来月、南太平洋の旅に出発する前に、なぜ日本軍が遠く離れたニューギニアやソロモン諸島で戦うことになったのか、その理由を知りたいと思い図書館で1冊の本を借りた。

“歴史探偵”を自称した作家・半藤一利さんが書いた「遠い島ガダルカナル」。
そのプロローグには、戦勝に気を良くした日本軍中枢が、なし崩し的に戦線が拡大していく経緯が具体的に記されていた。
ミッドウェイ海戦の惨敗によって、対米英戦争の将来において影響を蒙った最大のものは何であったろうか。書くまでもなく、すでに決定されているその後の戦争計画である。
その戦争遂行計画とは、真珠湾での大勝利の後に、陸海軍部の熱心な討議によって、4月13日に概定されていたものである。すなわち第二段作戦計画がそれであり、それは実に規模雄大なものであった。
5月7日 ポートモレスビー攻略
6月7日 ミッドウェイ攻略
7月8日 ニューカレドニア攻略
7月18日 フィジー攻略
7月21日 サモア攻略
10月を目途としてハワイ攻略作戦準備
くどくなるのを承知で書くと、開戦時の日本の計画は、経済的必要と戦略的必要から、マーシャル諸島以西の海域と、東南アジアの資源地帯を確保し、鉄壁の防御線を固め、長期持久を策するはずのものであった。ところが、緒戦の勝利につづく勝利で調子づいて、マーシャル諸島の線をはるかに越えたところまで戦略構想が放漫に膨張していった。
これはマーシャル諸島最大の根拠地であるトラック島を護るための前進根拠地として、1月23日にビスマルク諸島ニューブリテン島のラバウルを占領したことに端を発する、と言っていいかもしれない。ラバウルを占領したことは、そのラバウルを護るために、さらに前線を広げていくことになる。
一方、日本軍のラバウル進出は、オーストラリアにとっては当然のごとく脅威となる。翌日の夜から、ニューギニアの最大基地ポートモレスビーから発進する飛行機によって、米豪軍は空襲攻撃の挙に出る。以来相互が攻撃と防御とを繰り返す、という航空消耗戦が始まった。この敵の反撃が日本軍にとっては小癪極まることになる。こうしてポートモレスビーが日本軍にとって撃滅占領すべき作戦目標となるのである。
同時に、米豪軍の反攻作戦の拠点になるであろうオーストラリアの攻略も、大本営における論議の対象ともなっていく。開戦時の戦略構想にはまったくない大々的な進攻作戦である。大風呂敷は遠慮容赦もなく広がっていく。が、さすがに参謀本部の方がここで首を傾げる。オーストラリアを攻略するとなれば、どう少なめに見ても12個師団(30万人近く)を基幹とする大兵力を必要とし、これを輸送する船舶は150万トンに及ぶ。到底これは出来ない相談ということになろう。
陸軍の正面の敵は他に中国軍があり、常に警戒せねばならない満州正面にはソ連軍がいる。大兵力をひねる出すためには戦線を縮小して、その方面を手薄にしなければならない。強気一点張りの作戦参謀たちも、さすがに全般的戦略態勢を損なってまでも強行することには、ノーと言わざるを得なかった。
陸海軍部の論議は、しかし、米国と豪州間の連絡を放任し、対日反攻作戦の準備と展開を容易にすることは、断じて許し難いという点では異議もなく意見の一致を見た。そこから、その海上交通路を遮断することが、日本軍にとっては必要不可欠な作戦となったのである。それが7月のフィジー、サモアの攻略作戦として結実した。
こうして概定された第二段作戦計画は、4月15日には上奏裁可され、正式の決定となった。
しかもマルス(戦いの神)は皮肉なことをする。作戦決定の直後の4月18日、ドーリットル中佐指揮のB25による日本初空襲があった。大本営の空気は一変した。とにかく急げ、急げとなる。ポートモレスビー攻略(MO作戦)からフィジー、サモア攻略(FS作戦)までの延々3ヶ月にわたる一連の大作戦を、わずか半ヶ月はるかなしの怱忙の間にまとめあげねばならない。作戦部隊による検討など待ってはいられない。中央からの一方的な押しつけである。そうした無理によって必然的に伴う危険性を忘れさせてしまったのである。はっきり言えば堅実さも冷静さもかなぐり捨てて、戦果に陶酔し、戦勝ムードに乗って、強引に計画を練り上げ、実行に移していこうとするのである。
5月のMO作戦は、果敢にも挑戦してきたアメリカ機動部隊と、日本機動部隊との間に、海戦史上初の航空決戦(珊瑚湾海戦)が生起し、日本の輸送船団は避退を余儀なくされ、結果として、海上からの敵前上陸によるポートモレスビー攻略は放棄された。計画の最初のつまずきである。
そしてつづくミッドウェイ攻略作戦では。その大敗北を目の当たりにしては、驕慢による闘志不足とか、準備不足とかの愚痴を述べているときではなくなった。それは最強と謳われていた空母4隻を失っただけの話ではない。国力なき日本にとっては、これだけの戦力をし早く整備することは夢の夢。正しく言えば、開戦以来の自由奔放な、積極的な進攻作戦を、日本海軍がもはやとれなくなったことを意味する。それほどの敗北であった。今後は欲するときに欲する場所で、アメリカ軍が攻撃を仕掛けてくることが可能になる。太平洋作戦の主導権を日本軍は失ったのだある。
よく言われるように、まさしくこの戦いが「太平洋戦争の分水嶺」となり、攻勢・防御の流れは完全に変わった。おそらくは古今東西の戦史を通してほとんど類例を見ないほどの、大逆転と言える。しかし、大本営陸海軍部には、それだけの確たる戦略的自覚が果たしてあったであろうか。
引用:半藤一利「遠い島ガダルカナル」より
緒戦の連勝によって敵をみくびり、当初の計画からどんどん戦線を拡大していった軍幹部たち。
南太平洋の守りの要だったトラック島基地を守る目的でラバウルを占領し、今度はラバウル基地を守るためにさらに先の島に勢力圏を拡大しようとする。
いかにもありそうな話である。

しかし壮大な作戦計画は珊瑚海海戦の失敗により最初からつまづき、ミッドウェイでの大敗北によって修正を余儀なくされる。
6月6日ミッドウェイで空母4隻を失ったことが海軍から陸軍に伝えられ、翌7日、両軍の作戦参謀たちの間で会議がもたれた。
7日の午後、両軍作戦課参謀たちが緊急会同し、今後の作戦方針に関して討議した。彼らの前に置かれているのは、反故に近くなった第二段作戦計画である。その一つ一つを作戦参謀たちは検討していくことになる。
ミッドウェイ攻略作戦は一時中止する。FS作戦は開始時機を約2ヶ月延期する。占領したアリューシャン列島、アッツ島、キスカ島は恒久確保すべく研究する。と、次々に意見の一致をみて決定していった後で、なんと、再びポートモレスビー攻略のMO作戦が前面に浮上してきたのである。なるほど5月の珊瑚海海戦の結果から一次挫折したが、海上からは無理というのであれば、
「今度は陸路を、オーエン・スタンレー山脈越えに侵攻しようではないか」
というのである。攻勢終末点などという戦略発想は、このとき、誰の頭にもなかった。杉山総長のいう別の方面での屈敵作戦構想として、改めてMO作戦が想い描かれ、最良の策として採用されていったのである。
引用:半藤一利「遠い島ガダルカナル」より
こうしてラバウル基地防衛のために、連合軍の拠点ニューギニア島のポートモレスビーが主要な攻撃目標に選ばれたのだ。
投入された兵力の9割が死んだとされるニューギニアでの悲惨な地上戦はこうして決定された。
一方で、ソロモン諸島のガダルカナル島が重要な戦略拠点として突如浮上したのには、全く別の経緯があったようだ。
大本営や連合艦隊司令部の苦心しながらの、新たな作戦研究や計画とは関係なしに、この間にも既に決定されている作戦計画は、既定路線そのままに実行に移されている。ミッドウェイの敗戦と、広く太平洋いっぱいに展開されている計画とは別個のもの。いや、戦勢を挽回し、勢いづけるためにも、その継続的遂行は必要なのである。それが軍の力学というもの、といえばいえようか。
こうして7月1日、SN作戦の第一歩が印される。SN作戦とは、「ソロモン諸島、ニューギニア東部における航空基地設営獲得のための作戦」の謂である。
ここで話を少しく前へ戻す。
ラバウルを戦略拠点とする太平洋南東方面の海軍部隊は、攻勢のためにも防御のためにも、ソロモン諸島に陸上基地の建設の必要性を認めていた。連合艦隊もそれを諒とし、その作戦計画推進を命じる。これに基づいて、5月25日には、現地部隊の第25航空戦隊と第8根拠地隊の幕僚や技術者によって、九七式飛行大艇によるラバウル以南の島々の航空偵察が行われていたのである。
いや、正しくは「以南の島々」というよりも、ラバウルより1020キロも離れたガダルカナルという島の偵察が主要任務であった。なぜなら、この島の対岸の、飛行艇・水上機基地として占領しているツラギの航空隊司令宮崎重敏大佐から、「飛行場に最適の平地あり」の報告をすでに25航戦司令部は受けていたからである。そしてこの時の飛行大艇による偵察も「このガダルカナル島は飛行場建設に最適」という判断を下した。
この報告を受けて25航戦司令官山田定義少将は、6月1日、上長の第11航空艦隊参謀長酒巻宗孝少将宛に、調査報告をするとともに、急ぎこの島に飛行場の建設に取りかかるべし、と意見具申をした。ここに、SN作戦の目玉としてガダルカナル島が浮かび上がってきたのである。
ミッドウェイ海戦後にこの報告を受けた連合艦隊司令部は、ラバウルからガ島までの距離1000キロにやや難色を示した。零式戦闘機の航続距離2000キロ余を勘案すれば、往復するのがやっとでは、軍事的常識からみても、攻勢の終末点の圏外になってしまう。中間にもう一つの基地を造成する必要性を認めざるをえない。この連合艦隊からの要望に基づいて、25航戦はほぼ中間にあるブーゲンビル島とブカ島を二度にわたって調査した。しかし、いずれも地勢に難があり、建設にはガ島の場合以上に時間を要するという結果となった。
その背景には、実は、25航戦はミッドウェイの大敗を知らず、いや知らないだけではなく、大本営の軍艦マーチを伴う発表通り、敵空母2隻を撃沈した勝利を得て、太平洋全域の制空制海権は日本側にありと確信しているのである。その楽観が少しばかりの無理も通用するものと思い込ませていた。
連合艦隊も、機動部隊航空兵力の再建までの間、戦局の維持をその代わりとなる基地航空隊の奮闘に待たなければならない苦しい事情のもとに置かれている。この際は、25航戦の自信たっぷりの報告に乗ってみるべきであろう、という判断がそこから生まれた。それに予期される敵の反攻も今夏はなく、秋口以降になってからという戦略的観測もある。それ以前にソロモン諸島に強力な航空基地を建設しておくことは、反攻を撃破するためにも必須な条件となる。
6月19日、そこで現地部隊の意見具申に対し、連合艦隊司令部は宇垣参謀長の名でこう訓電した。
「ガダルカナル航空基地は次期作戦の関係上、8月上旬迄に完成の要ある所見込承知し度」
25航戦の報告を承認し、8月上旬までに飛行場を作れ、と要望したことになる。この電報を受けた現地部隊の25航戦、第8根拠地隊、さらにこの方面の総指揮をとる第4艦隊(長・井上成美中将)司令部からも早速参謀が派遣され、再度のガ島上空からの航空偵察が行われた。そして島のルンガ川東方、海岸線から約2キロ入ったところが飛行場建設におあつらえ向きの地勢である、という結論になった。
連合艦隊司令部はここに至って設営隊の編成を決定する。ミッドウェイ攻略の失敗、続くフィジー、サモア諸島攻略作戦(FS作戦)の挫折に伴って、いわば手空きとなっている第11、第12、第13、第14の各設営隊をして、ガ島を中心とするいわゆるSN作戦にあたらせることにしたのである。
このうちガ島の飛行場建設を担当するのは、ミッドウェイ作戦のために編成されていた門前鼎大佐指揮の第11設営隊と、ニューカレドニア攻略のため編成されていた岡村徳長少佐を長とする第13設営隊であった。総勢2370名余、大半は軍属で、そのまた大部分が徴用の労務者であった。両部隊の総指揮は門前大佐がとる。これに加えて遠藤幸雄大尉を指揮官とする陸戦隊247名が上陸して、警備に着くことになる。
この両設営隊の本体を乗せた輸送船団は、6月29日、トラック軍港を出港する。これらをがっちりと囲んで直接護衛するのは、第6水雷戦隊の軽巡夕張、駆逐艦卯月、追手、夕月および5隻の駆潜艇である。当時第11設営隊の信号員であった山宮八洲男上等兵曹が、信号受信紙をつぎ足しながら書き綴った貴重な「戦闘日誌」を残している。
「6月29日。SN作戦いよいよ出動。抜錨、久しぶりの出港だ。朝来雨しきり。1000(午前10時)夕張および六水戦(第六水雷戦隊)麾下の護衛隊も同時に出港し、迅鯨(潜水母艦)より盛んな歓迎あり。頑張りますと大きく帽を振る。輸送船吾妻山丸、広徳、北陸、吾妻丸4隻の堂々の出港。護衛隊9隻は誠に心強い限りだ。敵潜(潜水艦)もちょっと手が出ないだろう。対潜見張りを厳にしつつ南下す。仮眠中の2230(午後10時半)ごろ、夕張より針路指示の信号あり。艦橋へ急ぐ」
前途に何が待ち受けているのかも知らず、悠揚せまらざる書きぶりを写していると、こっちも楽しくなってくる。これから悲劇が開幕しようとしているのに。
長々と経緯を書いてきたが、こうして、この項のはじめに触れたように、7月1日に先遣隊がガ島に第一歩を印したのである。そして本隊も5日後の7月6日、無事上陸を果たした。いよいよ飛行場の建設が始まる。ただし、アメリカ軍は7月4日から早くも偵察とともに、空からの攻撃を開始している。
「7月9日、0400(午前4時)荷役開始。大発(D型大発動艇)の連中も連日連夜の作業に疲れたのか、運用悪く、甲板士官が大声でハッパをかけている。昨日の爆撃といい、対空見張りを厳重にせねばならない。日没近く、夕張が入港したが、程なく哨戒に出て行く。ややあって駆潜艇が接舷し、食糧、水の補給を行なう。1900(午後7時)ごろ爆音を探知して消灯、配置につく。投弾なし」
山宮上等兵曹の日記である。
アメリカ軍が毎日のように2機から3機を飛来させ、日本の行動を監視しているのには、当然のことながら理由がある。のちに詳しく書かねばならないが、7月2日にはもう本格的反攻の「望楼作戦」命令が統合参謀本部より発令されていたからである。日本軍は全然気づいていなかった。
引用:半藤一利「遠い島ガダルカナル」より
広範囲で同時進行の形で作戦を進めると、それぞれの指揮官や参謀が自分の課題解決のために知恵を絞り、結果的に全体の整合性を欠くことが珍しくない。
ニューギニアやガダルカナルが日米豪の死闘の舞台となったのは、当初の計画にはない偶然だったとも言えるだろう。

しかしその頃陸軍では、イタリアからインド洋方面への進攻、ドイツからは対ソ連への攻勢を求められ、独伊と連携してインド洋制圧に乗り出す方針が急速に浮上していた。
これに呼応して海軍の永野総長は7月7日、天皇に新たな作戦指導方針案を奏上した。
- 作戦重点をインド洋方面に指向する。
- 太平洋方面においては、ポートモレスビーを陸路攻略するとともに、東部ニューギニアを戡定、ナウル・オーシャン両島の攻略、ガ島の航空基地の整備により、東部ニューギニア、ソロモン諸島およびギルバート諸島の連結線を確保する。
- 潜水艦戦を強化し、インド洋および豪州東岸の通商破壊戦を実施する。
しかしこの作戦計画の基盤となるべき艦隊再編には、ミッドウェイで沈んだはずの空母赤城と飛龍も加わっていた。
すなわち、海軍は天皇を欺いて作戦方針の裁可を得たことになる。
陸海軍統帥部ははかない夢を夢みたのである。ドイツ軍がエジプトまで進攻し、イギリス軍を駆逐すれば、エジプト・アラビア・イランの全地域で広汎な反英抗争が展開されることであろう。その地域の油田をもイギリスは失うことになる。日独がもしこれらの地域を手中に入れることができたならば、イギリスの屈服は間違いなく促進される。結果、日本は対米不敗の態勢が確立されることになる。すべては「もしも」である。しかし、そうは思わない。その仮定が実現される、と夢みたのである。
この雄大な構想は、7月11日、杉山・永野の両総長が列立して、決定された今後の作戦指導方針を奏上した時も、繰り返し確言されている。
「当面ノ作戦ノ重点ヲ印度洋方面ニ指向スル如ク改メマスコトガ大局上極メテ有利ト判断セラレマス」
そしてその攻勢作戦は新編成の第三艦隊が担当するのである。さらにポートモレスビー攻略作戦は、永野の奏上のなかにある。
「南太平洋方面ノ作戦ハ(新編成の)第八艦隊ヲ以チマシテ第十七軍ト協同シ・・・」
第三艦隊と同時に新しく編成された第八艦隊は、井上成美中将指揮の第四艦隊に代わって、ラバウル、ソロモン諸島を中心とする南東方面地域を防衛する任務をもつ。同時に陸軍に協力してポートモレスビー攻略をめざす。そのための艦隊である。
ミッドウェイ敗北以来、亀の子のように首をすくめていた柱島の連合艦隊も、軍令部の大構想に押し出されるようにして動き始める。7月17日、連合艦隊は軍令部へその作戦構想を提示している。
「第三艦隊は9月中旬内地出港可能の見込みで、9月末昭南(シンガポール)に着き、10月初旬から次期作戦を開始しうるであろう」
しかし、本気になって第三艦隊によるインド洋作戦を大々的に展開するつもりであったのかどうか。宇垣参謀長の日記には冴えない文字が並んでいる。
「今後の作戦指導に関し頭を練る。余り暑き為か、参謀連良案も出ざるが如し。アレキサンドリア後方連絡不充分のためか進境を見せず。戦と云うものは蓋し思う様には行かざるものか」(7月21日)
「(モレスビー)作戦を兼ねて(豪州方面の)敵勢減殺作戦を提議したるも、印度洋方面重視の結果おじゃんになれり。若手の云う事も聴くを要するが、戦争を杓子定規に考え過ぎる感あり。さて然らば印度洋に対する如何なる作戦を構想せんとするか、これこそ容易に同意できず」(7月28日)
机上の大構想は容易であるが、実戦部隊としてはインド洋進攻がいかほどの困難を伴うものか。宇垣の筆は苦渋をにじませている。
引用:半藤一利「遠い島ガダルカナル」より

日本側がこうして足元が定まらない中、対する米軍はどうだったのか?
半藤さんはガダルカナル進攻を決意したアメリカ側の動きについても書いている。
たった一本の滑走路しかない飛行場の建設に日本軍が乗り出したという報告を、強烈な危機感をもって受け取ったのは、アメリカ艦隊司令長官兼作戦本部長のアーネスト・J・キング大将である。戦闘的にして強固な意志、そして非情ともいえる決断力を発揮することから、ニトログリセリンと若き日に異名をつけられたほどの闘将。この人が7月4日の最初の報告以来、ガ島にギラギラとした視線を向けた。
反撃の一大基地としての豪州の安全のためには、米豪連絡線の確保は絶対的である。さらにそのためにはポートモレスビー死守は不可欠となる。フィジー、サモアも連絡線上の重要拠点である。しかし、もしガダルカナル島を日本軍が攻略することになれば、これらの確保はいっぺんに危うくなる。ソロモン諸島に確固とした地歩を築くことを、日本軍に許してはならない。それ以前にそれを阻止するあらゆる手段を駆使せねばならないのである。
ところがキング提督にとって難題なのは、大統領ルーズベルトの戦略観である。ミッドウェイで大勝を得たにもかかわらず、大統領は相変わらずドイツ打倒のヨーロッパ第一主義に固執している。
「自分の見るところでは」とルーズベルトはいった。
「太平洋の戦況は維持に成功している。日本軍の進撃はもうないであろうが、出てくるようなことがあったら、それを阻止するだけでいい。それ以上に、太平洋で決定的勝利を得るためには陸軍と空軍だけでは不可能というものだ。海軍の増強が必要だが、それには時間がかかる。それまで待つことが肝要だ」
キングはそんな大統領の機嫌を悪くしないように注意しながら、太平洋方面の積極的な作戦計画を密かに練っていた。当面の目標はソロモン諸島からラバウルへの島づたいの反攻である。7月2日、こうして統合参謀長会議名で第一段作戦案を作成する。その「任務」の項の第一は、
「望楼作戦・・・サンタクルス諸島、ツラギ島およびその接続要点の攻略ならび占領。指揮は太平洋艦隊司令長官。攻撃開始予定日は8月1日とす」
となっていた。
ところが、その直後に、日本軍の小部隊がガ島に上陸、飛行場を造りだしたという敵情報告が飛び込んできたではないか。キングはショックを受けながらも、一面ではほくそ笑んでもいた。
「よかった。よくもまた作戦案の大統領承認を、巧みに言い繕って、俺はとっておいたことか」
攻略・占領目標に直ちに「接続要点」としてガ島が加えられる。7月10日、キングの命令を受けた太平洋艦隊司令長官チェスター・ゴームレー中将に伝えた。対日反攻の歯車は唸りを立てて急速かつ豪快に回り始める。しかし諸準備の都合もあり、8月1日の作戦開始は無理と結論が出され、1週間遅れの8月8日までに作戦は何があろうと敢行されることになった。それは7月17日、日本の連合艦隊司令部が「新編成の第三艦隊が9月中旬に内地から出撃できる」と軍令部に作戦構想を提出したその日にあたる。
こうしてガ島進攻部隊は7月25日、フィジー諸島の小さな島コロに初めて集結する。空母3隻を主力とする米豪海軍連合の75隻を、珊瑚海・ミッドウェイで日本艦隊と戦ったフランク・J・フレッチャー中将が総指揮をとる。ワシントンから着任したばかりのリッチモンド・K・ターナー少将は、上陸部隊の第一海兵師団と、彼らを運ぶ輸送船団を含む南太平洋水陸両用部隊を指揮することになった。
指揮官たちは誰もが比較的落ち着いている。というのも、7月21日に、日本軍が東部ニューギニアのブナ周辺に上陸した、という報が伝えられていたからである。彼らはオーエン・スタンレー山脈を踏破してポートモレスビー攻略をめざすらしい、との情報もある。日本軍の全ての関心がそこに集中している限り、ガ島とツラギ上陸作戦にあるいは奇襲が成立する可能性が出てきたと言える。これは確かに朗報ではないだろうか。
事実、それは朗報と言えるものであったのである。ラバウルにある日本軍部隊の目は、明らかに陸路からのポートモレスビー攻略に集中していた。そしてソロモン方面作戦を担当することになった新編成の第八艦隊(三川軍一中将指揮)は、旗艦の重巡鳥海に将旗をはためかせながら、その頃やっとトラック島に進出したばかりなのである。
三川長官も参謀長大西新蔵少将も、いくらか神経過敏になっている。情報によれば、7月中旬以来米軍機によるガ島偵察、そして建設中の飛行場への爆撃が急に増え出している、という。これは日本の航空兵力が進出する以前に、ガ島の飛行場を占領しようとしている反攻作戦の前兆ではないであろうか。
しかし、内地出撃前の打合せでの軍令部の反応は鈍い、というより冷ややかであった。米軍機跳梁の活発化は、日本軍のMO陸路攻略作戦に対応する防衛強化の一環に過ぎない。本格的な反攻作戦などは早くても本年末、最もありうる可能性としては来年以降になる。軍令部はそう楽観しきって第八艦隊を内地から送り出した。
その上に、これまでソロモン諸島方面を担当していた現地部隊の第四艦隊司令部も、てんから三川中将たちの危惧を認めようとはしなかった。トラック島での引き継ぎの際に、
「米軍のガ島攻略の可能性? その恐れは絶対にない」
と第四艦隊の幕僚たちは笑い飛ばした。
「しかし、情報によれば・・・」
なお食い下がる第八艦隊の参謀に、
「いや、天が堕ちるようなことがあっても、ガ島が堕ちるなんてことはあり得ない」
と確言した。
第八艦隊がラバウルに進出したのは7月30日である。三川長官以下が陸上に移した司令部を整備し始めた頃、米豪上陸部隊は一斉に錨をあげて作戦行動を開始した。
引用:半藤一利「遠い島ガダルカナル」より
こうして1942年8月7日、米豪軍の上陸作戦は開始され、軍属中心のガダルカナルの設営隊は突然戦闘の最前線に身を置くこととなったのだ。
その後も日本側の楽観は改められることなく、敵に関する正しい情報を収集することもなく小刻みに奪還部隊をガダルカナルに送り込み、多くの犠牲者を出す大失態を演じることになる。
後に「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア 」と言われた南洋での戦い。
一木支隊に始まるガダルカナルでの絶望的な戦闘については戦後も時々耳にすることはあるが、それ以上に重要なのはどういう意思決定過程により地獄の戦場が生まれたのかを知ることだと私は思う。
根拠のない楽観主義と失敗を隠蔽する体制。
祖国を遠く離れた南の島に補給もないまま送り込まれた多くの兵士たちがこの地で何を思って死んでいったのか、現地を訪ねることで少しでも感じることができればと考えている。