<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館📕 福田和也著「昭和天皇 第一部」(2008年/日本/文藝春秋) #210224

昨日は天皇誕生日、今の天皇も61歳を迎えた。

初めての戦後生まれである「徳仁」天皇は、歴代天皇を違って親もとで育てられた。

明治天皇も、大正天皇も、昭和天皇も、今の上皇も、幼い時に親から引き離されて帝王学をまなばされた。

今の天皇がとても穏やかな人格に育ったのも、そうした影響があるのだろう。

リタイア後の私のテーマである大正時代から昭和初期の歴史を学ぶ上で、昭和天皇の存在は極めて大きな鍵を握る。

そこで吉祥寺図書館で手にしたのが、こちらの本だ。

福田和也著「昭和天皇 第一部」

「日露戦争と乃木希典の死」との副題がついていて、幼少期から皇太子として欧州歴訪の旅に出るまでの時代が、当時の国内外の情勢とともに描かれている。

福田さんは慶應義塾大学の教授で、保守派の論客としても知られるが、この本には興味深いエピソードがたくさん登場する。

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まず、昭和天皇とは、どんな人物だったのか?

冒頭の文章に、福田さんの昭和天皇像が凝縮されている気がするので、引用しておきたいと思う。

その暮らしは平坦なものであった。いくつかの節目はあったものの、日常は変化に乏しかった。なんといっても生活のほぼすべてが、おほやけの領域にむすびつけられていたから、個人としてふるまうことは、ほぼ、まったくなかった。

だがまた、これほど、曲折に満ちた人生はない。

個人的欲望を超えた彼の人にも、願望はあり、祈りはあった。その暮らしは枠をはめられたものだったが、彼の人の祈りは、誰も抱いたことがないほど大きなものだった・・・わが庭の宮居に祭る神々に世の平らぎをいのる朝々・・・。

懊悩は深く、底を知らぬものであり、到底、人の想像できるものではない。

彼の一生は、別離に彩られていた。

意思に発する出会いはあまりなかった。周囲にお膳立てされたものばかりであった。だが、彼はその出会いを尊重した。できるだけ、親しもうと努めた。

親しんだと思うと、その相手は、暇を乞い、あるいは乞うこともできず、去っていった。

生後すぐに、両親のもとを離れなければならなかった。

皇太子になると、弟たちとも、会い難くなった。

摂政から、天皇へと、責任が重くなればなるほど、彼の孤独は深いものになった。

昭和二十年からの数年間、彼の人は独り、大声で叫びながら、夜闇の後座所を歩きまわり、自身を責め続けたという。

みんな去っていった。

退官したもの、転勤したもの、出征したもの。

彼がその顔も知らない、名前も知らない、忠良なる臣民たちも、「天皇陛下万歳」と叫んで、彼に別れを告げた。

ガダルカナルで、レイテで、サイパンで、沖縄で。マニラの、シンガポールの、アンボンの、巣鴨の、刑場で。

彼の人生は喪失に満ちたものだったが、その喪失からこそ、彼は学び続けた。

引用:福田和也著「昭和天皇 第一部」

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福田さんの書いた昭和天皇=「彼の人」の日常は、今の上皇にも、天皇にも、少なからず当てはまるのだろう。

それでも、戦後の象徴天皇制の下、今の上皇夫妻が皇太子を自分の手もとで育てる決断をしたことで、その日常は少し変わった。

家族を大切にするという今日の皇室像は、大正天皇の影響なのだろう。

側室の子として生まれた大正天皇は、それまでの皇室の慣習を破って側室を置かなかった。

昭和天皇はさらにそれを進めて、女官制度そのものを廃止した。

庶民と同じ一夫一婦制を皇室が取り入れたことにより、現代社会にはマッチするようになったが、同時に男子皇族の減少という新たな問題を生んだのはなんとも皮肉である。

偉大な明治天皇と病弱な大正天皇の後を受けて、昭和天皇は孤独で変化に乏しい日常を送っていたが、彼の在任中、国内外の情勢は過去に例を見ない猛スピードで変化していった。

その結果、日本という国が初めて味わった完膚なきまでの「敗戦」。

それは、昭和天皇をほかのどの天皇とも異なる苦境に追い込んだ。

『昭和二十年からの数年間、彼の人は独り、大声で叫びながら、夜闇の後座所を歩きまわり、自身を責め続けたという』

戦地で命を落とし、国土を焼かれ、生活に困窮する国民に対する責任とともに、「皇祖皇宗」と呼ばれる歴代天皇に対して、日本を亡国の淵に追い込んだ自らの責任に苛まれていたのだろう。

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昭和天皇の人柄をしのばせるエピソードとして福田さんが冒頭部分で紹介している話がとても興味深いので、ここに書き残しておきたい。

それは戦争末期から昭和天皇が過ごした皇居内の防空壕『お文庫』に関する物語である。

昭和天皇は、昭和19年12月前後から、ほぼ全日、お文庫と名づけられた防空建築で過ごすようになった。お文庫とよぶのは、防諜のためである。防空壕と直截に示すことを周囲が嫌がったのだ。たしかに、皇居に防空壕が設営されていることがもれれば、国民は動揺するだろう。

英米との戦争の可能性がたかまりつつあった16年の4月、皇居が空襲されることを想定しなければならなくなった宮内省は、爆弾に耐えられる宮殿を建てることにした。

皇居、吹上御苑の、半蔵濠をはさんでちょうどイギリス大使館の向かいあたりに、地上一階、地下二階、四百坪の鉄筋コンクリートの建物が作られた。仕様ははじめ百キロ爆弾に耐えうるものとされていたが、着工時は五百キロ爆弾に変更された。施工は大林組である。太い柱が何本もたっているため、横から見るとハーモニカに似ている。

もともと湿り気の強い土壌である上に、開戦を見据えて、突貫工事で作られたこともあって結露がひどかった。戦後、湿度調整機を設置しようとコンクリート壁に穴をあけたところ、衝撃緩和のために天井にはさまれた砂の層から、ドラム缶三本ほどの水が滲みでてきた。

天皇、皇后は、この防空壕ならぬお文庫に、昭和三十六年まで住んだ。皇太子(今上天皇)のご成婚の後までである。何度か、お移りになってはいかがか、という提案が政府からなされたが、「みなが空襲や引き揚げで住むところもなく苦労しているのに、自分だけそうするわけにはいかない」と斥けた。

引用:福田和也著「昭和天皇 第一部」

終戦後16年間も、天皇が防空壕を兼ねた『お文書』に住み続けたとは知らなかった。

天皇なりの、責任の取り方だったのかもしれない。

私が特に興味を覚えたのは、その続きである。

福田さんのは『お文書』の内部について、次のように記している。

お文庫の一階、正面玄関には入り口が二つあり、それぞれ天皇、皇后が用いる。侍従らは玄関からみて左側の通用口から出入りする。正面玄関をはいるとホールがあり、左側は天皇皇后の私室がある、いわゆる奥向きと呼ばれる領域であり、ホールの右側すぐに天皇の執務室があった。

執務室は六坪で、従来の明治宮殿とくらべると話にならないくらい手狭だ。

そこに六つの書棚が入れられている。

ニス塗りの木の机。

椅子は回転式の革張りだった。

机の背後に、飾り棚がおかれていて、上下二段に、二つの胸像が置かれていた。

誰の胸像だと思いますか?

と、私は、周囲の人間に、何度か尋ねたことがある。

明治天皇、乃木希典から本居宣長、楠木正成まで、いろいろな答があったが、誰もあてられなかった。

私とて、あてることはできなかったろう。

上段にリンカーン、下段にダーウィンが飾ってあったのだ。

引用:福田和也著「昭和天皇 第一部」

これは、驚愕の事実だった。

福田さんも、生物学の研究をする昭和天皇がダーウィンの胸像を飾るのは理解できるとしても、戦時中に敵国であるアメリカの大統領リンカーンの胸像を自分の執務室に飾っていたとは、もし青年将校が知れば憤死してしまいそうな話である。

張作霖爆殺事件の際には軍部の暴走に激怒し時の田中首相を叱責した昭和天皇。

米英との戦争を望まず最後までアメリカとの外交交渉に希望をかけていたとされる昭和天皇。

その心の底には、天皇を絶対視する「国粋主義」とは遠く離れた、天皇なりの価値観があり、理想があったことが読み取れる。

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昭和33年に生まれた私にとって、生前の昭和天皇は、素っ頓狂な声を出す不思議なおじいさんにしか見えなかった。

「天皇制廃止」を訴える左派の主張にも共感しながら成長した人間だ。

しかし、平成の天皇の言動を見るうちに皇室に対する見方も変わった気がする。

そして平成の天皇に誰よりも強い影響を与えたのが、昭和天皇だった。

『個人的欲望を超えた彼の人にも、願望はあり、祈りはあった。その暮らしは枠をはめられたものだったが、彼の人の祈りは、誰も抱いたことがないほど大きなものだった』

『懊悩は深く、底を知らぬものであり、到底、人の想像できるものではない』

福田さんのこうした言葉は、昭和天皇について考える際の大きな示唆を与えてくれるように思う。

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