<吉祥寺残日録>大河ドラマ「麒麟がくる」最終回と『明智光秀=天海説』 #210209

NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」がついに完結した。

最終回の視聴率は18.4%。

今時のドラマとしては立派な成績である。

コロナによる中断を挟んで変則的な1年と1ヶ月余り、私は全話をリアルタイムで見た。

大相撲と大河ドラマという典型的なジジイのライフスタイルに、完全にハマってしまったようだ。

謎に包まれた明智光秀を主人公に据え、その青年期から本能寺の変までを描いた大作だが、最近になって光秀に関する新たな資料がいろいろ見つかっており、それに基づいて描かれる光秀像はとても新鮮だった。

故郷の美濃を追われて、越前の朝倉義景の下でくすぶっていた光秀が、世に出たのは40歳を過ぎてから、将軍・足利義昭の手助けをするようになったのがきっかけである。

義昭の上洛を支える大名を探して尾張の織田信長を引っ張り出し、ここから足利義昭と織田信長という2人の有力者の側近として急速に歴史の表舞台に登場することとなった。

誠に人の運命とはわからないものだ。

主人公・明智光秀を演じた長谷川博己さん以上に、私のお気に入りだったのは染谷将太さん演じる織田信長。

「うつけ」と呼ばれた若き日の信長は、気性の荒い乱暴者ではなく、父親コンプレックスの強いナイーブな青年として描かれる。

小さな出来事にも一喜一憂する信長の繊細さを染谷さんが巧みに表現し、まったく新しい信長像を作り上げた。

脚本を手掛けたのは、時代劇の名手・池端俊作さん。

現在BSで再放送されている「太平記」も池端さんの作品で、ものすごく面白い。

池端作品では、一人一人の武将の心理描写、それぞれが窮地に立たされた選択の瞬間を実に説得力を持って描きあげる。

自分ならどうする?

そんなことを思いながらドラマにひきづりこまれてしまうのだ。

織田信長に指示されるままに、比叡山延暦寺を焼き討ちし、丹波攻略を成し遂げてナンバー2の地位にのぼり詰めた光秀が、なぜ本能寺の変を起こしたのか?

戦国時代最大のミステリーとされるこの大事件の背景についても、最新の研究成果を踏まえて丹念に光秀の葛藤を描いている。

従来の定説となっている「怨恨説」、つまり万座の前で足蹴にされ信長に対する恨みを抱いたとされる場面も描かれるものの、むしろ信長に天下を目指すようけしかけた人間として、暴走を始めた信長を止めるのは自分しかいないという責任感が彼を謀反に踏み切らせたとして描く。

毛利家の庇護の下、鞆の浦にいる足利義昭を斬れと信長に命じられたこと、天皇に譲位を迫った信長の増長ぶり、さらには自らが調整役を担った四国の長宗我部に対する信長の冷たい仕打ち。

朝廷を含め各方面との窓口を務めていた光秀は、台頭する豊臣秀吉とのライバル関係も絡んで苦悩する。

「麒麟」とは、王が仁のある政治を行う時に必ず現れるという聖獣。

「麒麟がくる」というタイトルの通り、明智光秀は「麒麟」の現れるような平和な世の中を作ろうとした男として描かれている。

織田信長を討った理由もその大義のため、自らの手で戦乱を終わらせて穏やかな世を作るためだったというわけだ。

番組のフィナーレ、本能寺の変そのものは、あまり盛り上がらなかった。

なぜかこれまでのように夜中の襲撃ではなく、早朝明るくなってからの討ち入りとして描かれていた。

映像的には夜の方が断然盛り上がるのでわざわざ朝の設定にするとは考えにくく、きっとこれが史実に近いのだろう。

光秀が秀吉に敗れた「山崎の戦い」はナレーションだけでさらっと済ませ、光秀が落武者狩りにあって命を落とすシーンは出てこない。

そして、馬に乗って疾走する光秀の姿で番組は終わった。

「あれ?」と私はこのラストシーンにいささか違和感を感じたが、歴史好きな人にはその意味するところがすぐに理解できたようだ。

光秀は生き延びて、「南光坊天海」という僧侶に身を変えて徳川家康に仕えたという光秀生存説をイメージさせるという。

天海は、安土桃山から江戸時代初期に活躍した天台宗の僧侶で、『徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した』(ウィキペディア)と書かれていて、確かに『天海=明智光秀説』というのもネット上にあふれていた。。

自らの出自については弟子たちに一切語らなかったという天海、記録に残るのは北条攻めの際に家康の陣にいたというのが最初らしい。

確かに時期は符合するし、本能寺の変の前、光秀と家康は急速に接近していた。

多くの作家が「光秀=天海説」に惹かれるのもよく理解ができるが、歴史家たちの間ではほとんど相手にされていない説だそうだ。

説といえば、大河ドラマに合わせて、NHKでは様々な番組で光秀を取り上げていた。

その一つが爆笑問題が司会を務めた「本能寺の変サミット2020」という番組で、つい先日再放送されているのを見た。

一線の研究者たちが集まって最新の研究内容と様々な説を検証することで、歴史というのは人によって解釈がずいぶん違うんだなあということがよくわかる番組だった。

紹介されたのは、「怨恨説」「イエズス会共謀説」「徳川家康共謀説」「鞆幕府推戴説」「構造改革反発説」「信長暴走阻止説」「四国説」「秀吉陰謀説」の8つ。

その中で多くの研究者たちが推したのは「四国説」だった。

光秀が間に入って四国制圧の中心に据えた長宗我部に対し、毛利攻めの指揮を執っていた秀吉が異議を唱え、長宗我部のライバルである三好を支援したことから、光秀=長宗我部VS秀吉=三好の構図ができ上がり、信長が秀吉の働きかけを受け入れて四国に兵を送ることを決めたことが直接の引き金になったという説である。

光秀は面目を潰されただけでなく、秀吉の台頭によって自らの将来が危うくなったため、四国派兵を止めるために反旗を翻したという解釈だそうだ。

軍事にも文化にも通じた有能な人材であったとされる光秀。

「ブラック企業」のような織田軍団の中で、ボスの言うがままに働き出世してきたが、いつその地位を失うかもしれないという不安が常に彼にはつきまとっていたのだろう。

いつの世も、人間の営みはさして変わらない。

もし私が光秀だったなら、出家してお暇を申し出るかもしれないが、果たして信長に認めてもらえたかどうか?

天下をとったらとったでその後も大変そうであり、凡人としてのんびり暮らすことができるのならば、それに勝る人生はないのではないかと思う今日この頃である。

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