<きちたび>中国南京の旅〜「中山陵」と「総統府」を巡り、中国の国父・孫文を知る

🔶「旅したい.com」から転載

<中国>南京の「中山陵」と「総統府」を巡り、中国の国父・孫文を知る

🇨🇳中国/南京 2017年5月 3泊4日

中国で「国父」と呼ばれ、今も尊敬を集める孫文。彼の遺体が安置されている場所が、古都・南京にある「中山陵」です。

1911年の辛亥革命で中国の近代化を目指した孫文は、翌年1月南京の「総統府」で初代大総統に就任、中華民国を建国しました。

日本とも深い縁で結ばれ波乱万丈の人生を送った孫文の足跡を辿り、「天下為公=天下は権力者の私物ではなく、公の為のものである」と主張した孫文の思想に触れる中国・南京の旅をご紹介します。

明孝陵から中山陵へ

中山陵は、南京市の北東、紫金山の中腹にあります。

最寄駅は、地鉄2号線の「苜蓿园」駅です。中山陵がある一帯は「中山陵景区」と呼ばれる広大な観光エリアで、駅の近くから観光用カートや路線バスが出ています。駅からは登り道が続きますので、カートを利用するのが一般的な行き方のようです。

私は乗り物には乗らず、徒歩でまず同じ紫金山にある世界遺産「明孝陵」を訪れ、そこからさらに徒歩で中山陵に向かいました。

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2つの陵の間には「紫金山緑道」という歩道が整備されているので、歩いて回る人も多いですが、それなりの距離があるためここでも観光カートを利用する人もいます。

私が訪れたのは新緑の季節だったので、とても気持ちよく歩くことができました。

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途中、「南京東郊国賓館」と書かれた立派なゲートが目につきました。

ちょっと余談になりますが、かつて中国を含む社会主義国家には、こうした外国の賓客を泊める専用施設が作られていました。私も北朝鮮や旧ソ連でそんな宿泊施設に泊まったことがあります。

外部から隔離された別世界で、大理石造りの豪華な施設でしたが、人間味にかけ常時監視されている居心地の悪さがありました。

さらに余談になりますが、後日ネットでこの施設を調べてみると、今では誰もが宿泊できる豪華ホテルに生まれ変わっていました。

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こちらが旅行サイトで紹介されていたゲストハウスの外観です。緑に囲まれた立派な建物。希望すればここに泊まることができます。

国賓が宿泊したスイートルームは1泊7万円前後から、おそらくお付きの人が泊まったであろう窓のない部屋なら1泊1万4000円ほどで予約できます。かつての社会主義国を体験したい方には貴重な経験かもしれません。

博愛坊

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紫金山緑道をさらに歩いていくと突如、広場に出ます。土産物屋が並び、「国家重要風景名勝区」と彫られた岩の前に大勢の人が群がり写真を撮っていました。

観光客の数の多さに驚きましたが、これはまだほんの序曲に過ぎなかったのです。

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参道の両側には、延々と土産物屋が続きます。団体旅行のグループが小旗を先頭に何組も参道を進んでいきます。若い人がとても多い印象です。

中山陵は、入場無料でした。

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中山陵の入口にある「博愛坊」です。

青い瓦の門に、孫文が書いた「博愛」の2文字が掲げられている。日本で「博愛」と言うと鳩山由紀夫さんの顔が浮かんできてしまいますが、本来はフランス革命や中国革命の精神を表した理想とすべき言葉なのです。

ここから先を「墓道」と呼びます。

墓道の両脇には、木々が大きく育っていました。孫文のお墓である中山陵は、1926年から1929年にかけて建設され、もう90年の歴史を持っているのです。

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門をくぐって一瞬笑ってしまいました。なんだ、この人の数は・・・。

まるで初詣の明治神宮のようです。しかし、この日は特別な日ではありません。

中国ではこれが日常なのでしょうが、ここはお墓です。「中国革命の父」孫文は、今の中国でもそれだけ人々を惹きつける存在だというのは、ちょっと意外でした。

孫文の流れを汲む国民党は、毛沢東の共産党との戦いに敗れ台湾に逃れたからです。台湾では今でも「国父」ですが、共産党が支配する中国本土でも、孫文は尊敬を集めていました。

陵門と石段

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墓道の先に見えるのが「陵門」です。「天下為公」の金文字が彫られています。

日本語の説明書きもありました。

『陵の門は全て福建省の花崗岩で建てられ、屋根は単層ひさしで、その上に青色の瑠璃瓦で覆われて、三つのアーチ門にそれぞれ彫刻した銅の双扉を取り付けており、真ん中の扉上方の横額に孫中山の筆跡「天下為公」を刻んでいる。』

「天下もって公と為す」。

『礼記』の言葉で、「天下は権力者の私物ではなく、公の為のものである」という意味です。孫文は好んでこの言葉を揮毫し、辛亥革命を象徴する言葉とされています。

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陵門の脇を抜けると、さらに凄まじい光景が目に飛び込んできました。

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階段を埋め尽くさんばかりの人、人、人。

墓道にある階段は392段。これはこの墓が建設された当時の中国の人口3億9200万人にちなむとされています。

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ここまで来ると、壮観です。

思わず写真を撮りたくなる中国ならではの光景です。

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高低差は73mあるといいます。

階段の下から見上げると、ものすごい威圧感があります。

階段の踊り場では記念撮影を商売にする人たちが陣取っていますが、中国人の皆さんは自分のスマホで記念撮影。自撮り棒を持った人たちも非常に多く、中国は世界屈指の「自撮り」大国なのです。

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女の子たちは皆、頭に赤い飾りをつけて記念撮影しています。

頭に飾りをつけて自撮りをし、SNSで発信する。それが若者たちにとっては、「国父」孫文が眠るお墓での楽しみ方のようです。

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私も階段を登ります。角度の急な石段。正直、結構きつい。

日本だと最近はエスカレーターがついたり、エレベーターがついたりバリアフリー化がだいぶ進んできましたが、中国ではひたすら足で登ります。

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踊り場がいくつもあるので、休みながら登ります。

途中に座り込んでいる人もたくさんいます。中国の人はいつでもどこでも自由に振る舞います。

祭堂の孫文像

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階段を登りきると、素晴らしい景観が広がります。

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もちろんここでも自撮りです。

そして階段を登りきった場所に建てられている建物は「祭堂」と呼ばれています。

アーチの上に「民族」「民権」「民生」の金文字が刻まれています。孫文の指導理念である「三民主義」を表す言葉です

孫文は、民族主義、民権主義、民生主義の3つを柱に、異国に侵食されて弱体化していた清朝末期の中国を救おうと主張しました。

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この祭堂に関する日本語の説明書きはちょっと変でした。

そのまま書き写します。

『祭堂は東洋と西洋の建築風格を融合して、扉かまちの上方の横木に孫中山が書かれた「天地正気」の字と国民党の元老張静江が書かれた「民族」「民権」「民生」との字が鋳造してある。ホールの真ん中にフランスの彫刻家ポロ?ロトシキに造られた孫中山の漢白玉像があり、東西両側の壁に孫中山の遺書「建国大綱」の全文が刻んである。墓室の真ん中にチェコの彫刻家コウチに造られた孫中山の横式像があり、先生の遺体はその下に深く埋葬された赤銅の棺に置かれている。』

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「ポロ?ロトシキ」って誰?

この人名表記は一体どうしてしまったのでしょう?

英語の説明を見ると、「Paul  Randowsky」と書いてあります。中国旅行専門サイト「感動大陸」には、「ポール・ランダース」という名前で紹介されていましたが、どちらのポールさんもネット検索でヒットしませんでした。

その誰だかよくわからないフランス人彫刻家が作ったのが、こちらの孫文像です。

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祭堂の中は撮影禁止になっていたので、外から撮影した写真しかありません。

孫文の棺は、この祭堂の下に安置されているようです。

祭堂内部の壁には、孫文が書いた「建国大綱」の全文が刻まれています。

観光客は祭堂に入るために行列に並び、この孫文像の周りをぐるっと回って外に出てきます。

長い階段を登った先に待っていたのは、それだけでした。

私はてっきり、社会主義国によくある永久保存処理した遺体が安置されているのだと勝手に思っていたので、ちょっとがっかりでした。

孫文と日本

ちょっと余談になりますが、孫文と日本との関係について少し書いておこうと思います。

中国南部の広東省で生まれ、ハワイや香港で教育を受けた孫文は、マカオで医者になります。列強による植民地化が進む時代でした。日清戦争が終わった1895年、広州で武装蜂起を企てるものの失敗し、孫文は日本に亡命します。

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中国では「孫中山」という名で知られる孫文ですが、「中山」の由来についてウィキペディアに面白い情報が出ていました。

『孫文は日本亡命時代には東京府の日比谷公園付近に住んでいた時期があった。公園の界隈に「中山」という邸宅があったが、孫文はその門の表札の字が気に入り、自身を孫中山と号すようになった。日本滞在中は「中山 樵(なかやま きこり)」を名乗っていた。なお、その邸宅の主は貴族院議員の中山忠能である。』

そうして日本の苗字から取られた「中山」の名が中国人に親しまれ、中国各地に「中山路」などの地名を残したのです。

日本人女性と結婚したこともあります。14歳の大月薫との結婚を申し込み親に断られましたが、駆け落ち同然で結婚しました。

孫文は、娘が生まれる前に帰国していましたが、日本に子孫を残しました。

そもそも孫文が革命を志したのは、日本の明治維新に触発されたからです。自ら「志士」となり満州人の支配や列強の侵略から中国を解放することを目指しました。犬養毅や頭山満など日本人とも生涯親交を結び、日中の連携を模索したのです。

その意味では、日本による中国侵略は孫文にとって「維新の志士の抱負を忘れた」所業に映ったことでしょう。第一次大戦で日本が中国に厳しい要求を突きつけ、山東省の権益を獲得すると、中国国内では「抗日愛国運動」、いわゆる「五四運動」が盛り上がりました。

日本と深い絆を持っていた孫文も、こうした情勢の変化を受けて共産党との連携へと方針変換することになるのです。

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「地球の歩き方」を見ると、中山陵は一押し観光地として最初に紹介されていますが、個人的にはちょっと期待外れでした。

ただ、大勢の中国人を見てみたい人や急な階段を登ってみたい人にはオススメです。

「地球の歩き方」のオススメ度は星3つ、私のオススメ度は星1つ半です。

中国近代史の舞台「総統府」

南京には、孫文にまつわる重要な場所がもう一つあります。

中国近代史の舞台となった「総統府」。正式名称は、「南京中国近代史遺址博物館」と言います。

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最寄駅は、地鉄2号線「大行宮駅」です。

駅を出ると、スターバックスの入った小洒落た飲食街があり、その交差点を右折するとすぐに総統府の長い塀が現れます。

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塀に沿って並ぶ街路樹は、木陰を広げるためでしょうか、枝を無理やり広げて矯正されています。南京ではこういう木々をよく見かけました。

日本人と中国人、見た目は似ていても、やはり違う感性を持っているようです。

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チケット売り場には人がひしめいていました。中国語の大きな声が飛び交います。

入場料は45元。

六朝博物館とのセット券60元も売られているので、「45元」と書かれた文字を指差しながら紙幣を差し出すと、無事に総統府だけのチケットが買えました。

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この場所には明代から様々な役所が置かれましたが、歴史上注目されるのは、清朝末期1853年に起きたキリスト教徒の反乱「太平天国の乱」からです。

乱が鎮圧されたのは1864年、孫文は2年後の1866年に生まれました。

その孫文が1912年中華民国臨時大統領に就任したのもこの場所でした。つまり、ここ総統府は中華民国「建国の地」ということになります。

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中に入ると、ここにも孫文の「天下為公」の額がかけられ、そこからまっすぐに廊下が続いています。

この施設の難点は、日本語の案内がまったくないことです。案内板は中国語と英語のみ。それも所々にしかないので、あまり理解できません。

太平天国の乱と洪秀全

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特に順路も指定されていないので、人が少ない方へ適当に進んで行くと、「洪秀全の天朝宮殿」と書かれた一角がありました。

漢字で書かれているので、多少は理解できます。

洪秀全とは、太平天国の乱の指導者です。南京を「天京」と改称し、この場所を天王府として活動の拠点としました。

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洪秀全は夢のお告げでキリスト教に目覚め、自らをキリストの弟と位置づけ、儒教や仏教の廟を次々に破壊しました。地方政府との摩擦が生じると密かに軍事化を進めます。どことなく「オウム真理教」を思い起こさせるような集団です。

ところが当時の清朝は、アヘン戦争で弱体化していたため、太平天国軍は各地で正規軍を破りました。ついには占領した南京を根拠地にして10年あまりにわたる太平天国の王朝を打ち立てたのです。

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洪秀全が使ったとされる玉座が残っていました。

玉座の脇には2羽の鶴。

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洪秀全はこの部屋で大臣たちと謁見したと言います。

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こちらは洪秀全の執務室。

清朝と戦った洪秀全は、孫文にも強い影響を与えたと言われています。

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竹の植えられた通路を抜けると・・・

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池のある中国式の庭園に出ました。

「煦園(くえん)」です。

今では南京の高層ビルが借景となっていますが、明代に築かれた600年の歴史を持つ庭園です。満州民族の国である清朝に対抗した洪秀全や孫文にとって、漢民族国家だった明朝の庭園は居心地の良い場所だったのでしょう。

アヘン戦争の英雄・林則徐

総統府の出口近くに、一つ銅像が立っていました。

アヘン戦争の英雄、林則徐です。

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林則徐は19世紀初めに活躍した清朝の役人で、1838年にアヘンを取り締まる欽差大臣に任命され広東に赴任しました。

林則徐は早速イギリス商人たちが持っていたアヘンをすべて没収し処分します。

これに強く反発したイギリスは東洋艦隊を中国に派遣、1840年イギリスと中国の間でアヘン戦争が起きました。イギリス艦隊は、林則徐らの中国軍が防衛する広州を避けて北上に、首都北京に近い天津に現れます。驚いた皇帝は林則徐を解任し、屈辱的な南京条約を締結するのです。

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林則徐の銅像が立つ一角では、「過去の屈辱を忘れてはならない」と題して、アヘン戦争に関連した展示が施されていました。

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アヘンに溺れる辮髪の男たちの写真です。

イギリスは大幅な輸入超過だった中国貿易を改善するため、植民地にしていたインドからアヘンを大量に持ち込みました。

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阿片窟の様子が人形で再現されているコーナーもあります。

中国人にとっては文字通り、屈辱の歴史はここから始まりました。太平天国の乱が起きたのも、アヘン戦争の混乱が続いている時代でした。

ただ、総統府を訪れた客の大半はアヘン戦争の展示棟を素通りしているようでした。日本関連の展示に比べて、もう遠い昔のお話なのかもしれません。

孫文の執務室

太平天国の乱を制圧した清朝は、この建物を両江総督府として使用します。

林則徐も晩年、太平天国の乱を担当する欽差大臣に任命されこの地に向かう途中で亡くなりました。

その関係で林則徐の銅像がこの場所に置かれているのでしょう。

そして、1911年の辛亥革命で清朝が倒された後、この建物の主となったのが孫文でした。

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総統府の一角には、孫文が寝起きしたという居室が残されていました。

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総統府の他の部屋に比べて、孫文にまつわるスペースは全体的に質素な印象を受けます。

辛亥革命が起きた時、孫文はアメリカにいました。中国国内の革命勢力はいくつもの集団に分かれていましたが、1911年12月25日、孫文が上海に帰国すると彼をリーダーとしてまとまります。

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孫文が使った執務室です。

1912年1月1日、孫文は臨時大総統に就任。南京を首都とする中華民国臨時政府の建国を宣言しました。

まだ北京には清朝の政権が残っていました。そこで中国統一を目指す孫文は、清朝の首相として反乱軍の鎮圧にあたっていた袁世凱と取り引きをします。清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を退位させることと引き換えに、袁世凱に臨時大総統の地位を譲ったのです。

しかし袁世凱は自らの権力を強化し、1916年にはついに皇帝に即位しました。袁世凱との権力闘争に敗れた孫文は、再び日本に亡命することになります。

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粗末なベッドが並べられた部屋。ここにも「天下為公」の額が掲げられています。

もう一つの額には「知難行易」と書かれています。「行動することより知ることの方が難しい」という意味だそうです。

この場合の「知る」とは単に書物から知識を得ることではなく、経験から学ぶこと、すなわち「失敗」でも経験することで「知る」ことにつながるという意味が込められています。

激動の中国近代史を生きた孫文は、晩年共産党と手を結び「国共合作」を成し遂げました。目的のためには手段を選ばない現実主義者だった孫文。ロシア革命で誕生したソ連の支援を受けて全国統一のための「北伐」を準備する過程で、夢を果たせぬまま死を迎えます。

「革命尚未成功、同志仍須努力 (革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」

これが孫文の遺言でした。

蒋介石と宋美齢

孫文の死後、混乱する国民党の中で実権を握ったのが蒋介石でした。

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総統府中央の建物には、蒋介石の執務室も保存されています。

孫文の死後、蒋介石が革命を引き継ぎ「北伐」を開始しました。蒋介石率いる国民革命軍は各地で軍閥を撃破し、民衆を味方につけることで勢力を拡大していきました。

1927年には北伐軍は上海、南京を占領。国民党左派が支配する武漢政府に対抗して蒋介石は南京政府を立ち上げます。そして翌年、北京に入城して中国統一が完成し、孫文の夢は蒋介石によって達成されたのです。

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中華民国時代の客間が残っていました。

1946年、ここで国民党と共産党の会議が開かれた、と案内板には書かれています。1946年といえば、国共内戦が勃発した年です。

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こちらは蒋介石が外国使節と面会した部屋です。

レトロな佇まいが、歴史を感じさせます。

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蒋介石と妻・宋美齢の結婚写真も飾られていました。

宋美齢の姉の宋慶齢は孫文の妻、2人が出会ったのも孫文の家でした。

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宋美齢は蒋介石の決定を左右したほか、英語力を生かして国際政治の世界で活躍。日中戦争や国共内戦にも強い影響力を及ぼしました。

しかし、こうして第二次大戦で戦勝国の地位を確保した中華民国でしたが、共産党との戦いに敗れ、台北に首都を移さざるを得なかったのです。

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総統府の庭には孫文の銅像がありました。

彼の激動の人生を知ってか知らずか、多くの人々が銅像に群がり入れ替わり立ち替わり記念撮影をしています。共産党が支配する南京で人気の撮影スポットとなった孫文さん、どんな気持ちでその光景を眺めているのでしょう?

中国の近代史がたっぷり詰まった南京の総統府。「地球の歩き方」のオススメ度は星3つですが、私のオススメ度は歴史好きには星3つ、そうでない人には星1つというところでしょうか。

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