録画したままついつい見るのが後回しになる番組というのがある。
Eテレで今年2月に放送したこのドキュメンタリー番組もその一つだった。
昨日、録画番組の整理をしながらまだ見ていなかったこの番組を見たのだが、「アイヌ遺骨問題」については正直これまで何一つ知らなかったことを白状せねばならない。
明治時代以降、日本人の研究者たちがアイヌの墓を勝手に掘り返して遺骨を持ち去っていた。
そんな「事件」があったことを、私を含めて多くの日本人は知らない。

まずはNHKの公式サイトから。
番組内容については、次のように書かれている。
去年、北海道にオープンしたウポポイ。その慰霊施設に、1300体を超えるアイヌの遺骨が納められている。明治以降、東京大学や北海道大学の研究者らが各地の墓地などから持ち去り保管していた。「先祖の遺骨を返してほしい」。アイヌの人たちは40年前から声を上げ、今、故郷への返還が実現しつつある。しかし、後継者不足などから、遺骨の“帰郷”に戸惑う地域も少なくない。背景には、アイヌ民族が背負う苦難の歴史があった。
引用:NHK
かなりオブラートに包まれたような穏当な表現。
これでは何があったのかよく理解できないので、番組に沿って内容を記録しておきたいと思う。

私も去年10月に訪れたアイヌ民族の文化などを伝える国立施設「ウポポイ」。
その一角には慰霊施設も建設された。
メイン会場からは少し離れているので私は行っていないが、この施設に収納された遺骨には私たちがほどんど知らない日本の歴史が隠されている。
「ウポポイ」のサイトには、施設の由来が書かれていた。
過去に発掘・収集され、全国各地の大学において保管されていたアイヌ民族の遺骨・副葬品のうち、直ちに返還できないものについてはウポポイに集約されています。
アイヌの人々の遺骨やこれに付随する副葬品は、古くから人類学等の分野で研究対象とされてきました。
明治中ごろには、日本人の起源をめぐる研究が盛んになり、研究者等によってアイヌの人骨の発掘・収集が行われ、昭和に入っても続けられ ました。その結果、数カ所の大学等に研究資料等としてアイヌの人骨が保管され、それらの中には、発掘・収集時にアイヌの人々の意に関わ らず収集されたものも含まれていたと見られています。
日本政府は、アイヌの人々の遺骨等を巡る経緯や先住民族にその遺骨を返還することが世界的な潮流となっていることに鑑み、関係者の理解 及び協力の下で、アイヌの人々への遺骨等の返還を進め、直ちに返還できない遺骨等についてはウポポイに集約し、アイヌの人々による尊厳 ある慰霊の実現を図るとともに、アイヌの人々による受入体制が整うまでの間の適切な管理を行うことを平成 26 年 6 月に決定しました。
これを受けて建設されたこのウポポイの慰霊施設が令和元年 9 月に完成しました。
同年の 11 月に大学から遺骨等の受け入れを開始し、同年 12 月にアイヌの人々による最初の慰霊が行われました。
ここを訪れる多くの方に、このような歴史を理解していただくことが、未来の共生社会の礎となるものと考えます。
引用:「ウポポイ」公式サイトより
実際には何が行われたのか?
公式サイトだけでは見えてこない遺骨研究の実態について、この番組を見て初めて知ることができた。

徐々に和人に侵略されてきたアイヌの人たちの生活が激変したのは、明治時代になってからだった。
アイヌの人たちが「アイヌモシリ」と呼んでいた北の大地を明治政府は「北海道」と命名して日本の領土とする。
大勢の和人が開拓のために北海道に移住し、土地は和人の所有となっていく。
さらに明治政府による同化政策が推し進められ、アイヌの言語や文化は急速に失われていった。
しかし奪われたのは伝統文化だけでなかった。
大地に埋葬されていた先祖の遺骨が無断で持ち去られていたのだ。
東京帝国大学医科大学の研究者・小金井良精教授は明治21年、大量のアイヌの遺骨を発掘した。
小金井の手記が残っている。
7月12日、すべて発掘についてはアイヌがまだ付近にいるような所は避けて、なるべく古い無縁の墓場を探し求めるのが最も大切であると考えていた。
8月4日、このあたりアイヌ小屋散在するも留守中であったから都合がよかった。
8月10日、原始林中に墓を探す。5カ所見つけて月明かりとマッチを利用して、5個とも丁寧に取り上げた。
8月20日、見張りを置いて発掘、皮膚、毛髪、腱、靭帯、脳髄のごときはまだ多少残存している。
引用:小金井良精「アイノの人類学的調査の思い出」(番組より)
小金井が遺骨に関心を持ったのは、ドイツ留学がきっかけだったという。
当時のドイツでは人類を2つに分ける考え方があり、文明を発達させた「文化民族」と自然に制約されて生きる先住民「自然民族=未開の民」である。
頭蓋骨の大きさなどを測定することにより、人種の優劣を特定しようという研究を小金井はアイヌで実践しようとした。
一方、北海道大学も多数のアイヌの遺骨を収集保管していて、40年前から遺骨の返還を求めるアイヌの人たちの要求をずっと拒否し続けてきた。
2007年に国連は「先住民族の権利に関する国際連合宣言」を採択、「先住民族は遺体及び遺骨の変換についての権利を有する」との文言が盛り込まれ、事態がようやく動き始める。
2012年、アイヌの人たちは遺骨の返還と謝罪を求めて北海道大学を提訴、2016年に和解が成立した。
遺骨は元あった場所に戻されることになったのだ。
これを受けて文科省が初めて調査を行い、遺骨収集の全貌が明らかになった。
その結果、遺骨発掘が行われたのは北海道全域の62市町村から千島樺太まで広がり、明治から昭和にかけて少なくとも1600体の遺骨が掘り起こされ、全国の12大学に保管されていた。
しかし、盗掘として犯罪に問われた研究者はおらず、大学側は反省は口にしつつも謝罪は一切しないスタンスを貫いている。
こうした経緯を経て、一部の遺骨は地元のアイヌ協会に返還された。
だが多くの地域ではすでにアイヌのコミュニティーが失われていて、帰る場所を失った1300体以上の遺骨が「ウポポイ」の慰霊施設に運び込まれたのだ。

この番組の主人公の一人・木村二三夫さんが遺骨返還と謝罪に執念を燃やすのは、祖母の出身地での悲惨な歴史を知ったからだった。
北海道新冠町に立てられた石碑には「姉去土人学校跡」の文字が刻まれている。
新冠町のホームページを見ると、その歴史がこう書かれていた。
昔から新冠には、多くのアイヌの方々が住んでおり、コタン(集落)を形成して恵まれた自然とともに生きてきました。明治二十九年、滑若(現泉付近)に住んでいた古川アシンノカルは、アイヌのよりよい教育を目指し私費を投じて姉去(現大富)教育所を設立しました。しかし、翌年には教師が退職したことにより休校してしまいます。
引用:新冠町「エコ・ミュージアム石碑看板」より
その後、北海道は旧土人保護法に基づく土人学校を北海道各地に設置しました。その数は三十一ヶ所にのぼります。新冠では、姉去と元神部(現東川)に設置することとなり、姉去は古川教育所の献納を受けて明治三十六年に姉去土人学校として再び開校しました。
しかし、大正五年に御料牧場経営に伴う姉去アイヌコタンの強制移住により、学校も平取村上貫気別へ移転しました。
この場所で暮らしていたアイヌの人たちは同化政策によって強制的に「土人学校」に入れられたうえ、「御料牧場」で馬に食べさせる牧草を育てるという理由でそこに暮らすアイヌの人たちに立ち退きを命じた。
立ち退かなければ、家を焼くとか打ち壊すとか脅されたという。
そうして、強制移住させられた先が隣村の平取村上貫気別。
その新天地で埋葬されていた遺骨が、今度は研究者たちによって盗掘されたのだ。
その事実を知った木村さんが怒りを感じたのは無理もない。
一等国の仲間入りを目指して北海道開拓に邁進した明治の日本。
和人によるアイヌ同化の歴史は、中国におけるチベットや新疆ウィグルの状況にも通じるものがある。
100年以上昔の話ではあるが、多くの日本人がその歴史を知らないことは問題だろうと思う。
日本という国はどのようにしてできてきたのか、私たちは知る必要がある。
おそらく北海道のローカルニュースではアイヌ遺骨問題は報道されてきたのだろうが、全国的にはほとんど知られていないことが問題なのだ。
同じことは沖縄についても言える。
アイヌの遺骨問題を調べていたら、沖縄でも同様の問題があることを知った。
ノンフィクションライターの古木杜恵さんが書いた「京都大学が盗掘した琉球人骨を返さぬワケ」という記事から引用させていただく。
琉球民族遺骨返還研究会の松島泰勝代表(龍谷大学教授)ら5人は昨年末、遺骨を保管している京都大学に対して遺骨返還と損害賠償を求める訴えを京都地裁に起こした。
返還を求める遺骨は、京都帝国大学の助教授だった人類学者の金関丈夫(1897~1983年)が、1928~1929年に沖縄本島北部・今帰仁(なきじん)村の風葬墓「百按司(むむじゃな)墓」から研究目的で持ち出した26体である。
原告らは京都大学に情報開示と遺骨返還を求めたが、拒否されたため提訴に踏み切り、遺骨が本来あるべき場所にないため、憲法が保障する信仰の自由や民族的、宗教的「自己決定権」が侵害されたと主張している。
求めた損害賠償は原告一人あたり10万円。金関が墓を管理する親族らの許可を得ずに盗掘し、京都大学が人骨標本の研究材料として権限なく占有している、と訴えている。
引用:古木杜恵「京都大学が盗掘した琉球人骨を返さぬワケ」
まさに琉球でもアイヌと同じ遺骨問題が起きているわけだが、日本政府の姿勢は琉球とアイヌで違うという。
日本政府が琉球人を先住民族と認めていないからだ。
琉球人の遺骨問題を取材している琉球新報編集委員の宮城隆尋さんはこう述べている。
「遺骨の収集には多くの研究者が関わり、アイヌと琉球だけでなく全国各地の日本人や朝鮮人、中国人、台湾先住民、東南アジアの先住民なども研究の対象とされました。その成果は、学術誌の論文や一般誌の記事として幅広く発表されました。多くの論文は、日本人以外の体格的な特徴や文化的風習を挙げて、日本人の優秀さを裏づける根拠とした。こうした研究が戦前の植民地主義的な国策を支える役割を果たしたことを、複数の研究者が批判しています」
論文は、アジアの人々と日本人のルーツは同じで、日本人が優秀だから日本が統治する、といった趣旨で、日本の対アジア侵略戦争や「大東亜共栄圏」を正当化する当時の政権側に極めて都合のいい内容だった。
宮城がさらに続ける。
「日本の国内法は国際法に追いついていない。近代国民国家や植民地主義が形成されていく過程で、北(アイヌ)と南(琉球)を侵略したことを国家として全く無視し顧みないからこうした矛盾が生じるのです。裁判所は民法に従って返還できないとする判決しか書けない。そうした判決を下すと国際法に反する。だから和解という形で2016年に遺骨が返還されることになりました」
沖縄でも琉球人遺骨の返還を求める動きが広がり、照屋寛徳衆院議員が翌2017年9月、国政調査権に基づき、京都大学への照会を文科省に請求。同大学総合博物館の収蔵室で琉球人骨を保管していることを初めて認めたのである。さらに冒頭でも触れたように、国立台湾大学は今年3月、沖縄から持ち出された遺骨63体を沖縄側に返還した。
引用:古木杜恵「京都大学が盗掘した琉球人骨を返さぬワケ」

アイヌのことを知りたいと思って訪れた「ウポポイ」だが、そこには展示されていない日本人には「不都合な歴史」がまだまだある。
その一端を教えてくれたドキュメンタリー番組であった。