<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館⑤ 瀬川拓郎著「アイヌ 学入門」(2015年/日本/講談社現代新書) #201101

せっかく北海道まで行って「ウポポイ」で勉強してきたので、もう少しアイヌのことをきちんと理解しておきたいと思い、図書館で借りてきた本を読み始めた。

瀬川拓郎著「アイヌ学入門」。

瀬川さんは、私と同じ年の生まれで、少なくとも出版当時には旭川市博物館館長を務めていたアイヌ研究者だという。

この本には、「ウポポイ」の説明ではモヤモヤしていた疑問を明快に説明してくれている部分があり、とても役に立った。

ということで、忘れてしまわないように、私が重要だと思った部分を書き残しておきたい。

アイヌと縄文人の関係

「ウポポイ」の展示ではっきりしなかったことの一つが、アイヌの人たちの遺伝的な特徴についてだが、その点について瀬川氏は明確にこう述べている。

世界中のどの民族とも異なるアイヌの特徴を一言で表すとすれば、「日本列島の縄文人の特徴を色濃くとどめる人々」ということになるでしょう。縄文文化は北海道から琉球列島にかけて1万年以上も続きましたが、アイヌは日本列島に暮らしたこの縄文人の特徴をよく残しているのです。

日本のマジョリティである私たち和人は、弥生時代に朝鮮半島から渡ってきた人々と、日本列島の先住民である縄文人が交雑して成立した集団です。アイヌはサハリンの先住民や和人などと混淆することもありましたが、基本的にこの交雑化を積極的には受け入れようとしなかった縄文人の末裔であり、その文化には縄文文化の伝統も認められます。

彼らはその意味で、現在の日本列島における「本家」筋ともいえる人々であり、北海道の先住民どころか日本列島の先住民ともいえるのです。私たちはアイヌの中に縄文時代の「ご先祖様」の姿を見ているということができるでしょう。

ただし祖先が共通でも、あるいは和人との混淆や文化の同化がどれほど進んでも、彼らが和人と異なるアイデンティティを持ち、自らを異なる民族と認識し、また世界的にそのように認められている事実を知っておく必要があります。

縄文人の末裔としてのアイヌは、その容姿からかつて「アイヌ白人説」が唱えられたそうだ。

19世紀に長崎で活動したシーボルトが唱えた説で、「アイヌはコーカソイド(白色人種)の最も古い先祖とする説」だった。

これはヨーロッパ世界に大きな影響を及ぼし、イギリス・ロシア・オランダ・ドイツなど各国の博物館が積極的にアイヌ資料の収集に乗り出したのは、アイヌが自らの祖先であると考えたからだという。

この「アイヌ白人説」は1960年代の調査で否定され「モンゴロイド(黄色人種)」と結論づけられたが、アイヌはモンゴロイドとは異なる特徴を多く持っていたため、「原モンゴロイド」という仮想的な集団を設定し、アイヌをこれに帰属させたそうだ。

つまりアイヌは、コーカソイドともモンゴロイドともいえないというのが実際のところであり、そのためアイヌを「現生人類の大海に浮かぶ人種の孤島」、あるいは現生人類がコーカソイドとモンゴロイドに分化する以前の状態を保持する人々と見る研究者もいます。

白人でも黄色人種でもないアイヌ=縄文人というのはどうして生まれたのか、新たな興味の対象である。

縄文人の孤立性

日本列島という島国で暮らした縄文人は、世界でも珍しい孤立した民だったと瀬川さんは指摘している。

近年の考古学の成果によれば、縄文時代の琉球列島に中国や台湾の影響は及んでおらず、また九州の縄文文化に朝鮮半島の影響、北海道の縄文文化にサハリンやカムチャッカの影響はほとんど及んでいないことが明らかになっています。この事実は縄文文化の孤立的な性格を示しています。

このことを証するように、縄文人の遺伝子配列のハプログループは著しく多様性が少なく、比較的長期にわたって周辺集団から孤立していた可能性が指摘されています。

さらに、2012年に国立遺伝学研究所などの研究チームが行った日本人の成り立ちに関する大規模な遺伝子解析の結果についても言及している。

それによれば、弥生時代に朝鮮半島から渡来した人々が縄文人と交雑して和人(本土人)となり、周縁の北海道と琉球には縄文人の特徴を色濃く持つ人々、つまり琉球人とアイヌが残ったといいます。

先にアイヌ=コーカソイド説に触れましたが、縄文時代にはアイヌと同じ特徴を持つ「人種の孤島」ともいうべき人々が日本列島を覆っており、そこへ弥生時代になると寒冷地適応した北方モンゴロイド集団が入り込み、縄文人と混血して本州・四国・九州へ拡散する中で、現代の本土日本人につながる遺伝子的な特徴が形成された、ということのようです。

この研究結果は、骨などの形質的な特徴をもとに論じられてきた日本人の成立をめぐる従来の定説、つまり埴原和郎の「二重構造モデル」を、遺伝子解析の成果によって追認したものといえます。

形質だけでなく言語などの文化を含めて、アイヌは縄文人の伝統をよく受け継いできたといえます。一方、琉球列島については、近年の考古学の成果によれば、9〜11世紀前半ごろ奄美大島に隣接する喜界島へ古代日本文化を担った集団が本土から渡来し、グスク遺跡群と呼ばれる大規模な集落を形成しました。その後11世紀後半〜12世紀には喜界島から琉球列島へ集団移住が展開し、南島人はこの移民の影響を強く受けたと考えられています。

琉球語は日本語と同系関係にある言語とされているので、琉球列島の縄文人の末裔にはアイヌに比べて和人の影響がより強く及んだようです。おそらくそこには、移住してきた和人集団や在地集団の規模の違いが関わっていたのでしょう。

ただし、アイヌの人々が沖縄を訪れると、琉球人の中に親戚かと感じる人たちを多く見かけるというのはよく耳にする話です。

長年大陸から切り離され1万年にわたって独自の「純血」を保ってきた縄文人だが、米の技術とともに朝鮮半島から北九州へ入ってきた集団によって大きな変化を強いられた。

この弥生文化が私たち日本人を生み、急速に人口を増やしながら縄文人たちを周辺部へと追いやっていった、これが日本列島の歴史だということはほぼ確かなようだ。

アイヌ語は「孤立言語」

「ウポポイ」で強く印象に残ったのは、アイヌの言葉が日本語とは似ても似つかないまったく別の言語だということだ。

沖縄のおばあちゃんたちの言葉もわからないが、共通の言葉もあって、なまりの強い方言だと言われればそうかなと感じる部分もあるが、アイヌ語は明確に違う。

韓国語の方がアイヌ語よりも日本語に近いと感じるほどだ。

瀬川氏の著書でも、その点がはっきりと書いてあった。

アイヌは縄文語の伝統をアイヌ語として受け継いできたと見られます。アイヌ語は日本語とは構造的に異なる言語とされています。

さらに・・・

アイヌは、北海道を中心に本州北端、サハリン南部、千島列島、カムチャツカ半島南端という広大な地域に住み、アイヌ語という共通の言語を用いていました。アイヌ語は、日本語をはじめとする周辺地域のどの言語とも親戚関係が認められず、「孤立言語」とされています。19世紀代のこれら地域のアイヌ人口は2万4000人ほどでした。

「孤立言語」とされるアイヌ語、それは縄文人が周辺民族から「孤立」していたこととも大いに関係がありそうだ。

つまり、縄文人は今のアイヌ語に似た言葉を使っていたということなのだろう。

それにしても、19世紀のアイヌの総人口が2万人台だったというのは、ちょっと驚くほど少ない数字だと感じる。

狩猟採集によって養える人口はその程度だったということなのだろう。

あの広大な北海道にこれだけの人間しか住んでいなかったとすれば、和人が進出した時にあえなく支配下に置かれてしまったのも理解できる。

アイヌと神の関係

「ウポポイ」でも面白いと感じたアイヌと「カムイ」の関係だが、実はこれにも日本人=和人が大いに関わっているという。

瀬川氏は「カムイ」を「神」と表現して、次のように説明している。

アイヌ出身のアイヌ語学者、知里真志保によれば、アイヌの神観念の形成にも、和人などとの交易が深く関わっていました。

アイヌ(人間)が考える神との関係は、次のようなものです。

神々はその国で、人間と同じ姿で、人間と変わらない生活を営んでいる。/時を定めて人間の村を訪れる。/その際、特別の服装を身につける(山の神であればクマの毛皮)。/人間に土産を持参する(山の神であればクマの肉)。/人間の村を訪れ、首長の出迎えを受ける。土産を与え、神は本来の姿に戻る。/客となってそこに数日間滞在し、大歓待を受ける。/首長から土産の酒・コメ・シトキ(水に浸した生の米をついて粉にし、水でこねて丸めたもの)・幣(ぬさ)などをどっさりもらい、自分の国へ帰る。/国へ帰ると、部下の神々を集めて盛大な宴会を開き、人間の村での見聞を聞かせ、土産を部下におすそわけし、神々の世界での威信を高める。

一方、アイヌのユーカラでは、アイヌと和人の交易が次にように述べられます。

アイヌの首長は、村で狩猟や漁撈をを営んでいる。/彼は時を定めて和人の村へ交易に出かける。/その際、晴着を身につける。/交易品の毛皮などを持参する。/和人の村を訪れ、毛皮などを土産として差し出す。/客となってそこに数日間滞在し、大歓待を受ける。/和人から土産の酒・米・シトキ・煙草などをもらい、自分の村へ帰る。/村へ帰ると、部下を集めて盛大な宴会を開き、和人の村での見聞を聞かせ、土産を一堂にお裾分けし、アイヌの村での威信を高める。

両者の類似から知里は、アイヌの神観念の「一部」が、和人などとの交易の繰り返しのうえに形成されてきたものとしています。

ここで注目したいのは、神をはじめとするアイヌの観念世界についても、交流の中で形成され、あるいは変容してきたという事実です。

私が「ウポポイ」で大変興味を持ったアイヌとカムイの関係は、閉鎖されたアイヌの伝統世界で生まれたものではなく、和人などとの交易が活発化した中世以降に形成されたというのは、また別の意味で興味をそそられる。

アイヌは自然と共生して暮らす原始的な民という、一昔前の学説が最近の研究で大きく変わりつつあるその一つの表れと捉えるべきなのだろう。

ヴァイキングとしてのアイヌ

「ウポポイ」に行った成果としては、アイヌが狩猟採集しか行っていなかったのではなく、周辺の諸民族と活発に交易していたことを学んだことだ。

その関連で、瀬川氏の著書に書かれていた「ヴァイキングとしてのアイヌ」という見出しがとても気になった。

私たち和人とも関係がある話なので、ちょっと長々と引用させていただく。

このような「民族移動」はなぜ生じたのでしょうか。

アイヌ社会では9世紀後葉以降、日本との交易が活発化し、その需要にこたえる産物の生産が至上命題となっていました。

たとえば日本では10世紀以降、オオワシの尾羽を高級な矢羽として珍重し、合戦でも用いるようになります。正倉院に修められているそれ以前の矢を見ると、矢羽に用いられているのはオオタカやクマタカなど基本的に在地の鳥です。当時はオオワシ尾羽の珍重は認められません。ところが10世紀になるとオオワシ尾羽が珍重されるようになります。

オオワシはロシア沿海州で繁殖し、冬になると道東オホーツク海沿岸や千島へ飛来します。つまり日本にオオワシの尾羽をもたらしていたのは、10世紀に道東へ進出したアイヌだったことになります。

中国側史料によれば、13世紀にはアイヌのサハリン進出が拡大し、オホーツク人の末裔である現地の先住民ニヴフらとトラブルを起こしていました。そのため先住民が服属していた中国の元は軍隊を派遣し、半世紀近くにわたって元とアイヌは戦いを繰り広げることになります。

この元とアイヌの戦いは、元が北部九州に攻め込んだ13世紀後葉の「元寇」と同じ時代のできごとですが、ほとんどの方はご存じないかもしれません。私たちのアイヌのイメージを最も強く揺さぶるのが、この元とアイヌとの戦いといえます。

アイヌと元が戦ったとは、まったくの初耳である。

果たしてどんな戦いだったのか?

戦いの発端は、アイヌが毎年北海道からやってきて領域を侵すというニヴフの訴えにもとづき、元が1264年にアイヌを討ったことにあります。その後1284年から86年にかけて元は毎年アイヌを攻撃しています。

85年に派遣された元軍は兵1万人、86年には兵1万人と船1000艘と記録されていますが、兵1万人とされる場合、実際には数千人規模であることが多かったようです。とはいえ、文永の役に動員された元軍は兵約3万人、船900艘だったのですから、かなりの規模だったといえるでしょう。これに対するアイヌの数は、最大でも数百人程度だったのではないでしょうか。

この間アイヌは、彼らに投降したニヴフとともに、大陸のアムール川下流域へ渡って先住民の村々を襲撃し、元軍の迎撃をかわすなどを繰り返していましたが、1308年には毛皮の貢納を条件にアイヌが元に服属を申し入れ、戦いは終息します。

こうした行為を称して「ヴァイキング」と呼んでいるのだが、確かにこれまで抱いていたアイヌのイメージとはまったく違うたくましい姿が印象的だ。

しかし、こうしてアイヌが活発に対外活動を始めた原因は私たち日本にあったことは理解しておかねばならないだろう。

先住民ニヴフとのトラブルの原因は、ひとつにはタカを元に貢納していたニヴフのタカ飼いをアイヌが捕虜にし、それらを日本へ出荷しようとしたことにありました。つまりアイヌのサハリン進出には、ワシやタカの本州への移出が関わっていたのです。

さらにアイヌは、元についで成立した明とも活発に交易を行っていました。15世紀の記録は、明のアムール川下流域の統治拠点である「奴児干都司」に、交易を求めるアイヌがやってきたと伝えています。

15世紀になると日本ではラッコの毛皮が珍重され中国への輸出品にもなりました。ラッコは千島列島周辺に多く生息し、近世には北千島のウルップ島が「ラッコ島」と呼ばれて一大産地となっていました。つまりこのラッコの毛皮を日本へもたらしていたのも、15世紀に北千島へ進出したアイヌだったことになります。

10世紀以降のアイヌは、異境の産物を求めて海を越え、日本と大陸を結ぶ中継交易者として活躍しながら、異民族や中国王朝との対立のなかに身を投じていった「ヴァイキング」でした。

自然と共生して生きてきたアイヌも、豊かさに目覚めると、グローバル経済に徐々に組み込まれ、己の行動様式も変化していったということなのだろう。

まさに、琉球王国が中継貿易で繁栄し、倭寇が暴れ回った時代、日本列島の北方でもアイヌが活発に活躍していたという事実は、私にとって眼から鱗の新発見と言ってもいいだろう。

こうしたアイヌの飛躍期は、江戸時代に入り、松前藩が和人との交易を独占した頃から大きく失速する。

このことは、「ウポポイ」のブログで書いた通りで、最終的には明治政府によってアイヌの独自文化は抹殺されてしまうのだ。

参考記事

<きちたび>1泊2日北海道胆振の旅⑥ 白老町に完成した国立施設「ウポポイ」でアイヌの歴史に触れる

吉祥寺@ブログ

カムイエカシ チャシ

瀬川氏の著書から離れて、最後に今回の北海道旅行で立ち寄った場所の話を書いておく。

その場所の名前は、「カムイエカシ チャシ」という。

「チャシ」というのは、アイヌが築いた「柵」で、和人と戦った際の砦であり、元々は聖域だったとも集会場だったとも言われるが、詳しいことはわかっていない。

文字を持たなかったことにより、アイヌの歴史はほとんど未解明のまま残されているのだ。

登別温泉から「ウポポイ」に向かう途中で立ち寄ったのだが、まったく観光化されておらず、一本の標識がポツンと立っているだけだ。

そこは、海に突き出した高台だった。

見回すと、一面笹などに覆われた草原が広がり、かつての北海道はきっとこんな感じだったんだろうと感じることができる。

今よりは獣が多かったとはいえ、こうした原野で日々の食料を得ることは大変であったろう。

和人の進出が進み、交易によって便利な道具や豊かな生活を見聞きするようになると、交易にシフトして和人に売れる獲物を集中的に捕獲するようになるのも理解できる。

縄文人から続いた自給自足の生活は、自然に感謝し共生する社会だったが、交易の進展によって人間の欲望に従って自然を征服していく社会へとアイヌも変化していったのだ。

背景には、日本人のニーズがあった。

そう考えると複雑な気持ちもするが、世界が急速にグローバル化する中で、アイヌがいつまでも縄文人のような暮らしを続けることは不可能だったことは間違いない。

重要なのは、和人の歴史だけではなく、アイヌや琉球の歴史にも関心を持つことだろう。

彼らを理解することは、私たちの中に流れている縄文人の血を少しでも理解する糸口になる。

明治政府が作り上げた天皇を頂点とした「万世一系の神話」から自由になって、考古学的な事実に基づいた科学的な研究が進むことを望みながら、私もひとつひとつ現地を訪ね、勉強を重ねていきたいと思う。

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