<吉祥寺残日録>昔の写真とともに蘇る「ベルリンの壁」の記憶 #211109

今日は久しぶりに朝からずっと雨。

私は一歩も外に出かけず、昔の写真をデジタル化したり、その写真を写した日付を調べたりしているうちに夜になってしまった。

この年になってつくづく思うのだが、どんな宝物よりも写真は大切である。

家族の写真が圧倒的に多いのだが、仕事関係の写真も少なくはない。

昔はフィルムを現像するのにお金がかかったので、今のようにデジタルカメラで何も気にせず写真を撮るわけにはいかない。

オートフォーカスでもないので、ピンボケの写真も多い。

それでも、写真を見るとそこには写っていないいろいろな情景が思い出されるから不思議だ。

そんな昔のアルバムの中から、こんな写真を見つけた。

すっかり色褪せてしまっているが、これは1989年の10月に東ベルリンで撮影した写真である。

私は報道番組の新米ディレクターとして、東ドイツの建国40周年式典を取材していた。

当時、ハンガリーなどで市民が西側に脱出する動きが表面化し、にわかに東ヨーロッパ情勢に世界の注目が集まっていた。

通訳も連れずに東ベルリンの空港に降り立った私は、空港にタクシーが一台もいないことに面食らった。

1時間待っても2時間待ってもタクシーは来ない。

離発着する飛行機も少ないので、誰も迎えに来ない私たちは空港で完全に取り残された。

仕方なく西ベルリンのプロダクションか旅行社かに連絡をとって、西ベルリンからタクシーを手配したもらってなんとかホテルにたどり着いた記憶がある。

当時、社会主義国での取材の場合、監視役の役人が常時ぴったりとくっついてくるのが普通だったが、東ドイツの場合は勝手が違った。

監視がないのはありがたいが、その代償として車や通訳といった取材に不可欠な手段が手配できないのだ。

東ベルリンを取材するジャーナリストはまず西ベルリンに入り、そこで車や通訳を調達して東側に入るのが常識だということは後になって知った。

それでも、私の狙いは一般的な東ドイツの市民生活を取材することだったので、若者たちが集まるスケートリンクやディスコ、ゲームセンターなどを取材した。

退廃的な西ベルリンと比べて、東ベルリンの街は実に静かだが、若者たちが集まる場所だけは西側と大きな違いはなかった。

私はそれまでに北朝鮮や中国、ソ連やベトナムなどといった社会主義国での取材経験があったが、初めて訪れた東ドイツには相対的な自由と垢抜けたセンスを感じた。

私は東ベルリンに止まって市民生活を取材し、ベルリンの壁をバックに中継も行った。

40周年式典にはソ連のゴルバチョフ書記長も参列したが、東ドイツの独裁者ホーネッカーを手厳しく批判したとされ、ペレストロイカが進展する中で、東側の結束はすでに崩れ去っていた。

しかし、私が取材したわずか1ヶ月後にベルリンの壁が崩れるとは正直想像もしていなかった。

それは東ベルリンの人たちも同じことで、東ベルリンに住む高齢者は毎月1回、地下鉄で西ベルリンに行き西ドイツから支給される年金を受け取って帰ってくる。

駅にはそんな老人たちを出迎える家族の姿があった。

資本主義vs共産主義の戦いの最前線には、我々の想像を超えた不思議な世界が広がっていたのだ。

テレビやラジオを通して西側文化に強い関心は持ち、西側に行ってみたいと考える若者は急速に増えていたが、壁がなくなる未来などその時点では誰も考えてもいないように私には見えた。

ところが、40周年式典が終わると、東ドイツの国内情勢は一気に流動化する。

各地で大規模な反政府デモが発生し、指導部の内部対立によって10月18日にはホーネッカーが失脚する。

そして、1989年11月9日。

壁崩壊のきっかけとなったのは、生中継されている記者会見に臨んだギュンター・シャボフスキーの失言だった。

シャボフスキーは、社会主義統一党中央委員会政治報道局長に就任したばかりで、その日中央委員会で議論されていた新たな政令について詳細を把握しないまま会見に臨んでいた。

いつもの退屈な記者会見が終わりに差し掛かった頃、イタリア人記者が旅行法案について質問した。

その質疑の中で、シャボフスキーは「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と間違って決定とは違う発言をし、その時期について「私の認識では『直ちに、遅滞なく』」と述べたのだ。

この会見の話はたちまち東ドイツ市民の間に広がり、多くの人が国境の検問所に押し寄せた。

何も指示を受けていなかった国境警備兵は、市民に家に帰るよう呼びかけたが、後から後から市民が押しかけ不穏な空気が漂い始めた。

10時45分、ボルンホルム通りの検問所のパスポート審査官のハラルト・イエーガー司令官は、群衆事故の発生を恐れ、「もう持ちこたえられない。検問所を解放しなければならない。牽制をやめ、こちらへの通行を許可する。」と判断し、「待て」としか言わない上司の指示を無視する形で「全てを開けろ」と命令した。

ほぼ同時にゾンネンアレーとインヴァリーデン通りの検問所も開かれ始めた。

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私が生まれてからずっと続いてきた東西の冷戦は、こんな情けない顛末で呆気なく崩壊した。

核戦争の恐怖が世界を覆っていた時代が、一つの失言で終わってしまったという事実は、多くの示唆を与えてくれる。

ずっと強権によって言論を封じてきた社会では、部分的に民主的な手法を取り入れようとするととんでもないボロが出るという教訓だ。

民主主義社会のリーダーというのは実に難しい仕事なのである。

ベルリンの壁が崩壊した半年後の1990年5月、私は再び取材でベルリンを訪ねた。

今度は主に軍の取材が目的だった。

東西ベルリンの境界線に立っていた「ブランデンブルグ門」は工事中で、その周囲はすっかり観光地になっていた。

東ドイツ軍の兵士が被っていた帽子が路上で売られていた。

ベルリンの壁の破片は一番人気のある土産物となった。

さらに面白かったのは、戦車の解体工場。

T72など東ドイツ軍の主力戦車が大量にスクラップとされている映像は、それまで見たこともなく、その映像を見た東京の仲間たちもみんな驚きの声をあげていたものだ。

冷戦中は最高の軍事機密とされた戦車の装甲板の厚み。

それを隠すどころか、バーナーを使って焼き切っているのだから、その作業はある意味シュールですらあった。

当時、西側の軍事専門家が一番関心を寄せていたソ連の最新鋭戦車T80も目の前に止まっていた。

もはや西側のメディアに対しても何も隠そうとしない。

ジャーナリストというのも勝手なもので、隠されると見たくなるが、どうぞお好きに見てくださいと言われると途端に興味が失せるのだ。

こうして東ヨーロッパ最強と恐れられた東ドイツ軍は戦わずして瓦解した。

早朝兵舎の取材に行くと、起床ラッパが鳴っても誰も起きてこない。

いったん規律が緩むと、どんな精鋭部隊も腑抜けになってしまう現実を目の当たりにした。

あの日、東ベルリンに住んでいたメルケルさんも、群衆の流れに従って検問所を超えて初めて西ベルリンに入ったという。

同じ民族が戦争によって分断される悲劇。

その分断が長年続いたことによって生じた東西の経済格差。

メルケルさんは自らの体験を通して、この悲劇を少しでも癒そうと国づくりの先頭に立ってきた。

G7の他のリーダーに比べ、メルケルさんの言葉に説得力があるのは、彼女のそうしたバックグラウンドが間違いなく影響している。

メルケルさんは間もなく政治の表舞台から去ろうとしている。

メルケルなきドイツがどんな国になるのか、またメルケルなきG7で誰が良識的な判断を下すのか、はなはだ心配だ。

今日11月9日は、ベルリンの壁崩壊から32年目の記念日である。

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