<きちたび>新潟の旅 2019〜「米百俵の町」長岡の市役所は隈研吾さん設計の「アオーレ長岡」

🔶「旅したい.com」から転載

<新潟>「米百俵の町」長岡の市役所は隈研吾さん設計の「アオーレ長岡」

🇯🇵新潟/長岡 2019年7月26日

柏崎の花火大会に向かう途中、長岡で途中下車。目的は、「アオーレ長岡」という複合施設を見ることでした。

2012年にオープンした「アオーレ長岡」は、新国立競技場も手がけた売れっ子建築家・隈研吾さんがデザインを担当。日本建築学会賞、日本都市計画学会賞、BCS賞という数々の権威ある賞を受賞した注目の公共建築物です。

山本五十六と米百俵

上越新幹線で東京から1時間40分ほど、長岡駅に到着します。

駅構内には「山本五十六と米百俵の長岡」というパネルとともに、花火の模型が展示されています。

太平洋戦争で連合艦隊司令長官を務めた山本五十六元帥はここ長岡の出身で、記念館も駅近くにあるようです。

そして長岡の花火は、正三尺玉で有名で、大曲、土浦と並ぶ日本三大花火大会に数えられています。

今年の花火大会は8月2・3日の2日間。

雪国ならではのアーケードには、巨大花火の写真が並びます。

前売り券は升席1万8000円。でも手頃な当日券1500円もあるらしく一度は見てみたいものです。

西口からまっすぐ伸びる大手通を歩くと、交差点にひっそりと「米百俵の碑」があります。

「米百俵」とは、小泉純一郎氏が首相時代に国会演説で言及し有名となった長岡藩士・小林虎三郎の逸話で、現在の辛抱が将来の利益につながるという例えとして使われました。

私も正確には知らなかったので、長岡市米百俵財団のホームページから引用しておきます。

 幕末維新の風雲は、戊辰戦争で長岡城下にも及んだ。長岡藩は、軍事総督・河井継之助の指揮のもと、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と徹底的な戦闘を行った。このことは、司馬遼太郎の歴史小説「峠」で広く紹介されている。その結果、250年あまりをかけて築き上げた城下町長岡は焼け野原となり、石高は7万4千石から2万4千石に減らされた。
 幕末に江戸遊学をし、佐久間象山の門下生であった虎三郎は、独自の世界観を持ち、「興学私議」という教育論を著していた。戊辰戦争の開戦に際しては、長岡藩が参戦することに反対の立場をとっていた。敗戦後、文武総督に推挙された虎三郎は、見渡すかぎりの焼け野原のなかで、「時勢に遅れないよう、時代の要請にこたえられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成しよう」という理想を掲げ、その実現に向けて動き出した。明治2年(1869)5月1日、戦火を免れた四郎丸村(現長岡市四郎丸)の昌福寺の本堂を借りて国漢学校を開校し、子どもたちに「素読」(論語などの読み方)を教えた。
 翌年5月、長岡藩の窮状を知った三根山藩から米百俵が見舞いとして贈られてきた。藩士たちは、これで一息つけると喜んだ。食べるものにも事欠く藩士たちにとっては、のどから手が出るような米であった。
 しかし、藩の大参事小林虎三郎は、この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてるとして米百俵を売却し、その代金を国漢学校の資金に注ぎ込んだ。こうして、明治3年6月15日、国漢学校の新校舎が坂之上町(現大手通2丁目、旧大和デパート長岡店の位置)に開校した。国漢学校には洋学局、医学局も設置され、さらに藩士の子弟だけでなく町民や農民の子どもも入学を許可された。国漢学校では、小林虎三郎の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、情操を高める教育がなされた。ここに長岡の近代教育の基礎が築かれ、後年、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出された。東京帝国大学総長の小野塚喜平次、解剖学の医学博士の小金井良精、司法大臣の小原直、海軍の山本五十六元帥……。
 この国漢学校は現市立阪之上小学校に引き継がれ、「米百俵」の精神は長岡市のまちづくりの指針や人材教育の理念となって今日に至っている。

長岡市米百俵財団サイトより

現在「米百俵の碑」が置かれている場所は、かつての「国漢学校」の跡地だそうです。ここから山本五十六元帥も生まれたという郷土の誇りです。

長岡城と河井継之助

さて、目的地である「アオーレ長岡」は、長岡駅西口(大手口)を降りてすぐの場所にあります。

静かな地方都市の街並みの中で異彩を放つ近代的な建造物。

入り口の左右には地元企業の幟がはためき、まるで戦さ場のようです。

それもそのはず、「アオーレ長岡」が建つこの場所は、幕末から明治にかけて戊辰戦争の激戦地となった長岡城の跡地です。

アオーレの入り口脇には、「長岡城二の丸跡」と書かれた石碑が立っていました。

新政府軍との戦で城は全焼し、現在長岡駅がある場所がかつての本丸の跡だそうです。

江戸幕府と薩長を中心とする新政府軍が戦った戊辰戦争は、地方の小藩にもどちらにつくかの決断を迫りました。

長岡藩を取り仕切っていた家老・河井継之助はあくまで中立を貫こうとしますが、新政府側はそれを許さず、止むを得ず長岡藩も奥羽越列藩同盟に加わり新政府の大軍と対峙することになりました。

「越後の蒼龍」とも呼ばれ今も地元で愛される河井継之助の生き様は、司馬遼太郎の「峠」で広く知られるようになり、現在映画化が進んでいます。役所広司や松たか子らによって初めて映像化される「峠 最後のサムライ」は来年公開予定。ぜひ私も観たいと思います。

ナカドマ

すっかり前置きが長くなりましたが、今回の目的地「アオーレ長岡」に入りましょう。

正式名称は「長岡市シティーホールプラザ アオーレ長岡」と言います。

「アオーレ」は、長岡弁で「会いましょう」を意味する「会おうれ」をもじったものだそうで、一般公募で選ばれました。

施設の中心に設けられた屋根付きの広場「ナカドマ」。

ここが「アオーレ長岡」最大の特徴で、全国から多くの視察が訪れます。

建物の外壁には、地元産の越後杉を使ったルーバーが施され、市松模様の特徴的なデザインが目を引きます。長岡城の床の間に使われていた「市松模様の壁」がモチーフだそうです。

ナカドマには300インチの大型LEDパネルが常設されていて、パブリックビューイングや併設されたアリーナからの中継など多目的に利用できるスペースを提供しています。

ナカドマの一番奥には「アリーナ」があります。

バスケットコート3面分の広さがあり、スポーツやコンサート、講演会など多目的での利用が可能です。常設席は2172席ですが、最大5100席まで増やすことが可能で、私が訪れた日もプロレスの興行が行われていました。

バスケットボールのBリーグ1部「新潟アルビレックスBB」のホームアリーナともなっていて、バスケによる町おこしも進められているそうです。

ナカドマは、このアリーナと市役所が入る東棟、市議会などが入る西棟をつなぐ役割を果たしていて、雨や雪の日でもイベントが開けるよう透明の屋根で覆われています。

この屋根には融雪装置が設置され冬でも自然光による採光が可能です。太陽光発電で電力を賄うこともできます。また雨水や融雪水を循環して使用できる雨水中水化システムも備え、環境にやさしい施設となっています。

長岡市役所

ナカドマに面する東棟には、長岡市役所が置かれています。

役所の堅苦しいイメージが全くない素敵な市役所です。

市役所の中も広々としていて、柱だってこのセンスの良さ。

白色を基調にした明るい役所なので、気楽に相談できそうです。

驚いたことに、市役所の中にモスバーガーがあります。

銀行のATMも置かれています。

「ここは市民にサービスを提供する場である」

そんな姿勢を感じさせる市役所なのです。

「公務員=パブリックサーバント」。公務員とは本来、市民に奉仕する職業だということを思い出させてくれました。

錦鯉と常在戦場

市役所の中に置かれた水槽では、大きなニシキゴイが泳いでいました。

なかなかお目にかかれないような立派なニシキゴイで、「なぜここに・・・?」と思ったのですが、理由はすぐにわかりました。

水槽の脇には、「錦鯉発祥の地・長岡」と書かれたポスターが置いてありました。

錦鯉といえば山古志村が有名ですが、2004年に起きた中越地震で壊滅的な被害を受け、翌年山古志村は長岡市に編入合併されました。

長岡市のホームページから、錦鯉発祥にまつわる物語を引用しておきます。

 およそ370年前(1645年頃)の江戸時代初期に、山古志地域(旧山古志村)を中心とした「二十村郷(にじゅうむらごう)※」が形成されました。二十村郷は、山中奥深く、かつては交通の便が非常に悪い土地柄だったため、食糧品の搬入・確保が困難でした。特に、豪雪期には平野部との連絡が途絶するすることも少なくありませんでした。そうした中、二十村郷の人々は、棚池(たないけ)を活用し、貴重なタンパク源として食用鯉を飼育していました。正月などの来客時には、その池から鯉を捕り、「鯉の洗い」や「鯉こく」、「鯉の昆布巻」にしてもてなしており、鯉は貴重な食料、食品であったと言えます。
 その折、突然変異により模様鯉(もようごい)が出現し、それが「錦鯉」の始まりです。それ以来、独自の研究・研鑽により改良を重ね、交配技術や育成技術を磨きながら、現在の錦鯉養殖技術として発展・確立されてきました。
 錦鯉の品種は細分化すると100種類にも及びます。長岡市では、そのほとんどが手に入るため、数多くの愛好家がその錦鯉を求め長岡を訪れています。

長岡市HP「市の魚「錦鯉」」より

市役所の一隅には「越後長岡ROOTS400」という小冊子が並んでいました。

長岡藩400年を記念して発行されたもののようですが、その創刊号のタイトルは「常在戦場」。私は知りませんでしたが、政治家たちがよく使う「常在戦場」という言葉はもともと長岡藩牧野家の家訓だったそうです。

この常在戦場という言葉、通常は「常に戦場にあるの心を持って生き、ことに処す」という意味だと理解されていますが、牧野家の歴史から「戦場でうまくいかなくても、他の場所で取り返すことは可能である」という解釈もあることを知りました。

日本の公共施設のイメージを一変させる「アオーレ長岡」。

この施設には、「常在戦場」や「米百俵」の精神を受け継いできた長岡という土地のユニークさが現れていると感じました。

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