<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館📕 「ウズベキスタンを知るための60章」(2018年/明石書店)で学ぶソグド人とティムール #230730

中央アジアへの旅行まで残り3週間。

カザフスタンに続き、今度はウズベキスタンについて学ぶ。

ウズベキスタンといえば、「青の都」サマルカンドなどシルクロードを代表する観光地が点在し、旅行好きな日本人の間では知られた国だ。

しかし、一般的にはやはり遠い国であり、果たしてどんな国なのか正直私にもはっきりとしたイメージはない。

そこで図書館で借りた「ウズベキスタンを知るための60章」という本に目を通し、基本的な知識を得てから旅に出ることにした。

まずはこの国に暮らす人々の話から引用する。

ウズベキスタンは文字通りに解釈すれば「ウズベク人の国」であり、1924〜25年のソ連体制のもとでの中央アジア民族・共和国境界画定においては確かに、ウズベキスタンの設置は国名に民族名を冠する基幹民族ウズベク人が領土的自治と社会主義建設を実現する空間の創出にほかならなかった。しかし同時に、当時も現在もウズベキスタンは民族的出自を異にする多様な人々が暮らす空間でもある。

このようなウズベキスタンの多民族状況は、もともと中央アジア南部の多様な人々が暮らしていた空間にソ連的な「民族」の設定を伴って境界線が弾かれた事実に加え、それに先立つロシア革命期からのロシア人らヨーロッパ系住民の入植、ソ連期の様々な理由による様々な人々の移住(例えば、スターリン期のクリミア・タタール人、高麗人、メスフ人などの民族強制移住、1966年タシュケント大地震後の復興事業を契機とするソ連各地からの支援従事者の定着など)によって形成されてきたものである。

ウズベキスタンは、旧ソ連諸国の中でも総人口に占める基幹民族の比率が高い国の一つで、おおむね20世紀中はほぼコンスタントに7割前後、独立後は8割前後をウズベク人が占めている。

引用:「ウズベキスタンを知るための60章」より

2002年の統計によれば、ウズベキスタン国内に住む民族別人口構成は次のようになる。

ウズベク人78.8%、タジク人4.9%、ロシア人4.3%、カザフ人3.9%、カラカルバク人2.2%、タタール人1.1%、クルグズ人0.9%、高麗人0.7%、トルクメン人️️0.6%、ウクライナ人0.4%、アルメニア人0.2%、アゼルバイジャン人0.2%、ベラルーシ人0.1%。

一つの国家であったソ連時代に、この地に移り住んだ人たちが少数民族として残ったわけだが、ウズベキスタンは憲法で「すべてのウズベキスタン市民はその民族に関わらず、ウズベキスタン国民である」と規定し、大きな民族対立が生じることなく国家運営を行なってきた。

昔から様々な民族が行き交ったシルクロードの寛容性が、今のウズベク人にも受け継がれているのかもしれない。

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中央アジアの他の国と同様、ウズベキスタンの歴史も民族興亡の繰り返しであった。

その中でも、まず覚えておきたいのがシルクロードの商人ソグド人の歴史である。

京都大学大学院の吉田豊教授が書いた「ウズベキスタンとシルクロード」を引用する。

ウズベキスタンとシルクロードの関係は二つある。一つは、シルクロードそのものがここを通過していたことであり、もう一つは、シルクロードの交易を支えたソグド人の故国の大半がそこに含まれることである。

旧ソ連領中央アジアには国名が「〜スタン」で終わる国がいくつもあるが、その国境を見ると実に恣意的である。ウズベキスタンも同様で、古い文化圏という点では、バクトリア、ソグド、フェルガナ、コレズムの一部ずつで構成されている。

サマルカンドは「中央アジアの真珠」とも呼ばれ、中央アジアを代表するオアシス都市である。そこを中心として栄えたのがソグドであった。ソグド語を話す民族をソグド人と呼ぶとすれば、そのソグド語は11世紀頃を境に死語となった。ソグド人が抹殺されたのではない。言語を取り替えていった結果である。10世紀アラブの地理書に記録されたサマルカンドやブハラの言語はすでにペルシャ語である。その後はさらにテュルク語化して今のウズベク語に至っている。タジキスタン北部の山中でわずかな話者によって話されているヤグノーブ語は、ソグド語の唯一の生き残りである。「ソグド」という名称は、20世紀になってからシルクロード研究の過程で復活した。

ソグド語が話されていた地域を当時のシルクロードのルートに沿って縦断した男がいた。玄奘(602~664)である。630年のことだった。彼によればソグドは、現在のクルグズスタンのアクベシム遺跡に当たるスイアブ(素葉)から鉄門までだという。鉄門(現在の地名はブズガラハナ)とはサマルカンドの南のシャフリサブズのさらに南の要害の地で、ソグドとバクトリアの境であった。境を区切る古代の長城の遺跡は現在も残っている。これより南のバクトリア側には仏教遺跡が多いが、ソグド側には見つかっていない。玄奘はアム川に面したテルメズに達し、そこからアフガニスタン側に渡った。サマルカンドからザラフシャンに沿って西に向かうルートもあった。こちらはブハラ経由で商人の町であるバイケンドに達し、そこからアム川を渡る。

ソグドという名前が最初に現れるのは古代ペルシア語の碑文で、アケメネス朝(紀元前550~前330)の一州を構成していた。ゾロアスター教の聖典であるアベスターにもその名前は現れている。古くから、インドヨーロッパ語族のインド・イラン語派に属するイラン系の言語を話す民族が住んでいた。アレクサンドロスも攻めあぐねたアラカンダは、サマルカンドであるとされる。

漢の時代(紀元前202~220)に、中央アジアから中国へ向かう朝貢のルートが確立すると、いわゆるシルクロードを経由する交易が活発化する。この頃からソグド人は、交易の民として中国に来るようになった。『後漢書』では「粟弋(ぞくよく)」という名称で呼ばれている。彼らの活動が最高潮に達したのは隋から唐代前半で、シルクロード交易を独占していた。中国にも非常に多くのソグド人が来ていた。中国の経済圏に入っていたとも言える。実際、この時代のサマルカンドやその周辺のオアシス国家は、中国式の方孔銭を発行していた。片面に王の名前、もう一方の面には、そのオアシスと王家のエンブレムが記された鋳造貨幣である。王の名前はソグド文字で書いてあるが、この文字はアケメネス朝時代に導入された公用語のアラム語を表記する文字に遡る。字母は22個で、本来は右から左に横書きされていたのだが、中国の影響で縦書きになった。5世紀後半のことだった。後にテュルク系のウイグル人はソグド人からこの文字を学びウイグル文字にした。後にモンゴル文字、満州文字へと受け継がれていった。

主要なオアシスはザラフシャン川の流域と、カシュカ川の流域にあったが、豊かな農業生産による人口増加により早くから現在のクルグズスタン、カザフスタンの南部へ植民していた。ソグド人は統一国家を作らず、北イタリアの商業都市国家のように互いにライバル関係にある独立国家群であった。8世紀初めにイスラーム勢力が侵攻してきたときも、共同して対抗することがなかった。康居や突厥などの遊牧民や周辺の大国の庇護の下に、交易路の安全を享受しつつ繁栄を望んでいたようにも見える。言語や文化を共有するこれらの独立国を、当時の中国の人たちは昭武九姓の国々と呼んでいた。代表はサマルカンド(康国)、ブハラ(安国)、タシュケント(石国)、シャフリサブズ(史国)であった。安史の乱(755~763)で有名な安禄山や史思明は、出身地の姓を名乗りソグド人の血を引いていた。

玄奘が訪れたサマルカンドは、1220年にチンギス・ハンによって破壊された。今の町はその南に新たに建築されたものである。古い町の遺跡はイランの叙事詩に登場する異民族の王アフラシアブにちなんで「アフラシアブの丘」と呼ばれている。ここではあまり目ぼしい発見はなかったが、1965年に発掘された邸宅遺跡の壁面は貴重である。現在は遺跡近くに建てられた博物館に復元展示されている。一辺が11メートルの壁に描かれた壁画は、上部が破損して残っておらず、その内容については未だに定説はない。壁面正面の左寄りに16行からなるソグド語の銘文が書かれている。その内容も十分に解読されていないが、そこにヴァルフマーン王と読める部分がある。この王は、658年に唐から康居都督府(ソグド地域のこと)の都督に任命された払呼縵その人であるから、壁画の大凡の年代は分かる。当時は唐の名目的な支配を受けていた。壁画正面には他に弁髪の突厥人(テュルク系の遊牧民)や、2本の羽根飾りのついた冠を被る高麗人など、いろいろな民族が描かれている。正面向かって左には中国の様子が描かれていて、船遊びをする高貴な婦人の姿も見える。その髪型は長安でのトップモードであったらしい。シルクロードを通じた民族の交流を物語っているようでもある。中国の製紙の技術が最初に伝わったのもサマルカンドであった。

この時代のソグドのオアシスの邸宅は豪華な壁画で装飾されていた。そのことは、現在はタジキスタンに属するペンジケントの遺跡の発掘によって明らかになった。ウズベキスタン側ではブハラ近郊のヴァラフシャの宮殿跡で見つかった象に乗る神格(アフラマズダーだとされる)の絵が有名である。火を汚さぬように神官はパダームと呼ばれる白いマスクをした。死語死体を動物に食べさせ、残った骨を素焼きの壺に入れて墓地に保管した。この世が再生されるときもう一度肉をまとって復活するための準備であった。素焼きの壺を研究者たちはオッスアリと呼ぶ。ソグド人がいた場所では多くのオッスアリが出土し、博物館などに展示されている。豪華なものには型押しにより、火を祀る儀式や死後の世界が描かれている。しかし8世紀以降、言語と同様宗教も失われイスラーム化していった。

引用:「ウズベキスタンを知るための60章」より

こうして繁栄を築いたソグド人だが、7世紀以降始まったアラブ・イスラーム軍の征服によって歴史の舞台から消えていく。

ブハラを首都とするサーマーン朝、これを滅ぼしたカラ・ハン朝と続くムスリム君主の下でこの地域はイスラム圏に飲み込まれていった。

その後、カラ・キタイ、モンゴルと異教徒がこの地を支配するが、支配者となったモンゴル人がイスラムに改宗したことで、イスラム社会が続くこととなった。

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モンゴルの支配が大きく変化するのは14世紀のことである。

今もウズベキスタンの英雄とされるティムールが登場する。

京都大学の元准教授だった久保一之氏による「ティムールとティムール朝」を引用しておこう。

オトラル事件(1218年)に端を発したモンゴルの中央アジア征服から約150年を経て、ほかならぬ現ウズベキスタンの地に、事実上のモンゴル時代の終焉を告げる新たな王朝が興った。

これがティムール朝(1370~1507)であり、その始祖ティムールは、モンゴルのチンギス・ハンと並び称されるアジアの英雄である。このティムールの華々しい軍事的成功、およびティムール朝領内に栄えた高度な学芸は、今もウズベキスタンの人々の誇りである。

ティムール朝は基本的にはテュルク(トルコ)系イスラーム王朝であり、支配階級たる王族とその家臣たちは主に軍人で、チャガタイ人あるいは単にテュルク人と呼ばれた。チャガタイ人という名称は、中央アジアを領地としたチンギス・ハンの子チャガタイに由来し、彼らの間では、モンゴル時代の制度や慣習が残存していた。一方、ティムール朝領内で農業や商工業に従事したオアシス定住民は主にイラン系イスラーム教徒であり、タジク人あるいはサルト人と呼ばれた。この両者の共生関係が中央アジア・西アジアに未曾有の繁栄をもたらしたと考えられている。稀代の碩学V・バルトリドによれば「ティムールによって築かれた帝国は、テュルク・モンゴル的国家体制・軍事制度の諸要素と、主にイランの、ムスリム文化の諸要素の独自の結合を示している」のである。

なお、ティムール朝期にもウズベク人と呼ばれる人々は存在したが、現在のウズベク人との直接的なつながりはない。これはタジク人の場合も同様である。そもそも、現在旧ソ連中央アジア地域で用いられている民族名称は、ティムール朝が滅亡してから400年以上後に確定されたものなのである。

以下、ティムール朝史の沿革を略述する。ティムール朝の始祖ティムールはモンゴル時代末期の1336年ジャフリサブズ近郊の村に生まれた。その家系はモンゴル起源のバルラス部族に属し、ティムール朝に伝わる伝承によれば、チャガタイ・ハンの補佐役をつとめた有力者に遡るが、その確証はない。ティムールが生まれた頃、チャガタイ・ハン国の支配階級はモンゴル遊牧民の伝統を守るモグール人たちと、イスラーム信仰を含む定住民文化に馴染みを深めたチャガタイ人たちに分かれ、政治的にも東西に分裂していた。

チャガタイ人であったティムールは、主に自身の才能と努力によって頭角を現し、西チャガタイ・ハン国の有力武将となり、1370年にはマーワラーアンナフル(主に現ウズベキスタンとタジキスタン)の支配権を握った。この時彼はチンギス・ハンの子オゴデイの子孫をハン位に推戴する一方、オゴデイの兄チャガタイの子孫を正室に迎えた。つまり、君主の立場ではなく、チンギス家に仕える有力武将かつ同家の娘婿の立場を取ったのである。またティムールは、チンギス・ハンが整備したモンゴル遊牧民の慣習法ヤサを終生重んじた。

しかしティムールは、ほかの様々な点でチンギス・ハン期のモンゴル遊牧民とは異なっていた。モンゴル語ではなくテュルク語を母語とし、オアシス定住民の文化に十分馴染み、そもそもイスラーム教徒であった。政権獲得後もティムールは絶えることなく軍事作戦・征服活動を展開したが、その大義はモンゴル帝国の復興に加えて、イスラーム圏の拡大であった。

ティムール軍が席巻した地域は現在の国で17カ国に及び、北はヴォルガ川中流域、南はオマーン湾沿岸、東は中国タリム盆地中部、西はエーゲ海岸に達した。中でもオスマン朝軍を撃破したアンカラの戦い(1402年)や多くの富を得たインド遠征(1398~99年)は有名である。このような軍事的成功の要因には騎馬遊牧民の伝統的戦術と自らの創意工夫、さらに諜報活動や外交努力も挙げられる。近隣地域の為政者たちに加えて、イギリス王・フランス王・カスティーリャ王・中国(明)皇帝などがティムールからの親書を受け取った。

ティムールは、軍事作戦だけでなく、領土内の都市文化や商工業・農業を発達させることにも成功した。首都サマルカンドの繁栄はその象徴である。強引な都市開発や人口増加政策も功を奏してティムール治下にサマルカンドは巨大都市へと変貌し、その繁栄ぶりは遥かスペインから訪れた使節をも驚かせた。また広大な支配領域における交通路の安全確保および交易の発展にも努めた。

1405年ティムールはキタイ(中国北部)遠征に出発して程なく病没した。「ティムール没後の王朝史は、統一から分裂へ、分裂から統一へというめまぐるしい変動を基調として展開され」、「分裂への傾向」は「一族の分封体制と、トルコ(テュルク)・モンゴル的君主位継承法」によってもたらされた(間野英二「ティムール朝の社会」)。結局、ティムールが築いた帝国の領土が回復されることはなく、安定的に支配し得たのは、サマルカンドを中心とするマーワラーランナフルと、ヘラートを中心とするホラーサーン(主にイラン東北部とアフガニスタン西部)のみであった。しかも、この二つの主要な領土を統合することすら難しく、両方に長期的に君臨し得た中央君主は、ティムールを除くと、第三代君主シャールフと第七代君主アブーサイードの二人に過ぎなかった。

また帝国全体の首都も一定せず、シャールフ期に入ってサマルカンドからヘラートに遷り、アブーサイード期には前半期がサマルカンド、後半期がヘラートであった。そしてアブーサイードが没した1469年には、アム川を境に、領土全体がサマルカンド政権とヘラート政権に分裂した。

しかし、表面的には弱体政権であっても、ティムールの子孫たちは、ティムールの政策や制度を発展的に継承して行政を充実させ、受け継いだ領地を繁栄させた。特にシャールフ期からスルターン・フサイン(フサイン・バイカラ)期にかけてのヘラートにおける都市文化の発達は驚異的なもので、まるで「ティムール朝ルネサンスと呼ぶべき時代におけるフィレンツェ」であった。ここに言う「ティムール朝ルネサンス」は、特に建築や書物彩色の分野で顕著とされるが、当時は学芸全般が活況を呈し、社会全体にも大きな変化が生じていた。このような繁栄は、王族だけではなく、ミール・アリーシール(ナヴァーイー)(1441~1501)のような有力者の活動によっても支えられた。

一方シャールフ期のサマルカンドでは、シャールフの息子ウルグベク(1394~1449)が君臨し、ティムール期に続いてこの地の都市文化を発達させた。彼は自ら学芸を愛好し、天文台を建設して天文学の発展にも寄与した。しかしウルグベク没後は、イスラーム神秘主義のナクシュバンディー教団の影響力が強まった。

以上に略述したティムール朝の繁栄は、中央アジアのみならず西アジアにも数多くの文化遺産を生み出した。いまティムール朝揺籃の地ウズベキスタンに遺された主要な建造物のみ列挙すると、サマルカンドにビビ・ハーニム(ティムールが建設した金曜モスク)、グーリ・アミール(ティムールとその子孫の霊廟)、シャーヒ・ズィンダ廟群(聖者廟と有力者の霊廟群)、ウルグベクのマドラサ、ウルグベグの天文台址、シャフリサブズにアクサライ宮殿(ティムールの宮殿)、ブハラにウルグベクのマドラサなど真っ挙に暇がない。

またヨーロッパでも重んじられた『ウルグベク天文表』をはじめ、豊かな文献遺産も今に伝わっており、当時の学芸の繁栄を裏づけている。それらの多くはムスリム定住民の言語ペルシア語(タジク語)で著されたが、一部は中央アジアの古典テュルク語と呼ぶべきチャガタイ語(古ウズベク語)で著された。この古典語による文学を確立したとされるのが、史上最も高名なテュルク詩人ナヴァーイーである。また、ティムール朝の王子にしてインドのムガル朝の始祖バーブル(1483~1530)がこの古典語で著した『バーブル・ナーマ』も傑作とされ、間野英二による日本語訳がある。

ティムール朝滅亡後、ティムールの子孫はインドに新たな王朝を築いたが、マーワラーアンナフルでは再びチンギス・ハンの子孫(シャイバーン朝ついでアストラハン朝)による以前より長期的な支配が始まった。新たな為政者たちは、当初、多くの点でティムール朝に倣ったが、次第にこの王朝の記憶は薄れていった。そして18世紀前半の経済衰退期に、一時期フィトラト(1886~1938)によって「チャガタイ懇話会」が設立されたが、この場合の「チャガタイ」は「ティムール朝期の『黄金時代』を想起しながら、トルキスタンの歴史的・文化的な連続性と一体性を表現する、すぐれて象徴的なターム」であった。

その後ソヴィエト政権が樹立されると、社会経済史・民衆史を重視する方針により、為政者や領主層はもっぱら否定的な扱いを受けた。特にティムールの本格的な復権はソヴィエト連邦の崩壊を待たねばならなかった。それゆえ独立当初から、ウズベキスタンの人々の思いはひときわ熱く、早々に首都タシュケントの中心部にティムール像とティムール朝史博物館が建設されたのである。

引用:「ウズベキスタンを知るための60章」より

高校時代、私が学校で教えられた世界史ではティムールはとても扱いが小さく、なおざりだった。

この記述を読んで想像するに、1970年代の教育現場ではまだ左派的な教師も多く、ソ連によって抹殺されていたティムールは取るに足らぬ存在だったのだろう。

しかし、実際には中央アジアには今もティムールが遺した遺産が多く存在し、それがウズベキスタンの重要な観光資源となっている。

歴史とはその時代の為政者の都合でいかようにでも変容させられるものだ。

征服者、独裁者を英雄扱いする歴史観に与するつもりはないが、時の政権が押し付ける色眼鏡は出来るだけ排除して、なるべくフラットに歴史を見たいと思う。

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さて、こうしてソグド人とティムールの時代を見てきたが、ここで一つの疑問が湧いてくる。

今、この地に暮らしている「ウズベク人」とはどういう人たちなのか?

それを説明してくれているのが京都外国語大学特別研究員の堀川徹氏のコラムである。

『「ウズベク」はどこから来たか』というそのコラムを引用しよう。

「ウズベク人の土地」を意味するその名の通り、ウズベキスタンではウズベク人が人口の約80%を占めている。しかしながら、ウズベキスタンにはその昔「ウズベク」と呼ばれる人々は住んでいなかったのである。では、現在のウズベク人はどこからやってきたのだろうか。

もともと人名であった「ウズベク」の語が、人間の集団をさして使われ始めたのは、14世紀後半の諸事件について記したティムール朝の史書においてであろう。ティムール朝の創始者ティムールは、サマルカンドを首都として四方に軍事遠征を行い、中央アジアから西アジアにかけて広大な領土を支配する大帝国を築いた人物である。彼の業績や子孫たちの事跡を中心に著されたいくつかの史書の中で、アラル海の北からウラル川流域にかけての地域、すなわち、現在のカザフスタン西部で政治的にまとまりを持った遊牧集団が「ウズベク」と呼ばれているのである。ここでは、現在のウズベク人と区別するために、彼らのことを遊牧ウズベクと記すことにしたい。

彼らはチンギス・ハンの長子ジョチの子孫を君主(ハン)に戴き、アブル・ハイル・ハン(在位1428~68)の時には、現在のカザフ草原に広く勢力を拡大し、ティムール朝国家の北辺を脅かすような強力な勢力に成長した。その後、遊牧ウズベクの勢力は一時減退したものの、アブル・ハイルの孫シャイバーニー・ハンは、シル川中流域を拠点に勢力を盛り返し、1500年には、遊牧ウズベク軍団を率いてティムール朝の首都サマルカンドを征服する。そして1507年には、ティムール朝のもう一つの中心都市であったヘラートを攻略し、ティムール朝を滅亡へと追いやるのである。

ロシアの研究者T・スルターノフは、シャイバーニー・ハンに従っていた遊牧ウズベク諸集団を抽出し、兵力を4〜6万、1家族6人として、16世紀最初の10年間に移住した彼らの人数を24万〜36万と推定している。スルターノフの示した数字は、遊牧ウズベクの移住が、それ以前に到来したテュルクたちよりひと回り大きな規模であった可能性を示唆している。彼らはウズベキスタン各地に定住する一方、集団の一部は、たとえば、アフガニスタンなど周辺地域へも移住していった。遊牧ウズベクの流入と定住化はこの時に止まらず、それ以降も継続して行われていくのである。

それでは、現在のウズベク人は皆、16世紀以降に草原地帯から移住した遊牧ウズベク人の子孫なのだろうか。

中央アジア南部のオアシス地帯には、元来イラン系の言語を母語とする人々が居住していたが、8世紀にイスラーム勢力がこの地を征服した後、ペルシア語が広く使われるようになった。やがて、草原地帯で遊牧生活をしていたテュルク族が打ち建てたカラ・ハン朝がこの地域を支配するに及んで、多くのテュルク族が流入し定住するようになった。また、従来からこの地に居住していた人々も、支配者の使用するテュルク語を使うようになっていった。こうしてテュルク化の現象は、13世紀にここがモンゴルの支配下に入った際にも変わらず進展し、ティムール朝の時代にはテュルク語とペルシア語をそれぞれ母語とする住民が併存していたと考えられる。遊牧ウズベクの到来は、テュルク化を一段と押し進める最大にして最後の人的要素であった。

ロシア革命以降の1924年に、民族・共和国境界画定が実施され、テュルク語を母語とする人々に対してウズベクという民族名が正式につけられ、彼らが多数を占める地域が、ソ連邦を構成するウズベク共和国となった。一方、ペルシア語を母語とする人々はタジクと名付けられタジク共和国を建てることになった。そして、彼らの使用する言語はそれぞれウズベク語、タジク語と呼ばれたのである。

このように、もともとこの地に居住していた歴史の流れの中でテュルク化された人々や、草原地帯から移住したテュルク系遊牧民など、遊牧ウズベクがやって来る前からこの地に居住していたテュルク語を母語とする人々も、現在のウズベク人の祖先なのである。様々な祖先を持つウズベク人であるから、遊牧ウズベクによって滅ぼされたティムール朝の創設者であるティムールの銅像が、現在、ウズベキスタン共和国の首都タシュケントの中央に位置する広場に建てられていても不思議ではない。世界帝国を築いたティムールは、確かにウズベキスタンが生んだ民族の英雄なのである。

引用:「ウズベキスタンを知るための60章」より

現在のウズベク人もタジク人も、ソヴィエト連邦という歴史上特異な社会主義政権によって形成された「人工的な民族」だったという指摘は大変興味深い。

人類の歴史は多かれ少なかれ強者による征服と支配、その下で繰り返された混血の歴史である。

ナショナリズムが高揚する際、殊更に「民族」の違いが意識され、自国民の優越性が強調されたりするものだが、こうして今の「民族」のルーツを冷静に研究してくと、同じ民族といっても様々な祖先を持つ人間の集まりであり、敵対する民族と同じルーツを持つことがわかったりするものだ。

所詮、民族主義などというものは、政治指導者が自らの権力を強化するためのまやかしであって、過度なナショナリズムが百害あって一利もないことが中央アジアの歴史からも見えてくる。

この夏、ウズベキスタンを訪れるにあたり、高原の民が繰り広げてきた力による興亡を思い起こし、「民族」や「国家」についての考えを深めることを心に止めておきたいと思う。

<吉祥寺図書館>ジョン・ヘイウッド著「世界の民族・国家興亡歴史地図年表」(2011年/イギリス/日本語版2013年柊風舎)

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