いよいよ今日、私は中央アジアに旅立つ。
カザフスタン、ウズベキスタンと共に、今回訪れる予定にしている国がキルギスである。
しかし吉祥寺図書館にはキルギスに関する文献は見当たらない。
そんな中で目に止まったのがこの本だった。

栗本慎一郎著「シルクロードの経済人類学〜日本とキルギスを繋ぐ文化の謎」。
栗本さんといえば、ちょっと変わった文化人としてテレビに出演し、のちに政治家になった学者さんだ。
その指摘は常にちょっといかがわしく、それでいて新たな視点を提供してくれたものだ。
そんな栗本さんがシルクロードについて何を書いているのか?
ちょっと気になって読んでみることにした。
すると、これまで考えたことのなかったシルクロードと日本の関係が記されていたのだ。
古墳時代以降のある時期のこと、日本列島の帝王は「オオキミ」(大王)から「スメラミコト」(天皇)へと意識して呼び変えられ、それに天皇という漢字を当てて後に音読みのテンノウという語が生まれた。それまでは存在しなかった国の名も意識的に「日の本」とされた。実は、紀元後4世紀まで日本列島には統一的な王権はなく、3つないし4つの分立した王国があっただけなので、対外的な統一名称があるわけはなかった。ニホンではなくニッポンとは、元来北日本のそれも岩手と青森の一部だけの地方名称だった「日の本」という名称を大和に持っていき、日本と書きニッポンと読ませることによって生まれたもので、ニホンではなくこのニッポンが今日もなお日本国の正式名称である。
ちなみにヤマトが大和とされ、アスカが飛鳥と書かれることになったのも直前のことに間違いない。平城京はナラノミヤコと呼ばれて建設されたが、このナラは古モンゴル語の日の意味の言葉であって、北シルクロードからやってきた可能性が高かろう。韓国語で故郷のことをウリナラと言うが、そこでのナラも北ユーラシアから来たものではないか。ウリナラのナラが直接日本に伝わって来て、ヤマトのナラになったのではないのだ。
また天やスメラの概念は、古くとも紀元2、3世紀に日本に入って来た「新しい」ものだ。北ユーラシアのテングリやその訛音のテムリが日本の天であり、宇宙や神を表わす。列島においてはおそらく5世紀より古いものではなく、場合によっては6世紀であるかもしれない。そしてその導入は大変な革命を意味したのである。
そのころ、それまでの縄文文化に新しい段階をもたらす文化を持つ集団が北シルクロードから北日本を経て日本列島に渡来した。文化的要素だけが伝播してきたのではない。それを伴った人びと自身がやって来たのである。たとえば墓について考えれば、墓の作り方だけが単独で伝播していくことはありえない。巨大古墳の文化が突然、生まれたということは、それを背負った人びと自身がやって来たということを意味する。
これまで日本人は、縄文時代から連続性があると考えるのを好み、中国朝鮮からの文化伝播があったということを自明の前提であるかのように考えていたからこの問題を避けて通って来たに過ぎない。日本に突如生まれた巨大古墳の文化は、北のシルクロードどころかユーラシア草原の特定の地域に紀元前から広がっていたクルガン(巨大盛り土墓)と繋がるものであることは疑いない。
クルガン文化については考古学者マリア・ギンブタスが1950年代からいわゆる有名な「クルガン仮説」を提出している。彼女の仮説によれば、クルガンは主としてインド・ヨーロッパ語圏に広がるもので、その文化圏を測る基準とさえされる。しかし、彼女自身が認めるようにクルガンという語自身が元来はチュルク語で、後にロシア語に入ったものである。彼女はそして、クルガンが北シルクロードの地域、特にイリからバインブルク草原へ入っていく道筋やセミレチアに集中して展開されていることをまったく軽視してしまっている。そこにあるのがサカおよび烏孫の巨大クルガン群だ。その基となるのがおそらく南シベリアカラスク文化(前1200~700頃、青銅器文化末期)圏に集中する巨大クルガンである。そしてそこに幌付き四輪馬車が出土することも異動の原点だったことを象徴するようだ。ギンブタスはヨーロッパの方に目を奪われ過ぎて、南シベリア、セミレチア、天山地方のクルガンを軽視してしまったのだ。日本に関係があるのは、もちろん、この後者の文化である。
私は日本の奈良市にある旧平城京の宮殿跡の一角で、200メートル以内に散在する巨大古墳に取り巻かれるようにして住んでいたことがあった。近くの子供たちは前方後円墳の濠池でおたまじゃくしをすくって遊んでいた。前方後円墳は私の日常の生活風景そのものだったのである。その目から見て、セミレチアやイリのクルガンは、ほんのちょっとだけ手を加えれば完全に前方後円墳である。特に、二子山風のクルガンで片方の山が盗掘にあってやや低くなっているものは、もうほとんどそのまま前方後円墳だ。前方後円墳が日本独自のものだというのは、日本文化を特別なものだと考えたいという欲求が生んだ学説である。そのため、旧来の考古学者はあえてクルガンと前方後円墳の違いばかりを強調して繋がりを無視してきたが、前方後円墳が「方位」を大切にしたものと分かれば方位を持つクルガンとの共通項は強く確認されるだろう。
古墳医大が始まった後のこと、そこにさらに太陽信仰やシリウス信仰を基礎とし、やがては仏教の弥勒信仰に繋がる「聖方位」(正面の方位を真北から西に20度傾ける)が意識的に持ち込まれることになった。縄文時代から日本列島にあった太陽観測のネットワークは冬至夏至時の日の出日没地点から諸般の方位をとるものだったが、それがこの新たなシリウスの位置を軸にした方位のベースとなったのだ。
この聖方位は北のシルクロードから北日本に入り、そこから日本全国へ伝播した。聖方位は中央アジアやモンゴル高原に今もたくさん遺跡において見出されるが、そこが聖方位の起源の地だというわけではない。北シルクロードの要衝セミレチアのソグド人都市はほとんど聖方位をもって建設されたし、セミレチアから南へ下がった砂漠地帯のオアシス都市サマルカンド他にも意識的な聖方位が見出される。
太陽信仰あるいはシリウス信仰あるいは星辰信仰あるいは「天」の観念とともに遠くはペルシアを起源とするか、あるいはもっと時代も西へも遠く遡ってバビロニアやコーカサスを起源とすると考える方が妥当だ。なぜなら意識的な聖方位がペルセポリスだけでなく、バビロンやコーカサスにも見出されるからである。蘇我氏は重要な都市や建物や宗教施設の配置にサスと繋がるものだと考える。
かくして3世紀以降、北シルクロードから渡来した人びとが宗教や政治の主体となったわけだが、これらの集団の最終的代表が蘇我一族であり、聖徳太子(で象徴される一団)であろう。最新の諸研究が示すように、聖徳太子はおそらく実在の人物ではなく、実在したのはただ蘇我氏の一団だった可能性が高いが、個人としての聖徳太子が実際に居てもいなくても彼らが律令制、大化の改新以降の天皇制の基礎を築き、弥勒仏教を導入し、日の本やスメラミコトの名称を導入し、漢字やそれを用いた日本史の編纂を行ったのである。
その日本史『天皇記』、『国記』はおそらく北シルクロード出自の日本王権の正統性を述べていたものだから、645年の乙巳の変のクーデター後、最緊急の課題として蘇我邸が急襲され焼却されたと考えられる。そのことの方が蘇我入鹿の殺害より重要であった可能性が高い。そして聖徳太子や蘇我氏が書いた歴史に対抗して反蘇我勢力側が作らねばならなかったのが『日本書紀』と『古事記』である。要するに、今日に繋がる日本文化の基礎は彼ら(蘇我氏とそれに主導される一団)が築いたのだ。そして、聖方位について以外はどれも日本文化の基礎的要因だと誰もが公式に認知しているものである。間違いなく蘇我氏こそ日本を日本にした帝王だったのだ。蘇我氏は北日本を土台にし、九州の王・物部氏を倒し、継体天皇に代表される北陸系の勢力も抑え、全日本を統一した現実の帝王だったのだ。確かに蘇我一族宗家は乙巳の変で一掃された。しかし、その影響(そこまでの仕事)が日本を築き、その後の日本を大きく決定づけたことは間違いない。
引用:「シルクロードの経済人類学」より
さすが栗本さん、なかなかいかがわしい。
しかし、ユーラシア大陸中央部の草原地帯に紀元前からあった「クルガン」という墓については興味がそそられた。
私自身、天皇家のルーツや突然現れる前方後円墳の謎には以前から興味を持っていたのだが、それが中国や朝鮮ではなく中央アジアの草原にルーツがあったということは考えたことがなかった。
中央アジアには日本人とよく似た顔をした人たちが暮らしているという。
ゲノム調査の結果、日本人と中央アジアの人たちがDNA的に近いという話にもずっと興味を持っている。
この「クルガン」とは土や石を積んだ遊牧民の墳丘墓だそうで、確かに日本の巨大古墳のルーツがそこにあるという見方もあながち否定できない。
そして「聖方位」という共通点。
聖方位とは、真北から20度西に振った特別な北を持つ方位のことで、日本の巨大前方後円墳や主要な神社仏閣に共通する不思議な方位だそうだ。
これがキルギスで発見された遺跡と共通なのだという。
栗本さんの本を読んで大いに好奇心を刺激されたが、この本が書かれたのはもう20年近く前であり、そのまま信じるわけにはいかないだろう。
それでも新たな視点をもらい、中央アジアへの関心が深まってきた。

栗本さんはキルギスに何度も訪れているという。
そのくだりを引用しておこう。
この序論で語られるスメラミコトが日本に降臨した時期には、本書でよく登場する「親戚」キルギス人はまだ南シベリアからせいぜいバイカル湖近辺にいた。だが、それ以前に南シベリアで(あるいはバイカル湖に至る途中で)日本人の一団と別れたとも考えられる。親日的なキルギス人の間にはよく知られたジョークがあって、「昔、キルギス人と日本人は一緒に住んでいたが、どうしても羊の肉が口に合わない集団が出来た。それが日本人の祖先となって、彼らは海と魚を求めて東へ去って行った。そして帰ってこなかった」というものである。日本でジンギスカン鍋を愛する人は、南シベリアで遊牧していた記憶が強くて「やはり、残っていればよかった」と思う人たちなのかもしれない。少なくともキルギスの一部ではそう考える人がいるがまったく有り得ないとも言えないことだ。
私が最初にキルギスを訪れたとき、まったく不思議な体験があった。首都ビシュケク滞在2日目の朝、私はキルギス人に道を聞かれたのである。キルギス語だった。あっけにとられた私は、かろうじて英語で「旅行者だ」と答えた。と、今度は相手があっけに取られた顔をしたのである。私は全世界かなりの国を旅しているが、旅の途中で町の人に道を聞かれたことはない。
シルクロードの歴史の中できわめて重要な役割を果たしながら、あまり注目されてこなかったし自らもあまり意識してこなかったキルギス人とその役割について別に述べる。私の現在の研究は、その現キルギスに世界帝国西突厥(7〜8世紀)の首都があった時代とその首都遺跡の調査でもある。
引用:「シルクロードの経済人類学」より
そうなのだ。
栗本さんはこのキルギスで西突厥について調査していたのである。
「突厥(とっけつ)」・・・懐かしい響きだ。
高校時代、世界史でその名は覚えたものの、突厥がどんな民族なのか習った記憶は全くない。
栗本さんの説明を引用しておこう。
突厥帝国は西暦552年頃に出来上がった。創始者はチュメンあるいはブミンと呼ばれたブミン・イル・カガン(中国名土門伊利可汗)である。チュルク関係ではイリとかイルとかの語がよく出てくるが、それは古チュルク語で「国」とか「故郷」とか人々の連合を意味する。ブミンには建国運動の頃から協力していた有力な弟がいて、それが副カガンとなるイステミ(中国名室點蜜)であった。
この兄弟の出身一族は、チュルク族の中で狼を始祖とする伝説を持つアシナ氏であった。アシナ氏はチュルク族内の多数派たるオグズ系ではない。だから、柔然を倒すとき、チュルク内の主導権を先ず獲得せねばならなかった。このとき、戦う相手としてうち破ったのが高車とか鉄勒と呼ばれた集団で、それらが広義のオグズ系であった。ウイグル族もここから生まれている。
高車は5世紀後半にはすでに柔然の可汗に反旗を翻してウルムチ近くにおいて独立の動きをしていた。おそらくはほぼ独立国と言いうる勢力圏を作り上げていたのだろう。一方、アシナ氏は鉄の技術をもってアルタイ山脈南麓(今日のアルタイ市あたりか)で柔然内に重きを成していた。そこで高車による独立の動きとは別に、柔然内で半独立の動きを示した上、柔然皇家の公主、すなわち皇女に求婚したのである。そのとき柔然皇家アナガイ氏は激怒し、アシナ氏を侮辱して「鍛奴(鉄を鍛造する奴隷)の出る幕ではない」と拒絶した。ここでアシナ氏は最終的に柔然追討の挙に出たのである。552年のことだ。
出来上がった突厥国はほぼ最初からユーラシア西部草原、ソグディアナ、パミール高原、チベットに力を及ぼしていたことが分かっている。その力が西面可汗の基盤であった。それは明らかにアシナ氏が建国前からある程度以上の力を持っていなければ起き得ないことである。だから、柔然はアシナ氏の力をまったく甘く見すぎたのだった。
イル・カガンの在位はわずか2年で終わり、その後を息子カラ・カガンが継いだ。カラ・カガンの在位もわずか1年で終わると、弟ブガンが今度は約20年も、次いでまたその弟タパルがほぼ10年も、カガンの地位に着いた。ブガンもタパルも強力なカガンで、特にブガンは南に逃げた柔然の残党を完全に掃討し、彼らがさらに西へ逃げてヨーロッパでアバール人となる弾みをつけた。これらのことはすべて東カガン国のことで、カガンたちはいずれも突厥全体の中では立場上、大カガンである。首都は、モンゴル・オルホン川沿いの聖山ウトケン山にあった。今日のカラコルム近くだ。
突厥本国の東面第一カガン国が乱れたとき、一方の西面カガン国(西突厥)のアシナ皇家内部は安定していた。イステミは統治力も軍事力も強く、カリスマ性もまたあった。ササン朝ペルシアとの外交においても常に冷静に全体を眺めて対応する力を持っていた。統治はほぼ4半世紀(552-576)に及び、その間、エルタルを破り、ササン朝ペルシアを押さえ込み、ソグド人をはじめとした多くの支配下の民族を心服させて、コーカサス地方までも治下に収めた。これで、かつての大パルティア帝国の版図以上のものを獲得したのである。
特に重要なのは、大パルティアさえもとうとう最後まで影響力を及ぼせなかった草原の道を完全に抑えたことである。紀元前から始まるユーラシア大陸の東西交流の歴史において紀元後の大事件と言ってもよい。568年、ソグド人首領マニオクはこの草原の道を使ってビザンチウムに使いして、東ローマ帝国皇帝に対してイステミを「突厥でカガンと呼ばれる4人のうち最高のカガン」と宣伝しているが、納得できるものがある。
大皇帝トンヤブグ・カガンは619年から630年まで西突厥を支配した。そして曽祖父のイステミ以上に東ローマ帝国やササン朝ペルシアに良く知られた大皇帝となった。
彼はイステミが決してバインブルクの天幕を大きく離れなかったのに対して、自らよく遠征も行った。最も良く知られているのが、627年、東ローマ帝国皇帝ヘラクレイオスの求めに応じて4万の騎兵を率いてコーカサスの戦場に赴き、ヘラクレイオスに抱擁された事件である。おそらく現在のグルジア・ティフリスの地である。ヘラクレイオスは、立ち居振る舞いの神妙な「トルコの大公ジーベル」をかき抱いて「わが息子よ」と言った。そして遠征の天幕に持ってきた銀の食器などをプレゼントした。トンヤブグは内心ぷっと吹き出したのではなかろうか。金銀はむしろ突厥の側の産物である。デグの皇帝使い古しの食器などすぐ捨てられたかもしれない。まともな贈り物も持っていない皇帝をトンヤブグが尊敬したとはとても思えないのである。
大体、トンヤブグは「トルコの大公」どころではない。当時すでに東ローマ帝国をはるかにしのぐ大帝国の皇帝であった。しかも、今も述べたように遊牧民の皇帝は労働を嫌い脂ぎって宮廷に座っているローマの皇帝と違って何千キロもの道を騎兵を率いてやってくるのであった。ジーベルというのは前に述べたようにヤブグの訛りである。それを個人名と間違えているビザンチン側もまた西突厥の実情は分かっていないことになる。
この年トンヤブグは、戦においてもたもたしているヘラクレイオスに腹を立てて、勝手に敵と戦って掠めるべき物を掠め、さっさと草原の道を通って帰還してしまった。脂ぎったヘラクレイオスの抱擁や中古の食器など何の意味ももたらさなかったのである。あるいは「わが子よ」と言われたとき、「こいつは駄目だ」と思ったのかもしれない。帰還した先は、彼が619年にバインブルクから遷都したセミレチアの都である。この都は、中国側の史料ではスイヤブ(素葉、砕葉城)と呼ばれる。現在の私の調査地であるアクベシムではないかと言われている(最終決定ではない)スイヤブは、629年、唐の玄奘三蔵がインドへ行く途中、道中での保護を求めてトンヤブグ・カガンと会談した場所だ。このときのトンヤブグは、将軍たちをぎっしりと並べて、物々しくも豪華な天幕の宮廷にいた。そして玄奘は謁見し、仏教について下問し理解を示し、その後の道のりでの保護を約束した。当然、玄奘もまた軽々しく抱擁したりされたりのことはしなかった。玄奘は、トンヤブグとの会談を許される前の1年近くも、西突厥国内の王国たるトルファンの高呂国に留めおかれていた。トンヤブグは十分調査の上玄奘をセミレチアに呼んだのである。
引用:「シルクロードの経済人類学」より
中国やインド、メソポタミアに比べ日本人には馴染みの薄い遊牧民の興亡史。
しかし、地図で確認すると突厥が支配した領土はモンゴル帝国に比肩できるほど広大であり、その首都スイヤブが現在のキルギスにあったということらしい。
そして突厥には狼から生まれたという伝説があり、キルギスにも同じように狼伝説があるという。
キルギスはもともと突厥よりも北に暮らしていた遊牧民で、キルは40、ギスは女、つまり「40人の女」という意味があるらしい。
キルギス人の伝承では、1人の王子または狼または赤犬がその40人の女との間に民族の始祖たる子孫を残したといい、それが国名や民族名になったのだ。

そして突厥や彼らが支配した草原の道は渤海国を通じて日本にも繋がっていて、弥勒仏教や蘇我氏と関係しているというのがキルギスで発掘調査を行なっている栗本さんたちの問題意識のようである。
そして『地球の歩き方 中央アジア』を見ると、栗本さんが発掘に関わった「アク・ベシム遺跡」が世界遺産として掲載されていた。
6世紀から12世紀の遺跡。周囲の城壁がほとんど残っており、仏教寺院跡が発掘され、唐代の砕葉城(スイアーブ)であることが近年明らかになった。629年に出発した玄奘三蔵がインドに向かう途中、イシク・クル湖岸を通ってここで突厥の王に会い、歓待を受けたと『大唐西域記』に書いている。
2017年に帝京大学の調査団により唐時代の瓦が大量に発見されたのに続き、2018年、7世紀後半のものと推定される建物の一部を発見。赤、白、緑などの石を組み合わせた花模様の石敷きは中央アジアでは初の発見となった。
引用:「地球の歩き方 中央アジア」より
突厥帝国の首都だったと考えられるアク・ベシム遺跡は、キルギスの首都ビシュケクから「中央アジアの真珠」と呼ばれる“天空の湖”イシク・クル湖に向かう途中にある。
チュー川が流れるこの周辺には突厥にまつわる遺跡がいくつも残っているらしいので、うまくタクシーでもチャーターできればぜひ立ち寄ってみたい。
栗本さんはさらに、「シルクロード」についての誤った理解が世界的に広がっていることを、ブームの経過を紹介しながら指摘している。
独人フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェンがシルクロードという言葉を使ったのは、1877年、その大著『シナ』第一巻においてだった。もちろん元はドイツ語で、シルクロードはその英訳である。意味は今日とほとんど同じで、中国を東の端としたユーラシアを東西に結ぶ交易ルートがあって、主要商品は絹で西はヨーロッパとを結んでいたというものである。その中心ルートはローマ帝国からペルシア方面に出て、ついで砂漠を北上してトルキスタン(中央アジア東部)から中国へ入るか、ペルシアからさらに東進してパミールを越え崑崙からタクラマカン砂漠を東北に向かうものもあるという。カシュガルやアクスあたりから天山山脈を北に見て(つまりルートは天山の南)ウルムチから長安(西安)へ行くルートが主要なものと考えられた。これがいわゆる天山南路である。
天山の北側を通る「従たる」道も想定されて、それが天山北路ということになった。ただし、天山北路だとて西に行く場合、現キルギスを抜けると直ちに南下してサマルカンドやブハラからアフガニスタンに出ることになる。要するに、一般的なシルクロードは天山北路でも南路でも、一度はペルシアに抜けるという話になっている。だが、これが間違いなのである。本書で述べているように真のシルクロードはもっともっと最後まで北を通っている。そしてそこが日本文化に大きく関わっているのだ。
しかし、この間違ったシルクロード論は発表後、あっという間もなく受け入れられ、広がり、断固たる歴史的事実であるかのように見えることになった。主な理由は、トルキスタンを争っていた中国(清朝)とヨーロッパがともに自分たちの歴史的コミットメントを主張したがっていたからであった。中国もロシアもドイツもイギリスも、自分たちが古くから関わりがあるからこそ現在の新しい権利を主張していると言いたかったのである。もっとも、その新しい権利とは決して絹ではなく、石油をはじめとする鉱山資源だったが。
その後、リヒトホーフェンの弟子スヴェン・ヘディン(スウェーデン人)はタクラマカン砂漠を中心に、いわゆる天山南路の探検や研究を続け、ついにはシルクロードの名を本の題名にまでした。そのヘディンがタクラマカンの「さまよえる湖」ロプノール湖西岸の砂漠の中に楼蘭王国の遺跡を発見(1900)するに及び、砂に消えた記憶の中から蘇ったシルクロードの幻影は人びとの心をさらに魅了したのであった。折から世界中に広がっていた探検ブームとあいまって、砂漠と交易のロマンは人びとの心をつかんだのである。だから、ヘディンが誤ったシルクロード観の主要宣伝者である。そもそも1500年周期で砂漠から現れては消える「さまよえる湖」の宣伝など、地質学的も歴史学的にも全く根拠のない話なのである。逆に言うと素晴らしいキャッチコピーだ。
しかしその世俗的成功には別のわけがあった。背景となるのが19世紀世界を覆っていた最大の熱狂、すなわち領土と植民地獲得への狂奔である。
果たしてイリは、ウイグル人の独立運動と列強の介入合戦の的となった。19世紀半ばから後半にかけては、イスラム教徒の反乱(1962-64)や独立政権の樹立、ロシアによる占領(1871)、西方カシュガルでのヤクブ・ベクの独立(1865-77)などの波乱を経て、イギリス、トルコ、ロシアの争うところとなり、1881年、サンクトペテルブルクで結ばれた「イリ条約」によって清が何とかかんとか確保すると言う展開になった。かつて安史の乱において長安に兵を出して唐帝国を救ったほどのウイグル王国(744-839)を作っていたウイグル人にとっては、まことに不本意な外敵による侵略の連続であったと言える。イリは、天山北路の一部でもある。カシュガルは、天山南路の要衝だ。そして、カシュガルまで来ると、崑崙山脈東を通ればチベットまでもうすぐだ。また、パミール高原を西に抜ければすぐサマルカンドである。
こういう状況を背景に、中国政府はシルクロード論の中に自らの政治的立場(つまり利権)に好都合なものを多々見出した。あるいは、突っ込んだ。つまり「ここは自分たちの古くからの馴染みの地だ」、「イギリスやロシアではなくわれわれのものだ」ということだ。トルコは実は、チュルクと突厥の後裔でもあるから中国よりもはるかに歴史的関係は深いのだが、これは「突厥は歴史の中に消え去っている」としてあえて無視することを選択する。共産党政権も強くこれを維持し、新疆やチベットへの(さらにはその先パミール高原までもの)支配権を主張するのである。植民地主義という点では、共産党の革命といっても漢民族の排他主義をそのまま引き継いだからである。
かくしていわゆるシルクロードのルートは諸国の領土権的主張という非学問的嵐の中で邪否が裁定されることになって、中国政権がパミールやチベットをもにらみつつ、天山南路中心のシルクロードを政治的に「公認」し後押しするということになった。それを鵜呑みに支持すると言わなければ1980年代くらいまではイリ地方へは調査どころか旅行にも行けるものではなかったし、今日でさえ北京政府公認の重要地以外の調査は基本的には出来ない。社会主義国ではどこでもそうだが、考古学協会は北京政府の主要監視下機関なのだ。だから、ここ何十年もシルクロード論に関わる番組を中国政府と現地考古学協会の監督の下に作ってきたNHKは、シルクロード天山南路説のみを喧伝する役割を担ってきたのである。
このための芳しくない副産物として、第二次対戦前には世界をリードしてきた日本のトルキスタン研究にはブレーキがかけられた。中国側の公式見解に対して中立であると研究の便が図られなかったからである。「少数」民族が北京政府の公式見解と対立しているところは山のようにあるのだが、そこにはいろいろな意味でほとんど近づけなかったし、今でもそうなのである。そして後述の草原の道・北のシルクロードを含めて、真のシルクロードはすべて「少数」民族の活躍した地だったのである。
引用:「シルクロードの経済人類学」より
なるほど、シルクロードと帝国主義・・・面白い指摘である。
ロシア帝国が太平洋に至る世界最大の領土を獲得する過程で、シベリアに暮らしていたたくさんの少数民族が武力によって制圧された。
同様に、中国も清朝の時代から西方への支配圏拡大を続け、栗本さんが指摘するようにシルクロードの中核であったウイグルや独立を保っていたチベットを征服しどんどん漢民族の移住を進めている。
今回私が訪れる国々でも、たとえばウズベキスタンの首都タシケントなどは完全に街がロシア化されてしまっていて、かつてシルクロードの要衝として栄えた面影はほとんど消えてしまっているという。
今回の旅にあたっては、そうした大国によって蹂躙された少数民族の痕跡を意識しながら見ていきたいと思う。
<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館📕 「ウズベキスタンを知るための60章」(2018年/明石書店)で学ぶソグド人とティムール #230730