<吉祥寺残日録>定年後を考える😄 ヒントは江戸時代にあり!青木宏一郎著『大名の「定年後」 江戸の物見遊山』 #220128

オミクロン株による第6波は予想通り急速な広がりを見せ、昨日の東京の新規感染者は1万6538人と3日連続で過去最多を更新した。

3日間家に閉じこもった後、昨日は図書館まで本を返しに行き、今日は井の頭公園を軽くジョギングする。

最高気温が一桁という数字上は寒い日が続いているが、こちらの体が寒さに慣れたせいもあって、日差しが暖かく感じられる。

「大寒」という今の時期は、一年の寒さのピークであると同時に、春のかすかな兆しが感じられ始める季節でもある。

枯れ木ばかりに見える今の公園でも、よく見れば「フクジュソウ」の黄色い花が咲き始めていることに気づく。

去年の今頃には「黄色い花が咲いている」としか思わかなった私が、今年は「フクジュソウが咲いている」と固有名詞で感じることができるようになった。

些細なことではあるが、実はこうした些細なことが人生を豊かにしてくれる。

向田邦子さんのエッセイを読んでいると、「楠」という作品の中にこんな一節を見つけた。

木を書かなかったのではなく、書けなかったのだ。常識程度のことは知っていても、葉のそよぎや匂いや季節の移り変りがからだのなかにない。育ってゆくものを朝晩眺める視線が私の暮しにはなかった。私のなかに木は生えていなかったのである。

木だけではない。

「山川草木」すべてがないのである。「転荒涼」は、私の気持のことかも知れない。

引用:向田邦子「楠」より

若い時には身の回りにある山川草木に関心を向けることは難しい。

楽しいこと、やりたいことがあまりに多すぎるのだ。

でも人生も後半戦になると、たいていなことには心ときめかなくなり、それまで気にならなかった身の回りの自然に目が止まるようになる。

これを「老成」という。

昔の日本では、「老成」という言葉は気力のない若者を揶揄する時に使われたが、シニアになれば堂々と「老成」すれば良いのだ。

そんなことを思う昨今、図書館で一冊の本が目に止まった。

青木宏一郎著『大名の「定年後」 江戸の物見遊山』というちょっと面白いタイトルがつけられた本である。

冒頭の「はじめに」を読んでみると・・・

日本人の高齢化は進み、六十五歳以上(定年後と想定)が占める割合は、人口全体の約29%(2020年)を占めるようになった。そのうち75%の人は、第二の人生を始めようとしているか、すでに始めている。では、定年後に何をしたいかと尋ねると、「旅行」が最も多い。

定年後の旅の極意は、多くを望まないことと、無理をしないことである。それは江戸時代から変わらないことで、隠居(定年)後に記された日記や書を見れば一目瞭然である。たとえば、『江戸近郊道しるべ』(村尾嘉陵)がある。筆者は下級武士(広敷用人)で、四十七歳で隠居し、暇を見ては早朝から出かけて目一杯歩いた物見遊山の記録である。また、江戸市中および近郊を訪ね歩き、興味深い話を綴った『宴遊日記』(柳沢信鴻/のぶとき)がある。筆者は、四十九歳で隠居した大名(大和国郡山藩。現在の奈良県郡山市)で、村尾より遥かに多くの物見遊山をしている。それも、大名という元の身分(役職)に囚われることなく、自然体で行動している。そこで、本書では『宴遊日記』から、柳沢信鴻の物見遊山の楽しみを紹介したい。

柳沢信鴻は、五代将軍綱吉のお側用人・柳沢吉保の孫にあたる人物である。日記は、大名を隠居した後、六義園に住み、江戸市中を歩き回り、その情景を観察したものである。時は、安永二年から天明四年までの12年間、18世紀の後期(1773〜1784年)の記録である。

引用:青木宏一郎著『大名の「定年後」 江戸の物見遊山』

江戸時代の大名でも、隠居後自らの興味関心のままに歩き回り、それを日記に記していた人がいたらしい。

時代が変わっても、シニア男性の考えそうなことはさほど変わらないということだろう。

柳沢信鴻が生きた時代は、比較的落ち着いた「天下泰平」の世の中だったようで、平和な時代には人間さっさと隠居して自分の趣味に生きようとするらしい。

物見遊山が江戸庶民に広く浸透するのは、19世紀に入ってからである。文化元年(1804)に向島百花園が開園しているように、物見遊山の気運はそれより先に高まっていた。庶民の要望を受けるように『東都近郊図』(1825、仲田惟善作)が刊行された。その後、『東都花暦名所案内』が、花暦一覧を加えて刊行された。そして天保五年(1834)・天保七年(1836)、挿絵と解説付きで江戸近郊を含めての名所を紹介した『江戸名所図会』が刊行される。

庶民が遊びに熱中し始めるのは、それよりもう少し早い18世紀後期からだろう。その兆しが、江戸で生まれた人が、「江戸言葉」という独自の言葉を使い、京・大阪とは趣の違う都市生活を営むようになったことだ。そうした江戸言葉を反映した「江戸小咄」という、江戸好みの軽妙洒脱な味わいと、完結を特徴とする寸話的な話が数多くつくられ、全盛となる。また、「江戸っ子」という、自らの自負から生まれた言葉も使われるようになった。「江戸っ子」という言葉が川柳集「柳多留(やなぎだる)」に登場したのは安永六年(1777)のことで、その背景には自分たちが江戸の町に暮らす住民の主役だと自負し始めたことがあるのであろう。

それまでの庶民の遊びといえば、裕福な町人や武士たちがやっていることを真似するというパターンが多かった。舟遊びや花火、吉原や歌舞伎にしても、当初は武士が圧倒的に多かった。やがて武士の遊びに憧れて、町人が次々に参入。金の力にまかせて、自分たちの楽しみにしたのである。

それが18世紀半ばになると、町人、それも下層庶民がおもしろがる見世物や遊びが次々に登場した。たとえば、女相撲、達磨男の曲芸、熊女、一寸法師など、一種いかがわしい見世物を見物したり、茶屋で評判の娘をからかったりと、まともな武士は、内心では興味があっても敬遠するようなものである。

安永年間(1772~1781)に入ると、庶民の好奇心はさらに高まり、見世物や開帳などを求めて歩き回るようになった。開帳とは、ふだん閉じられている寺院の秘仏・宝物を、扉を開いて拝観できるようにする宗教行事である。また、花見や歳の市などの活動も活発になった。このように、18世紀後半には庶民に、物見遊山に出かける下地が徐々に育まれていた。

そんな江戸の町中を率先して歩く回っていたのが、六義園に住む柳沢信鴻である。彼は日記に、出かけた場所と共に、庶民の遊ぶ姿をしっかりと記録している。

引用:青木宏一郎著『大名の「定年後」 江戸の物見遊山』

江戸時代は、日本史では珍しい平和な時代であった。

戦乱の世では、庶民は年貢に苦しんだり戦闘に駆り出され、とても遊ぶ余裕などなかっただろう。

時代が落ち着き、上流階級だけでなく庶民でさえ、遊びを生活の一部として楽しめるようになったというのは紛れもなく「生活水準の向上」である。

我々が生きる戦後の日本も、そういう意味では日本史では稀有な穏やかな時代と言える。

コロナ禍で多くの社会課題が表面化したとはいえ、相対的には恵まれた時代を生きているのだ。

そうした恵まれた時代に生まれたことを感謝しつつ、せいぜい隠居生活と物見遊山を楽しまなければならない、この本に出会ってますますその思いを強くしたのである。

日記で最も多く記しているのは、六義園という広大な庭園に関することで、その園で繰り広げられる様々な活動、中でもガーデニングに関連する記述が多い。信鴻は植物への造詣が深く、一日置きに植物名が登場するほどだ。その種類は260種余。樹木の剪定や芝刈りなどの作業は、年間139〜179日も行っているのである。それに加え、栗拾いや茸狩りなどの栽培・収穫は毎年平均96日ほど行っている。

引用:青木宏一郎著『大名の「定年後」 江戸の物見遊山』

思わず吹き出しそうになった。

私が井の頭公園の植物観察を始めたように、柳沢信鴻は六義園を歩き回り、自ら樹木の剪定をしたりして暮らし、それを詳細に日記に書き残していたのである。

私は何かを真似してこのブログを書き始めたわけではないのに、旅と街歩き、農業と植物観察・・・まるで江戸時代の隠居大名・柳沢信鴻の真似をしているような「定年後」を歩き始めていたわけだ。

柳沢信鴻は800日以上の物見遊山で、浅草に243回、湯島に124回、その他両国や護国寺・雑司ヶ谷・芝居町・吉原・亀戸天神・日暮里・根津権現・増上寺・目黒不動などを頻繁に訪れている。

当然電車やバスはなく、歩いて回るわけである。

おおむね、1日に4里(16キロ)、およそ6時間のお散歩だったという。

同じ浅草に行くにも、様々なルートを使い、目的地だけでなくその道中を楽しんだようだ。

ただし、元大名という身分なので一人で気ままにというわけにはいかず、常にお付きの人間が数人同行したらしい。

その意味では私の方がずっと気楽で、自由気ままに物見遊山を楽しめる立場にあるとも言える。

オミクロンの山が越えたら、私も東京をもっと歩き回りたくなってきた。

この本の著者である青木宏一郎さんは、ガーデニングの専門家のようだ。

造園家として六義園の植物について調べるうちに、柳沢信鴻の生き方に興味を持つようになった。

青木さんは本の最後でこんなことを書いていた。

信鴻は、毎年同じ場所を同じように訪れ、同じように見物し、食べ、買い物をして、神仏に参り、病の祈願や願掛けをしている。このような物見遊山を楽しめる江戸は、庶民の楽園とまではいわないが、20世紀半ば生まれの私には、懐かしく快い面ばかりが目に付く。江戸庶民は、自分が楽しい気分でいられる遊びを知っていた。そんな物見遊山を再現しようと思えばできないことはないはずである。

明治維新から続く科学技術の進歩、社会や文化の変化は、御伽噺のような物見遊山を無慈悲にも切り捨ててしまった。21世紀の社会は、ITを駆使し、豊かな情報を知識で遊びはもちろん、心の不安さえもコントロールしようとしている。しかし、その弊害は精神疾患として広く浸透している。追い打ちをかけるように、得体の知れない新型コロナウイルス感染症が流行し、庶民は新たな生活様式を求められている。

新たな生活様式は、生活の基本を労働から遊びに転換することが解決の糸口となる。その手始めとして、自宅から一歩一歩自分の足で出かける物見遊山こそ、新たな生活様式とすべきではなかろうか。定年後の物見遊山は、経済活動を優先する社会から、遊びを生きがいとする、ゆとりの社会に変える手始めとなるに違いない。

引用:青木宏一郎著『大名の「定年後」 江戸の物見遊山』

まさに同感。

そして私はすでに、そんな生活を始めている。

ひょっとすると私が理想とする生活は江戸時代にヒントがあるのかも知れない。

「物見遊山」という言葉、私もこれから使わせてもらおう。

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