<吉祥寺残日録>吉祥寺図書館⑥ 姜吉云著「倭の正体 見える謎と、見えない事実」 (2010年/日本/三五館)#201205

このところ天気予報が当たらない。

「明日は晴れます」「明日こそ晴れます」と気象予報士は繰り返すが、今日も朝から曇っていて、寒くて、雨まで降っている。

一体、どうなっているんだろう?

なんだか、まったくやる気が起きない。

まあ、そんな週末だってある。

さて先月、対馬からの旅行から帰ってから、古代史に関する書籍をいくつか借りてきた。

稲作も仏教も、ひょっとすると大和朝廷も、朝鮮半島から対馬を通って日本列島にやってきた。

文化だけが伝わったのかもしれないし、多くの人が移住してきたのかもしれない。

文献資料がほとんどないので、人それぞれに想像力を膨らませ持論を展開するので、いつまで経っても邪馬台国がどこにあったのかさえ定説が定まらない。

若い時には古代史などには何の興味もなかったが、歳をとって暇になったせいか、このところ日本人のルーツがやたらと気になってきた。

その中に、真偽のほどは定かではないが、まったく新しい視点を私に与えてくれた本がこれだ。

姜吉云著「倭の正体 見える謎と、見えない事実」。

姜吉云さんは韓国の言語学者だそうで、古代の各地域語の比較言語学を専門とする。

この本のテーマは、タイトル通り「倭」の実体についてなのだが、「倭」と言えば日本のことを理解していた私にはとても新鮮な驚きがあった。

それは、「日本人は何者なのか?」という私の疑問に新しい視点を与えるものでだったので、今後の勉強の参考として気になった部分を書き残しておくことにする。

「倭」の正体

姜吉云さんの説のベースとなるのは、「倭」=日本人ではないということだ。

では、「倭」とは何者なのか、その部分を引用する。

「倭」といえばすぐ、「日本人」の前身すなわちアイヌ族を除いた日本列島内の原住民を指すもの、と思うのが常識になっているが、じつはそうではない。

「山海経」(撰者不詳、3世紀、中国)や「漢書」(班固撰、1世紀、後漢)、「史記」(司馬遷、BC1世紀、前漢)、「後漢書」(氾嘩撰、5世紀、南朝宋)、「三国志」(陳寿、3世紀、西晋)、「論衡」(王充撰、1世紀、後漢)などの記述に言及しながら、次のように定義している。

このような大昔の記録から推定すると、倭はもともと中国の華南・華中の沿岸地帯に分布して、水稲農業を基盤としながら沿岸貿易をさかんに行っていた。

それが漸次北上して、渤海湾に到着した頃には真番と称した。秦・漢の勢力の拡張に伴って、追われてその一派が沿岸伝いに、あるいは船の発達に伴って直接黄海を渡って韓半島の西海岸に到達したのが黄海道地方の南真番であり、さらに漸次南下し羅州(ナジュ)を経て南韓沿岸に到達して、弁辰諸国についで加羅諸国をつくり、ついには対馬・壱岐・筑紫(九州)に到達したものと考えることができる。

つまり、「倭」と呼ばれる人たちは、もともと中国に暮らし稲作を営んでいたが、中国大陸での戦闘を逃れて朝鮮半島に渡り、半島の南部に住み着いた「加羅族」全体を指すものだと言うのである。

倭が南韓にあったということは、日本でも井上秀雄著「任那日本府と倭」(1973年、東出版)や松本清張著「清張古代史記」(1982年、日本放送出版協会)にも書かれているそうだ。

日本列島の「倭」は南朝梁の沈約が487年に編纂した「宋書倭国伝」によって初めて海外に知らされた。そこには「倭国在高麗東南大海中」と書かれている。

ということは、5世紀末までの「倭」とは日本列島内の「倭」を指すのではなく、伽耶(駕洛国、「日本書紀」では加羅)を指す。

すなわち「三国史記」(勅撰・金富軾編、12世紀、高句麗)では筑紫や大和の倭を「倭国」とし、内陸深く入った戦闘にはだいたい「倭兵」を記し、船に乗って侵入した場合はだいたい「倭人」とし、100隻余りの大兵力で侵入した事件には必ず「倭人」としている。

「倭人」と「倭兵」を意識的に区別しようとしたのは確かである。

すなわち「倭兵」は韓半島内の倭(駕洛国)を指し、「倭人」は倭すなわち加羅族の連合兵力を指したものと言える。

つまり、一口に「倭」と書いてあっても必ずしも日本列島に住む日本人を指す訳ではなく、多くの場合は朝鮮半島南部に暮らす加羅族のことを意味したというのが姜吉云さんの主張なのである。

実際に、日本列島と朝鮮半島南部の出土品も似ているという。

墓制上から見て、伽耶と大和倭には同じく縦穴式石室の大型墳があり、しかもその墓から出土した王冠の飾りも同じく亀の甲の形をしているし、竜鳳紋の環頭大刀も同じく出土する。旧伽耶地域に属する陜川(ハプチョン)の玉川古墳だけでも四振り出ている。そればかりでなく短甲やその他の副葬品までがそっくりだ。

日本独特の出土物と言われていた巴形銅器・筒形銅器(銅鐸)・碧玉製鏃・套具・鉄鋌・舟形までもが近年旧伽耶地域で出土し、しかも前方後円墳や環壕住居跡も、もともと伽耶族が住んでいたと考えられる韓国西南部の栄山江流域や海岸地帯で同じく発見されている。

そうしたことから考えるに、少なくとも駕洛国(任那)と倭国の権力者は同族であると断じるのが自然であろう。

こうしたことから、姜吉云さんは、6世紀ごろまで「倭」の中心は朝鮮半島にあり、半島での勢力争いに押し出されるように3世紀ごろから多くの加羅族が日本列島に渡ってきたと主張しているのだ。

「倭」は今では日本を指す語であるが、6世紀半ば以前すなわち駕洛国(からこく=伽耶諸国)が滅びるまでは南韓にあった加羅諸国、とくに首都であった金官伽耶が倭の本拠であった。ところが、3世紀以後から駕洛国が漸次衰退するに従って日本列島にさらに多くの加羅族が移動して来て、邪馬壹国(筑紫倭)・多羅国・狗奴国や大和倭などの倭国を建て、後に大和倭を中心として今に至る日本国を造った。こうした流れを文献と言語学的見解で説明した私の推論である。

3世紀から4世紀ごろと考えられるヤマト王権の成立にも関わる大変興味深い推論だ。

日本の古代史は謎だらけ。

日本の文献史料としては、720年に完成した「日本書紀」が基本となり、それ以前のことは歴史と神話が入り混じり後世の人たちが都合良く読み解いてきた印象が強い。

姜吉云さんは韓国の研究者なので、朝鮮半島側から見た推論であることは十分考慮しなければならないが、頭を柔らかくして考えるためにはこうして視点を変えることも重要なのではないかと私は思う。

これからも日本の古代史について、少しずつ勉強していくつもりだ。

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