イギリスのエリザベス女王の死から国葬までの10日余り。
世界中のメディアが女王の功績を称え、伝統に則ったセレモニーを詳しく伝えた。
女王の棺は、スコットランドのバルモラル城からエディンバラへ、そしてロンドンへと時間をかけて移され、多くの市民がそれぞれの地に追悼に訪れた。

棺が一般に公開されたロンドンのウェストミンスター宮殿では、実に多くの人たちが女王との最後の別れに訪れ、最後には24時間以上並ばないと入れないほどの長い長い行列ができた。
女王在位70年7ヶ月。
私も含めて多くの人にとっては、生まれた時から彼女がイギリスの君主だった。
ダイアナ妃の悲劇の後は「開かれた王室」を実践し、自ら動画に出演して親しみの持てる女王像を演出した。

そんなエリザベス女王の国葬は、日本時間の19日午後7時から始まった。
場所は、女王の結婚式や戴冠式も行われたロンドン中心部のウエストミンスター寺院。
国葬にはイギリス王室の関係者のほか、500人以上の国家元首や高官が招待され、2000人のゲストが参列した。

日本からは即位後初の外国訪問となる天皇皇后両陛下が参列。
スペインのフェリペ6世やデンマークのマルグレーテ女王などの王族のほか、アメリカのバイデン大統領、フランスのマクロン大統領、カナダのトルドー首相、ニュージーランドのアーダーン首相ら世界各国の首脳が顔をそろえた。
これほどの要人が一堂に会すると席順が難しくなるが、身内とも言える英連邦の参加者を優先し、天皇陛下は6列目、バイデンは14列目に案内されたという。

女王の棺は「ロイヤル・スタンダード」と呼ばれる王室旗に包まれて祭壇に置かれた。
この旗はイギリス統合の象徴であり、イングランド、スコットランド、アイルランドの紋章があしらわれているという。
イギリスといえば現在ではヨーロッパの島国に過ぎないが、19世紀には世界の5分の1を支配する世界最強の帝国だった。
20世紀に入り、2つの世界大戦で国力を消耗し、アメリカに世界の覇権を奪われる。
そして戦後の植民地解放運動によって、イギリスの植民地も大半が独立したが、エリザベスが王位についたのはまさにそうした激動の時代だった。

エリザベス女王は精力的にかつての植民地諸国をまわり、「イギリス連邦(コモンウェルス)」という緩やかな国家連合を維持することに成功した。
大英帝国の完全消滅とイギリスの没落を食い止めることができた大きな要因としてエリザベス女王の存在は何よりも大きかった。
女王が亡くなり長男のチャールズ3世が即位した。
世界的な人気者だったダイアナ妃を死に追いやった夫チャールズの不倫問題は多くの市民の心に今も残り、新国王に対して女王と同じような敬愛の情を抱くことを妨げている。
女王の死は、戦後70年間曲がりなりに維持されてきた英連邦の団結に少なからざる影響を与えるだろう。

イギリスの「フィナンシャルタイムズ」にこんな記事が出ていた。
『チャールズ国王、英連邦維持は多難 実利求める各国』
その一部を引用しておこう。
英連邦は大英帝国の旧植民地を中心に発足し、組織の維持を重要任務と自負するエリザベス女王のもとで結束し発展・拡大してきた。
しかし、英連邦がもはや目的意識を失ったと批判され、英国の世界への影響力が薄れる中でチャールズ国王は即位し、英連邦の長となった。英国王を元首とする14の加盟国の中には共和制への移行を強く求める声もある。
英連邦の運営に長年関与してきたアフリカの高官は「そもそも加盟国にどんな恩恵があるのか」と疑問を投げかける。
「援助はなく、奨学金も与えられない。(再加盟を申請している)ジンバブエの民主化について話し合うこともない。4年ごとに開催するスポーツ競技会コモンウェルス・ゲームズに若者らが関心を寄せる程度だ」
チャールズ国王が英連邦での役割を確立するには加盟国首脳との交流を深める必要があり、とりわけフィジーやレソトなど小国の訴えを国際社会に広げる手助けをすべきだと同高官は訴える。
「女王は常にそれを心掛けていた。加盟国の首脳が訪英した際には公式訪問とするか、または女王が茶会に招いた。チャールズ国王がそれをどこまで重視するのかまだ分からない」
新国王が引き継ぐ英連邦の結束は揺らいでおり、カリブ海諸国の中には離脱を求める声もある。国王は皇太子だった7月、訪問先のルワンダで英連邦の首脳に対し、英国王を元首とする君主制を維持するか否かは各加盟国が決めることだとし、「こうした取り決めは穏やかに、わだかまりなく変更できる」と述べた。
カリブ海の島国バルバドスは21年11月、選挙を経て共和制に移行した。その直後にこの地域を訪れたウィリアム王子夫妻は奴隷制時代の賠償を要求されるなど現地で厳しい対応を受けた。
ジャマイカのある新聞は9日付の1面トップで、8日の女王の死去により「君主制からの離脱」が容易になったとの学者の主張を掲載した。
英連邦事務局の元高官は「ジャマイカは離脱するだろう。チャールズ国王のような人が加盟国との関係強化を怠ったのが理由の一つだ」と述べ、特に若い世代は君主制に懐疑的だと指摘した。
引用:フィナンシャルタイムズ(日本経済新聞)

「ナショナルジオグラフィック」には、『女王死去で変化、「英連邦」と「英連邦王国」とは何か』という解説記事が載っていた。
日本人にはあまり馴染みのない英連邦についてこの際少し勉強してみるのもいいだろう。
エリザベス女王の死去によって、英国だけでなく、「英連邦(Commonwealth of Nation、コモンウェルス)」でも権力の移行が起きている。英連邦は、旧英国植民地を中心に構成された国際組織で、加盟する56カ国は、英連邦の一員として英王室との関係を維持してきた。
このうち15カ国は、現在も英国王を君主とする「英連邦王国(Commonwealth realm、コモンウェルス・レルム)」であり、女王の死去がもたらす変化が特に鮮明に表れた。エリザベス女王の死去から数日のうちに、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどのリーダーは、女王の後継者であるチャールズ3世を正式な君主とし、新国王への忠誠を誓う声明を発表した。
一方で、英連邦王国の一つであるカリブ海の国アンティグアバーブーダは、英国君主を引き続き自国の君主とするかどうかについて、国民投票を行う方針を明らかにした。「(英国への)敵意からではありません。わが国と君主国との間に不和があるわけでもありません」。アンティグアバーブーダのガストン・ブラウン首相は、ITVニュースにこう語っている。「これは、真の主権国家を目指す独立の歩みにおける最後の一歩なのです」
英連邦加盟国のうち、英国君主を自国の元首としないインド、シンガポール、ケニアなど41カ国にとっても、英女王の死去は、新たな時代の幕開けとなる。英連邦は、世界の環境保護、貿易振興、民主主義擁護に取り組んでいるが、チャールズ3世がその新しい長となる。
英連邦(コモンウェルス)加盟国と英連邦王国(コモンウェルス・レルム)はどう違うのか、そして、英国君主は、双方でどのような役割を果たすのか。これは、わかりにくい点だ。それもそのはず、歴史家の故W.デビッド・マッキンタイア氏はかつて、英連邦を「ゆるやかな国家連合で、英国と加盟国間および加盟国相互の関係は、定義できない場合が多い」と評した。その誕生の経緯を振り返ってみよう。
引用:ナショナルジオグラフィック

英連邦は、大英帝国のゆるやかな崩壊から生まれた。大英帝国は、絶頂期だった19世紀後半、世界の陸地の5分の1を占めるほど繁栄していた。
しかし、大英帝国が領土を拡大するにつれ、一部の植民地で不満が高まる。1864年には、現在のカナダにあった3つの英国植民地の代表が、合併してひとつの自治連合を形成する交渉を始めた。これらの植民地は、米国からの侵略を恐れて独自の防衛軍の設立を望み、南方の地域との自由貿易も求めていた。
過去の米国独立戦争のように、独立を巡って争い、敗北を繰り返すことを恐れた大英帝国は、1867年7月、植民地側の要求を受け入れた。だが、植民地の支配権は手放さなかったので、カナダは英国自治領(ドミニオン)となった。
これは、カナダは自治権を有するが、法体制は英国の監督を受ける、つまり、英国君主が自己裁量で法案を拒否できることを意味した。その後の数十年間で、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランド自由国(現在のアイルランド共和国)など、他の植民地も次々に自治領となった。
ところが、第一次世界大戦後、これら自治領で独立主義が台頭、自治権以上を要求する動きが激しくなった。1926年、英国と各自治領は、「君主への共通の忠誠によって結ばれた」対等な立場であることに合意した。この宣言は、1931年のウェストミンスター憲章で正式なものとされ、ここに「英連邦(British Commonwealth of Nations)」が正式に誕生した。
だが、この英連邦が現在の形に進化するには、さらに20年の歳月を要した。この進化に大きな影響をもたらしたのは、インドの独立運動だった。インドは、1926年の交渉に参加していたが、英国を君主国として引き続き承認する協定には調印しなかった。逆にインドでは、植民地支配からの完全な独立を求める運動が、マハトマ・ガンジー主導のもとで展開された。
1947年、インドはついに英国からの独立を勝ち取ったが、英国と完全に断絶することはできなかった。主権国となったインドは、2年後に条件付きで英連邦への加盟を求めた。
その条件とは、インドは英国王ジョージ6世を英連邦の長としては認めるものの、国王への忠誠を誓わない、つまりインドの君主とはせずに加盟するという内容だった。
インドのネルー首相は、インド議会で、この決定について次のように説明した。「今日の世界では、非常に多くの破壊的な動きが生じており、私たちは幾度となく戦争の危機にさらされています。すでに構築した同盟関係から離脱することは、安全ではないと考えています」
この条件に同意した加盟国は、1949年に「ロンドン宣言」を発表し、インド、パキスタン、セイロン(現在のスリランカ)を「自由で対等な加盟国」として受け入れた。ロンドン宣言によって英連邦は改革された。名称はBritish Commonwealth of NationsからBritishが取れてCommonwealth of Nationsとなり、英国君主への忠誠を誓うことなく独立国家が加盟できる組織になった。
引用:ナショナルジオグラフィック


現在、英連邦には56カ国が加盟し、貿易、環境保護、教育などに関する問題に取り組んでいる。加盟国は互いに義務を課せられることはないが、共通の価値観に基づいて団結しており、とりわけ、旧英国植民地としての歴史が強い絆となっている。
結成から70年以上が過ぎ、加盟国の顔ぶれも大きく変化した。アイルランドは、1949年に正式に共和国となって脱退した。また、フィジーやナイジェリアなどは、独裁体制が敷かれていた間、一時的に離脱した。モザンビークとルワンダは、大英帝国と歴史上のつながりはないが、それぞれ1995年、2009年に加盟した。両国は、加盟によって外交上、経済上の利益が得られることを期待している。
その他の多くの国々が、20世紀の半ばから後半にかけて、英国から独立後に英連邦に加盟し、大半がインドにならって、英国君主に忠誠を誓わないことを選択している。
しかし、今でも女王を君主として受け入れている加盟国もある。こうした加盟国は英連邦王国(コモンウェルス・レルム)と呼ばれており、オーストラリア、バハマ、ベリーズ、カナダ、グレナダ、ジャマイカ、ニュージーランド、パプアニューギニア、セントクリストファーネビス、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、ソロモン諸島、ツバル、英国、そして現時点ではアンティグアバーブーダも含まれる。
英国君主は、自動的に英連邦の長に就くわけではない。この地位は世襲制ではなく、加盟国が選出する。2018年、英連邦は、エリザベス女王に続く長はチャールズ皇太子(当時)となることを発表したが、今後も、それが続くとは限らない。
いずれにしても、英連邦の長の役割は象徴的なものだ。日常業務を監督するのは事務局であり、エリザベス女王の主な役割は、定期的にロイヤルツアーに出かけ、加盟国間の結束を強化することだった。
一方、英連邦王国(コモンウェルス・レルム)では、君主の役割はやや異なっている。これらの国々は英国君主への忠誠を誓っているものの、英国の一部ではなく、選挙で選ばれた自国の政府がある。国王の代理を務めるのは総督で、法律の承認や大臣、大使、裁判官の任命など儀式的な仕事を行っている。
こうした役割はほぼ形式的なものだが、異例の状況下では、総督が政府をしのぐ権限を持つ場合がある。たとえば1975年、オーストラリアのジョン・カー総督が、当時のゴフ・ホイットラム首相を罷免した事件だ。これは、議会の行き詰まりを打開するためだったが、憲法を揺るがす問題となった。
近年、一部の英連邦王国では、変革が始まっている。特に、カリブ海や太平洋の旧植民地では、若い世代が従来の体制を植民地時代の遺物と見なしている。
2021年にはバルバドスが、エリザベス女王を国家君主とする体制を廃し、共和制に移行した。こうした決断を、共和主義志向の新たな流れと推測する見解もある。英キングス・カレッジ・ロンドンの帝国史学の教授、リチャード・ドレイトン氏は、2020年にニューヨーク・タイムズ紙で、「女王を国家君主から外すというバルバドスの決定は、ジャマイカやセントルシア、セントビンセント・グレナディーンなどにとって、大きな転換点となるかもしれない」と語っている。
一方、旧自治領だった国々も、英国王室との関係の変更を検討してきた。オーストラリアでは、1999年に行われた国民投票で、45%が、エリザベス女王を君主から外すことに賛成した。カナダでは、2021年2月の調査で、国民の55%が、英国王室はもう自分の生活とは関係がないと考え、半数は、女王を国家君主から外すべきだと回答した。
ただし、変化を模索する中でも、各国首脳はインドのネルー首相の考えに同意している。つまり、ますますグローバル化が進む世界では、たとえ相手が以前の植民地開拓国であったとしても、英連邦のような組織を通じて、同盟を維持することが重要だという見解だ。
英連邦に対するこうした姿勢を、エリザベス女王自身も明確に支持していた。1953年には、毎年恒例のクリスマススピーチの中で、英国は英連邦に加盟する独立国家の対等なパートナーであると明言している。
「こうして結成された英連邦は、過去の帝国とは似ても似つかない組織です」と女王は述べた。「英連邦はまったく新しい構想であり、その礎(いしずえ)となっているのは、人間の最も崇高な精神、つまり友情、忠誠、自由と平和の願いなのです」
引用:ナショナルジオグラフィック

エリザベス女王死去の報道では、王室を美化するような報道が日本でも目立っていたが、帝国主義時代にイギリスが行った数々の悪行は今も世界の多くの人々を苦しめている。
日本がかつて天皇の名の下に海外侵略を行ったが、イギリスも国王を旗印として世界中を戦争に巻き込んでいった。
それは遠い過去の話だという人もいるだろうが、歴史を少し勉強すれば、イギリスに対する悪感情を抱く人たちが生まれてくるのも無理もないだろう。
ナイジェリアとガーナにルーツをもつ「ワシントンポスト」のコラムニスト、カレン・アティアさんは、そんな被植民地の立場から『私たちはエリザベス女王とイギリス帝国の醜い真実について話さなければならない』と題するコラムを発表した。
女王の死後すぐに最も辛らつな言葉を投げかけたのは、米カーネギーメロン大学教授でナイジェリア人のウジュ・アニヤだ。
「略奪とレイプと虐殺の帝国の君主がついに亡くなると聞いた。彼女の苦痛が耐えがたいものでありますように」とアニヤはツイートした。
この投稿は女王に対する憎しみに満ちているとして多くから批判され、ツイッター社は強制削除した。だが、「イギリスの手によって弾圧や虐殺された人々の苦しみに真に向き合ったことのある者にとっては、驚くに値しない言葉だった」とアティアは指摘する。
女王を擁護する向きは、彼女はある意味で「解放者」であったと示唆する。彼女の在位期間中に多くの国が独立を果たしたからだ。
だがアティアに言わせれば、「エリザベスが即位した1952年、イギリスの覇権はすでに弱まっており、アフリカやインドで独立の機運が高まっていた」時代だった。
しかも、エリザベスを君主に戴くイギリスは、そうした独立の機運を力で押さえつけた。ケニアでは1952~1960年にかけて民族解放をめざす「マウマウの反乱」が起きたが、イギリス軍はこれを武力で鎮圧。何万人ものケニア人が拷問、レイプ、去勢、殺害され、10万人以上が強制収容所へ送られた。
その時代を生きた祖母をもつアリス・ムゴ(34)は、女王の死を受けて米紙「ニューヨーク・タイムズ」にこう語っている。「イギリスの君主制を、きらびやかなドレスや優雅なハイティー、チャリティー活動といった観点で見ることもできるでしょう。でも、そこには醜い側面もあるのです。その醜さから目をそらすことは不誠実と言わざるをえません」
憲法上、君主は象徴にすぎず、エリザベス女王に責任はなかったという主張もあるだろう。だが、その「象徴」に大きな意味があると、ワシントン・ポストのアティアは論じる。
「エリザベスは、イギリスの権力と富を代表する役割を進んで引き受けた。彼女は旧植民地から盗んだ宝石で自分を飾り立てた。エリザベスのイメージは多くの旧植民地の通貨にも描かれている。イギリス連邦を管理することで、彼女は進んで旧植民地の有色人種に対する『白い母』という上から目線の象徴的役割を引き受けたのである」
英国王の戴冠式で使われる王冠と王笏に輝くダイヤモンドは、1905年に南アフリカで発掘された世界最大のダイヤ原石からカットされたものだ。植民地支配下にあった南アフリカから当時の英国王エドワード7世への「贈り物」だったとされるが、主従関係のもとで正当な取引が行われたかはわからない。
「紅茶を飲んで握手して成立したのかもしれません。でも、まともな考えを持つ人なら、それが公正な取引だったとは思わないでしょう」と、南アフリカの作家サイホ・フロングウェインはワシントン・ポストに語っている。
南アフリカではいまもイギリスの影響を受けたアパルトヘイト時代の慣行が多く残っており、貧困率は黒人のほうが圧倒的に高く、同国の鉱山は大部分が白人に支配されたままだと、フロングウェインは指摘する。
「西側諸国では植民地主義は過去のものになっていますが、私たちの国では今も続いているのです」
前述のとおり、カーネギーメロン大学のアニヤ教授は女王に辛らつな言葉を浴びせて批判されたが、彼女にもそれなりの理由があった。
アニヤの出身国ナイジェリアは、北と南で大きく異なっていたところを、イギリスの支配者がひとつに合併したことによって生まれた。1967年に内戦が起きると、イギリスは連邦政府を支援し、資金と武器を提供。100万人以上のイボ人が餓死あるいは殺害されたと、歴史家は推定している。
女王が亡くなって間もないなか、せめていまは彼女を悪く言うべきじゃない、礼儀に欠けるという見方もあるだろう。しかし、ナイジェリア人ジャーナリストのデビッド・ハンデインはこう反論する。
「では、いつならいいのでしょう? 誰がそのタイミングを決めるのですか? どの命が他よりも重いか、人間の命の序列を誰が決めるというのですか?」
引用:クーリエジャポン

世界一有名な女性と言われたエリザベス女王が亡くなり、国葬までの期間は王政批判がしにくい空気が支配した。
しかし、エリザベスというアイコンによって覆い隠されてきた数々の問題が噴出するのはこれからだ。
イギリス国内でも、スコットランドの独立問題などチャールズ新国王を悩ます問題は次々出てくるだろう。
人望のなさは身から出た錆。
自らの即位を辞退してエリザベスから孫のウィリアムスに王位が引き継がれた方が王室にとっては良い選択だったが、チャールズは自ら国王となる道を選んだ。
チャールズ3世があと何年王位に留まるかはわからないが、その間にイギリスや英連邦が大きく様変わりすることが予想される。
世界的な経済危機が訪れれば、国民は金食い虫の王室を養っていく余裕がなくなってくる。
ただ部外者の私から言わせれば、イギリスから王室がなくなってしまうと、ますますイギリスの国際的な影響力は失われてしまうだろう。
若いイギリス人たちが王政を維持するか共和制に移行するかを判断する日が訪れるだろうが、その結果は日本にも少なからず影響を及ぼすことになるだろうと私は予想している。