<吉祥寺残日録>シニアのテレビ📺BS1スペシャル「ヒトラーに傾倒した男〜A級戦犯・大島浩の告白〜」 #210827

岡山の帰省から戻って以来、ずっと家に引きこもり録画したテレビ番組を見続けている。

8月といえばやはり戦争に関連した番組が多いのだが、戦争を遂行した当事者たちがこの世を去ってかなりの年数が経ったこともあり、昭和の戦争もかなり客観的にとらえる歴史になりつつあると感じた。

イデオロギー色が薄れて、あの戦争がどのようにして起きたのかを検証する上で重要な資料が次々に見つかっているのだ。

中でも興味深かったのは、第二次大戦当時に駐ドイツ大使を務めた大島浩の証言テープである。

ヒトラーともたびたび面会しナチスに太いパイプを持った大島は、日独伊三国同盟を画策し日本の戦争とドイツの戦争を結びつけてアメリカを引き込む世界大戦に導いた人物ともいえる。

この大島が1973年に録音したインタビューテープが存在した。

大島にインタビューしたのは明治大学の国際政治学者・三宅正樹名誉教授。

「あなたには何でも喋るけれども自分が喋ったことが外に出ると、大島は自己弁解をしているというふうに受け取られるおそれがあるから絶対に外に出さないでくれ。自分は失敗した人間である。日本という国を誤った方向に導いた。そういう失敗をした人間であるから、弁明はしたくない」

大島はそう言って、テープの公表をしないことを条件に録音を許したという。

このテープをもとに製作されたドキュメンタリー番組から、私が面白いと感じたポイントを書き残しておきたい。

大島はヒトラーの別荘に招かれ2人で長時間話し合ったこともあったという。

大島はテープの中でこんな話をしている。

『ヒトラーがね、なにしろ変わってますからね性格が、常人の物差しじゃ非常にやりにくいとこがあるんですよ。私は非常に心やすくなったんですがね。

非常に人の言う意見「お前どう思う、お前どう思う」と聞きたがるんですね。その時に黙っていたり変なこと言っちゃいけないんです。ヒトラーというやつは考えますからね。天才であることは疑いのないことでしょうからね。』

大島は、非常に朗らかで陽性な人だったという。

幼い頃からドイツ式の英才教育を受けて育った大島は、日本の軍人みたいに厳格ではなく、磊落で冗談が多く、流暢なドイツ語を話せた。

ナチス政権誕生の翌年の1934年、ベルリン駐在の陸軍武官として赴任した大島は、のちの外相リッベントロップと接触するようになる。

『あの時分の情勢はですね、ソビエトは敵であることには変わりないわけです。秘密条約を結ぼうではないかということをリッベントロップに話したんです。そしたら彼も同意して、やろうということになった』

2人の密談は、1936年11月25日の「日独防共協定」として実を結ぶ。

このことが評価され、1938年には駐ドイツ特命全権大使に任命されると、ヒトラーに接近、たびたび別荘に招かれ悩みを打ち明けられるほどの信頼を得た。

『私、こういうこと言われたことありますよ。「実際、独裁者というものは辛いものだ。自分の決心ひとつで全国民の利害に関係がある」と。「議会があれば責任はそれにあるんだから非常に楽だけれども」。それはね、偶然酒の話から出た。「総統、酒を召し上がりませんか」と言ったら、「いや私は酒は飲みます。だけど、独裁者としては酒は飲みません」と言う。「いつどんな重大な判決をしなければならない場合があるか分からないから」。それを聞いて、なるほどと思ってね。』

大島は、1940年9月27日に調印された「日独伊三国同盟」についても語っている。

『あれは私が言い出したんですからね、三国同盟。日本だって支那事変をやってイギリスやアメリカに睨まれてますからね、おそらく日本政府は(同盟を)やることには応じるだろうと。』

この頃の大島は、ドイツが日本に相談することなく「独ソ不可侵条約」を結んだことで大使の職を失い、一民間人の立場だった。

『スターマー(ドイツ特使が)来た時に私はもう(大使を)辞めておりましたけど、一番初めにスターマーが訪ねてきたのは私の家なんですよ。松岡(洋右)氏が私に来てくれと言うので松岡氏訪ねて、スターマーに会ったこともなければどんな人間かも知らないものだから、スターマーという人間はどうだこうだという話をした。そこで(スターマーに)至急ひとつ松岡大臣に会ってくれと俺は電話かけるからと言って、そして電話かけて彼が松岡さんところへ行ったわけです。』

『私に「一案書いてくれ」と言いましたよ。その内容の骨子をね。参考に骨子ひとつ書いてくれ」とね。それで出しましたがね、骨子を』

松岡に頼まれ手元にあった便箋に急いで書いた骨子がもととなって、軍事的な相互援助を定めた「日独伊三国同盟」が作られたのだという。

スターマーの来日からわずか20日後の調印だった。

同盟締結の半年後、大島は再びドイツ大使に返り咲く。

大島はベルリンからドイツ優勢の情報を流し続ける。

真珠湾攻撃の2ヶ月前に独ソ戦について送った報告。

「ドイツは計画通り厳冬期前にソ連軍に殲滅的打撃を与え、ソ連の資源の大部分を押さえて再起不能の状態にできるだろう」

これについて大島はテープの中でこう語っている。

『私は2回ドイツの軍を視察しているんです。実に立派にできている。今考えると、大体ドイツが勝つだろうという前提に立ってやったわけなんですよ。』

『私が陸軍武官の時は、軍が強いか弱いか見ていればいいけれど、大使になれば総力ですね。経済力だとか産業だとか、そういうことに関する判断もしなければならない。経済力、生産力なんていう判断は全くやってないんですよ、私はね。軍力だけでこれは勝つだろうと。』

日本国内にはドイツの国力を冷静に分析している人たちもいた。

陸軍中佐秋丸二郎を中心とした「秋丸機関」の報告。

「ドイツの抗戦力は1942年から次第に低下せざるを得ない。独ソ戦が短期間で終わるか、長期戦になるかで大戦の運命も決定される。」

しかし力を持っていた大島の情報にかき消され、日本はドイツとの同盟にのめり込んでいく。

戦後、東京裁判でヒトラーとの親密な関係も否定した大島は死刑を免れ終身刑、1955年には釈放された。

ノンフィクション作家の保阪正康さんは、「バスに乗り遅れるな」という当時の空気を指摘する。

『「バスに乗り遅れるな」ということは裏返せば「強い者につけ」という実に単純な考えです。そういうものが永久普遍なのか。状況は動くわけですから、その状況の中で国家ビジョンを持って見る目を持たないと国論は進む方向など危なくて為政者に任せられないということになるのではないか。その責めを大島さんだけに負わせるのはかわいそう。私はかわいそうだと思う。しかし大島さんを見ることによって、そういう問題点が浮き彫りになってくるということは知らないといけないと思います。』

もう一本、蒋介石が残した日記についても、私が知らない興味深い事実を教えてくれた。

NHKスペシャル「開戦 太平洋戦争〜日中米英 知られざる攻防〜」。

中国国民党を率いた蒋介石は劣勢だった日中戦争を打開するため、米英の介入を目指して巧みなプロパガンダを展開していた。

その舞台裏について、番組に沿って見ていきたいと思う。

2006年から公開が始まった蒋介石の日記。

満州事変以降15年間にわたる日記を全て書き取った研究者がいる。

大東文化大学の中国人研究者・鹿錫俊教授。

アメリカのフーバー研究所で保管されている蒋介石の日記は遺族の意向でコピーや撮影が許可されておらず、鹿さんは毛筆で書かれた膨大な日記を10年かけて筆写しデジタル化した。

鹿教授は言う。

「蒋介石はずっと中国の力が弱くて内部はばらばらという状態の中で、一対一では日本に勝てないけれども第三国の力も利用できれば日本に勝てるという蒋介石の発想、これがいわゆる蒋介石の国際的解決という発想ですね。」

1937年8月13日に起きた第二次上海事変。

盧溝橋事件から1ヶ月後に発生したこの戦闘が、蒋介石が巧妙に仕掛けた最初の戦いだった。

日本の総理近衛文麿は「暴支膺懲」を訴え、陸軍内では「対支一撃論」が高まるが、上海戦では日本兵2万人が命を落とした。

中国軍の上海戦指揮官の一人・張発奎は戦後こう証言している。

「我々が上海事変を起こしたのであり、その逆ではない。国際的な干渉を引き起こすのが狙いだった。」

欧米列強の租界があった上海をあえて戦場に選んだのだ。

極東での戦争を「国際化」し介入を引き出すのが一貫した蒋介石の戦略だった。

1937年12月5日の蒋介石の日記。

『国際情勢は徐々に不利な状況に陥りつつある。それでも極東の情勢に変化を引き起こさなくてはならない。』

上海陥落後、近衛内閣は事態の収拾を模索するが、軍部が一気に首都南京を陥落させたため、和平の機運は吹っ飛んでしまう。

日本の指導者たちは和平の条件を釣り上げてしまう。

1937年12月26日の日記。

『もし日本が柔軟な条件を提示していれば政府内で対立が起き、動揺すると懸念していた。いま、このような過酷な条件を見て安心した。我が国はこれを受け入れる余地はない。政府内で対立が起こることもない。』

さらに日本は強気な姿勢を取る。

「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず」という有名な第一次近衛声明である。

これにより日中戦争はますます泥沼化し、蒋介石は首都を重慶に移して長期持久戦を新たな戦略とした。

蒋介石は、アメリカ国内で元国務長官スティムソンを長とする「日本の侵略に加担しないアメリカ委員会」に資金援助を行い、アメリカの姿勢が中国侵略を支えていると訴えた。

この時期、重慶を中心に日本軍は中国各地で激しい爆撃を行なっていて、中国の惨状を訴える宣伝活動が少しずつアメリカの孤立主義を変えていった。

蒋介石が国民政府の高官にあてた命令書。

「毎月の10万ドルの対米宣伝経費は惜しんではいけない。現在の外交情勢を見ると、イギリスは深思熟慮の国であり説得が難しい。アメリカは世論を重視する民主国家であるため、動かしやすい。世論が同意し、議会も賛同するならば、大統領は必ず行動する。」

1940年9月27日の日記。

『このニュースが事実であれば、我が抗日戦の困難はまた一つ減ったことになる。人知の及ばないまさに神の助けである。』

「このニュース」とは日独伊三国同盟の締結。

第二次世界大戦が勃発し欧米の関心がヨーロッパに集中するとともに、東南アジアからの「援蒋ルート」が断たれ最大の窮地に陥っていた蒋介石にとって、三国同盟はアジアにアメリカの関心を引き戻す格好の材料となったのだ。

蒋介石が部下に送った手紙には・・・

「日本はドイツ、イタリアと互いに利用しあおうとしたが、実際の効果は得がたくかえって自身の孤立を深め危機を招くのだ。日本が手に入れたのは有名無実の同盟関係だけで、反対に中国は強大な戦友を獲得したのだ。」

蒋介石は、「中国が抗日戦から手を引く」という可能性を示唆しながら英米との関係強化を迫った。

1940年10月16日、蒋介石と英国大使の会談。

「我々がイギリスとアメリカに切望することは外からの手助けだけでなく、仲間として利害をともにすることです。我々は2ヶ月のうちに新しい局面に適応する新たな政策を決めるつもりです。」

アメリカは日本へのくず鉄輸出禁止を決め、中国に対しては5000万ドルの追加借款と航空機をすることになった。

1940年11月14日の日記。

『アメリカやイギリスと同盟が結べなければ、日本との戦争を継続するかどうか考え直さねばならない。今日の外交政策には、英米路線、独日路線、ソ連路線という3つがある。』

蒋介石は、英米との提携がならなかった場合には、日本を含む枢軸国と組む選択肢も考えていたというのだ。

1940年11月27日の日記。

『中日の平和を実現した後、中日提携の気勢を利用して米英ソに中国との切実な提携を実行させる。これによって中国は国際社会において真に平等な地位を獲得し、中華民族を解放し、我が抗日戦の最終的な目的を達成する。』

しかし、この翌日、日本は蒋介石との和平交渉を捨てて、汪兆銘政権を承認する方針を固める。

1940年11月28日の蒋介石の日記。

『日本は無礼で信義のない国である。これ以上の交渉は絶対にしないと部下に強く言った。』

翌年7月、日本は中国との持久戦を維持するため、南部仏印への進駐を開始する。

これがアメリカの対日石油全面禁輸を招く。

蒋介石はルーズベルトに手紙を出す。

「ひとつはルーズベルト大統領からイギリスとソ連に中国と同盟を結ぶよう提案してほしい。もうひとつは中国がアメリカやイギリスなどによる太平洋の防衛会議に参加できるようにしてほしい。中国は太平洋の安全を脅かす日本と戦っているのに参加が認められないのはおかしいではないか。」

しかし8月、大西洋上で会談した米英首脳はこの求めに応じなかった。

1941年8月9日の日記。

『イギリスもアメリカもソ連も日本と戦いたくない。日本が自滅の道を歩まない限り我が国の活路は切り開けない。』

1941年8月20日の日記。

『英米政府の本音と対応は極めて卑劣である。日本に対してただ現状維持だけを希望している。現状維持は日本の中国侵略を容認することで、その本質は黄色人種に殺し合いをさせることだ。』

アメリカが妥協しようとすることに危機感を募らせた蒋介石は各国に打電、戦況悪化を過大に伝えた。

「完全に信頼できる筋から情報が入った。日本が南部からの攻撃によって中国とイギリス、アメリカとの連絡を切断するというものだ。長期にわたる戦争の中で初めて、私たちの抗戦が崩れる深刻な危機に瀕している。私たちの未来はあなたの手の中にある。」

これを受け取ったイギリスのチャーチルは、その電文に「我々は彼を助けるべきだ」と書き込んだ。

そして、チャーチルはルーズベルトに書簡を送る。

「日本との交渉は大統領にお任せしていますし、これ以上の戦争も望んでいません。ただ一つの懸念は中国です。もし中国が崩壊すれば我々の直面する危機はさらに大きくなるでしょう。」

チャーチルにとっても、アメリカが戦争に加わることが勝利の必須条件だったのである。

これにより、アメリカは日本に対し強硬姿勢を強め、結果として日本は真珠湾攻撃に踏み切ることになった。

1941年12月8日、蒋介石の日記。

『本日、我が国の抗日戦略の成果は頂点に達した。しかし、物事は極まれば必ず反す。警戒しなくてはならない。』

これまで孫文に比べて凡庸な指導者というイメージを持っていた蒋介石だが、どうしてどうしてすごい戦略家だったということを初めて知った。

「暴支膺懲」という言葉が表すように、かつての日本人は中国人を蔑視し、相手を知らないまま自らの論理だけで戦線を拡大していった。

しかし、日本と中国の指導者を比較すると、どう見ても蒋介石の方が近衛や東条、さらには日本の軍上層部よりも優秀だったように見える。

大島浩の番組にも登場する日独伊三国同盟について、こちらのNHKスペシャルでも興味深い視点が示されていた。

三国同盟の条約案の骨子を作るための外務省・陸軍省・海軍省の中堅官僚による会議の議事録にはこんなやりとりが残されている。

海軍省・柴中佐

「戦後ドイツは南洋・支那などを狙って経済的に大いに進出してくるだろう」

外務省・安東課長

「蘭印仏印についてはドイツが日本に政治的指導権を認めまいとするのではないか」

陸軍省・高山中佐

「今のところ日本としては、ドイツが仏印蘭印をも政治的にとらんとする意向のものとして考え、これに対処しなければならぬ」

要するに、戦争が早期にドイツ勝利の形で終わり、アジアの権益を全てドイツに取られることを危惧していたというのだ。

それを防ぐために、当時のエリートたちは三国同盟案に飛びつき、日本も分け前に預かろうとした。

まさに、「バスに乗り遅れるな」である。

今となって、結果がわかってから判断の誤りを断じるのは容易だ。

しかし、勝敗の行方はもちろん、アメリアの参戦の有無さえわからない状況で、それぞれの指導者は難しい判断を迫られただろう。

結果的には、勝利したものの判断は正しく、敗れたものの判断は間違っているように見えるが、もし勝敗が逆であったなら、歴史の見方も真逆になってしまうのである。

大島浩と蒋介石。

激動の時代を生き抜いたキーマンたちの判断は、多くの人たちの人生を左右した。

大事なことは、私たちが歴史を正確に知り、そこから今の時代に適合した教訓を学び取ることである。

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