<吉祥寺残日録>@武蔵野…「お椀の大地」を開拓した帰化人たち #200925

「武蔵野」について知りたいと思っていたところ、図書館で一冊の本に出会った。

桜井正信著「歴史細見 武蔵野」。

桜井さんは駒沢大学の教授で、今から40年前、1980年に出版された古い本だ。

文字が多くて、私にとって決して読み易い本ではないが、冒頭から「へぇ〜」と驚く知らない武蔵野の蘊蓄が次々に出てくる。

まだ読み始めたばかりだが、冒頭部分で覚えておきたい部分を書き残しておきたいと思う。

前提となる「武蔵野」の範囲だが、桜井教授の場合は、東は利根川、西は関東山地、南は多摩川で囲まれるエリアとしている。

ではまず、武蔵野の地形から・・・。

武蔵野は、関東山地の麓から東に向かいゆるやかな傾斜で、山麓の周辺部と海岸線を除いては、狭山の丘を例外にすると、見わたすかぎりの広い台地と利根と元荒川の低湿地である。

表面は赤い土の火山灰におおわれ、その下に小砂利まじりの砂礫層とがあって、地下水は粘土のところにならないとたたえられない。したがって、井戸は武蔵野の中央にゆくほど深く掘らないと水が得られない。武蔵野の中央草原の開発がおくれたのは、この水のためであった。

桜井正信著「歴史細見 武蔵野」より

関東平野の地下がお椀状になっているという話は、つい最近テレビで初めて知った。

今では、4000万人が暮らす関東平野。

この大地がいかにして出来上がったのか、NHKスペシャル「列島誕生ジオ・ジャパン2 列島大隆起」の中で、最新の研究成果をもとに解説されていた。

番組によれば、300万年前の日本列島を調べると、関東平野の姿はまったくなかったのだという。

ほとんど全て、海の底だったのだ。

では、どのようにして関東平野が出来上がったのか?

実際に関東平野の地下をボーリング調査すると、東京・八王子では地下680mの位置に硬い岩盤が出てくるが、そこから少しずつ東に移動して立川では980m、埼玉の岩槻では2880mと硬い岩盤の位置が深くなっていく。

ところが、さらに東に進んで行くと、千葉の柏では1490m、成田だと860mと徐々に浅くなって、関東平野の東の端、銚子港に近い屏風ヶ浦ではついに硬い岩盤が地表に姿を現しているという。

つまり、中央部が深くて、周辺部が浅いお椀型の硬い地層の上に、大量の土砂や火山灰が堆積して出来上がったのが関東平野なのだ。

もしお椀の縁がなければ、山から流れ出た土砂はそのまま日本海溝に吸い込まれてしまい、関東平野は生まれなかったということになる。

では土砂を受け止めた「お椀の縁」は、そのようにできたのか?

それはまさに、繰り返された大地震が原因だと言う。

千葉県館山市の海岸線を見ると、階段状になった地層が見られるらしい。

ここを調べると、一番下の部分は100年前の関東大震災によって隆起した地層、その上の部分は300年前に起きた元禄地震の際に隆起した地層だということがわかったらしい。

つまり、関東エリアを襲った大地震のたびに千葉や神奈川の海岸部分が隆起して、長い年月をかけて「お椀の縁」の部分を形作ったと言うのある。

そしてこの大地震は、関東平野の下に潜り込んでいるフィリピン海プレートによって引き起こされていた。

関東平野は、大陸から伸びるユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが沈み込み、さらに東からは太平洋プレートも沈み込んでくるという世界でも最も危険なプレートの交差点なのである。

そこには常に、プレートとプレートが擦れてひずみがたまり、周期的な大地震を引き起こす。

それによってできたプレートのシワが少しずつ隆起、さらに10万年ほど前の氷河期の際に海水面が下がったことで広大な平野が海から現れたというのである。

世界でも屈指の人口密集地である関東平野は、こうしたプレート活動がなければ誕生していなかったというわけだ。

そう考えると、私たちの生活の基盤は極めて奇跡的で、ある意味とても危ういところに立っていることがわかる。

こうして出来上がった「武蔵野」の大地。

湿地帯というイメージを漠然と持っていたが、それは旧利根川や荒川の河口部の話であって、大半は水が得られにくい乾燥した土地で、そのために人が住むことのできず荒地となっていた。

桜井正信著「歴史細見 武蔵野」にも、こんな記述がある。

昔の旅人は、武蔵野の中央部を通過するときには悩まされ、水を得ることや水を求める渇望から「逃水」のことばもうまれた。武蔵野の水はながいあいだの問題で、現代といえどもこの水に関しては「東京砂漠」の名でいわれ、まだ解決されていない。

狭山を中心とした周辺は、武蔵野でも自然条件がとりわけきびしかったので、泉水や河川の小流沿いでは、崖下や南向きのところに村落をつくっていた。江戸時代になって計画された台地上に村や耕作地を開く新田づくりは、用水の導入がおこなわれてからのことである。それ以前には、原野と自然林で放置されていて、生活地にはならなかった。

桜井正信著「歴史細見 武蔵野」より

私の近所にも玉川上水が流れているが、確かに武蔵野には人工的な水路が多い。

この玉川上水も、そこから枝分かれした千川上水も江戸時代に掘られた。

それによって周辺の新田開発が進み、火事で焼け出された人たちが江戸から移り住んで荒野を開拓したのが、今の吉祥寺のはじまりである。

とはいえ、荒凉たる武蔵野の地にも古代から人が暮らしていた。

私が日々目にしている井の頭池の周辺も遺跡だらけだ。

縄文人も暮らしていたし、それ以前の石器時代にも人が暮らした痕跡があるという。

少し時代が下って、「日本書紀」に登場する頃の武蔵野はこんな風だったらしい。

二つの国造が争ったことから、大和朝廷が介入して、多摩の屯倉が設置されたと、「日本書紀」が伝えている。

荒川流域を代表する国造を无邪志(むさし)、多摩川流域の国造を胸刺(むなさし)という。ともに古墳群の多い、埼玉古墳群と多摩川台古墳群の地域を比定し、両雄族の在地と推測している。

桜井正信著「歴史細見 武蔵野」より

しかし、桜井教授の本を読んでいて、私が特に心惹かれたのが帰化人たちの存在である。

大陸からやってきた帰化人たちは、早い時期から武蔵野に移り住み荒地の開拓に当たったというのだ。

ちょっと長いが、その部分を引用しておく。

この武蔵野開発の担い手たちは、選手交代をする。无邪志・胸刺族にかわって、武蔵野の一角を野焼し、田野を耕し、作柄を育てる開拓者が新たにおとずれた。

その人たちは、朝鮮と大陸からの渡来者たちであった。渡来者たちは、いずれの時代の入植者でも同じように、集団で、血族を主軸に、地縁で地区の作業に従事していく。武蔵野に入植した一群の帰化人は、古代初期の京や畿内に土着した一族ではない。朝鮮の内乱時に、平和な日本を求めた「イマキ」の王族・僧侶・俗人たちであった。

東国への帰化人の土着は武蔵野だけではないが、武蔵野の帰化人遷置と新郡設置は、ほかの地方に例をみないほど多い。

ことに古代の政変、壬申の乱(672)後の政治機構改革により、武蔵野には帰化人の移入がはげしくなり、新郡設置がおこなわれた。

716年(霊亀2)5月には駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野にやってきた高麗からの渡来人1799人を、高麗郡を新設して集団入植させた。高麗の王族出身者若光に王号をゆるし、郡の指導者として開拓にあたらせた。

つづいて新羅郡を758年(天平宝字2)9月に、僧尼・俗人74人をもって、志木に新設し、未開な土地をあたえている。その後(760年)もこの地方に、130人を加える。

武蔵野の内陸部開発経営の尖兵に、帰化人集団が投入された。多摩川畔や野川沿いの地にも、帰化人の移動がおこなわれている。高麗・志木・狛江をむすぶ三角線を、この期の開発線とみたい。狛江と白子を結ぶ線でもよいが、この線上には不思議と武蔵野台地の湧水地がそろっている。国分寺・深大寺・井の頭・善福寺・三宝寺と清気に恵まれ、武蔵野のオアシスのもとをなしている。帰化人たちが水辺を呼称した「コマエ」の名や、集落を表わす「ムレ」などが、現在も地名にのこっている。

帰化民族たちの同族組織は、本貫を尊び氏族の分裂を嫌う。同族意識は強固で、崩さぬ鉄則から、彼らの生活地域が後世まで伝えられた。

深大寺の満功上人の伝承、高麗郷の若光王や、背奈行文の甥で、京都で出世した高麗出身者の福信(造宮省の長官)などのほか、新発掘の高岡高麗寺遺跡は、帰化人たちの名をのこす在郷がいまも健在なことをしめす。

帰化人たちの開発技術は、当然在住者の日本人にも影響し、旧来なかった開拓景観が武蔵野の内陸に進み、両者協力の「韓子(からこ)」文化を育てた。ちなみに埼玉県東松山市に、上唐子、下唐子の地名があり、この地方に朝鮮式古墳も多見できる。

武蔵野にこの期から、火田法が取り入れられ、帰化人たちの新農法が定着した。野焼・野火止塚の土盛りは、現在平林寺境内に語られる高塚でのこる。こうして武蔵野に開拓の風土景観がひときわめだってくる。

武蔵野が開発されていくさまは、田野だけではない。武蔵野の奥座敷、秩父も、また帰化人の鉱山師たちが槌をふるい、日本で最初の自然銅を掘りあてている。708年(景雲4)のことである。天皇はこの慶事を祝い、元号を改元して和銅とするなど、武蔵野がただ荒野の広大な土地ということでなく、開発利用できる大地と認識された。

武蔵野での地下資源発見を機に、帝都新建設の決意がなされ、平城京建設の勅が下る。

桜井正信著「歴史細見 武蔵野」より

朝鮮半島や中国大陸で戦乱が起きるたびに大量に渡ってきた帰化人が、現在の日本人のルーツにどの程度交わっているのか、個人的な興味は尽きないが、武蔵野の開発にこうした帰化人が大きな役割を果たしたということは知っておくべき知識だと思った。

「コマエ」や「ムレ」という地名の由来も初めて知った。

確かに、多摩川沿いには昔から朝鮮系の人たちが多く暮らしていたのは知っているが、それは戦前の朝鮮併合との関連で理解していた。

実は遥か昔からこの地は帰化人の住む土地であり、そこに残る朝鮮の文化が戦前に労働力としてやってきた人たちを引き寄せたということなのだろう。

こうした帰化人の話を読んでいると、ブラジルに渡ったかつての日本人の物語とも重なり、母国から離れざるをえなかった人たちの苦労を想像してしまう。

桜井正信著「歴史細見 武蔵野」には、まだまだ私が知らない武蔵野の物語がたくさん詰まっている。

少しずつ読み進め、気になった部分はこのブログにも書き残していって、自分が暮らしている土地のことをゆっくりと理解していきたいと思っているが、果たして根気が続くかどうか・・・。

正直、あまり自信がない。

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