<吉祥寺残日録>シニアのテレビ📺NHK特集「私は日本のスパイだった〜秘密諜報員ベラスコ〜」 #210811

オリンピックが終わり、テレビは通常の8月に戻った。

8月6日の広島、9日の長崎の原爆、そして15日の終戦記念日。

戦後76年、テレビは今年も戦争を扱った番組であふれている。

ことさらに原爆という「被害」にスポットライトを当て、中国や朝鮮で日本が行った「加害」や戦争を煽った一般世論について真正面から扱うことを避けているという問題はありつつも、毎年夏になると昭和の戦争を検証し伝え続けてきたというテレビの姿勢は、「平和国家」日本の土台となっていると私は思う。

現役時代、私は目先のニュースに追いまくられて過去の戦争のことを取材したり番組にしたりする機会はなかったが、隠居となった今年の夏、改めてそうした戦争にまつわるテレビ番組をじっくりと見てみることにした。

そんな中に、私がテレビ局に入社した年に放送されたドキュメンタリー番組があった。

1982年に放送されたNHK特集「私は日本のスパイだった〜秘密諜報員ベラスコ〜」。

この年、芸術祭でテレビドキュメンタリー部門の大賞を受賞した作品で、戦時中日本が中立国のスペインを拠点にアメリカ国内でのスパイ網を作っていたという内容ある。

NHKのサイトにはその内容が次のように書かれていた。

公開されたアメリカの機密文書を糸口に、太平洋戦争中に行われた日本の諜報活動の実態に迫ったドキュメンタリー。アメリカに潜入して多くの機密情報を日本に送り続けたのはスペイン人のスパイ組織。リーダーはアンヘル・アルカサール・デ・ベラスコという人物だった。戦争末期には開発中の原爆についても警告を発し続けたが、日本の上層部はその情報を無視した。

引用:NHK

太平洋戦争が始まりアメリカ大陸にある大使館などの情報拠点をすべて失った日本は、駐スペイン公使だった須磨弥吉郎が中心となり「東(とう)」と呼ばれたスペイン人によるスパイ組織を作る。

須磨は外務省の情報部長などを歴任し「情報の須磨」として知られた。

この組織を率いたベラスコはスペインの諜報部員としてロンドンで諜報活動に従事した人物で、須磨と一緒にマドリードに赴任した一等書記官・三浦文夫がベラスコとの連絡役を担った。

取材班はかつて日本大使館で働いていた人物を通じてベラスコにたどり着き、直接インタビューを行った。

日本が雇っていたスパイが自らテレビに出てくるのはおそらく初めてだっただろう。

取材自体はとても簡単で、取材側の要求にベラスコは何でも応じてくれたことが画面から伝わってくる。

ベラスコが指定した闘牛場のシートで取材班と初めて接触するなどというシチュエーションは、スパイ映画をもじったパロディーのようで、今時なら「やりすぎ」と指摘されるヤラセそのものである。

それでもベラスコの記憶は極めて鮮明で、戦時中日本がどのような情報を手に入れていたのかについて重要な証言を引き出す。

1941年12月22日、ベラスコと須磨、三浦が密会したスペイン料理店「ラ・バラカ」には、彼らが書いたサインが残っていた。

この日誕生したスパイ組織「東」のメンバーは12人で、ニューヨーク、ワシントン、ニューオリンズ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、サンディエゴに2人ずつ配置した。

東海岸のメンバーはカムフラージュで、本当のスパイは西海岸の6人で、1942年8月頃にはスパイ網が完成する。

最初は、兵器の製造能力や港を出る船団の情報などを日本側は求め、ベラスコは次のような情報を日本側に渡した。

  • 1942年7月27日「14隻の船団がボンベイに向けサンフランシスコを出発、戦闘機・爆撃機を満載」
  • 1942年8月3日「多数の工場が航空機生産にのりだした。フォード社でも1ヶ月300機の能力の向上が能率をあげて500機を完成させた」
  • 1942年8月14日「ソロモン諸島に上陸した部隊があと1ヶ月持ち堪えられるならば、米軍は強力な増援部隊を派遣するであろう」
  • 1942年8月31日「米軍は太平洋の島々の占領計画を策定、米海軍は当面戦力を太平洋方面に集中する方針」

「東」のあるスパイは、サンディエゴのサン・ルイス・レイ教会で神父になりすまし出征する海兵隊兵士から懺悔を受ける形で情報を取った。

日本側からの報酬は最初月額4000ドルだったが、その後6万ドルに、さらに組織が活発に動き出すと最高50万ドルが三浦一等書記官から支払われたという。

しかし、日本はこうした「東」からの貴重な情報を活かせず、ガダルカナル島で悲惨な敗北を喫する。

アメリカ太平洋艦隊の情報参謀は次のように語った。

『戦時中、私は日本にもちゃんとした情報組織があると思っていたが、日本の連合艦隊にはなんと情報参謀がいなかったのだ。通信参謀や暗号参謀は確かにいたが情報を効果的に使うためには司令官直属で情報を把握し判断する人間が必要だ』

ベラスコも取材班にボヤいた。

『日本は情報の使い方が下手だ。利用の仕方を知らなかったか、それとも情報を利用するのが嫌いだったのだろう。情報がどんなに大切かを知っている人もいただろうに』

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その中に、原爆開発に関する情報もあった。

アメリカは始めたマンハッタン計画は国家の最高機密として進められていたが、アメリカ側の資料に「東」情報を傍受した記録が残っていた。

1942年10月、「東」が日本に送った電文。

『ある陸軍士官によれば、化学研究所で爆発の際広範囲に1000度以上の高熱を発する爆弾を開発した』

日本は、アメリカの核兵器開発を1942年には知っていたのだ。

そしてその3ヶ月後、陸軍は理化学研究所の仁科芳雄博士に新型爆弾の研究を要請する。

1943年4月、ラスベガスで原爆の情報を集めていたスパイの一人が暗殺された。

そして1944年、アメリカの諜報部員がベラスコを追ってスペインに潜入、ベラスコは国外に逃れスパイ組織「東」の活動も終わりを告げたという。

日本での原爆開発を追った番組も、この夏、複数放送された。

その一本がETV特集「日本の原爆開発〜未公開書簡が明かす仁科芳雄の軌跡〜」である。

戦時中、日本が極秘に進めた原爆開発。それを率いた物理学者・仁科芳雄が記した1500通の未公開書簡が発見され、謎を解く鍵と注目されている。石油をめぐり戦争の危機が迫っていた当初、仁科はウラン分裂のエネルギーに期待。留学し欧米の友人が多かった仁科がその後、原爆研究に巻き込まれていく心の変遷も明らかになった。科学者の理想と軍の思惑、そして広島で見た衝撃の光景。人々を翻弄した戦争の実像に迫る。

引用:NHK

「日本の物理学の父」と呼ばれ陸軍の要請を受け原爆研究を行った仁科芳雄は、知人に送った手紙をカーボン紙を使って複写を取り保存していた。

最近発見された仁科芳雄の手紙をもとに日本の原爆開発の実像に迫ったのがこの番組である。

昭和13年から22年に書かれた1500通に及ぶ書簡を読み込んだ科学史の研究者、総合研究大学院大学の伊藤憲二准教授はこう語る。

『最初から爆弾を作ることが目的だったのではなく、原子核から得たエネルギーを平和目的に動力源等の戦争以外の動力に使うという研究が、だんだん戦況の変化とともに研究の性格が変質してより原爆を作ろうとする方向に向かっていった。そのプあロセスみたいなものが読み取れる。』

仁科が世界最先端の基礎物理学と出会ったのはデンマークのコペンハーゲン。

大正12年、コペンハーゲン大学理論物理学研究所に留学した仁科は、「科学に国境はない」という理念のもと世界中から迎えられた若い研究者たちと大いにユーモアを楽しみながらみんな一緒に大変な仕事に取り組んだ。

5年半のコペンハーゲン滞在とアメリカ視察を終え1931年に帰国した仁科は、理化学研究所に研究室を構える。

上下関係にこだわらないヨーロッパ流の自由な研究環境を整え、欧米の学術誌も積極的に取り寄せた。

1932年、物質の根源を解き明かす画期的な論文が届く。

それまで謎だった原子核が陽子と中性子からなり、陽子と中性子の数を変えることができればどんな元素も作り出すことができるという発見だった。

同じ頃アメリカでは「サイクロトロン」という加速器の一種が開発される。

原子核を加速させ別の原子核とぶつけることで人工的に原子の種類を変えることができるこの装置の発明で、まだ見たことのない新たな原子を作り出す国際的な競争が始まった。

仁科は日本にも大型のサイクロトロンを作ろうと資金集めに励むが、日中戦争の泥沼化によって資材の調達さえままならない状況が続く。

そんな中1939年、世界を揺るがす論文が海外からもたらされた。

ドイツのオットー・ハーンらが発見したのは、ウランの原子核に中性子を当てると2つに分裂し、その際莫大なエネルギーが発生するという事実だった。

しかもウランが分裂する際に数個の中性子を出し、それが別の原子核に当たり核分裂の連鎖が起こると、そのとき生み出されるエネルギーはウラン1グラムで石炭数トン分にも匹敵することが分かったのだ。

この重大な発見を受けて、ナチスドイツの迫害を恐れアメリカに亡命したレオ・シラードがアインシュタインと連名でルーズベルト大統領に書簡を送る。

「非常に強力な新型爆弾が製造される恐れがある」というこの書簡がきっかけとなり、ナチスの新型爆弾を恐れたアメリカは原子爆弾を開発に着手することになる。

一方、日本でも原爆計画があったとする報道が1955年朝日新聞によってなされた。

仁科芳雄が陸軍航空本部航空技術研究所長だった安田武雄中将に爆弾としての可能性を持ちかけたというものだった。

しかし今回発見された書簡から、仁科や陸軍は当初動力源として核分裂を使うことに興味を持っていたことが分かった。

当時の日本はアメリカから石油を止められ、軍艦や航空機に使用する燃料が決定的に不足していた。

仁科は研究予算を獲得するために陸軍と手を結んだ。

太平洋戦争が勃発すると理化学研究所には全国から優秀な研究者が集められた。

東京帝国大学の木越邦彦は6フッ化ウラン製造を担当、竹内柾はウラン235を取り出す濃縮技術の開発を、玉木英彦が理論計算を担った。

1943年、この玉木が陸軍に提出するために一つの計算を行った。

動力源としての利用が困難なのに対し、爆発的な反応であれば実際に起こせそうだということが詳しい計算で確かめられたのだ。

この報告に、陸軍航空本部川嶋虎之輔大佐は度肝を抜かれる。

当時の首相兼陸相・東条英機が川嶋に原子爆弾の開発を命じたのはガダルカナルから撤退した1943年だとされる。

この年の9月16日には仁科らの研究に「ニ号研究」という暗号名が付けられた。

仁科の書簡にも変化が表れる。

「動力源」という言葉が消え、代わって「特殊爆発」という用語が登場するようになった。

陸軍から多数の技術将校が派遣され多額の資金が投入される。

木越がわずかながら6フッ化ウランの製造に成功、竹内もウラン濃縮のための分離塔と呼ばれる装置を完成させ、国会や新聞でも新型爆弾への期待が高まった。

しかし、仁科のチームでは壁にぶち当たっていた。

ウランが十分に入手できないうえに、ウラン235を分離する技術もまだ確立されていなかったのだ。

そして1945年4月の空襲で、理化学研究所も焼失し、仁科研究所は分離塔ごと焼け落ちてしまう。

金沢に拠点を移して分離塔の再建を目指すが、7月12日、陸軍は原爆開発の中止を決定。

すぐに成果が出る見込みがなく本土決戦に集中するというのが理由だった。

日本の原爆開発に関しては、もう一つのドキュメンタリーも放送された。

BS1スペシャル「原子の力を解放せよ〜戦争に翻弄された核物理学者たち」、去年8月にドラマ「太陽の子」と共に放送された番組の再放送である。

こちらの主人公は京都帝国大学の核物理学者・荒勝文策博士。

荒勝は海軍の依頼を受け、「F研究」と呼ばれる核分裂反応を利用した原子爆弾の可能性を研究していた。

太平洋戦争末期、海軍は「原子の力を使った新型爆弾の可能性」を京都大学の科学者に探らせる。彼らの専門は原子核物理学、物質の本質に迫る基礎研究。複雑な思いを抱えながら研究を続ける。そして、広島・長崎への原子爆弾投下。爆心地で調査を行った彼らが見たのは、原子の力が生んだ膨大なエネルギーが破壊した世界だった。アメリカに没収された資料と関係者の話から、科学者たちの思いを描き、科学技術が持つ光と陰に迫る。

引用:NHK

荒勝は1926年ベルリン大学に留学した。

世界の核物理学研究の中心地だったドイツでアインシュタインの授業も受け議論も交わしたという。

その後イギリスに渡り、原子核を発見したラザフォードが所長を務めるケンブリッジ大学キャベンディッシュ研究所で実験を重んじる研究を学び、大きな影響を受ける。

2年間の留学後、台北帝国大学の教授に就任した荒勝は、アジアで初めての「コッククロフト・ウォルトン型加速器」という装置を作り数々の成果をあげ、京都帝国大学に迎えられた。

しかし、第二次大戦が始まると、世界中の核物理学者たちは原子爆弾の開発に巻き込まれていく。

海軍技術将校・三井再男大佐は以前から海軍が研究費を助成していた荒勝のもとを訪ね、原爆の基礎的な研究を依頼する。

1944年秋、通称「F研究」はスタートした。

荒勝のほか、京都帝大の湯川秀樹など14人の科学者が戦時研究員として関わった。

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アメリカは、優秀な科学者を擁するナチスドイツが原子爆弾を開発することを恐れ、マンハッタン計画のメンバーでもあったロバート・ファーマン少佐に諜報活動を命じた。

1944年9月、ファーマンは「ALSOS(アルソス)」と呼ばれた諜報組織を率いてベルギーに潜入する。

最大の標的は31歳でノーベル賞を受賞した天才物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルク。

ドイツ南西部の小さな町ハイガーロッホの洞窟にハイゼンベルクは原子炉を作り、核分裂の連鎖反応の実験を行っていた。

しかし実験が成功する前に、1945年4月23日、原子炉はALSOSに見つかりハイゼンベルクも拘束された。

科学史家マイケル・シャーフさんは・・・

『ドイツが成し遂げたのは数グラムのウランを濃縮したことだけでした。原爆には程遠い状況でした』

この頃米軍に拿捕されたUボートに560キロのウランが積まれているのが見つかった。

目的地は日本。

日本でも原爆開発が行われているのではないか、アメリカが疑惑の目を日本に向けた。

終戦後の1945年11月21日、アメリカ軍の将校が荒勝研究室にやってきて、建設中だったサイクロトロンを破壊し、すべての実験ノートは没収したのだ。

日本の原爆調査を行ったファーマンの最終調査報告書には、次のような結論が記されている。

『日本にはウラン資源が決定的に不足していた。さらに原爆の基礎研究がアメリカの1942年のレベルで、大学での通常の学術的研究の域を超えることはなかった』

こうして、戦争の帰趨を左右する原爆開発競争の経過を見ていると、今回のコロナ禍で繰り広げられたワクチン開発競争とダブって見えてくる。

日本の国内ワクチンは研究室レベルで開発が進められたのに対し、アメリカや中国では政府と企業が一体となった大掛かりな国家プロジェクトが動き出していた。

その結果が現在のワクチン不足をもたらしている。

日本人は緊急事態への対応が苦手である。

緊急事態が発生してもいつもの小さな集団で行動しようとして、常識を超えた大きな絵を描くことができない。

日本にいち早く原爆を開発して欲しかったとは全く思わないし、敗戦によって戦前の日本社会が崩壊したことはむしろよかったとさえ思っているが、緊急事態に直面した際に日本はどう対応するかについてはもっともっと議論された方がいいと思う。

最後にもう一つ、今年6月に録画してあったアメリカ映画「ミッドウェイ 」についても一言。

「ミッドウェイ 」については2019年にも映画化され豊川悦司さんらも出演しているが、私が見たのは三船敏郎やチャールトン・ヘストンが出演した1976年の方だ。

太平洋戦争の大きな転機となったとされるミッドウェイ海戦。

戦史研究の好きな人たちは、あの時もっとこうしていれば勝てたとか言い立てている有名な海戦だが、装備でもパイロットの質でも優っていた日本が敗れた大きな要因は、やはり情報だった。

この頃アメリカはすでに日本の暗号連絡をすべて解読していて、連合艦隊の目標がミッドウェイ島であることを掴んでいた。

それに対し日本は、アメリカの空母に関する情報が得られず、作戦が後手後手に回った。

日本のスパイだったベラスコが言ったように、「日本は情報の使い方が下手だ」という状況は今も全く変わらない。

今回紹介したドキュメンタリー番組は、すべてアメリカが保管している公文書が元となっている。

日本は情報の使い方が下手なだけでなく、そもそも情報をきちんと管理しようとさえしていないのだ。

総理大臣がらみのスキャンダルで官僚が公文書を勝手に改竄し、存在する資料も平気で隠蔽する国である。

不都合な真実が満載である昭和の戦争を真剣に検証しそこから教訓を得ようと思うのならば、まずは正確な情報を長期間保存し時期が来たらすべて公開することから始めるべきなのだろう。

<吉祥寺残日録>シニアのテレビ📺 「アインシュタイン 消えた“天才脳”を追え」&「運と鈍と根」 #210607

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