「パックス・ブリタニカ」、すなわち「英国の支配下の平和」。
今、世界の目を釘付けにしているパレスチナ問題も、元を辿れば「パックス・ブリタニカ」を世界中に広げたイギリス帝国主義の二枚舌外交にその原因がある。

そのイギリスを代表するスナク首相が19日イスラエルを訪問した。
ネタニヤフ首相と会談したスナク首相は、「純然たる悪」であるハマスとの「長い戦闘」において、イスラエルを支援することを「誇りに思う」と述べ、「私たちはあなた方と連帯し、あなた方の国民と共に立ち上がる。そして、あなた方の勝利を望んでいる」とバイデン大統領以上に熱烈な表現でイスラエル支持を明言したという。

スナク首相はイスラエルを訪問したその足でサウジアラビアに飛び、ムハンマド皇太子とも会談した。
両首脳は、「この2週間、イスラエルとガザで罪のない人々の命が奪われたことは恐ろしいこと」であるとの認識で一致し、「この地域でこれ以上のエスカレーションを回避する必要性を強調した」という。
そのうえでスナク首相は、「現在および長期的な安定を支援するために、この地域におけるサウジアラビアのリーダーシップを活用するよう、皇太子に働きかけた」と述べたらしい。
どうも二枚舌に映る。
サウジアラビアはイスラエルとの国交回復も噂されるアラブ穏健派であり、今のガザ市民に対し影響力を行使できるとは思えない国を選んで訪問しているあたりいかにもパフォーマンスくさい。

イギリスとパレスチナの関係は100年前に遡る。
あの有名な映画「アラビアのロレンス」の主人公であるイギリス軍将校ロレンスは、第一次世界大戦当時パレスチナの地を支配していたオスマントルコ軍と戦うために、分裂していたアラブの諸部族を説得し味方につけた。
単身で異文化の中に飛び込んで自らの利益のために巧みに操る、これぞ当時の大英帝国の流儀、まさに手本のような仕事ぶりである。
こうして中東で長年続いたオスマン帝国の支配は終わり、パレスチナはイギリスの委任統治領となる。
ところが、この戦争の最中、イギリスはアラブ人に対しては戦争に協力する見返りとして独立国家の樹立を約束する一方、アメリカの参戦に影響力を行使したユダヤ人に対してはパレスチナにユダヤ人定住地「ナショナルホーム」を築くことを約束していた。
おまけにイギリスは、フランス、ロシアとの間で中東を三分割する密約まで交わしており、これが世に言う二枚舌、三枚舌外交である。
ただ、アラブ人国家の範囲にパレスチナは含まれておらず、ユダヤ移民の「ナショナルホーム」も国家という表現は使用していないので矛盾しておらず、厳密に言えばイギリスは嘘はついていないのだという。
見方によってはこれもイギリス流の洗練された外交と言えなくもないのだが、このやり手弁護士のような二枚舌が今日まで続くパレスチナ問題の出発点となっているのだ。

私は今頃旅行しているはずの南太平洋に関する本を読んでいるのだが、その中に「パックス・ブリタニカ」に関する興味深い記述を見つけた。
本のタイトルは『太平洋の試練 ガダルカナルからサイパン陥落まで』。
アメリカの海軍史家イアン・トールが書いた大作で、南太平洋での旧日本軍と連合軍の激戦の経緯が克明にまとめられている。
その冒頭部分、激戦地となったガダルカナル島のあるソロモン諸島に関する記述の中に「パックス・ブリタニカ」という言葉が出てきたのだ。
第二次世界大戦前夜、ソロモン諸島には約十万人の褐色の肌のメラネシア人が住んでいた。更新世期に陸域と陸域をつなぐ地峡を渡るか、手彫りのカヌーで海を横断してアジアから移り住んできた古代の遊牧民の子孫である。彼らは何百年あるいは何千年も昔と同じように暮らしていた。小さな村々に、孤立した部族民あるいは家族単位で、ほとんどなにも身につけず、狩猟や漁獲、採集、養豚、そしてタロ芋やヤム芋を小さな畑で育てて、新石器時代のような生活を細々と営んでいた。約百種類の言語または方言を使っていたが、あまりにも言葉が異なるので、隣の部族同士でさえ、理解できないほどだった。共通語は“ビジン”と呼ばれる大雑把で手軽な英語の派生語で、その語彙は約六百種類にのぼった。彼らはいかなる国家意識も共有せず、自分の部族の血縁や祖先、聖地にのみ献身の義務を負っていた。
彼らの口承伝説には数々の野蛮な戦いが記録されていた。数世代の間に、歴史は伝説になり、さらに数世代の間に、伝説は神話になった。若者はある年齢に達すると、伝説的で神話的な血の復習の決着をつけるために武器を取った。そして、ライバルの部族や村に突然襲いかかり、敵を殺し、首を切り落とし、その肉を食べた。首狩りとカニバリズムは、現地民がヨーロッパの船乗りとはじめて定期的に接触するようになった19世紀の間、盛んに行われた。破廉恥な白人は“ブラックバーディング”と呼ばれる違法な奴隷売買に手を染めた。現地民を騙したり無理強いしたりして船に乗せ、オーストラリアへ連れて行き、砂糖黍農園で働かせるのである。被害者の部族民は、悪人らしき人間を見かけると片っ端から報復するきらいがあった。そのため、上陸した白人は首を切られ、祝宴のためにあぶり焼きにされる危険があった。その後、切り落とされた首は縮められ、彼を殺した人物が記念品として取っておいた。1893年にイギリスがソロモン諸島を支配下に置き、奴隷売買や首狩り、カニバリズムを等しく終わらせると誓うまでは、この諸島は地上で屈指の危険な場所という評判を得ていた。
民族自決や経済的搾取、政治的正当性といった問題をひとまず忘れると、歴史は半世紀の植民地支配がソロモン諸島で「英国の支配下の平和=パックス・ブリタニカ」を成し遂げたことを教えてくれるだろう。ロンドンは直轄植民地ではなく「保護領」として島々を統治し、現地民の問題に対して比較的限られた権限を行使した。島民たちは昔と同じように、部族の首長のもと、自分たちが受け継いできた習慣や掟に従って暮らしていた。首長は武器に頼るのではなく、植民地の役人に争いごとの仲裁を求め、言い渡された判決におおむね進んで縛られた。食糧が底をついた部族は救済を願い出ることができ、食べるものを与えられるか、耕作に適した土地や漁業権のある土地に移住することになった。これほど時を隔てると、果たして現地民のどれだけの部分が本当にイギリス政府を歓迎していたのかを知ることは不可能だ。しかし、1930年代には、公然と敵対するほどイギリスを憎んでいる者はごくわずかだった。保護領となったばかりの頃でさえ、イギリス当局に対する組織的叛乱は散発的で短命だった。1941年には皆無で、大半の島では治安を維持するための常備軍は必要なかった。ソロモン諸島の現地民は白人によって完全に威圧されていた。白人の武器や艦船、テクノロジー、そしておそらく何よりも飛行機によって。あのような不可解な力は彼らの知識の範囲を超えていた。それに逆らおうと考えるのは馬鹿げている。渋々従って、なんとか我慢したほうがいい。多くの島民はイギリスに熱烈に忠誠を誓い、やがて訪れる太平洋戦争でそれを証明する機会を得ることになった。
植民地政府の所在地は、ンゲラ諸島(別名フロリダ諸島)の夢遊病のような小島ツラギで、ずっと大きなガダルカナル島の30キロ北に位置していた。イギリス人は、全長5キロの砂時計のような形をしたツラギに、植民地暮らしに必須の象徴をすべてかき集めた。将校クラブ、兵舎、ホテル、堂々たる公邸、小さなゴルフコース、クリケット場、無線局、そして海港の基本的な生活の便益を提供する波止場地区。遠くの大きな島々は地区に分割され、各地区は地区行政官(DO)によって統治されていた。イギリス植民地文官としてのキャリアの第一歩を踏み出したばかりの若い未婚男性である。地区行政官は原始的な生活環境や、息の詰まるような暑さ、マラリアの再発性発作をものともしない人物でなければならなかった。そして、利用できる一番いい天然の港に近い、海岸沿いの慎ましい家で一人で暮らしていた。たいてい彼らの家は現地の行政本部を兼ねている。彼の責任の一覧表は非常に広範囲にわたっていたが、自分で声をかけて訓練し、雇った現地民以外にスタッフはいなかった。彼は総督であり判事、警察署長であり検視官、さらに徴税官、土木技師、記録係、港湾長、主計官、そして郵便局長だった。公的資金はすべて彼の手を通じてつぎ込まれ、公式の記録簿でその使途を1ペンス残らず詳細に説明することが求められていた。彼は泥だらけのジャングルの小道をとぼとぼと村から村へ歩き回ったり、住民の大半が集中している海岸沿いを小さな木造のスクーナー帆船で巡ったりした。
地区行政官は、他の典型的な白人島民と同様、「木から下りてきたばかりに過ぎない」現地民に対する自分の生来の権限に揺るぎない確信を持っていた。大英帝国の辺境の原始的な入植地でしばしば聞かれた、この不愉快きわまる言い回しは、植民地主義者の理論的な根拠を端的に言い表していた。しかし、イギリスは植民地に対する抑圧の全てに長けていて、賢明にも既存の社会秩序を超越するのではなくそれを利用して統治した。熟練した地区行政官は、村の大物に礼儀正しく意見を聞いてみせ、イギリスの権限と衝突しないときには常に現地の掟と習慣に従った。
必要最小限度の行政府だったが、これが必要とされる全てだった。植民地帝国同士の大いなる勢力争いで、ソロモン諸島が重要な意味を持ったことは一度もなかった。太平洋の基準からいっても遠く離れていて、近づき難かったからだ。貿易の面でも、天然資源の面でも、ほとんど得るものはなかった。ヨーロッパ人はほとんど訪れなかったし、ここに留まる気になる者はもっと少なかった。1941年には、諸島全体で500人から600人の白人が暮らしていた。その職業は農園の支配人、海運業者、交易商人、山師、商店主、医師、植民地行政官、そして伝道師など、さまざまだった。ほとんどの人間が、仕事の都合で、またはひと財産築いて、ここから出ていけるようになる日を楽しみにしていた。ソロモン諸島は過酷な任地だった。気候は蒸し暑いモンスーン気候。雨に濡れそぼつジャングルとマングローブの沼地は南国の熱病と皮膚病をもたらす。マラリア、デング熱、黒水病、赤痢、フィラリア症、ハンセン病、象皮病、あせも、そして塹壕足炎。川や沼地には鰐と蛭が潜み、攻撃的な鮫が沿岸を縁取る珊瑚礁を遊弋している。蠍や蜘蛛、百足や蛇が刺し、噛みつく。縁がナイフのように鋭利な茅萱の葉は、通り抜けようとする者たちの肌を切る。猫ほどの鼠がジャングルの藪をちょろちょろと走り回る。古株の言葉によれば、この諸島の最高の眺めは、旅立つ船の船尾からの光景だという。
これが1941年のソロモン諸島だった。大英帝国の辺境の入植地。政治経済の僻地。戦略上取るに足らない場所。単なる付け足し。それが1942年、突如として激変することになる。
引用:「太平洋の試練 ガダルカナルからサイパン陥落まで」より
「植民地」という言葉は学校でも習い、悪のイメージがこびりついてしまっているが、こうして読むと、全く言葉も文化も違う異国を統治するというのは容易なことではないことがわかる。
日本語を強制し、名前まで変えさせた大日本帝国の植民地統治に比べて大英帝国の統治は洗練されていたのだ。
だから、独立した今日でもソロモン諸島やパプアニューギニアではイギリス国王を国家元首に据えたままである。

世界各地で列強が争って植民地獲得競争を繰り広げた時代、最後に勝利を収めたのはイギリスだった。
他の国が見向きもしなかったソロモン諸島での統治ぶりは、なぜイギリスが帝国主義時代の覇者となったのかを知る手がかりとして私にはとても新鮮だった。
目先の利益にこだわらず、現地の状況をしっかりと理解した上で必要最低限の統治を行う。
そんな洗練されたイギリスでも、古い歴史と宗教が絡んだパレスチナの問題はうまくコントロールできず、「パックス・ブリタニカ」は実現できなかった。
第二次大戦後、ホロコーストで多大な犠牲を払ったユダヤ人の国家をパレスチナに建設しようという動きが急速に高まった時、イギリスは消極的で1948年ついにパレスチナから逃げ出した。
現地の複雑な事情を一番よく理解していたからかもしれない。
イギリスが去ると同時にユダヤ人はイスラエルの建国を宣言、戦後世界のリーダーとなったアメリカがこれを強く後押しした。

イスラエルから帰国したバイデン大統領は19日夜、国民向けのテレビ演説を行い、イスラエル支援をウクライナへの支援と結びつけて総額1000億ドルの緊急予算を連邦議会に要請すると発表した。
野党共和党の反対で厳しくなっているウクライナ支援に今回のパレスチナ問題を絡ませて、ハマスやプーチンから「民主主義を守る戦い」と位置付ける狙いだ。
共和党はもともとイスラエルとのつながりが強いことを逆手に取った形だが、それほどにアメリカにおいてイスラエルというカードは強いのだ。
しかしこうした武力に頼ったアメリカ流の「パックス・アメリカーナ」では、パレスチナの問題は解決しないだろう。
植民地時代を美化することはできないが、現地の事情を調べ上げる大英帝国のようなしたたかで洗練された統治が今の時代には必要な気がする。
そういう意味でも、スナク首相の稚拙な二枚舌外交には正直ガッカリさせられた。