語で「前書き」という文章が掲げられている。

「1937年7月7日、日本軍国主義は盧溝橋事変を起こし、全面的な中国侵略の戦争を発動した。同年8月13日、日本軍は上海を攻撃し、上海を南京攻略の第一歩とした。11月12日、日本軍は上海を占領し、その後、兵を三つのルートに分けて南京へ向かった。12月13日、日本軍は南京を占領したあと、公然と国際公法に違反して、武器を手放した兵士と身に寸鉄も帯びない平民たちを大量虐殺した。その期間は六週間にもわたり、犠牲者総数は30万人以上にも達した。その期間に、南京の三分の一の建物が破壊され、市内で起こった強姦輪姦などの暴行は二万件以上にのぼり、数多くの国家財産と個人財産が略奪され、文化の古都は空前の災禍に見舞われ、南京城は人間地獄と化してしまった。この世のものとも思われない悲惨なこの歴史事件は、日本軍が中国侵略期間中行った数え切れない暴行の中でも、もっとも際立った代表的な一例である。この大惨禍は永遠に人類の文明史上に記されるであろう。ここに展示されている写真、資料、映像と実物はすべてゆるがぬ歴史的証拠である。」

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「これは、南京陥落前の中国情勢見取り図です。図中の黒い部分はすでに日本によって占領された台湾、東北、華北、上海等の中国領土を示している。」

正直、私はこの地図を見たことがなかった。侵略された中国の人たちに比べ、侵略した日本人はこうした歴史を漠然としか知らない。

中国で戦う日本軍の姿。こうした映像を日本で見ることも、最近ではほとんどない。その当時の情勢について、展示ではこのように書かれていた。

「近代中国は国を閉ざし、貧窮に陥ることで、西欧列強の侵略と圧迫を受け、一連の不平等条約の締結を余儀なく強いられた。特に、中日甲午戦争(注:日清戦争)のあと、中国のアジアにおける地位が急速に落ち、清政府は巨額の賠償金を課せられて徹底的に挫けてしまった。内外共に行き詰まる状況の中、清政府は打ち倒され、中華民国が成立した。一方、日本は一躍してアジアの強国となり、列強の仲間に入って、対外侵略拡張の歩調を速めた。1931年9月18日に、日本軍は中国瀋陽で9.18事変を発動し、中国の東北地方を占領し、1937年7月7日に、全面的に中国侵略の戦争を発動し、そして、同年8月に上海で戦火を引き起こした。そのように、中国国民政府の所在地南京は非常に不安定な情況の中に置かれていた。」

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当時、日本軍が使っていた武器も展示されている。

八八式砲弾、九八式手榴弾、擲弾筒、九七式手雷など。

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さらに、三八式歩兵銃、軍刀などだ。

日本と中国が全面戦争に突入した第二次上海事変。中国では「八一三事変」と呼ぶ。

「1937年8月9日、上海に駐屯していた日本海軍陸戦隊の将兵二人は、車に乗って虹橋飛行場に飛びこんで挑発したので、中国側の保安部隊に射殺された。これは歴史上「大山事件」と呼ばれ、八一三事変(第二次上海事変)の導火線となった。8月13日、日本海軍陸戦隊は中国の守備部隊へ攻撃を開始した。これを八一三事変(第二次上海事変)と呼んでいる。」

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「大山事件発生後、中日両方の代表が現場で実地調査を行う様子」

この八一三事変は全面戦争に発展した。

「1937年8月の中旬から11月の中旬まで、中国側は約70個の師団を集結し、上海の◯◯地区で約20万の侵華日本軍に勇敢に対抗し、10万人以上(日本側は25万人と推定)の中国将兵が命を落とした。一方、日本側の死傷者は6万人以上(日本側発表は4.3万人)であった。」

展示されている資料を見ていて気づくのは、資料の多くが日本の新聞や出版物であることだ。

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杭州湾上陸を伝える「東京日日新聞」や・・・

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「これは旧日本陸軍血兵部が昭和十三年(1938年)9月〜12月発行した『支那事変戦跡の栞』、中には侵華戦略のことが描かれている」という。

展示はさらに「日本軍による上海での暴行」へと進む。

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こんな解説が添えられている。

「日本軍国主義は全面的に中国侵略の戦争を発動した当初からすでに中国の首都南京への侵略を画策し、上海を南京攻略の第一歩としていた。上海陥落後、日本軍は直ちに軍隊を三つのルートに分けて南京攻略に掛かった。日本の報道機関は我先にその戦況を報道して日本軍将兵たちの功名心を煽り、日本国民もまた熱狂的になって、前線部隊の南京攻略を支持した。日本軍は前後して蘇州、無錫、常州、江陰、鎮江、湖州、泗安、広徳、燕湖などを占領し、至る所で大量虐殺、放火、略奪、強姦などの暴行を行い、江南一帯の民衆は悲惨な境地に陥った。」

動画も流されていた。

続いて展示は「南京爆撃」へと移る。

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「1937年8月15日、日本海軍航空隊が日本の長崎から出動し、初めて直接東支那海を渡って南京に対して最初の空襲を行った。日本政府はこの事件を世界初の「渡航爆撃壮挙」、「鉄錨象徴の長征」として、盛んに宣伝した。同9月、日本軍が上海に公大飛行場を建設した後、空襲規模が大幅に拡大し、南京の工場、商店、病院、学校、一般住民の住宅、駅、港等に対して、無差別爆撃を行った。」

「1937年8月15日午前、日本軍の飛行機は南京への最初の空襲を開始した。その時、南京から撤退していく駐華日本大使館のメンバーと日本居留民たちは、下関から揚子江を渡って津浦線の浦口駅へ向かっていた。中国の国民政府は、撤退していく日本人の被害を防止するため特別列車を準備し、また中国外交部の部員二人を派遣して随行させ、そのほかに40人の憲兵を派遣して日本人に随行させ護衛した。午後2時30分、日本の飛行機が再び南京を爆撃した。」

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中国軍の捕虜となった日本軍操縦士の集合写真も展示されていた。

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「南京防空部隊に搭乗機を破壊されたため、パラシュートで脱出し死を逃れた二人の日本軍操縦士」

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じっくりと説明書きを読みながら見て回っている間に、観客の数がどんどん増えてきた。日本の戦争博物館をこんなに多くの人たちが見に来ることは考えられない。これはちょっと驚きだった。

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「日本軍の空襲は南京城に巨大な災難をもたらした。1937年8月15日から10月15日までのわずか二ヶ月間、日本軍が南京で65回の空襲を行い、最後の時は90機以上の航空機を投入した。空襲された南京城内は満身創痍となり、至るところで死体が転がり、多数の公共施設や工場、及び一般庶民の家屋がひどく破壊された。」

一方、日本軍の侵攻に押され、大量の難民が南京に流れ込んだ。

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「難民を満載した汽車が鎮江から南京へ向け発車している様子」

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「日本軍が南京に迫っている頃、難民が南京へ避難する様子」

この動画の中には、住民を残したまま南京を離れる国民政府高官の姿も写っている。

そして南京への攻撃が始まった。

「1937年11月7日、日本の参謀本部は上海戦場の各日本軍部隊の共同作戦を統一するために、中支那方面軍を組織した。松井石根を司令官として、上海派遣軍(司令官松井石根兼任、12月2日後は朝香宮鳩彦)と第十軍(司令官柳川平助)から編成された。日本軍は兵力を三ルートにわけ、南京を包囲攻撃した。11月20日、日本は「大本営」を設置して、全面的に中国侵略戦争を指揮した。12月1日、日本の大本営は『大陸命第八号』で、中支那方面軍に海軍と協同して、中国の南京を攻撃占領する命令を下した。」

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そして南京攻略戦を指揮した司令官たちを一人一人パネルで明示している。

このうち中国側が南京事件の責任者と指摘している人物をピックアップすると・・・

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松井石根大将「上海方面軍と第十軍を統括して南京を占拠した。南京大虐殺を引き起こした首謀者の一人である。戦後A級戦犯として、極東国際軍事法廷で裁判を受け、1948年に絞首刑の判決を受け、処刑された。」

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柳川平助中将「第十軍を指揮して南京等のちを占領する行動に参与した。南京大虐殺を引き起こした首謀者の一人である。」

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朝香宮鳩彦中将「中支那方面軍上海派遣軍司令官に任命され、南京占領に参与した。南京大虐殺を引き起こした首謀者の一人である。戦後、朝香宮は皇族故に極東国際軍事法廷に免訴され。」

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谷寿夫中将「第六師団を指揮して南京大虐殺に参与し、南京大虐殺を引き起こした首謀者の一人である。戦後、南京戦犯裁判軍事法廷で裁判を受け、1947年死刑の判決を受け、南京の雨花台で処刑された。」

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末松茂治中将「第一一四師団の師団長に任命され、第十軍に属する。上海と南京を占領する行動に参加した。南京大虐殺を引き起こした首謀者の一人である。」

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吉住良輔中将「第九師団師団長に就任、上海派遣軍に属する。上海と南京を占領する行動に参与した。南京大虐殺を起こした首謀者の一人である。」

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中島今朝吾中将「第十六師団師団長に就任し、上海派遣軍に属する。第十六師団を指揮して南京大虐殺に参与した。南京大虐殺を引き起こした首謀者の一人である。」

私が確認した限りでは、日本人将校で「南京大虐殺の首謀者」と指弾されているのは以上の7名だ。他の師団長らには南京事件と関連づけるような表現は使っていない。それぞれの果たした役割を判断した上での対応の違いなのだろう。

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一方、南京防衛軍の幹部のパネルも展示されている。驚いたのは、将官の多くが戦後長く生きていたことだ。

例えば、唐生智南京防衛軍司令部司令長官。南京防衛戦を指揮した唐将軍は1970年、80歳まで生きた。南京防衛の責任者として徹底抗戦を叫びながら将兵を残して逃げたとして批判されることも多い人物だ。しかし、ここでの展示にはそうした批判は見当たらない。

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展示は南京戦の状況に入ってきた。

「12月9日午前、日本軍の飛行機は南京の上空で『投降勧告書』を散布した。そこには最後通牒として、12月10日午前中、中山門外の句容道で降伏交渉に代表を派遣すること。拒絶すれば、「断じて南京攻撃を開始する」ことを記していた。中国守備軍は降伏を拒絶して、部隊を再編成、防御陣地を整理し、南京城壁を利用した予備陣地を命をかけて堅く守ることとした。」

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「1937年12月10日午後、日本軍中支那方面軍司令官松井石根は、正式に南京を総攻撃するという指令を出した。中日双方の軍隊は、南京城の東・南・西の郊外で壮烈な戦いを始めた。」

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「光華門は南京城の東に位置する。1937年12月9日に日本軍第九師団は前後三回連続して光華門を攻めたが、みな中国軍に撃退された。12月10日光華門両側の城壁に日本軍の砲火で二つ突破口がつくられ、日本軍の一部百人近くが光華門の城門内百メートルまで突入しかつ街両側の家屋をも占領して拠点にした。中国軍は8時間の血戦を経て、やっと敵を全滅させ、城門を奪い返しなお光華門陣地をしっかりと守っていた。12月13日の夜明けに命令をうけて撤退した。」

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「占領後の光華門周辺の光景」

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「1937年12月12日、日本軍歩兵第四十七連隊の決死隊が中華門に総攻撃をかけた」

街の南、中華門・雨花台方面でも日本軍の攻撃が続いた。

「雨花台は南京城南に当たる中華門外の天然障壁で日本軍の主な攻撃の目標でもある。雨花台を防衛する第八十八師団は松濤抗戦で重大な損失を蒙ったが、まだ回復する間がないうちに南京防衛戦に加わった。1937年12月9日と10日に<日本軍主力である第六師団、一一四師団は火力を集中して、なんども攻撃したが、全て撃退された。敵味方とも死傷が甚大だった。12月11日<戦況が一層激しくなって、日本軍は何度も山頂に攻撃し何度も撃退され、大きな代価を払わされた。12月午前10時、雨花台は敵の手に落ちてしまった。」

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「日本軍部隊が中華門の城壁の上で「万歳」を叫んでいる様子」

「1937年12月12日の夜、日本軍は南京城南の中華門を攻め落とした後、城壁に剃って東と西の方へ侵入していった。13日払暁、相次いで光華門・中山門・和平門等の城門を占領した日本軍は南京城い入り掃討を行い、そして南京の陥落を宣言した。日本では、国中が南京占領を祝った。

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1937年12月13日、首都南京が陥落した。

「1937年12月12日の夜、日本軍は南京城南の中華門を攻め落とした後、城壁に沿って東と西の方へ侵入していった。13日払暁、相次いで光華門・中山門・和平門等の城門を占領した日本軍は南京城に入り掃討を行ない、そして南京の陥落を宣言した。日本では、国中が南京占領を祝った。

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そして南京陥落の後、大虐殺が始まった。

そこの展示については、次回のブログに記録したい。

 

<参考情報>

私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。

 

 

2件のコメント 追加

  1. wildsum より:

    ぼくらが生まれる前の話ではあるけれど、身につまされる思いがします。また日本人の一人として、責任を感じます。ぼくの父は昭和24年までロシアで捕虜としてひどい目に遭いました。沖縄戦のこととか原爆のこととか聞けば聞くほど、戦争とは、人の心を鬼にし、恐ろしいことを平気でさせるものだと感じます。

  2. より:

    『中国の歴史認識はどう作られたのか』2014東洋経済新報社によると、
    1992年以来、中国共産党の最大級の国策の一つとして、

    歴史認識問題(南京大虐殺・反日扇動)があり、
    それと同時に「中国は、道徳的に日本に勝る」という項目もあるようだ。

    しかし、中国は恐ろしい国だ。

    池上彰『そうだったのか!中国』によれば、
    中国共産党は、1950年の建国時に、70万人もの人を公開で処刑。

     *(明治以降の日本では、権力者が、非武装の同国人を、
       人前で処刑したりしたことはない。)

    毛沢東の大躍進政策の時には、4千万人という膨大な餓死者を出した。
    1966年から1976年までの文化大革命の時には、大混乱の中で、50万人が犠牲になった。
    1989年の天安門事件では、人民解放軍が、 一般市民を1000人以上殺害した。

     *(日本は戦中戦後の飢餓を克服し、安定した平和な国を作った)

    中国には思想犯・政治犯に対する強制収容所・強制労働がある(Wiki)。
    情報統制・言論弾圧の国である。

    *(誰が本当のことを言うだろうか。。。)

    こういう中国の政治環境は、「人は正直に話をすることが出来ない」
    「虚偽・贋作を強制されたら、やるしかない国である」ということを証明するだけである。

    どう信用したらいいかわからない国の話だ。
    日本は、中国社会のようにならないで欲しい。

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