天皇ご一家は住み慣れた赤坂御所を離れて、今日「皇居」に引っ越しした。

皇位の印として歴代天皇に伝わる「剣璽」(=剣や勾玉)とともにまずは皇居の「御所」に入った後、荷物を運び入れる10日の間、皇居内の「宮殿」に滞在するという。
早いもので、令和3年もすでに9月である。
先日、退位した上皇が歴代天皇の最高齢記録を更新したというニュースが流れたが、日本人の平均寿命が伸びるのに従い、皇室の長寿はこれからも続くことだろう。

一方で、秋篠宮家の悠仁さまは今日が15歳の誕生日。
男系男子のみが天皇となる現在のルールでは、悠仁さま一人が皇室の未来を担うことになってしまう。
長女の眞子さまの皇室離脱がいよいよ秒読み段階となり、懸案となっている皇位継承問題はますます待ったなしの状況だ。
女系天皇を絶対に認めない保守勢力は、戦前の旧宮家復活を画策している。
しかし戦後、昭和天皇から平成の天皇へと受け継がれた「平和を愛し、国民に寄り添う」という皇室のイメージはすっかり日本人の間に浸透し、戦前回帰を連想させる旧宮家の復活には抵抗が強いだろう。
むしろ女性天皇、女系天皇を認めることが最も国民感情には沿うものであり、万世一系とされる天皇家のしきたりを変えるという極めて重い決断を誰がいつ行うのかというのが焦点となっている。
この決断には右翼の強い反発も予想され、決断するトップは命を賭す覚悟が求められると同時に、後世の歴史家の評価に耐えられる理論武装も必要になるだろう。
さて、今日書き残しておきたいのは昭和天皇の話である。
大正10年の3月、欧州歴訪の旅に出た裕仁皇太子は、その年の9月に無事帰国して国民の熱狂的な歓迎を受けた。
大正天皇の長男として生まれた裕仁は、幼くして親元から引き離され側近によって帝王学を身につけるための教育を施された。
そのため、他人との交流が苦手でナイフやフォークも使えなかったが、およそ半年間に及ぶ外遊は裕仁を大きく変えた。
そして、立派になって帰国した皇太子を見て、当時の権力者たちは病気の優れない大正天皇に代わり、裕仁皇太子を「摂政」に立てて事実上の権力移譲を行おうと考える。
今から振り返ってみると、この大正末期の「摂政」時代が軍部の台頭を許し、「大正デモクラシー」の時代から「昭和の戦争」へと転換する大きな分岐点だったように見えるのだ。
今からちょうど100年前の9月、欧州歴訪から帰国した裕仁皇太子を取り巻く様子を、作家の保阪正康さんは「昭和天皇 上」の中で次のように記している。
大正10年9月2日の朝、皇太子が乗艦している「香取」は、「鹿島」とともに横浜港に入港した。埠頭には市民の波ができていて、皇太子の帰国を歓迎している。ヨーロッパ各国の皇太子への歓迎ぶりは、当時随行した新聞記者によって詳しく報じられていたために、国民もまた率直に喜びを味わっていた。
横浜から東京までのお召列車は、線路脇にあふれる人々の「万歳」の声を受けながら進んだ。動員されたわけではなく、自発的に集まった人たちであった。すると皇太子は、窓を開け、時に身を乗り出してこの声に応えたのである。このような光景は、外遊前にはありえないことだった。
皇太子は、イギリス王室と接する中で、国民との距離はもっと縮めなければならないと考えて、このような行為に出たのである。ここにはこれまでの慣習を変えようとする強い意志が感じられた。もとより国民の側も、天皇が病いで伏せているこの時、皇太子に対する強い信頼の感情が高まっていた。東京駅に降り立った皇太子の姿を一目見ようと、群衆の波は大きく揺れたと、当時の新聞には報じられている。
東京駅頭には各皇族、原敬首相らの閣僚、それに各国の大使が出迎えていて、皇太子はひとりずつに丁寧に答礼を返した。それから馬車で東宮御所に入った。そして午後2時には、原敬首相を通じて国民に向けての声明を発表した。その声明の中には、今回の「欧州諸国歴訪」で、各国の元首や政治家、軍人、学者と会って多くの意見を聞き、学術、文化、産業などの発展を確かめることができたと前置きして、欧州大戦の跡を見た印象について触れている。
「世界平和の切要なるを感じ、戦時聯合国民が国難の為に発揚せる犠牲の精神偉大なるを追想し、更に戦後孜孜として文明の興隆に努力せる気象を看取し、感興尤も深く、裨益を獲ることすこぶる多かりき。」
戦争の傷跡から立ち上がる姿に感銘を受けたと強調している。皇太子のこの声明は、これまでの天皇が発する内容とは表現を異にしていて、外遊の感想を正直に語る表現が目立った。
皇太子無事帰国、という報に、東京市内では提灯行列が続いた。東宮御所には万余の市民が詰めかけたために、正門を開いて裏門までこの行列を通り抜けさせる策を採っている。「万歳」の声に促されて、皇太子は御車寄せの階段まで出て、会釈を繰り返した。このような光景もまたこれまでにはなかったことだった。国民には、皇太子の存在が明治天皇や大正天皇の時とは違って極端なほど距離が縮まって映ったということもできた。
引用:保阪正康「昭和天皇 上」
戦後生まれの私からすると、昭和天皇は言動も奇妙で厳しく、決して開明的な指導者には見えなかったが、若き裕仁はイギリス王室との交流によって「立憲君主制」というものを肌で感じて帰国したのだ。
しかし当時の権力者たちが裕仁に求めたものは、国民との交流ではなかったらしい。
父親の大正天皇は、先代の明治天皇に比べて軍事や政治が好きではなく、むしろ文化的な関心が強かった。
そうした天皇の気質が大正という時代が生まれる一因だったのだろうが、権力者たちの間では明治天皇のような強い天皇像を求める傾向が強く、病弱な大正天皇に代わって裕仁皇太子を「摂政」に就任させる根回しが本格化するのである。
再び、保阪さんの著書から引用する。
こうした変化は、天皇の側近である宮廷官僚に新たな時代の君主像が必要だと痛感させた。同時に、皇太子の今後の帝王教育にいかに対応すべきかも改めて論じられることになる。その中心になったのは宮内大臣の牧野伸顕であった。随行団の供奉長の役を果たした珍田捨巳は、9月6日に牧野を訪ね、外遊中の報告を行なっている。その時の内容について、牧野は次のように書き留めている。
「皇太子殿下御洋行中の事を巨細あり。要するに今後一層の御輔導を申上ぐべき旨を縷々陳述あり」
この前後の記述から推測するなら、珍田と牧野は、皇太子が国民の前にあまりにも身を乗り出すことに懸念を感じている表現もある。こういう態度を「御落附の足らざる事」といっているように読める箇所もある。
珍田は、原首相のもとにも報告に赴いている。原首相もまた牧野と同じような印象を語っている。原は、天皇の病状がすぐれないために皇太子の摂政就任をいつどのように行うかを考えていて、そのために牧野と話し合って元老たちに働きかける機会を待っていた。そこでまず牧野が、9月26日から積極的に元老や各皇族に個別に会って説得を始めることになった。
たとえば、『牧野伸顕日記』の26日には、次のように書かれている。
「山県公訪問。摂政問題に付打合せ、調書を手交し置けり。御容体書発表の事を談示せり。元老会議云々の事あり。大隈侯も列席可然べきとの意見あり。浜尾の事を話し置けり。松方内府官房へ立寄らる。摂政問題等に付話しあり。右に付皇后様への内申の時機に付相談あり。此方より通知する事を約す」
28日には、西園寺公望、閑院宮、その後も日を開けずに伏見宮、東伏見宮、朝香宮と訪ねている。そこでの話は、山県有朋に話している内容とほぼ同じで、天皇の容態がすぐれないために皇太子を摂政とすべきこと、天皇の容態を国民にどのように伝えるかの文案づくり、そして皇太子の側近としてこれまでの東宮大夫浜尾新に変えて珍田を起用すること、などを根回しして諒解させることだった。そのことは、宮廷内部の改革を含めて皇太子を支える新たな体制づくりを行い、君主の新しい像を確立する事を意味していた。牧野は、こうした根回しを終えたあとに、10月3日に皇后に拝謁している。
「皇后陛下拝謁。御容体書発表の事を申上ぐ。御異存なし。不治症に入らせらるる事十分御覚悟の様乍恐拝察す」
と日記に書き残している。
天皇の病状がすぐれないことを徐々に国民に知らせていき、それと併行して皇族や元老の会議によって皇太子の摂政就任を進めていく。それが原や牧野、珍田らの計画であったが、この計画は牧野を中心に着実に固まっていき、そして皇后も最終的に承認したことを意味していた。
引用:保阪正康「昭和天皇 上」
この時、中心になって根回しをした牧野伸顕は「維新の三傑」大久保利通の次男であり、麻生太郎さんの曽祖父にあたる人物である。
吉田茂は牧野の婿、また三笠宮家の彬子さま、瑶子さまは牧野の玄孫にあたり、まさに華麗なる一族といったところか・・・。
当時の日本は、第一次世界大戦による未曾有の好景気が終わり、生産過剰による「戦後不況」が始まっていた。
病気により大正天皇が国民の前に姿を見せないようになると同時に、この後、財閥の安田善次郎、首相の原敬が相次いでテロで命を落とし、世情はにわかに怪しくなっていく。
摂政に就任した皇太子は軍服を身につけることが多くなり、父に代わって全国を回り明治天皇型の強い天皇を演じさせられるようになる。
ただ若き日の欧州歴訪で身につけた立憲君主制の理想はおそらく昭和天皇の心の中にずっと生き続けていたのだろう。
戦後アメリカの統治を受け入れ日本が民主主義国家に生まれ変わった時、昭和天皇の心の中で眠っていた新たな天皇像が少しずつ具体的な形となり、それが平成から令和へと受け継がれているのだと思う。
保守派が抱く天皇の伝統は、所詮、明治新政府によって作られたものに過ぎない。
江戸幕府から権力を奪取した薩長勢力が、天皇を政治利用するために数々の神話をでっち上げた。
歴史を冷静に読み解けば、天皇はその時々の権力者が望む姿に自在に変化している。
現在の主権者が国民である以上、大多数の国民が女性天皇を容認するのであれば天皇はそれを受け入れるであろう。
問題は、誰がその大仕事に手をつけるのか?
来る自民党総裁選でもぜひこの問題も各候補者に見解を表明してもらいたい。
【シリーズ百年前】
<吉祥寺残日録>【百年前 ⏩ 1921】今から100年前、日本も世界も大きなターニングポイントを迎えていた #210217