<きちたび>3泊4日ボローニャの旅⑥ ムッソリーニの生まれ故郷でイタリアの歴史について考えた

ボローニャに到着した翌日、ファシズムの創始者ベニート・ムッソリーニの生まれ故郷を訪ねた。

ムッソリーニは1883年、ボローニャの南東プレダッピオ村に生まれた。彼の生涯については以前「ムッソリーニ」というブログで書いているので、もしご興味があればそちらをご覧いただきたい。

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午前9時過ぎ、宿の近くバス停で中央駅行きのバスを待っていると様子が変なことに気づく。

車が一台も通らない。人々がメインストリートの真ん中をブラブラと歩いている。

通りがかりの人がバスを待つ私たちを見て、イタリア語で話しかける。どうやら「バスは来ないよ」と言っているようだ。

後でわかったのだが、イタリアでは8月15日は「聖母被昇天祭」の祝日で旧市街は全面通行止めとなるらしい。

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仕方がないので、駅まで歩いて行くことにする。

ボローニャの旧市街、歩道の大部分に屋根がついていることで知られる。「ポルチコ」と呼ばれる列柱のポーチで、ボローニャの中心部だけで全長38kmに及ぶという。

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途中、馬に乗った銅像が立っていた。

イタリア統一の英雄ジュゼッぺ・ガリバルディの銅像である。

軍人だったガリバルディは1860年、「千人隊」と呼ばれる少数の義勇兵を率いてシチリア島に乗り込み、彼らの活躍がイタリア統一への大きな転機となったという。

この「イタリア統一」の話がこのブログのテーマなのだが、長くなるのでこの話は後半で書くことにする。

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10時12分発、落書きだらけの普通列車に乗って東へ、フォルリという町に向かう。

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料金は片道6ユーロ。駅の自動販売機で買った。

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青いレザーシート。座席はすべて自由席だ。

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田園風景の中を走る列車は1時間弱でフォルリに到着した。

若き日のムッソリーニは、社会主義者だった。

1910年頃の一時期、イタリア社会党で活動していたムッソリーニは、生まれ故郷のフォルリ=チェゼーナ県で頭角を表す。党支部の新しい機関紙発行を任され「『ラ・ロッタ・ディ・クラッセ(階級の闘争)』紙を出版、議会制民主主義を目指す穏健派の議員を攻撃したりした。

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フォルリの駅前は祝日ということもあるのか、人影もまばら。1日6本しかないプレダッピオ行きのバスは定刻を30分過ぎてもまったく現れる気配がなかった。バス停で待っている他の人に聞いても、バスがいつ来るのか誰もわからないので、仕方なくタクシーで往復することに決めた。

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イタリアではなかなか英語が通じないが、駅前に止まっていたタクシーの運転手が少し英語が話せるドライバーを連れてきてくれた。

私もプレダッピオの情報をほとんど持っていなかったので、とりあえずムッソリーニが眠る墓地に行って欲しいと頼む。

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プレダッピオの教会墓地「san cassiano cemetery」には20分ほどで着いた。

煉瓦造りの立派な門だ。

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門を入った左手に教会が建っている。

こちらもどっしりとした造りだ。

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墓地には多くのお墓が並ぶ。地区の共同墓地だ。

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個々のお墓には写真と造花が飾られている。

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払った金額によって墓の大きさが違うのは、どこの国でも同じのようだ。

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こんな共同墓地の中央正面に建てられた立派な霊廟。これがムッソリーニ家の廟だ。

ムッソリーニの棺は、今もこの霊廟の地下に家族とともに安置されているという。

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あいにくムッソリーニ廟には入ることができなかった。

ネットで見る限り、最近まで観光客にも地下の棺が公開されていたのだが、入り口がフェンスで覆われ、そこに花がたむけれれていた。

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「ムッソリーニの地下室」と書かれて入り口には、張り紙があった。

帰国後、Google翻訳で訳してみると、どうやら修復工事のため去年の12月から閉鎖しているということらしい。

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閉ざされた扉には、イタリアの三色旗がダランとぶら下がっていた。

せっかくここまできて、棺を見られないのは残念だが、縁がなかったということで諦めよう。

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ムッソリーニの墓は、今でもネオ・ファシストたちの巡礼地になっているという。

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ムッソリーニが銃殺されたのは1945年4月28日。そのため命日に当たる4月28日には信奉者が集まり追悼集会が開かれるのだという。

ただもともと「社会主義者」だったムッソリーニが目指した国造りは、後世のネオ・ファシズム信奉者たちとはまったく違うものではなかったかと私は考えている。

ムッソリーニとヒトラーは似ているようで、まったく違うと私は思うのだ。

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墓地を後にしてプレダッピオの街中へ移動する。

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教会前広場からまっすぐ伸びる通り沿いに住宅が並ぶ。

ムッソリーニはこの地で生まれ、少年時代を過ごした。

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通りから少し入ったところに、ムッソリーニの生家が残っている。

石造りの頑丈そうな家だ。

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ムッソリーニの父親は、熱心な社会主義者だった。家が貧しかったため鍛冶屋に奉公に出されそれで生計を立てていたが、独学で勉強し、プレダッピオの市会議員や助役も務めた。ムッソリーニはこの父の影響を強く受けて社会主義的な考え方を持つようになる一方、イタリア統一を進めるガリバルディやマッツィーニらの愛国主義、共和主義にも傾倒していく。

若きムッソリーニが目指したものは、全体主義や民族主義ではなく、生まれたばかりで混乱の続くイタリアをヨーロッパ列強から守り強くしていくことであった。

そういう意味で言えば、富国強兵政策を推し進めた大久保利通をはじめとする明治政府と重なる部分を感じてしまうのだ。

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彼の生家の前は、ちょっとした公園に整備されている。

この小さな集落にとって、ムッソリーニはやはり特別な存在なのだろう。

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しかし、生家の中に入っても、ムッソリーニに関する展示は一切なく、ファシズム時代のプレダッピオの建築物という不思議な紹介展示が行われていた。

ヒトラーほどではないにせよ、ムッソリーニを礼賛するような施設は政府が認めないのだ。

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なぜイタリアでファシズムが生まれたのか?

それはイタリアの歴史と強い関係があると私は思っている。

『イタリアの建国は1861年で、厳密に言えば、「イタリア」の歴史はその時から始まったのであって、その前にはなかった。それ以前のイタリア半島は、独自の歴史と伝統を持った小さな国家の寄せ集めだったからである。』

イタリア史研究者クリストファー・ダガン著「ケンブリッジ版世界各国史 イタリアの歴史」冒頭の記述である。

 

18世紀末のイタリア半島は、サルディーニャ王国、ジェノヴァ共和国、トレント司教領、パルマ公国、モデナ公国、ヴェネティア共和国、トスカーナ大公国、ルッカ共和国、サンマリノ共和国、教皇国家、ナポリ=シチリア王国に分かれ、ミラノなど北部地域の一部はオーストリアの支配下にあった。

フランス革命とそれに続くナポレオンによるイタリア占領がきっかけとなり、19世紀にイタリア統一運動=リソルジメントが活発化する。各地でイタリア統一を目指す反乱が起きるが、その都度オーストリアなどの介入で鎮圧された。

そして紆余曲折の末、サルディーニャ王国が他を併合する形でイタリアが統一国家としてのスタートを切ったのは、日本の明治維新とほぼ同じ1861年のことだった。

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明治維新にも英雄たちが存在したように、「イタリア統一の三傑」と呼ばれる英雄たちがいる。

初期の統一運動の精神的支柱となったジュゼッペ・マンティーニ、サルディーニャ王国の首相として北部イタリアの統合を進めたカミッロ・カヴール、そして「千人隊」を率いてイタリア南部を支配していた両シチリア王国を打ち破ったジュゼッペ・カリバルディである。

日本で言えば、マンティーニが吉田松陰、カヴールが西郷隆盛、ガリバルディが坂本龍馬と行った感じだろうか。

しかし、日本の明治新政府が強引に富国強兵政策を推し進めたのと比べると、イタリアの国造りはなかなか前に進まなかった。

特に、新生国家イタリアを苦しめたのは、統一国家に対する責任感や忠誠心が国民に欠けていたことだった。そのイタリア国民に真の統一を意識させたもの、それは皮肉にもムッソリーニのファシズムだったと「イタリアの歴史」の著者ダガン氏は指摘している。

『1870年代の終わり頃までには、社会不安と経済不安が起こり、それまでの楽観的な確信が揺らぎ始め、国民の間に幻滅感が広がってゆく。同時に、自由に制約を加えることによって国民の責任感の欠如という問題を解決すべきであると主張する政治思想が勃興する。1920年代と30年代の20年間にわたるファシスト政治であった。しかし、皮肉なことに、ファシズムの全盛期ではなく、ファシズムが崩壊した時に、やっとイタリアに1860以来もっとも統一性のある国民的価値観、すなわち反ファシズムという国民意識が誕生したのである。』

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ムッソリーニは1922年、イタリアの首相に就任する。

ムッソリーニを権力に押し上げたのは、地主や貴族、教会などの既得権者、そして最後は王政の存続を狙ったイタリア国王だった。

『ファシズム政権は、断固として国民に国家への帰属意識を植え付けようとした。それによって、さまざまな派閥や階級や各地の不穏な動きに対処しようとしたのである。なぜなら、1860年以来、まさにそのような不穏な情勢によって、政府は何度も機能不全の状態に陥っていたからである。自由主義の制約を受けることのないファシズムは、歴史に例を見ないほど国家権力を行使して、国民を統制し、国民を洗脳するための最善の手段はプロパガンダと教育と戦争である、と考えた。また、古代ローマ帝国時代を、理想的な倫理と政治を教えてくれる歴史的宝庫であると賛美した。」

しかし、ムッソリーニの首相在任期間は21年に及ぶ。

その期間にイタリア人の間に統一国家としての自覚と自信が芽生え、列強に対抗できる「強いイタリア」を支持する空気があったことは間違いない。

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ムッソリーニの運命が大きく狂ったのは、皮肉にも彼を信奉する一人の男ヒトラーがドイツで政権を取ったことだろう。自らを崇めるヒトラーに対し、ムッソリーニは最初あまり好意を示さなかったと伝えられている。ドイツがポーランドに侵攻し、第二次大戦が勃発しても、ムッソリーニは中立を宣言した。しかし、ドイツがフランスに対する電撃作戦を始めると、参戦を決める。これがムッソリーニの命取りとなった。

戦況が悪化した1943年、ムッソリーニは首相を解任され山中に幽閉される。

この事態を受けて、ヒトラーはドイツ軍のイタリア侵攻を命じた。ドイツ軍はたちまちイタリア北部と中部を占領し、幽閉されていたムッソリーニを救出。彼を首班とする「イタリア社会共和国」と樹立する。

これに対して、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世やバドリオ首相はローマを放棄して南部の連合国軍支配地域に逃れた。こうしてイタリアは1年半に渡り、南部のイタリア王国と北・中部のイタリア社会共和国に分断され、内戦状態が続いた。

ドイツ占領下のイタリア社会共和国地域では、レジスタンス活動が活発化する。このレジスタンス活動こそ、戦後イタリアがドイツの同盟国でありながらいち早く自由主義陣営の一員として国際社会に復帰できた要因なのだ。

伊藤武著「イタリア現代史」には次のように書かれている。

 

『レジスタンス勢力は、最終的に1945年4月の一斉蜂起によって、北部の自力解放を果たした。もちろん連合国軍の軍事力も背景にはあったが、自力解放の成果とその伝説は、連合軍に対するイタリアの発言力を強める源となった。戦後イタリアの国土が、ドイツと違い連合軍の直接占領ではなく関節占領に置かれ、日本と比べて占領期間も短くとどまったのも、このような理由が存在したからである。

武装パルチザン活動を含めたレジスタンスが北部の自力解放に結びついたことは、その後に「レジスタンス神話」を生み出す。やがて成立する共和国は、ファシスト党の再建を禁ずる憲法規定に象徴されるように、反ファシズムのレジスタンスから生まれた共和国と位置づけられた。4月25日は解放記念日として共和国の主要な祝日となった。

ただし、レジスタンス神話の浸透は、戦後に多くのイタリア国民がファシズム独裁の歴史的問題の清算は済んだと捉える副産物をもたらした。ファシズム時代のアフリカ侵攻におけるガス使用、ホロコーストへの協力など、神話に相容れない歴史的記憶は深層に潜り込んでしまったのだ。』

何処の国も同じ。自分の負の歴史は、葬り去ってしまうものなのだろう。

今回訪れたオーストリアでも、以前暮らしたフランスでも、ナチスへの協力の歴史は忘れ、レジスタンスの英雄たちだけをいつまでも賞賛している。

日本と、同じだ。

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ムッソリーニという一人のイタリア人社会主義者が、どうしてファシズムという新たな全体主義思想および政治手法を編み出したのか?

その疑問はもっともっと調べないと、私にはまだ理解できていない。

しかし彼が編み出した思想は、その後形を変え、「異物」を排除し抹殺する論拠としてヒトラーやスターリンにも引き継がれる。発展途上国の独裁者やテロリストにもファシズムの影響を感じる。そして、最近世界中で蔓延しているポピュリズムも、ファシズムの類似形である。

故郷で眠るムッソリーニは、戦後の世界をどのような思いで見ているのだろうか?

 

<関連リンク>

3泊4日ボローニャの旅

①ヨーロッパ最古の大学都市ボローニャを歩く

②旧市街のど真ん中マッジョーレ広場を見下ろす奇跡のコンドミニアムに泊まる

③橋が落ちた! イタリアの交通インフラはちょっとヤバいかも

④世界で5番目に小さな国サンマリノは世界最古の不思議な共和国だった

⑤グルメでない私たち夫婦が「美食の街」で食べたもの

⑥ムッソリーニの生まれ故郷でイタリアの歴史について考えた

<参考情報>

私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。

 

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