<きちたび>3泊4日ホーチミンの旅⑥ 忘れてはならない枯葉剤の悲劇!「ベトドク」の思い出を胸に夕暮れのホーチミンを歩く

私のアルバムに一枚の写真が残っている。

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1986年、ホーチミンのツーズー病院で私が撮影した写真だ。

ベトナム戦争で米軍が使用した枯葉剤の影響で、結合双生児として生まれたグエン・ベトとグエン・ドクの双子の兄弟。日本では「ベトちゃんドクちゃん」と呼ばれた。

1986年6月、ベトが急性脳炎を発症し、治療のため日本に緊急搬送されることになった。当時、2人は5歳だった。

バンコク支局に赴任した私は、初めてベトナムに入り、日本に出発する前の兄弟を取材した。

ぐったりとしたベトに対して、ドクは記者団のカメラに興味津々で突然現れた日本人の集団を観察していた。その表情が、3歳になった私の長男に似ていると感じたことを今でもはっきりと覚えている。妙に親しみが湧いた。人ごとではないと感じた。

自分の子供がこんな体で生まれてきたら、親はどんな気持ちになるのだろう。しかも、その原因が戦争であることは、すでにはっきりとしていた。

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2人の写真が、ホーチミンの戦争証跡博物館に展示されていた。

ベトとドクの双子の兄弟は、1981年ベトナム中部高原のサタイで生まれた。母親は終戦の1年後、枯葉剤がまかれた地域に移住し農業を行なっていた。飲み水から母親の胎内に枯葉剤の成分が入ったと考えられている。

2人は1歳の時、ハノイのベトドク病院に預けられた。この病院名からベトとドクと名付けられる。

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2歳の時、ホーチミンのツーズー病院に転院した。窓から外を眺めるのが好きだったという。

86年に日本に緊急搬送された時、ベトナムの医師たちは日本で2人の分離手術をしてほしいと要請した。しかし日本側は、それを断った。その時の事情は・・・?

ベトちゃん・ドクちゃんの発達を願う会編「ベト・ドクが教えてくれたもの」から、日本赤十字の担当者だった近衛忠輝氏の発言を引用させていただく。

『日赤医療センターの医師団は、分離手術は成功の確率が高いと考えていました。しかし、親権者の定かでない彼らの手術は、日本では法的な問題がありました。また、障害者団体からは、安全のためベト君を切り捨てて、元気なドク君を優先するような分離手術だけは絶対するな、という声が寄せられました。

分離する場合、一つしかない臓器をどう分けるかでも議論は分かれました。まさに医療倫理に関わる問題であり、簡単に結論は出せませんでした。』

こうして2人は、分離手術を受けることなくベトナムに戻った。

確かに難しい問題がたくさんあった。私自身、2人が見世物になる気がして、「静かにひっそりと死なせてあげればいいのに」と、義憤にも似た感情を抱いていた。

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日本行きから2年後、ベトの容体はさらに悪化した。

ドクの命も危ぶまれる状況に陥ったため、ツーズー病院は自らの手で分離手術を行うことを決断した。日本赤十字社も最新の医療機器や薬剤、手術用具を寄付するなど、最大限の支援を行なった。

1988年10月4日、歴史的な分離手術がホーチミンのツーズー病院で行われた。

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手術には、消化器科、泌尿器科、整形外科、神経内科、心臓血管外科、麻酔科、血液学の専門家など70人以上が参加、15時間に及ぶ大手術となった。

手術は無事成功、体の最も機能している部分はすべてドクに与えられた。

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その結果、ベトは寝たきりの状態となったが、手厚い介護に支えられ2007年までツーズー病院で生き続けた。

上の写真は、亡くなる直前26歳になったベトだ。

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一方のドクは、分離手術によってどんどん健康状態が回復し、成人してツーズー病院で働くようになった。

そして2006年には、ドクさんはボランティア活動で知り合った女性と結婚した。子供にも恵まれた。生まれたのは男女の双子で、それぞれ富士山と桜を表すベトナム名が与えられた。

実は、私は今回のホーチミン旅行に当たって、ドクさんに会えるオプショナルツアーというのを見つけ申し込んでいた。

ツアー名は「平和村訪問&ドクさんとの交流」。

今年37歳になったドクさんは、ツーズー病院の仕事をこなすかたわら度々来日している。またベトナムを訪れる日本人とも積極的に交流を続けていて、昨年にはベトナムを訪問した天皇・皇后両陛下とも面会している。

残念ながら、私がツアーを申し込んでいた日に、ドクさんは政府のイベントに参加することになり、結局ドクさんと会うことは叶わなかった。ドクさんは今も多忙なようだ。

ただ、悲劇はベトドクの2人だけのものではない。博物館には、枯葉剤の悲惨な後遺症が数多く展示されていた。

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日本人フォトジャーナリスト・中村梧郎さん。

ベトナム戦争終結後30年以上にわたって枯葉剤の悲劇を記録し続けてきた。上で紹介したベトドクの写真も中村さんが撮影したものだ。

この中村さんの1枚の写真の前で、私はしばし動けなくなってしまった。

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この写真には日本語の説明文がつけられていた。

『枯葉作戦で全滅したマングローブの森。木の葉のざわめきもなければ鳥も鳴かない死の世界。7歳のフン少年が裸足で歩いていた。終戦から1年目、地表はまだダイオキシンで汚染されたままの時だった(カマウ岬、1976)』

カマウ岬は、ベトナム最南端にある岬だという。

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それから30年後、中村さんは37歳になったフンさんを取材していた。

『37歳となったフンは脳性麻痺またはパーキンソン病の症状が進んでいた。彼を支える12歳の長男ハオが、森で出会ったころのフン少年とそっくりであった。写真の撮影地点は、76年にフンと出会った枯れ木の森と同じ場所である。枯れ木はすでになく、背後は輸出用のエビの養殖池に変わっていた。フンは、闘病のかいなく2008年に他界した(2007、カマウ)』

枯葉剤に汚染された森が、輸出用のエビ養殖池に変わっていたというのも、怖い話だ。

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『船に身を横たえ、村の診療所に数時間かけて向かうフン(手前)、彼の死因は腎不全であった(2007)』

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『フンの末娘。先天性の聾唖、話すことができない(カマウ、2007)』

枯葉剤の悲劇は、次の世代にも引き継がれる。女の子の笑顔と、その後ろに横たわる父親の構図が、戦争の恐ろしさを淡々と訴えかけてくる。

どれだけの言葉を連ねても、こうした写真の持つ説得力を超えることは難しい。

私はあまり覚えていなかったのだが、私は中村さんと会っていた。ベトドクを取材した時の写真を見直していた時に、取材団の中に中村さんがいたことを思い出した。あの時は、中村さんがどんな写真を撮っているのか私は知らなかった。まだ新米カメラマンだった私は、自分がどんな映像を撮るか考えるだけで精一杯だったのだろう。

その時、中村さんは自分のテーマを定め、後世に残る仕事を続けていたのだ。

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『生後10ヶ月のハァを抱くレ・ティ・タイ(25歳)。ハァの腕は欠損し、肌には塩素ニキビ様の発疹があった。母親のタイが枯葉剤を浴びたのは12歳の時(タイニン省ロクフン村、1981)』

タイニン省はカンボジア国境に位置する。

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『無眼球症のトゥアン(5歳)(ホーチミン第6障害児センター、1981)』

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『死産の子、標本(ツーズー病院、1982)』

日本で有名なベトドクが、ベトナムでは決して珍しい存在でないことを中村さんの写真は静かに伝えている。

そしてベトドクが長年過ごしたホーチミンのツーズー病院には、枯葉剤による障害を持つ子供たちが収容される「平和村」が作られた。1990年のことだ。

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そして、枯葉剤被害を受けた子供たちはベトナム全土で300万人とも言われる。戦争証跡博物館には、中村さん以外のカメラマンが撮影した多くの障害者の写真が残されている。

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正視することが難しい写真の数々だが、これは現実なのだ。

今の日本では、戦争の悲惨な写真や映像を避ける傾向が顕著だ。それは時に「放送コード」などという言葉で語られる。しかし、そんな基準は本当に日本の平和を守るために有効なのか、私は常に疑問に思っている。

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こうした目を背けたくなるような悲劇を産むのが戦争なのだ。

それを本当の戦争を知らない世代、ゲームや映画の戦争しか知らない世代に伝えることは大切なことだ。

しかし、真実を知ろうとしない人に伝えることは、極めて難しい。

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その日の夕暮れ、ツーズー病院まで歩いてみた。

当時は情報省の役人が常に取材に同行し、彼らが用意した車で目的地に連れて行かれたため、ツーズー病院が街のどのあたりにあったのか今回地図で探して初めて理解できた。

ベトナム戦争当時、サイゴン駅があったエリアを西に向かう。

この通りは「フォングーラオ通り」という。私が愛読していた近藤紘一さんが、ベトナム戦争時ベトナム人妻と一緒に暮らした通りである。

近藤紘一さんの代表作「サイゴンから来た妻と娘」の中に、大家とケンカした近藤さんがこのエリアに暮らすことになった経緯がユーモラスに描かれている。ちょっとだけ引用する。

『なんでも、この国で生きていくための金科玉条は、腹を立てても得にならないとわかっているときは、絶対に腹を立てないことなのだ、という。たしかに長い間波乱の歴史にふりまわされ、現在も戦争のおかげで乱暴な権力や金力が幅をきかせているこの国では、少々のことに腹を立てていてはとてもやっていけないということを、その後の生活を通じてだんだん知るようになった。

説教したあとで相手は汗みどろの私の姿をおかしそうに眺めた。そして多少の同情を催したのか、

「よかったら、私の家に下宿しない?」といった。

暑さでボーッとなっていた私は、一も二もなくこの申し出を受け入れた。

彼女の家は、市場前広場から鉄道線路沿いに十分ほど行った、ファン・グー・ラオ通りの一角にあった。

二階長屋の数部屋のうち、一応家具調度もととのい、ルームクーラーが効いているのは一部屋だけだった。一家の女主人である彼女の部屋だ。他の家人はそれぞれ蒸し風呂のような土間や台所の片すみに、ゴザやハンモックで勝手に寝ぐらをしつらえ、イヌ、ニワトリ、ゴキブリなどと共寝しているありさまだった。

彼女は私を自分の部屋に連れ込み、

「ここならなんとか住めるでしょう、とにかく宿無しよりはましでしょう?」といった。

でもここはあんたの部屋じゃないのか、と念を押すと、

「そうよ、いっしょに住めばいいじゃない」

ケロリとした顔だった。

これは厄介な“下宿”になった、と私はあらためて彼女の顔をみた。いちばん厄介なのは相手が幾つぐらいなのか、いぜんとして見当もつかないことだった。たしかに、あどけなく笑うと二十歳代にも見えたし、生活の疲れみたいなものがふと目の回りに漂うと五十歳ぐらいにも見えたのだ。万一この後者の推定の方が当たっていたら、目もあてられないことになる、と私は思った。』

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近藤さんが暮らしたサイゴン時代には2階建ての長屋が軒を連ねていたファングーラオ通りも、今では敷地そのままに5階建てぐらいのビルに立て替えたところが多いようだ。

すっかり話がそれてしまったが、この通りを端から端まで歩いて、ようやくツーズー病院にたどり着いた。

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30数年ぶりに訪れたツーズー病院。

行けば何か記憶が蘇るのではと期待していたのだが、建物を見てもまったく思い出さない。

「こんな建物だっただろうか?」

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病院の敷地内では新しい病棟の建設が進められている。

30年という年月、ベトナムも大きく変わったのだ。

ツアー会社から聞いた情報によると、障害児たちが暮らした平和村も近々閉鎖されるということだ。真偽のほどは確認していないが、ベトナム戦争終結からすでに43年。いろいろなことが変わっていくのだろう。

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そして、ベトナム戦争も歴史の1ページとして埋もれ、忘れられていく。

若い世代にとっては、「ベトナム戦争って何?」というのが現実だろう。

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ツアー客にも面会する活動を続けているグエン・ドクさん。

埋もれゆく戦争の悲劇を伝える語り部として、元気で頑張っていただきたい。

できれば、ドクさんに会いたかった。

またベトナムを訪れる機会があれば、ぜひ会う努力をしたいと思う。

 

<関連リンク>

3泊4日ホーチミンの旅

①1925年開業の老舗ホテル「マジェスティック」でよみがえる若き日の記憶

②グルメでない私たちがドンコイ通りで食べた美味しいベトナム料理

③旧大統領官邸で1975年4月30日「サイゴンのいちばん長い日」に思いを馳せる

④200キロにおよぶ地下のゲリラ戦!クチトンネルの穴に潜る

⑤戦争証跡博物館で見るベトナム戦争の歴史とジャーナリストたち

⑥忘れてはならない枯葉剤の悲劇!「ベトドク」の思い出を胸に夕暮れのホーチミンを歩く

<参考情報>

私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。



 

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