<きちたび>旅のアルバムから〜ルワンダ・大量虐殺の街へ!ホテルの目の前は銃弾が飛び交う戦場だった

🔶「旅したい.com」から転載

<ルワンダ>大量虐殺の街へ!ホテルの目の前は銃弾が飛び交う戦場だった

🇷🇼ルワンダ/キガリ 1994年5月

ルワンダというアフリカの小国を私たちが知ったのは、1994年に起きた大量虐殺でしょう。50万人とも100万人とも言われる人が殺された歴史に残るジェノサイド。私が初めてルワンダを訪れたのも、この大虐殺の取材をするためでした。

まだ激しい戦闘が続いていた首都キガリへ、国連機に同乗しての取材旅行の記録です。

国連機でのルワンダ入り

ルワンダの大虐殺のきっかけとなったのが、1994年4月6日、ハビャリマナ大統領が乗った飛行機が撃墜された事件でした。

その翌日から、多数派フツ族による少数派ツチ族に対する組織的な虐殺が始まりました。

私は当時、テレビ局のパリ特派員としてヨーロッパからこのニュースをウォッチしていました。欧米諸国は自国民をルワンダから救出するため軍隊を派遣、メディアは史上稀に見る人道危機として連日このニュースを大きく伝えます。現地からの生々しい映像も少しずつ届き始めました。

遠い国の出来事なので日本での関心は高くありませんでしたが、私はどうしても現地に行きたいと思い、現地へのルートを探しました。

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ケニヤのナイロビから国連の輸送機に同乗する許可を得て、キガリに入ったのは5月31日のことでした。

この頃には、キガリでの住民虐殺は峠を越えていましたが、代わりにツチ族の反政府勢力「ルワンダ愛国戦線」が首都に侵攻、政府軍との激しい戦闘が続いていました。

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戦闘のため閉鎖されたキガリ空港には、もう民間機は飛んできません。そのため入国審査も何もありませんでした。

国連機から降り立つと、真っ先に破壊された管制塔が目に飛び込んできました。

空港の警備に当たっていたのは、黒いベレー帽をかぶった反政府勢力の兵士たち。戦略拠点である空港はこの時すでに、北部から侵攻してきた反政府勢力の支配下にあったのです。

死の街キガリ

水色のヘルメットをかぶった国連軍兵士たちが空港の外で待っていました。ケニヤから到着した人や物資を数台の車に乗せて本部まで運びます。私たちジャーナリストも、こうした車に便乗する以外、この街で移動する手段はありません。

私たちを乗せた国連の白い車は、隊列を組んで街を猛スピードで駆け抜けます。

破壊されたビル、横倒しになった車。人影はまったくありません。

多くの住民が殺され、虐殺前キガリに住んでいた35万人のうち30万人以上が首都を脱出したと言われていました。

文字通り、死の街です。

戦闘地域ではどこでも移動の際、複数の車が「コンボイ」と呼ばれる隊列を組み、猛スピードで走ります。もし軍隊が一緒なら、コンボイの前後を武装した兵士たちが守ってくれます。

移動中も砲撃の音や絶え間ない銃声が聞こえます。どこが前線なのか、着いたばかりの新参者には知る由もなく、運を天に任せて揺れる車にしがみついているしかありません。

10分ほど走ったでしょうか、コンボイは国連の現地本部に走り込みます。入り口には土嚢が積まれ、水色のヘルメットをかぶった兵士たちが銃で守りを固めていました。

到着したばかりのジャーナリストたちは、国連部隊の指揮官から状況の説明を受けます。

その時です。

ものすごい砲撃音が地面を揺らしました。思わず頭を抱えてしゃがみこみそうになります。私だけでなく到着したばかりの全員が身構えました。

しかし、前からいるジャーナリストたちはそんな私たちを見て笑いながら、「国連本部の隣に反政府軍の大砲陣地があるんだ。すぐに慣れるよ」と教えてくれるのでした。

ここではジャーナリストが自由に取材することはできません。ただただ国連の本部事務所に待機し、国連軍が動く時にその車に同乗させてもらうのが街に出る唯一の方法です。

この日の午後、突如部隊に動きがありました。

よくわからないまま車に飛び乗ります。10台ほどのコンボイが向かったのは、一人の国連監視員が迫撃砲の直撃を受け、死亡した現場でした。

4月の内戦突入以来、国連としては12人目の犠牲者だと言います。

内戦前に駐留していたフランス、ベルギーの部隊が次々と撤退する中、この時キガリに残っていた450人の国連部隊はアフリカを中心とする発展途上国の兵士たちで占められていました。

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死亡したセネガル兵の遺体は、整列した国連兵士たちに見送られ、輸送機に積み込まれました。見つめる兵士たちの表情には、無念さと無力感が漂います。

戦場の特等席ホテル

一連の取材を終えると、国連が用意したホテルに案内されました。

例によって国連の車に乗って猛スピードで連れて行かれたので、どこのホテルだったのか覚えていません。

ホテルの中は電気もなく、殺伐とした雰囲気が漂っていました。

「空いている部屋を見つけて、適当に使って」と国連スタッフが簡潔に指示します。ホテル代は無料です。

「ベッドがなかったら、どこかでマットレスでも探してちょうだい」と言って、軍隊用の野戦食を手渡されました。

そのスタッフの言う意味はすぐにわかりました。

階段を上がり、空いている部屋を探すとすぐに見つかりました。でも、部屋はもぬけの殻、ベッドもありません。隣の空き部屋も同じ、その隣も同じです。

そのホテルは廊下を挟んで両側に部屋が並ぶ通常の作りだったのですが、なぜか片方の部屋だけ満室なのです。しかも、一部屋にすごい数の人が固まっていました。

理由は明快でした。

部屋が空いている方の側は戦場に面しているためです。

私たちが泊まったホテルは反政府勢力が支配するエリアにあり、空いている部屋の窓の向こう側に見える丘は政府軍の最前線でした。ホテルに入ってからも、ひっきりなしに銃声が響いています。

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先住者たちが反対側の部屋にすべての家具を持ち込み、異常な人口密度で暮らしている理由がよくわかりました。

ちなみに、このホテルには、国連関係者や長期で取材しているジャーナリストのほか、このホテルに避難してきたツチ族の市民たちも大勢いました。

虐殺と内戦でほとんどの市民はキガリの街を脱出していましたが、政府軍エリアと反政府軍エリアに分断された首都に残されていた人たちは、違う部族の支配地域で身動きができなくなっていました。

彼らの多くは病院やスタジアムに避難する一方、国連などが管理するホテルにも逃げ込みました。

ルワンダ虐殺を描いた映画「ホテル・ルワンダ」は、虐殺から逃れたツチ族の市民を匿ったホテルの副支配人が主人公でした。この映画の舞台となったのは「ホテル・デ・ミル・コリン」という高級ホテルでしたが、ほかのホテルにも多くの住民が逃げ込み息を潜めて暮らしていたのです。

安全なサイドの部屋にはもはや入り込む余地はないため、仕方なく戦場側の空き部屋を私とカメラマンで使うことにします。

ホテルの中をうろうろするとマットレスが放置してあるのを見つけ、部屋に運び込みます。板のようなものもあったので、気休めですが窓際に立てかけ弾除けにしました。

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国連から支給された簡易的な防弾チョッキを身につけ、もらった野戦食を食べることにしました。

流れ弾に当たらないように床に身を伏せながら、箱を開けます。

こうした兵士用のお弁当は「レーション」と呼ばれます。

自衛隊のものは食べたことがないので比較はできませんが、フランス軍のレーションはとても充実していて、デザートまでついています。品数も多く、味も悪くありません。

さすが、美食大国フランスです。

そいしているうちに日が暮れ、ホテルは真っ暗になりました。

窓の外では相変わらず、絶え間ない銃声が響くのですが、夜になると昼間は見えなかった銃弾の軌道が見えるようになります。

丘の向こうからこちらに向かって銃声とともに赤く光る線が伸びてくるのです。

それに反撃するように、こちらからも政府軍が立てこもる丘に向け射撃が続けられます。撃っているのは国連軍ではなく、反政府勢力の兵士たちです。

政府軍の最前線までの距離は、ほんの数百メートルというところでしょうか。目の前を機関銃の弾が飛び交う、かぶりつきの特等席でした。

わずか1泊2日のキガリ取材でしたが、私たちの滞在中10分以上砲声が途絶えることはありませんでした。

アフリカの奇跡

多くの人命を奪ったルワンダの内戦は、7月18日に反政府側の勝利で終わりました。

およそ100日に及んだ内戦とそれに伴う計画的な虐殺により、100万人近くの犠牲者を出したのです。

ルワンダには、内戦終結後に再び取材に行きました。さらに、ルワンダ難民を支援するために派遣された自衛隊を取材するため隣国のザイールにも行きました。

あれから25年・・・

あんな絶望的な悲劇が起きたルワンダは、今では「アフリカのシンガポール」と呼ばれ、年率7%の経済成長しているといいます。

「アフリカの奇跡」と呼ばれるにふさわしい急成長ですが、あの大混乱を目にした人間から見ると、にわかには信じがたい話です。

内戦によりルワンダの産業・経済は深刻な打撃を受けたが、1999年には内戦前の水準へと回復を果たした[3]。内戦時代に海外へ脱出(ディアスポラ)したツチのうちの200万人近くが戦後帰国し、海外で習得した様々なスキルで国の復興に尽力している。

2000年頃からはICT立国を目指し、ICTの普及・整備に力を注いでいる。一方で、激しい反体制派への弾圧などで自らの権力基盤を強化するその手法は独裁的であるとの批判もある。実際に2015年には憲法第172条が改正され、2034年まで大統領職にとどまることが可能となった。

ウィキペディアより

大量虐殺と難民の流出で、国土から人影が消えていたルワンダの人口も今や1100万人以上。内戦前より増えて、アフリカで一番人口密度の高い国になったといのも信じられません。

果たしてどんな国になっているのか?

自分の目で今のルワンダを見てみたいと思います。

「地球の歩き方」を見ると、「キガリ虐殺記念館」もできているようです。

もう一つ、あの日私が宿泊したホテルはどこだったのか、それも確かめたいと思っています。

映画「ホテル・ルワンダ」の舞台となった「ホテル・デ・ミル・コリン」かなとも思ったのですが、地図で確認するとどうも違うようです。ホテルからは多くのツチ族の人が逃げ込んでいたスタジアムが見えました。

その結果、可能性が高いのではないかと思っているのが、空港近くの「ウムバノ・ホテル」だ。スタジアムが近く、建物の外観も似ている気がする。

私にとって忘れることのできないルワンダでの思い出。

ぜひ再訪できる日を待ち望んでいる。

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