<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館📕 ポール・ランディ著「ISLAM イスラーム」(ネコ・パブリッシング/ 2004年)からイスラムの歴史を学ぶ #230127

中東旅行に出かける前に、図書館に行って関連する本をまとめて借りてきた。

バーナード・ルイス著「中東全史」、ピエール・サリンジャー、エリック・ローラン著「湾岸戦争 隠された真実」、今井宏平著「教養としての中東政治」、高尾賢一郎著「サウジアラビア」などなど。

まず感じるのは、欧米やアジアに比べてやはり関連本の数が少ないということ。

しかも、飯山陽さんの著書のように冒頭を読んだだけで投げ出したくなるような本が幅を利かせているのも気になる。

そんな中で、まず最初に読み始めたのがポール・ランディ著「ISLAM イスラーム」だった。

副題は『この1冊でイスラームのすべてが見える』。

中東を知るにはまずイスラム教を知らねばならないだろうと考えたからだ。

著者のポール・ランディ氏は、カリフォルニアで生まれサウジアラビアで育った経歴を持つイスラーム文明史の研究者のようだ。

白状すると私は大学で卒論のテーマにイラン革命を選び、イスラム教について調べたことがある。

しかしいくつかの本を読んでもどうも頭に入らず、どうまとめればいいのかわからなくなって後悔した記憶がある。

どうしてこれほど多くの人がイスラムの教えに従って生きているのか、兄弟宗教であるキリスト教とこれほどまでに対立しているのか、無宗教な私には到底理解できなかったのだ。

あの時、イスラム教のイロハは勉強したはずだが、もうほとんど覚えてはいない。

テレビ局に入ってからも、湾岸戦争をはじめイスラム教がらみの様々な出来事に触れはしたものの、その理解は表層から深まることはなく、今もなぜかくも多くのイスラム教徒が世界に溢れ、しかも熱狂的な信者が生まれ続けるのか全く理解できていないのだ。

だから、この機会に再びイスラム教について学びたいと思った。

まずは、その歴史・・・イスラム教の始まりから勉強すべく、著書を引用していく。

Embed from Getty Images

西暦7世紀の初め、ビザンツ帝国とペルシア帝国が旧世界の中心部を支配していた。ビザンツ帝国はローマ帝国を継いだキリスト教の帝国であり、その領土はコンスタンチノープルから大西洋まで広がっていた。コンスタンチン大帝の時代からキリスト教は国教となり、多神教はすでに過去のものとなっていた。

もう一つの大帝国であるササン朝ペルシアの宗教はゾロアスター教であった。この古代的で複合的な宗教は、ユダヤ教と初期キリスト教に対して多大な影響を与えた。ビザンツ帝国もササン朝ペルシアも神権制を取っており、位階制度を持った聖職者の組織が存在した。ゾロアスター教のペルシアとキリスト教のビザンツ帝国は敵対関係を続けており、預言者ムハンマドの時代には、長い戦争によって共に国力を使い果たしていた。

多神教が勢力を保持していた最後の地域は、アラビア半島であった。その内陸部は古典期においては知られざる世界であった。実際、正確な地図が作られたのは1950年代になってからのことである。ここにはアラビア語を用いる遊牧民たちが住んでいたが、彼らがこの過酷な環境を生き延びることができたのは、点在する数少ないオアシスとよく防護された泉ゆえであった。

イエメンは古典期のヨーロッパでは「幸運のアラビア」として知られていたが、モンスーン地帯の周縁に位置しており、その雨ゆえに農耕が可能であった。その山岳地帯には少なくとも紀元前2000年紀初めにまでさかのぼる高度に発展した文明が栄えていた。これらの文明はアラビア語に非常に近い言語を用い、独自の文字システムを持っており、季節的に降る雨をダムに蓄える固有の灌漑制度を発展させていた。これらの文明の最後のものであるヒムヤル文明はイスラームが勃興する直前に終わった。イエメンにはキリスト教が浸透しており、預言者ムハンマドの時代にはマッカ南方に位置するナジュラーンに司教区があった。紅海の対岸にはもう1つのキリスト教王国エチオピアがあった。アラブの伝承によれば、エチオピア軍は570年にイエメンに侵入し、さらにマッカを攻撃しようと企てた。他方、ビザンツ帝国の境界に近い北方では、アラビアの諸部族がキリスト教とユダヤ教の影響を受けており、イスラーム以前の時代の部族の詩人たちの中には、ユダヤ教またはキリスト教の信仰をはっきりと明言している者もいた。アラビア半島の中央部と西部は当時はまだ多神教であった。しかし、ここに小さな一神教の孤島があった。その1つがヤスリブの町(後にマディーナと呼ばれる)で、ここにはユダヤ教の部族が住んでいた。

引用:ポール・ランディ著「ISLAM イスラーム」

すごく懐かしい名前が出てきた。

高校時代、世界史の試験のために必死に覚えた国名である。

その後、実社会に出てから今日まで、こうした歴史は全く役に立つことはなかったが、イスラム教の起源を知るためにはこうした歴史背景をおさえておかないといけないらしい。

こうした国際情勢の中、今日ではイスラム教第一の聖地とされるメッカ(著書では「マッカ」)は意外にも多神教信仰の中心地だったという。

マッカは当時の多神教の信仰の中心であり、周辺の部族が毎年決まった月に巡礼を行なっていた。巡礼の季節には停戦することが定められており、マッカを支配するクライシュ族が安全を保障していた。巡礼の対象はカアバ聖殿であり、黒色の石造りの立方体の建物の中にはイスラーム以前の偶像が収められていた。それはハラムと呼ばれる禁域の中心にあり、禁域では流血が禁じられており、巡礼のシーズンには草を抜くことさえ許されなかった。カアバ聖殿の周辺では、アブラハム(イブラーヒーム)の生涯にまつわる儀礼が行われていた。クルアーンによればアブラハムは最初に唯一神を称えるためにカアバ聖殿を建て、それを「神の家(バイトゥッラー)」と呼んだ。そして、そこにおいて彼は神の命令に服従するために、我が子を犠牲に捧げようとしたのであった。しかし後の時代になると、多神教が再び広まり、カアバにも偶像が導入された。

マッカの東側を通っているのが、イエメンとアラビア半島南部から北のパレスチナとシリアへつながる古代の「香料の道」である。6世紀の終わりには、イエメンで灌漑施設が崩壊したこととペルシアとビザンツ帝国の間の戦争によって、乳香と没薬の貿易は衰えていた。しかし、マッカはビザンツ帝国とペルシアの前線都市との貿易を続けていた。この貿易はマッカに比較的富裕な階級を生じさせた。この階層を構成していたのはクライシュ族の主導的な支族であった。

引用:ポール・ランディ著「ISLAM イスラーム」

このような当時のメッカに生まれたのが預言者ムハンマドだった。

学校ではマホメットという名で教わったが、彼がどんな人物で、どんな経緯でイスラムの教えを広めることになるのかについては全くと言っていいほど知らない。

だから、イスラムの創始者であるムハンマドに関する記述は私にとってとても興味深い。

Embed from Getty Images

イスラームの預言者であるムハンマド・イブン・アブドゥッラーは、ハーシム家と呼ばれるクライシュ族の一支族に生まれた。彼の生誕年は西暦570年であったと、おおむね合意されている。彼の父は早くに亡くなり、母アーミナも彼が6歳のときに亡くなった。彼は一族の長である祖父に育てられ、その死後は伯父のアブー・ターリブに育てられた。彼の同時代人の圧倒的多数がそうであったように、彼は読み書きができなかった。25歳のとき、彼はハディージャという名の富裕な未亡人と結婚した。彼女は隊商貿易をを手がけており、彼は結婚以前に彼女に雇われて交易の仕事に従事していた。それ以外、幼・青年期の彼の生涯についてはほとんど知られていない。40歳になったときに、最初の啓示を受けた。亡くなったのは632年である。

伝承によれば、当時のマッカにはハニーフと呼ばれる一神教徒がいた。彼らは多神教が支配する宗教状況に不満を覚えており、周辺の山々の洞窟において隠遁する習慣があった。ムハンマドは明らかに毎年1カ月間、近くの山の洞窟で瞑想を行なっており、彼がそこにいるときにクルアーンの最初の章句が啓示された。

最初の啓示は西暦610年に、アラビア半島西部のマッカの郊外にあるヒラー山の中腹において起こった。大天使ガブリエル(ジブリール)は手に書物入れを持って現れ、ムハンマドにそれを読むように命じたという。恐れをなしたムハンマドは「読むことはできません」と答えた。ジブリールは命令を繰り返し、ムハンマドはその言葉を復唱することになった。それが今日のクルアーン第96章の冒頭の5節にあたる。

 読め!「創造なされた汝の主の御名によって」

 かれは、凝血から人間を創られた」

 読め!「汝の主はもっとも尊貴なお方、

 かれは筆によってお教えになった方、

 人間に未知なることをお教えになった」

       (クルアーン第96章1-5節)

この驚異的な体験に驚いて自らの五感を疑ったムハンマドは、家に戻ると妻ハディージャに救いを求めた。彼女は夫の話を詳しく聞いた。果たしてこの啓示は天使がもたらしたものであろうか、それとも悪魔の業なのであろうか。彼女は、ヒラー山での出来事が現実であり、その啓示が実際に神からもたらされたものであると確信すると、夫を安心させた。その後、啓示は断続的に継続した。その内容は、神の唯一性を主張し、人類に多神教を捨てるように求め、教えに従わない者に恐るべき罰が下るであろうことを警告した。これらの最初期の啓示は、短く濃密な言葉で、強いトーンで語られている。唯一神(アッラー)だけが神である。唯一神には、いかなる同格者もありえない。神は、すべての人類を等しく扱う。人間はみな唯一神に帰依し、間もなく訪れる終末の前に悔い改めなければならない。この「帰依する」という動詞から、イスラーム、すなわち「(神の意思への)服従」という名詞が派生している。

しばらくの間、ムハンマドは下される啓示を、自分の一族と親しい友人にだけ打ち明けた。妻ハディージャに次いで信仰を受け入れたのは、彼の従兄弟で、のちにムスリム共同体の第4代正統カリフ(ムハンマドの後継者)となるアリーであったという。続いて彼の解放奴隷であり養子にもなったザイドが入信した。他の初期入信者の中にはアブー・バクル、ウマル、ウスマーンなど、ムハンマドの没後にイスラーム共同体の指導者となった人々が含まれている。

最初の啓示が始まってから3年後、ガブリエルは公然と布教するようにとの指示を伝え、ムハンマドは公に多神教を批判し始めた。新しい信徒たちが入信し、イスラームについての情報がアラビア半島全域に広まり始めた。クライシュ族の指導者たちは恐れをなした。というのは、彼らはカアバ聖殿と禁域の保護者であり、新しい宗教に反対しているわけではないとしても、自分たちの権威と自分たちが支配している聖殿からの収入を失うことを恐れたのであろう。

ムハンマドに従う者たちは激しく迫害され、その一部は紅海を渡って、キリスト教徒のエチオピア王のもとに庇護を求めた。ムハンマド自身は伯父のアブー・ターリブによって部族的に保護されていたが、彼の信奉者の中でも保護のない社会的な弱者は迫害で非常に辛い目に遭った。たとえば、のちに礼拝の時限を告げるアザーン係を務めるエチオピア人ビラールは、奴隷であったため、激しい迫害を受けた。ビラールによって告げられたアザーンは、今日まで変わらぬ言葉として次のように伝えられている。

 アッラーは偉大なり!

 私は「アッラーのほかに神なし」と証言する。

 私は「ムハンマドはアッラーの使徒なり」

 と証言する。

 礼拝に来たれ! 成功に来たれ!

 アッラーは偉大なり!

 アッラーのほかに神なし!

引用:ポール・ランディ著「ISLAM イスラーム」

Embed from Getty Images

預言者ムハンマドが最初の啓示を受けたとされるヒラー山は、メッカの郊外にある岩山で、イスラム教徒にとっては大切な巡礼の場所となっているという。

とはいえ、キリスト教にしてもイスラム教にしても、信仰心の薄い私のような人間には素直に「神の啓示」とやらを受け入れることはやはり難しい。

日本のような自然豊かな土地に生まれた者にとって、あらゆるものに神が宿るという多神教の方が受け入れやすい気もする。

確かに荒涼とした荒地にぽつんと一人で立ってみれば、人間の小ささを感じ、唯一神の存在をイメージしやすくはなる。

だが、他者の価値観を全否定するような一神教の厳しい教えというのは、どうもやっぱりしっくりと来ないのである。

しかし、世界中を見回してみれば、キリスト教とイスラム教は今日の二大宗教であり、世界の半分以上がこの2つの一神教に色分けされているのだ。

こうして生まれ故郷のメッカで激しい迫害を受けたムハンマドとその信者たちは安住の地を求めて移住することになる。

それが「ヒジュラ(聖遷)」であり、移動した先がイスラム教第二の聖地メディナだった。

ムハンマドが一神教の布教を続け、多神教の神々を攻撃することをやめなかったため、マッカにおける彼の位置は次第に不安定なものとなった。やがて、伯父のアブー・ターリブが亡くなり、部族の保護が失われることになった。アブー・ターリブに続いてまもなく、彼に心の安らぎを与える強力な支持者であった愛妻ハディージャも亡くなった。ムハンマドはマッカ近郊の山岳地帯にあるターイフの町に移住することを考えたが、ここも多神教の信仰を保持する地で、その信奉者たちは彼の受け入れを拒絶した。同じ頃、ムハンマドは、ヤスリブの町からやってきたアラブ部族の者たちと出会った。彼らは、イスラームの教えに感銘を受け、必要なら保護を提供すると申し出た。マッカ在住の信徒たちの安全を気遣ったムハンマドは、マッカの北方およそ350キロのところにあるオアシスの町ヤスリブに、70人ほどの男女の信徒を移り住まわせた。

西暦622年7月16日の夜、ムハンマドとその盟友アブー・バクルは、ヤスリブに向けてマッカを出立した。マッカの人々は彼らを殺害すべく、追撃隊を送った。二人はとある洞窟(サウルの洞窟)で夜を過ごしたが、眠っている間に蜘蛛の巣が洞窟の入り口を覆った。追撃隊は蜘蛛の巣が張っているのを見て、その洞窟をそのまま通り過ぎたため、ムハンマドとアブー・バクルは追撃をかわして、無事にヤスリブに到着することができたという。

マッカからのこの脱出行は、移住を意味する「ヒジュラ」の語で知られている。それゆえ、622年にマッカからヤスリブに移住した者たちは「ムハージルーン」すなわち「ヒジュラ(移住)をした者たち」と呼ばれる。イスラームの伝承には、彼らの名前が敬意をもって記されている。彼らこそが、最初のムスリム共同体の中核となった者たちであり、預言者の言行を伝える主要な情報源となった。

ヒジュラによって、それまで迫害される少数派の宗教だったイスラームは、組織化された自立的なイスラーム共同体へと転換した。ムスリムたちはごく初期から、ヒジュラが歴史的転換点となったことを自覚し、622年がイスラーム暦(太陰暦)の起源と定められた。そのため、この暦は「ヒジュラ暦」として知られている。

引用:ポール・ランディ著「ISLAM イスラーム」

こうしてイスラム教の起源を勉強すると、初めて第一の聖地メッカと第二の聖地メディナの意味が理解できる。

メッカは預言者ムハンマドの生誕地であり神の啓示を受けた場所、そしてメディナは迫害を受けたイスラームが組織として力を得た場所なのだ。

Embed from Getty Images

そしてこのメディナ(ヤスリブ)の町で、イスラム教は今日まで続くその体系を整えていく。

最初期のイスラームの政治文書は「マディーナ憲章」として知られる。ヤスリブの町は、ヒジュラ後、「マディーナ・アン=ナビー」すなわち「預言者の町」、略してマディーナと呼ばれるようになった。ムハンマドが居を定め、最期まで住んだ町だからである。マディーナ憲章は、その原文がイブン・イスハークによる預言者伝に収録されている。この文書は、移住者たちとオアシス都市マディーナの居住者との関係を律するものであった。マッカからの移住者たちを迎え入れ、イスラームに入信した者たちは、「アンサール」すなわち「援助者たち」と呼ばれた。援助者たちと同様に、彼らも預言者の言行を伝える重要な情報源となっている。ユダヤ教の諸部族も、ウンマすなわち共同体の一部をなし、ムスリムたちと同様に軍事費を負担し、外敵と戦うことを求められた。文書の主要な部分は、債務および戦利品の分割に関する規則というべきものである。マディーナのムスリムたちは、マッカのクライシュ族からの脅威にさらされ、戦時状態にあった。この町では、すべての紛争は神とムハンマドに委ねられるものとされた。

この文書は、部族的な過去との根本的な決別を示している。部族的な忠誠心は、ウンマ(共同体)への忠誠心に取って代わられた。集団を規定するものはもはや血縁ではなく、信仰の絆となった。すべてのムスリムは、出自が何であれ、平等であった。この新しい現実を受け入れることのできない者は、追い出されることになった。ユダヤ教の諸部族との関係は、急速に悪化した。1つの部族は、ヒジュラの2年後に、ムハンマドが預言者であることを疑って追放された。さらに2年後、もう1つの部族が彼を暗殺しようとして、追放された。最後に、627年、マディーナの最後のユダヤ教部族は、敵(クライシュ族)と内通したために男性は処刑され、女性は奴隷とされた。

この頃、伝承によれば、ムハンマドは、ペルシア、ビザンツ帝国、エチオピアの統治者たちおよびエジプト総督に対して書簡を送り、イスラームへの入信を勧め、また拒絶した場合の結末について警告を発した。

引用:ポール・ランディ著「ISLAM イスラーム」

イスラム教が単なる宗教というよりも「法」を重んじるイメージがあるのは、こうした誕生当時の時代背景が関係しているんだと読みながら感じた。

ムスリムは生き残りをかけて外敵と戦い、強力な内部統制によってムハンマドの独裁体制を築いたのだろう。

神の下での平等を謳いながらも、どこか恐怖を感じさせるのは、イスラムが戦いの中で生まれた宗教だからなのかもしれない。

Embed from Getty Images

イスラム教といえば、一夫多妻を認めるという特異な側面があるが、これも初代のムハンマドの人生と関係しているらしい。

彼には何人もの妻がいた。

マディーナに移住した直後、ムハンマドは盟友アブー・バクルの娘アーイシャと結婚した。アーイシャは預言者の愛妻となり、彼の臨終に立ち会ったのも彼女であった。夫に直接教えを受けた彼女は、多くの重要なハーディス(言行録)、すなわち預言者ムハンマドの行ないや言葉を伝えている。ムハンマドの死後、アーイシャはしばらくの間、政治的な役割を担い、「ラクダの戦い」にも参加した(アーイシャがラクダに乗って参戦したため、この名がある。第4代正統カリフ・アリーに対する反乱)。ムハンマドは何度も結婚している。そのいくつかは、同盟のための政略結婚であり、いくつかは夫を亡くした寡婦の救済であり、いくつかは愛ゆえの結婚であった。彼は盟友ウマルの娘と結婚し、また盟友ウスマーンには自分の娘を結婚させた。2人はのちに、それぞれ第2代、第3代の正統カリフとなった。ハディージャとの間に生まれた末娘のファーティマは、ムハンマドの従兄弟で、第4代正統カリフとなったアリーと結婚した。

引用:ポール・ランディ著「ISLAM イスラーム」

政略結婚によって自分の身内を増やし、その身内で権力をたらい回しにすることによって子孫の繁栄を築こうとする。

こうして見ると、預言者とはいえ、ムハンマドは単なる権力者の典型にも思えてくる。

そしてムハンマドは、かつて自分たちを迫害した生まれ故郷メッカの征服に乗り出すのだ。

西暦624年、ムスリムたちはマッカ勢および彼らと同盟する部族の軍勢を、バドルの戦いで破り、多くの戦利品を得た。これによって、周辺部族に対して、ムスリムの勢威は大いに高まった。マッカ勢は翌年、再び攻勢をかけ、ウフドの戦いにおいてムスリムたちを破った。しかし、この敗北によっても信徒たちが落胆しなかったのは、ムハンマドの指導力と権威の賜物であった。マッカ勢は627年にマディーナを40日間にわたって包囲したが、結局は撤退せざるを得なかった。これが「塹壕の戦い」として世に知られる戦いであった。サルマーン・ファールスィーという名のペルシア人のイスラーム改宗者が、マッカ勢の騎兵の攻撃を防ぐために深い塹壕を掘ることを献策し、この作戦が功を奏した。

ムスリムたちは反攻し、マッカへ進撃した。クライシュ族はフダイビーヤの地で和約を結ぶことで、窮地を脱することができた。この和約によって、ムスリムたちは翌年3日間マッカに来て巡礼を行なう権利を得た。10年間の休戦も合意された。マッカからの隊商はムスリム側の領土を自由に通過することが許され、マディーナのイスラーム共同体は自立的で正当な国家として認知された。

フダイビーヤの和約にしたがって、マディーナのムスリムたちは翌年マッカに赴き小巡礼を遂行した。この最初のイスラームの巡礼の際に預言者ムハンマドが行なった祈りや行為が、その後の巡礼の儀礼の範となった。

630年、ムスリムたちは悠々とマッカを攻略した。クライシュ族の裕福な指導者であったアブー・スフヤーンを筆頭にマッカ勢は降伏した。このとき、ムハンマドはカアバ聖殿の偶像をすべて破壊し、聖殿に原初のアブラハム的な純粋さを取り戻した(カアバ聖殿は、もともとアブラハムによって唯一神信仰のために建立されたとされる)。

アブー・スフヤーンの息子ムアーウィアは、のちに最初のシリア総督となり、さらにウマイヤ朝の初代カリフとなる。ムハンマドの長年の敵対者のなかから、アムル・イブン・アース、ハーリド・イブン・ワリードもイスラームに入信した。これは、イスラームにとって重大な出来事であった。数年のうちに、この2人の武将がイスラーム軍を率いて、ビザンツ帝国軍を破り、ササン朝ペルシアを滅ぼすことになるからである。マッカ征服までイスラームの激しい敵対者であったクライシュ族の人々が、新たにイスラーム共同体のなかで出世することは、古くからの信徒たちの間で自ずと不満が生じる原因となった。ムハンマドがそのような不満を鎮めることができたのは、彼の指導者としての技量と宗教的権威を示す者であろう。イスラームが成功し、その敵対者たちに対して勝利をおさめるためには、能力ある支持者を可能な限り増やす必要があったのである。

マッカ制服は戦闘もなく行なわれた。無抵抗で降伏したため、略奪は禁じられ、処刑されたのはごくわずかであった。これが、イスラーム軍に抵抗しなかった敵軍に対する法的処置の先例となった。

マディーナとマッカの統治が安定すると、イスラーム共同体に対する主要な問題はアラビア半島の諸部族だけになった。そのなかには、クライシュ族と長年同盟していた部族もあり、逆にすでにムハンマドに忠誠を誓っている部族もあった。当時の遊牧民の部族間の同盟は、指導者間の個人的な盟約に基づくもので、盟約を行なった指導者が亡くなると同盟関係も消滅するのが慣習であった。諸部族は、少なくとも名目上はイスラームに改宗したり、新たな同盟関係に入ったりした。いくつかの部族は軍事的に敗北し、イスラームの統治下に入った。

引用:ポール・ランディ著「ISLAM イスラーム」

こうした初期のイスラムの歴史を知れば知るほど、イスラム教徒たちが武力を重んじる現状が多分に宗教上の教えと結びついていることが理解できる。

同じ神を信じているにもかかわらず、キリスト教とはなかり趣を異にしているのも信仰の対象となっているイエスとムハンマドの物語に由来しているように感じる。

Embed from Getty Images

こうして神の啓示と武力によってイスラム共同体を作り上げたムハンマドはメッカ征服の2年後、この世を去る。

632年6月8日、マッカ征服の2年後、病に倒れたムハンマドはほどなくして没した。彼の死は、啓示と神の直接的な導きの時代が終了したことを意味した。イスラーム共同体は突然、その預言者であり、指導者であり、友であり、導き手であり、相談相手である人物を失った。

ムハンマドは昼頃亡くなった。どうすべきか、誰にもわからなかった。彼が死んだことを信じない者さえいた。やがて、ムハンマドのもっとも親しい盟友であり、彼の死を看取った愛妻アーイシャの父でもあるアブー・バクルが立ち上がり、神の使徒が息を引き取った小さな家の前に集まった群衆に向かって、言った・・・「ムハンマドを信仰する者がいるならば、彼はすでに亡くなったことを知れ。だが、神を信じる者たちよ、神は永遠の生を持ち、決して死ぬことはない!」

その夜、ムハンマドの盟友たちと近親者が、共同体の後継者について検討するために集まったことであろう。そのなかには、アブー・バグル、ウマル、ウマイヤ家のウスマーン、ムハンマドの従兄弟のアリーなどがいた。この4人はいずれも、ムハンマドと血縁または婚姻関係で結ばれていた。討議のはてに、ウマルがアブー・バクルの手を取り、彼がムハンマドの後継者として共同体を率いることを誓った。「後継者」を意味するアラビア語はハリーファ(カリフ)であるが、これは文字通り、誰かの後に残ってその者の場所を占める者を指す。ムハンマドが最期の病床にあった際に、アブー・バクルがムハンマドに代わって集団礼拝の導師を務めたことは、後継者選出の決定的な要素であった。

引用:ポール・ランディ著「ISLAM イスラーム」

こうして預言者ムハンマドの生涯を辿ってみると、今に伝わるイスラム教の教えの大枠が見えてくるように感じる。

多神教を否定し、偶像を否定し、法によって信者を律し、敵対する者に対しては戦いを辞さない。

巡礼も一夫多妻制も全ては初代のムハンマドの時代に生まれたものなのだ。

あれから1400年が経っても、過激なイスラム原理主義者は当時の教えを忠実に守ろうと主張する。

だから、我々のような異教徒から見れば、時としてイスラム教徒が異質であり危険な存在に見えてしまうのだろう。

そこには大きな時間軸のずれが存在するのである。

著書には、ムハンマドの死後のイスラム世界についても書かれているが、ごく簡単になぞっておきたい。

世界史が得意だった私は、大学入試の頃にはかなり覚えていたはずなのだが、今ではほとんど頭の中に残っていない。

西暦632年6月8日にムハンマドが没したとき、彼には跡を継ぐ男児がいなかった。イスラーム共同体の指導者として、後継者となるべき候補はおよそ4人いた。アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、そしてアリーである。結局のところ彼らが順に後継者(ハリーファ)としてムハンマドの跡を継ぐことになった。彼らは「正統カリフ」として知られている。4人全員がムハンマドから直接に啓示を継承し、彼の模範に従って生きたからである。

正統カリフの時代、ムスリム軍の快進撃が続き、領土を次々に拡大していく。

【アブー・バクルの治世】 

  • アラビアの諸部族を統合
  • ビザンツ帝国、ペルシア帝国への遠征を開始

【ウマルの治世】

  • 638年、エルサレム入城。キリスト教やユダヤ教に寛大に接し、信仰の自由と自治を認めた
  • 642年、全ペルシアがイスラーム国家の支配下に
  • 同年、アレキサンドリア陥落、エジプト征服

【ウスマーンの治世】

  • リビア、アルメニアを征服
  • クルアーン(コーラン)の正典を確立

【アリー vs ムアーウィア】

こうして急速に領土を拡大したイスラーム国家だが、ウスマーンが自らの一族であるウマイヤ家を厚遇、これが4代目カリフの選出をめぐり今日まで続くスンニ派とシーア派の対立を生み出した。

ウマイヤ家の者たちは、シリア総督ムアーウィアを含めて、アリーを新カリフとして認めることを拒んだ。彼らは、アリーの支持者たちがウスマーンの殺害に関係したのではないかと嫌疑をかけたのである。雌雄を決すべく両者の紛争は、657年にはユーフラテス河畔のスィッフィーンの戦いに至った。アリーとその支持者たちは、ムアーウィアとその強力な軍隊と対決した。しかしアリーはムスリム同胞の血が流されることを好まず、互いの対立を調停に委ねることに賛同した。この調停が結果としてムアーウィアに有利に働くことになる。

アリーの支持者たちは、アリーがムハンマドの没後ただちに後継者となるべき指導者であったのに、さらに3代にわたって不当にも排除されたと信じていた。イスラームがスンナ派とシーア派に分かれたのは、このスィッフィーンの戦いに端を発する。スンナ派すなわち「スンナ(預言者慣行)とジャマーア(団結)の民」は、カリフは共同体の統治者としてだけムハンマドを後継するものであり、そのカリフはムハンマドの属していたクライシュ族の中から選ばれるべきだと考えている。これに対してシーア派(「アリーの党派」が語源)は共同体の指導者を「イマーム」と呼び、そのイマームは公選ではなく、ムハンマドの子孫の中から指名されるべきだと信じている。彼らの主張によれば、イマームは単なる政治指導者ではなく、精神的な知識と聖なる法を正しく解釈する能力をムハンマドから相続している。

もう1つの分派がスィッフィーンでの交渉の中から生まれた。彼らはアリーとムアーウィアの両方を拒んだ人々である。彼らは、健全な心身を持つ敬虔なムスリムであれば誰でもカリフになり得ると考えた。これらの者は「ハワーリジュ派」すなわち「離脱者」と呼ばれた。彼らは急進的で平等主義的な分派を形成し、その後長らくムスリム世界に混乱をもたらした。

661年、アリーはハワーリジュ派の一人にクーファで暗殺された。クーファの人々は彼の長男ハサンをカリフと宣言したが、間もなくハサンは自らの権利をムアーウィアに譲った。ムアーウィアはその時すでにカリフとして広く認められていたからである。

【ウマイヤ朝】

  • ムアーウィアは首都をダマスカスに置く
  • ムアーウィアは息子ヤズィードを後継者とするが、シーア派はこれを認めず、アリーの次男でありムハンマドの孫であるフサインに実力でカリフとなることを要請する。しかし、ヤズィードの軍隊はフサインとその信奉者たちをカルバラーで襲い、フサインの目の前で10歳の甥、2人の息子、6人の兄弟を殺害、最後にフサイン自身も殺した。
  • 683年、ウマイヤ朝の軍隊がアラビア半島に侵入、マディーナを略奪、マッカを攻撃しカアバ聖殿が炎上した
  • カリフ・アブドゥルマリクの時代、ビザンツ型の行政機構や諸制度を創出。アラビア語を行政言語とし、郵便制度を創設、最初のイスラーム金貨を鋳造した。チグリス・ユーフラテス流域の灌漑用運河を再建し、イラクの湿地帯にインドの水牛を導入。彼の統治下でムスリムの軍隊は東は中国の国境地帯、西は大西洋にまで進んだ。
  • 710年にはジブラルタル海峡を越え、713年にはスペインのほぼ全土がムスリムの支配下に入る。さらにピレネー山脈を超えてリヨン、ウィーンも略奪するも、732年ポアティエの戦いでフランク王国のシャルルマーニュ(のちのカール大帝)に撃退された。
  • 後世の歴史家が「正統カリフ」と同等と認める唯一のウマイヤ朝カリフ、ウマル・アブドゥルアズィーズは、イスラームに改宗した非アラブ人の地位をアラブ人と同等に扱うよう改革に乗り出すが、結局改革は成功せず、支配王朝に敵対するシーア派や非アラブ人ムスリムの諸グループが結集し、ついにウマイヤ朝は滅びた

【アッバース朝】

  • 権力の中心はシリアからイラクに移り、新しい首都バグダード(ペルシア語で「神の贈り物」を意味する)が建設される。バグダードは世界最大の最も豊かな都市となり、それと比肩しうるのはビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルと唐の首都長安だけだった。
  • ウマイヤ朝のアラブ帝国を多民族的なイスラーム帝国に変容させる。政府はもはや「ムルク」すなわち世俗的な王国ではなく、カリフが支配する神権制であり、カリフは「地上における神の影」というスタイルをとった。帝国を統合する要素はイスラームであり、すべての信徒は平等とされた。
  • アッバース朝社会ではペルシア人をはじめとする非アラブ・ムスリムが支配的であった。
  • アッバース朝のカリフたちは全員がムハンマドの叔父アッバースの子孫でハーシム家に属していた。絶対君主であり、その臣民の生殺与奪の権を握っていた。民衆から遠く離れ、姿を現すのはただ儀礼的な機会や金曜の礼拝を先導するときと、主要な戦役に軍隊を率いる場合だけだった。
  • イスラームの海運は地中海とインド洋を制覇し、ムスリム商人たちの基地がインド西部、東アフリカ、インドネシア、中国などの港湾都市に確立され、イスラームは次第にアッバース帝国の版図を超えて広がった。サハラ砂漠を縦断する貿易ルートが開拓され、アフリカや中央アジアから産出される金・銀をもとに厳密に管理されたデイルハム銀貨とディナール金貨が鋳造され流通した。新しい概念、テクノロジー、植物、技術が交易によって帝国全体に広がり、工芸が発展、社会サービスも充実し、当時世界最高峰の科学技術が花開いた。
  • 軍隊は主としてペルシア人をはじめとする非アラブ人、特に後にはトルコ人によって形成されていた。中央アジアで捕らえられたトルコ人軍人奴隷たちは、アッバース朝の軍隊の大半を構成した。極めて優れた戦士であり、彼らは軍隊にとって不可欠であったものの、彼らを統御することは困難であった。やがて彼らは自分達の意志によってカリフを擁立したり廃位したりするようになった。
  • 9世紀に入るとカリフ制は衰退し、帝国の各地に独立地方王朝が次々に生まれた。

【ファーティマ朝と暗殺教団】

  • シーア派6代イマーム、ジャアファイ・サーディクが765年に没すると、シーア派が分裂。後継のイマームに指名されたのは次男のムーサーだったが、長男のイスマーイールを正統なイマームとする一派がファーティマ朝を創建する。ファーティマは、シーア派の祖とされるアリーの妻(ムハンマドの娘)の名前である。
  • イスマーイール派はイエメンに本拠地を確立し、そこから北アフリカに活動員を送り、ベルベル人の間で強力な軍隊を作った。903年、カイラワーン(現チュニジア)においてウバイドゥッラー・マフディーを最初のファーティマ朝カリフとして擁立、破竹の進撃で北アフリカを征服し969年ついにエジプトを征服、新首都カイロの建設を始めた。
  • カリフ・アズィーズの時代、エジプトはイスラーム世界で最も豊かで安定した国となり、海軍は地中海を支配し、インド航路にも乗り出しバグダードから貿易の実権を奪った。
  • アズィーズの後継者ハキームは、ユダヤ教徒やキリスト教徒を激しく迫害、女性たちが家を離れることを厳しく禁じた。急進的グループの一部は彼を神の化身と考え、今日もレバノンとシリアでトゥルーズ派として生き残っている。
  • カリフ・ムンタシィルの治世で最高潮に達したファーティマ朝は一時バグダードを占領したが、やがて権力は衰えた。
  • サラディンのアイユーブ朝によってシーア派のファーティマ朝は滅びたが、イスマーイール派の影響は「暗殺教団」として残った。1094年にカリフ・ムスタンスィルが没した時、跡を継いだ息子ではなく兄のニザールを後継者とみなす信奉者が急進的運動を作り出し、暗殺戦術によってセルジューク朝の支配を不安定化させようとした。彼らニザール派は十字軍からも「アサシン」(暗殺者)として知られるようになり、彼らはテロ戦術を用いて、多くの場合スンナ派の指導者たちを狙った。その拠点はイラン北部のアムラート山にあり、そこからスンナ派の重要人物たちに暗殺者が送り込まれた。彼らは2度サラディンの命を狙っている。この分派は指導者ラシードゥッディーン・スィナーン、俗に言う「山の長老」に率いられていた。

【セルジューク朝】

  • 11世紀のイスラーム世界にトルコ系のセルジューク朝が登場する。セルジューク家はもともとカスピ海とアラル海の北方に広がる草原地帯で暮らしていたトルコ系のオグズ族に属し、トルコ語を話す騎馬術と弓術の達人たち。7世紀ごろからイスラーム軍がこの地に入り、トルコ系の人々が軍隊に雇われるようになる。トルコ系司令官の何人かは力を蓄えて自ら王朝を開いた。
  • 960年頃、オグズ族の集団がシャーマニズムの信仰を捨ててスンナ派のイスラームに入信。半ば伝説的な始祖はセルジュークという名であった。セルジュークの子孫たちはバグダードを占領していたイラン系シーア派王朝のブワイフ朝やファーティマ朝と争う。
  • 1058年、アッバース朝カリフはトゥグリル・ベクを東西の王として、帝国の軍事権を委任した。その称号は「スルターン」すなわち「実権者」であった。この統治権力とそれに伴うイスラーム世界を外敵および内部分裂から防御する責任は、この時から1924年にカリフ制が廃止されるまで、トルコ語を話す統治者たちの手中にあり続ける。
  • セルジューク朝はビザンツ帝国と戦い1071年のマラズギルトの戦いで勝利、皇帝を捕虜とした。この勝利によって当時アナトリアと呼ばれた小アジア地域にトルコマーンの諸部族が定住することになった。
  • 1095年、教皇ウルバヌス2世が「神の停戦」を宣言し、キリスト教諸国の指導者たちに互いの争いを収めて聖地を回復するための十字軍に団結するよう訴えた。キリスト教軍は全ヨーロッパから集まった義勇兵、貴族の息子、傭兵、王、冒険家たちからなり、1099年エルサレムの攻略に成功した。この頃には、セルジューク朝は王位継承をめぐる内紛や東方からの新たな遊牧民の侵入などで衰退しつつあった。十字軍は東地中海沿岸に公国を作り、アレッポなどの町を作った。ムスリム側も反撃に転じ、第2次十字軍を撃退。この時十字軍と対戦した指導者の一人がトルコ系司令官のザンギーだった。彼の息子ヌールッディーンはアラブの年代記において公正な統治者の模範として描かれ、シリアとイラクを統合し十字軍の前進を阻んだ。

【アイユーブ朝】

  • ヌルッディーンには2人の信頼するクルド人将軍がいた。シールクーフとアイユーブで、アイユーブの息子が史上最も有名なアラブ世界の統治者となったサラーフッディーン、いわゆるサラディンである。十字軍がエジプトに手を伸ばそうとした時、送り込まれたサラディンはファーティマ朝に代わってアイユーブ朝を樹立した。
  • ファーティマ朝カリフ制を廃止し、金曜礼拝の際にアッバース朝カリフの名が唱えられるよう命じた。ここにおいて、スンナ派イスラームが再びエジプトの公式の教えとなった。
  • エジプトを本拠地としてサラディンは十字軍に攻勢をかけ、1187年にパレスチナに侵攻、エルサレムなどの聖地は再びイスラーム側の手に落ちた。
  • サラディンはエジプトだけでなく、イエメン、北アフリカ、パレスチナ、シリア、アルメニアを統治し、貿易の回復を奨励、インド航路も彼の支配下に置かれた。
  • サラディンの名は、中世ヨーロッパにおいて騎士道と勇敢さの手本となり、しばしばリチャード獅子心王の親友として描かれている。実際、騎士道の伝統の多くは、紋章学を含めて十字軍からの帰還者たちによってヨーロッパにもたらされた。

【マムルーク朝】

  • 13世紀、イスラームの中心部はモンゴル軍によって侵略され破壊された。バグダードでは住民を虐殺し、アッバース朝カリフとその家族も全員殺した。古くからの灌漑施設も徹底的に破壊された。1260年、このモンゴル軍を初めて破ったのがマルムークたちである。「マムルーク」とは「所有された者」を意味し、軍人奴隷を指した。多くはトルコ系、モンゴル系、そしてコーカサスに住んでいたチュルケス系の系譜だった。
  • マムルーク朝は2つの王朝から成っていて、最初はバフリー・マムルーク朝で、1260年にバイバルスがアイン・ジャールートでモンゴル軍に勝利した後に権力を握り1382年まで続いた。それを後継したブルジー・マムルーク朝は定型的なチュルケス系の出自であり、オスマン朝によって1517年に敗北させられるまで続いた。
  • バイバルスはマムルーク朝の君主の中でも最も偉大な人物で、バイバルス伝として伝説化されている。十字軍国家に対して多くの遠征を行い、その後継者たちが最終的に十字軍国家をイスラームの地から放逐する道を開いた。彼は何度もモンゴル軍の攻撃を跳ね返したが、同時に自分の故郷である黒海北部のキプチャク・ハーン国と使節を交換した。ヨーロッパの君主たちとも商業条約を結び貿易を奨励し多額の税収をあげた。
  • マムルーク朝はエジプトとシリアを統合して1つの国として支配し、カイロ、エルサレム、ダマスカスには今日でもマムルーク朝の優れた建物が点在している。ダマスカスにはバイバルスの壮麗な墓廟が建っており、彼の名を冠した学院とモスクがカイロに現存している。モンゴル軍によるバグダードの破壊とチグリス・ユーフラテス渓谷の荒廃は、アラブ世界の中心をイラクからエジプトへと変更し、商業と学問の中心地はバグダードからカイロへと移った。

【オスマン朝】

  • モンゴルの侵略はアナトリアのセルジューク帝国に修復不可能なほどの損害を与えたが、トルコ系の遊牧民族はそこに小国をいくつも作りビザンツ帝国との戦争を繰り広げた。これらの小国の中で最も西に位置していた王朝が13世紀末にオスマンによって樹立されたオスマン朝だった。
  • オスマン朝は最初ブルサを攻略しそこを首都とし、1354年にはオスマンの息子オルハンがヨーロッパに侵攻、ガリポリを攻略する。これをきっかけに、トルコ系遊牧民がボスポラス海峡を越えて移住し、ブルガリアからバルカンへと支配地を拡大していった。
  • この時期にオスマン朝の精鋭軍イェニチェリ軍団が創設される。彼らはイスラームに改宗したキリスト教徒の捕虜からなっており、スルタンの直轄下に置かれた。
  • こうしてヨーロッパで勢力を伸ばしたオスマン朝はアナトリアのトルコ系王朝を併合し、アジア・ヨーロッパをまたぐ帝国に成長していく。一時はモンゴルの後に勃興したティムールに敗れ衰退したものの、後継者のもとで復活を遂げる。
  • 1453年、オスマン朝はついに難攻不落だったキリスト教徒の都コンスタンチノープルを陥落させる。当時ヨーロッパで発明された大砲や銃をいち早く導入し洗練された砲兵隊を組織した結果だった。コンスタンチノープルに入城した征服王メフメトは、聖ソフィア寺院をモスクに変え、町の名をイスタンブルとしてオスマン朝の首都とした。
  • 1512年王位についたセリムは、イランのサファヴィー朝やエジプトのマムルーク朝と戦い、1517年、その強力な火器によってマムルーク朝を滅ぼした。この時から、セリムはマッカとマディーナの2聖都の守護者となり、イランのサファヴィー朝を除く全てのイスラーム世界からカリフ国家の後継者と認められた。
  • セリムの跡を継いだスレイマン大帝は中東を安定させると再びヨーロッパに軍を進め、ハンガリーを攻略してウィーンに迫った。大帝の死後、1571年のレパントの海戦で初めてヨーロッパに敗北を喫したが、1年のうちに艦隊は再建した。
  • 16世紀のヨーロッパの観察者たちは、オスマン帝国を近代国家の模範とみなしていた。すなわち絶対君主が統治する効率的な軍事組織としての近代国家である。そこには世襲の貴族階級はなく、能力主義によって優れた人材が登用される仕組みがあった。オスマン朝はキリスト教徒やユダヤ教徒に対して非常に寛容で、科学やテクノロジーにおける西洋の技術革新を受け入れていた。
  • しかし、巨大な軍事組織を維持することの財政負担から激しいインフレが起こり、経済の悪化と近代化の中でこれに反対する反動的な厳格主義が広がる。ある民衆的宗教運動は、預言者ムハンマドの時代以降に導入されたすべての新規なものを“逸脱”して拒絶した。彼らは神秘信教団や音楽、踊り、数学、科学、哲学、コーヒー、タバコといったすべてのものに反対した。
  • 17世紀になるとスルタンの権力は衰え、イェニチェリ軍団も世襲制になり、戦闘能力は低下していった。1683年のウィーン包囲以降3回に渡りハプスブルグ朝と交戦するが全て敗れた。バルカン半島の大半はハプスブルグの支配下に入り、多くのムスリムがその下で暮らすようになる。18世紀にはロシアもオスマン領を蚕食し、3つの戦争を通じて領土を失い黒海貿易をロシアに奪われる。アラビア半島ではムハンマド・アブドゥルワッハーブがイスラーム改革運動を始め、聖典クルアーンとスンナ(預言者慣行)に認められていないすべての行為を排除すべきと主張し、サウード家と同盟を結んだ。さらに1798年にはナポレオンがエジプトに侵入する。
  • 19世紀、マフムト2世がイェニチェリ軍団の解体やヨーロッパ式の内閣の導入など改革を推し進めた。伝統的なターバンに変わりトルコ帽を着用するようになったのも改革のシンボルだった。しかし、ヨーロッパで激しさを増す帝国主義の争いの中で、オスマン朝は列強によって分割され、第一次大戦の敗戦によって完全に消滅するが、実際には1875年にはすでに事実上破産していた。
  • 第一次大戦が終わった翌年、権力を握った若いトルコ人将校ムスタファ・ケマルは、急進的な世俗化と近代化を推し進めた。1922年にスルタン制を廃止、24年にはカリフ制も廃止した。この2つの制度はすでに形骸化していたとはいえ、その廃止によって、イスラーム世界は統一のための潜在的な象徴を失うことになった。

【サファヴィー朝】

  • 1500年から1722年までイランを支配したサファヴィー朝は、14世紀にサフィーユッディーン師によって創立されたサファヴィー教団に由来する。教団の中心地はアゼルバイジャンのアルダビールにあった。元々はスンナ派だったが、15世紀の間に急進的なシーア派に転じた。
  • 1500年、教団長イルマーイールが周辺の首長国を征服し、10年の間にイラン本土を支配下に収めた。彼はシーア派を国教に定め、他地域からシーア派の学者たちを集めて法学者の組織化が行われた。学者たちには領地が与えられ一種の宗教的貴族が生まれた。
  • サファヴィー朝の君主たちはシャーというイラン的な称号を用いた。古代イランの伝統を復活し、イスラーム以前のササン朝時代の文学や芸術に回帰した。
  • 最初の首都はタブリーズに置かれたが、オスマン軍によって占領され、カズウィーンを経て、王朝の全盛期であるシャー・アッバースの時代にイスファハーンに首都が移された。イスファハーンは東洋でも最も華麗な都の一つとなった。オスマン朝とサファヴィー朝の長い戦いは、スンナ派とシーア派を分つ憎悪の多くはこの時代に由来する。

【ムガル帝国】

  • ティムールの若き子孫バーブルは13歳の時サマルカンドを包囲し手中に入れるが統治できず失う。その8年後、豊かなカーブルの町を手に入れ、さらに銃を入手、1520年代には北インドにおけるティムールの領土を回復する。1526年にはデリーとアグラを攻略、ヒンドゥー諸侯の連合軍を撃破し、「ガーズィー(イスラームの戦士)」の称号を得る。
  • バーブルの孫にあたるアクバルは13歳で王座を継承し、50年にわたってインドを統治した。宗教的寛容策を取り、帝国内の種々の集団の共存を図ると同時に、全方位に向かって領土を拡大した。アグラを首都とし、平和と安定のもと芸術が奨励された。
  • ムガル帝国ではその後も芸術が保護され写本や絵画が花開くが、1658年に皇帝の座についたアウラングゼーブはインドを厳格なイスラーム法の支配下に置き、非ムスリムに圧迫を加え芸術も抑圧されるようになる。こうしてアウラングゼーブの後、ムガル朝は急速に衰退し、その栄光は1738年に終わった。

Embed from Getty Images

こうしてイスラム世界の歴史を振り返ってみると、今日中東各地で起きている対立や紛争の原因が少し理解できる気がする。

イスラム教の歴史は、ムハンマドの時代から戦いと征服の歴史であり、その支配地の拡大とともにイスラム教は信者を増やしていったことがわかる。

イエス・キリストやブッダと違い、ムハンマド自身が戦いの先頭に立っていて、彼の行いが模範とされる以上、武力によって勢力を伸ばそうという野心家にとってイスラム教は実に都合の良い宗教ということになるのだろう。

一方で、イスラム教はユダヤ教やキリスト教を否定するものではなく、神の下での平等を謳う側面もある。

歴代の君主の中には寛大な政策をとって平和を実現し、イスラムの芸術と文化が花開いた時代もあった。

しかし常に、世俗主義と原理主義の間を揺れ動き、その内部に歴史に基づいたたくさんの対立を抱えている。

その典型が今日でのイスラム世界を二分しているスンニ派とシーア派の対立だ。

この問題ももとを正せば4代目カリフをめぐる後継問題から起きるのだが、実際には数百年前、オスマントルコとサファヴィー朝イランの対立関係が長く続いたことから派生していることの方が大きいようだ。

暗殺教団のように敵を倒すためにテロに訴える文化も途中で生まれていて、歴史を重んじるイスラム教徒の中にはこれを是認する者も現れるのだろう。

Embed from Getty Images

日本人はイスラム教のことをあまりにも知らない。

イスラム教を信仰する人は中東だけでなく、アジアからアフリカまで実に世界の4分の1にも達するのだ。

今度の中東旅行が、私が知らないイスラム社会を少しでも理解するための旅になればと思っている。

<きちたび>マルタの旅2018⑤🇲🇹 騎士団長の宮殿で千年に及ぶキリスト教 vs イスラム教の戦いを考える

コメントを残す