<きちたび>3泊4日ホーチミンの旅⑤ 戦争証跡博物館で見るベトナム戦争の歴史とジャーナリストたち

ホーチミンで必ず行こうと決めていた場所、それが戦争証跡博物館だ。

IMG_6561

3階建ての展示棟の前に、ベトナム戦争で使われたアメリカ軍の兵器の数々が展示されていた。

IMG_6292

アメリカ軍のM48−A3戦車。

ベトナム派遣軍の主力戦車で、機関銃の銃架を増設するなどベトナム戦争に対応するための改造が施された。

IMG_6296

朝鮮戦争から使用されているM41軽戦車は、南ベトナム政府軍にも供与された。

IMG_6300

M132A1自走火炎放射器。炎は137m先まで届いた。

IMG_6302

M107 175mm自走カノン砲。

最大射程距離32.7km、この時代の自走砲としては最大級のものだった。

IMG_6311

F5A戦闘機、通称フリーダムファイター。

小型軽量の超音速戦闘機で、米軍の主力戦闘機F104を導入できない友好国へ供与された。南ベトナム空軍にも配備され、主に北ベトナム軍への対地攻撃に使用された。

IMG_6320

A1スカイレイダー。

第二次大戦末期の1945年に開発されたアメリカ海軍の主力戦闘機だった。ジェット機の登場で時代遅れと見なされていたこのA1がベトナム戦争で見直される。

地上攻撃が重要だったベトナム戦争では、超音速機よりも低速のA1の方が威力を発揮した。

IMG_6323

そのA1の後継機として開発されたのが、軽戦闘機A37ドラゴンフライだ。

南ベトナム空軍にも187機が供与された。

IMG_6314

しかし、ベトナム戦争といえば、やはりヘリコプターだ。

兵員輸送を担ったUH1Hヘリコプター。

IMG_6317

ガンシップとも呼ばれ、ワーグナーの曲に合わせ低空から機関銃で掃射する映画「地獄の黙示録」のシーンは鮮烈だった。

IMG_6294

こちらは主に武器の運搬に使われた大型ヘリCH47チヌーク。

このヘリコプターは半世紀たった現在も現役で使われていて、湾岸戦争などでも活躍したほか、福島原発事故の際は自衛隊のCH47が放水活動を行った。

IMG_6309

それにしても、世界最強のアメリカ軍はなぜ負けたのか?

戦争証跡博物館の展示に加えて、三野正洋著「わかりやすいベトナム戦争 超大国を揺るがせた15年戦争の全貌」をもとに、ベトナム戦争の歴史を簡単に振り返ってみたい。

IMG_6328

1945年8月、ベトナムを占領していた日本軍が降伏すると、ベトミンが指導する蜂起がベトナム全土で起こった。ベトミンは、ベトナム帝国のバオ・ダイを退位させて、9月2日にはハノイでベトナム民主共和国の独立宣言が行われた。

IMG_6330

しかし、旧宗主国フランスは、ベトナムの独立を認めなかった。

三野氏はこのように書いている。

『1945年の終わりから翌年12月までの1年間、フランス植民地軍とそれに協力する小兵力のイギリス軍は、考えられるかぎりの手段を用いて新生ベトナム民主共和国の地盤固めを妨害する。

例えば南部ベトナムに英、仏の息のかかったコーチシナ共和国を樹立、ハイフォンのベトナム人地区を砲撃といったことなどである。

これと同時に、ベトナムの隣国であるカンボジア、ラオスをフランス連合内の自治国として扱い、それをベトナムにも強要した。』

IMG_6333

そして1946年12月、フランス軍と独立を目指すベトナム人の間でインドシナ戦争が始まった。

19世紀的な帝国主義に、20世紀的な冷戦が重なり、ベトナムの悲劇は続く。

『折から東西両陣営の冷戦が始まろうとする頃でもあった。その後すぐにベトナム民主共和国をソ連が、フランス駐留軍をフランス本国とアメリカが後押しすることになる。』

IMG_6342

長期化する戦争に転機をもたらしたのは、フランスが1953年11月に開始したディエン・ビエン・フー進攻作戦だった。

ベトミンの補給路の真っ只中に強固な基地を建設しようというフランス軍に対し、ベトナム側は得意のゲリラ戦に加えてソ連・中国から供与された近代兵器で対抗。孤立した現地フランス軍は降伏に追い込まれる。

IMG_6350

ディエン・ビエン・フー陥落の翌日、ジュネーブで休戦に関する国際会議が開かれた。

7月21日に締結されたジュネーブ休戦協定によって、1世紀に及んだフランスによる植民地支配は幕を下ろす。しかし一方で、ベトナムは南北に分断されることになってしまい、カトリック教徒など共産主義を嫌うベトナム人70万人が、北から南へ大移動するという新たな混乱が起きた。

しかも、一旦は休戦協定に合意していたアメリカが署名を拒否した。なぜか?

三野氏は、このように書いている。

『フランスの敗退までフランス軍を支援し続けたアメリカにおいては、この時期は朝鮮戦争が終わった直後でもあり、国内の反共意識は頂点に達していた。アメリカは朝鮮戦争を中途半端に終わらせなければならなかったストレスを、南ベトナムの援助に振り向けつつあった。』

IMG_6355

ジュネーブ協定により、北にはホー・チ・ミンを首相とするベトナム民主共和国、南にはアメリカが支援するゴ・ジン・ジェム大統領のベトナム共和国が成立した。

フランスに代わり、アメリカがベトナムの政治に介入したのだ。共産主義の拡大を食い止めることが最大の目的だった。

IMG_6360

これに対して1960年12月20日、反サイゴン政権・反米・反帝国主義を掲げて南ベトナム解放民族戦線(NLF)が結成された。サイゴン政権やアメリカは彼らを「ベトコン」と呼んだ。

解放戦線は1961年初めから本格的な活動を開始する。

この時点では、南政府軍15万人に対するだけの軍事力はなく、役人や警官などの暗殺、弱小拠点への攻撃、農民への宣伝教育活動などが中心だった。

解放戦線によるゲリラ戦は「誰が敵なのかわからない」という問題を突きつけた。

『南政府軍とアメリカ軍は最後の最後までこの「敵と一般市民、農民を区別する」という、戦争における最大の重要課題を解決できないまま敗れていくのである。』

IMG_6362

この年、アメリカ大統領に就任したのがケネディだった。

『若き大統領の登場はこの国の人々に大いに歓迎されたが、就任早々政治的、軍事的失敗が続く。』

4月に起こったビッグス湾事件と呼ばれるキューバ進攻作戦はあえなく失敗。アジアでも多くの国で共産勢力との紛争が続発した。アメリカ国内に共産主義に対する不安や不信が高まる。

アメリカは輸送機、軽攻撃機からなる飛行中隊をベトナムに送り、1961年12月には南ベトナム政府との共同白書を発表して、共産勢力と徹底的に戦う意志を表明した。

アメリカはまず、ゲリラと一般の農民を区別するため南ベトナム各地に「戦略村」を作って住民を本来の住居から移住させ、ゲリラから完全に隔離する構想に乗り出した。

IMG_6365

翌62年2月、アメリカは「在ベトナム軍事援助司令部 MACV」を設置。

戦略村を巡る攻防戦が始まる。解放戦線側は、戦略村への攻撃を強め、毎月500人以上(南政府の発表)の民間人を殺害した。

これに対しアメリカは、ベトナム全土におよそ1万6000ヵ所もの戦略村を作り、ベトナム軍に村の防衛を担当させた。

同時に南ベトナム軍の戦力増強も進めた。しかし・・・

『一方、共産側の攻撃規模の拡大にも関わらず、南の軍部は相変わらず政府内の権力闘争に明け暮れ、2月8日には空軍将校によるクーデターが起こっている。

南ベトナム崩壊までの13年間に、未遂を含めると10回近くのクーデターが発生したが、内戦の最中のこのような出来事は南ベトナムという国の力を弱める働きこそすれ、強めるものでは絶対にない。どうもこの国の軍部は、国家の安定よりも自己の権力の拡大に重きを置いていたようである。』

IMG_6367

翌63年、アメリカはベトナムにおける自らの役割を「顧問団」から「顧問軍」へと変える。つまり、アメリカ軍人が武器を持って、直接敵と交戦することが法律的に可能になったのだ。

この年の後半には、アメリカの軍事顧問団の総数は1万人、ベトナム在住のアメリカ軍属と民間人の数は約10万人に膨れ上がった。これに対し、解放戦線はアメリカ人を対象とするテロを強化する。アメリカ人の宿舎や彼らが利用する食堂、映画館などが爆弾テロの標的となった。

一方で、南ベトナムのゴ・ジン・ジェム政権と仏教徒との対立も激しくなった。

ベトナムの国教は仏教だが、フランス支配時代に布教されたカトリックが支配階層に浸透し、ゴ政権は仏教徒への弾圧を強めていた。

63年春から弾圧は一層強まり、ほとんどの寺院は閉鎖された。これに抗議して、ハンガーストライキや焼身自殺が相次ぎ、国際的な非難が高まった。

アメリカ政府はついにゴ政権に見切りをつけ、63年11月1日のクーデターでゴ大統領は射殺される。

そして、アメリカ国内でも、11月22日ケネディ暗殺という大ニュースが発生する。対ゲリラ戦に理解が深かったとされるケネディに対し、後任のジョンソン大統領は正規軍重視だったとされ、ケネディ暗殺事件もベトナム戦争の帰趨に影響したと言われる。

IMG_6369

64年に入ると、ベトナム戦争に大きな転機が訪れる。

『8月初め、“トンキン湾事件”が発生した。

これはトンキン湾の公海上で、アメリカ駆逐艦2隻が、北ベトナムの魚雷艇から攻撃されたというものである。

数年後、この事件そのものがアメリカによるデッチ上げであるとする意見も出されたが、アメリカ海軍の艦艇が北側の小艇と戦闘を交えたことは事実で、北の政府もこれを認めている。しかしこのアメリカ艦隊は、北ベトナム領内の基地に対する南政府軍海兵隊の作戦を間接的に援護していたのだから、攻撃されたことを非難できない。

ともかくアメリカの世論は激昂し、ジョンソン大統領は北ベトナムに対する報復のための爆撃を命じた。これが1968年までは連続して、その後72年までは断続的に続けられる「北爆」の第一弾である。

また事件後、アメリカ議会はジョンソン大統領に「自由な戦争権限」を与える。これは後にトンキン湾決議と呼ばれるが、あまりに性急であり、論議不十分な決定と非難の的になるのである。ただし当時にあって決議への反対票はわずか2票であった。』

64年11月の大統領選挙で、ジョンソン大統領が再選された。

大統領選の直前、解放戦線は南ベトナムにおけるアメリカ空軍最大の拠点ビエンホワ基地を攻撃した。アメリカ軍の大基地が攻撃されるのは初めてのことで、死者、負傷者も全員がアメリカ人だった。

この頃、アメリカ国民の大部分は自国のベトナム戦争政策を支持していた。

そして12月24日、サイゴン南東60キロにあるビンザー村の政府軍基地が解放戦線に襲われた。このビンザー村救援作戦にアメリカ人パイロットと少数のアメリカ軍人も参加した。これが南政府軍とアメリカ軍による初の共同作戦となった。

IMG_6374

65年3月、アメリカは3500人の海兵隊をベトナムに派遣する。

『これこそアメリカ地上戦闘部隊の第一陣である。そしてアメリカ軍の兵力は3年半後には55万人に達するのである。

これら海兵隊の役割は、ダナン市に造られた大航空基地の守備という名目であった。

しかし、NLFは射程15〜20キロのロケット砲を豊富に持っており、基地内にこもっていては有効な防衛ができない。そのため上陸の翌月から海兵隊は基地から遠く離れた地点まで出動し、敵と交戦するようになる。』

南ベトナムにおける共産主義勢力の増大は、近隣諸国にも不安を抱かせ、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピン、タイ、韓国の5カ国が戦闘部隊を派遣した。

『最も強力な戦力を派遣したのは韓国で、この年の1月に先遣隊2000名、そして最終的には歩兵2個師団、海兵隊1個旅団、合計5万名を送った。

高い反共意識を持つ韓国軍は、この後3年間、西側最強の戦闘力を保ち続けることになる。』

そして、65年後半から戦局は南側に有利に傾きつつあった。主な理由はアメリカ空・陸軍の大量投入である。

『まず6月中旬より大型爆撃機B52がグアム島から出撃、大量の爆弾によりNLFの大部隊の集結を不可能とした。

また10月には、アメリカ陸軍最強と謳われる第一騎兵師団(1万5000名)がベトナムに到着した。この師団は主な移動手段として従来の車両に代えてヘリコプターを用いており、その数は400機にのぼっていた。この方法により、それまでの10倍の移動速度を得、神出鬼没のNLFと対等に戦うことを可能にしていた。』

ベトナム戦争は別名“ヘリコプターの戦争”と呼ばれた。ベトナムに配置されたヘリコプターの数は2年後には3600機に達する。

『1965年こそベトナム戦争と呼ばれる戦いが、ゲリラ戦から本格的な戦争に拡大した第一年目ということができる。』

IMG_6389

66年に入ると、アメリカ軍がより前面に出てくる。

4月からは、それまで南の国内でしか使用されていなかったB29爆撃機を北への爆撃に投入した。1ヶ月に1万2673波もの爆撃を行い、5万トンを超える爆弾を北ベトナムに落とした。

また6月からは、「サーチ・アンド・デストロイ」と呼ばれる戦略を実行する。

小兵力のパトロール隊を数多く敵の周辺に繰り出し、その部隊が敵と接触すると本隊がヘリボーンで攻撃する。解放戦線はこれまで、強敵との正面きっての対決を避けて敵の弱い部分を大兵力で攻撃する戦術を取っていたため、少々の危険を冒しても解放戦線の主力部隊との交戦を積極的に挑むというのがこの新戦略の狙いだった。

この新戦略は効果を上げ、解放戦線側の死傷者が急増したため、解放戦線は大都市周辺や平野部での作戦を縮小し、西部に位置するアンナン山脈の山麓地帯へと後退する。ジャングル地帯のため重火器の展開に不便で航空機の支援攻撃も困難なことに加え、山脈の西側がカンボジア、ラオス領で国境線を越えて作戦を展開することができたからだ。

中でも、サイゴンの西にある「オウムのくちばし」と呼ばれる地区はカンボジア国境がベトナム側に突出していて、解放戦線側の拠点となった。

IMG_6387

『ベトナム戦争の歴史を振り返るとき、1967年は一つの区切りとなった年である。

それはアメリカと南ベトナムが、この戦争で勝利を得る可能性が最も高かった年と言えるからだ。』

サーチ・アンド・デストロイ戦略は著しい効果をもたらし、1月には「鉄の三角地帯」と呼ばれた解放戦線の聖域を攻撃するシーダーフォール作戦、2月には18箇所の拠点を同時に攻撃するジャンクション・シティ作戦が実施された。

重火器が使えないメコン・デルタでのゲリラ戦対策として、吃水の浅い水ジェット推進の高速艇PBRを多数装備した河川機動軍も創設された。

『1967年の春から夏にかけて、解放戦線と北ベトナムは最大の危機を迎えようとしていた。夏の終わりにはアメリカ、南、MAF(海外からの軍事支援軍)軍の合計兵力は100万名を超える状況で、これに対する共産軍は32万名と、その三分の一に過ぎなかったのである。』

しかし、南ベトナム政府では相変わらず権力争いが続いた。

9月に実施された選挙で、首相だったグエン・カオ・キが副大統領になり、大統領にはグエン・バン・チューが選ばれた。その後、この2人のミゾは深まる一方だった。

それでも、11月から12月にかけて、南ベトナム全土における戦闘は鎮静化し、南政府は「南ベトナムとしての不敗の態勢が確立された」と述べた。

翌68年1月初め、ジョンソン大統領はテレビで国民向けの演説を行い、ベトナムの情勢が有利に動いていると強調した。

しかし、そんな楽観ムードは1月31日の早朝、突如として打ち砕かれた。

ベトナムの旧正月「テト」に当たるこの日、解放戦線と北ベトナム軍は6万人を動員して南ベトナム全土で大攻勢を展開した。ベトナム戦争における共産側最大の攻撃となった「テト攻勢」である。

44箇所ある省都のうち36箇所、41の大規模基地のうち23の基地が同時に攻撃された。非武装地帯南部の古都フエはわずか1日で占領され、サイゴンにあるアメリカ大使館と軍放送局も一時的にゲリラ側の手に落ちた。ただ、アメリカと政府軍の反撃で共産側は3万人の死者を出し、フエも米海兵隊が奪還する。

それでも、このテト攻勢は、実際の損害以上にアメリカ国民に強烈なショックを与え、ベトナム戦争の大きなターニングポイントとなった。

『現在の西側の歴史家の大部分が、テト攻勢は共産側にとって大きな失敗であったと考えている。

しかし、これはあくまで「戦術的には、あるいは軍事的には」という注釈が必要である。広い意味の戦略という面から見る限り、これほど効果的な攻撃は歴史の上でも珍しい。

なぜなら南ベトナムを支えてきたアメリカ自体に、「もはや戦争に勝てない」と思わせたからである。

またアメリカ国民の中に、自国の政府とその政策に対する強い不信感を植えつけたという点で、測り知れない程大きなものであった。ジョンソン大統領にしても、これまで楽観論を報告してきた側近への不信感を強めたはずである。

NLF側はこの機を逃さず、4月17日に再度攻勢をかけ、アメリカ人の間に広がりつつあった不信感と反戦ムードを高めることに成功した。』

3月31日、ジョンソン大統領は衝撃的な演説を行う。

その内容は、①北ベトナム、解放戦線との和平交渉の開始、②北爆の一時的な停止、③アメリカ軍のベトナムからの順次撤退、④次期大統領選挙への不出馬、だった。実質的にアメリカがベトナムから手を引くことを明確に示したのだ。

IMG_6392

翌69年7月、ジョンソンを継いだニクソン大統領は、グアム・ドクトリンを発表し、南ベトナムの「ベトナム化」政策を打ち出した。

ニクソンの背中を押したのは、アメリカ国内の反戦運動の高まりだった。

『アメリカ国内の混乱は、69年から70年にかけて最高潮に達しており、その収拾のためニクソンとしては、なんとか面目を保つ形で、“南”を見捨てざるを得なかった。

アメリカが自軍の撤退とベトナム化を決定した時点で、南ベトナムの運命は定まったのである。』

そして8月末、最初のアメリカ軍部隊の撤退が始まった。

この直後、9月3日に北ベトナムのホー・チ・ミン大統領が死去したが、南ベトナム解放の方針は変わらず集団指導制に移行した。

IMG_6393

一方で、70年3月には、アメリカ軍と南ベトナム軍によるカンボジア進攻作戦が開始した。カンボジア領内にある解放戦線の拠点を攻撃することが目的で、実際に解放戦線に甚大なダメージを与えることに成功する。

しかし、このカンボジア作戦はアメリカ国内の反戦ムードを極限まで高め、アメリカ議会はついにベトナム戦争反対の議案を可決した。

翌71年に実施されたラオスへの進攻作戦「ラムソン719」も失敗に終わり、アメリカ軍による大規模な軍事行動は幕を下ろした。

そんな状況の中で、歴史的な変化が起きる。ニクソン大統領が7月15日、突然北京訪問を発表し、翌72年2月21日に自ら北京に乗り込んだのだ。ニクソンは直後の5月にモスクワも訪問し、ソ連とも首脳会談を開いた。ベトナム戦争の黒幕たちと手を握ったのだ。

そしてこの年の6月には、ウォーターゲート事件の報道が始まり、アメリカ世論の関心は急速にこの事件へと移っていく。

IMG_6399

一方、ベトナム戦争を巡る和平交渉は1969年1月からパリで続けられていたが、73年に入り一気に進展し、1月27日、北ベトナム政府、南ベトナム臨時革命政府、南ベトナム政府、アメリカ政府の4者によって和平協定が調印された。

秘密交渉によって合意案をまとめたアメリカのキッシンジャーと北ベトナムのレ・ドク・トは、その年のノーベル平和賞を受賞した。

しかし、このパリ協定は玉虫色のもので、停戦はわずか2日で破られた。

それでも、北ベトナムは4月にアメリカ人捕虜を全員釈放し、アメリカ軍は8月ベトナムから完全撤退した。アメリカのベトナム戦争は終わったのだ。

残ったのは、ベトナム人同士による戦争である。完全にベトナム化された南ベトナム軍は世界的なオイルショックにも見舞われ、慢性的な石油不足にも苦しめられた。

IMG_6408

そして、1975年4月30日、革命政府と北ベトナム軍の猛攻の前についにサイゴンは陥落し、15年に及んだベトナム戦争は終わった。

こうして、ベトナム戦争の歴史を振り返ってみると、アメリカ世論の変化がいかに決定的な役割を果たしたかがよくわかる。

テト攻勢という一つの軍事作戦が、アメリカの国内世論を一気に変え、それが世界最強国を敗北に導いた。

そして、その国内世論を変えたのが、命をかけて戦場を駆け巡ったジャーナリストたちだった。戦争証跡博物館には、ベトナム戦争で活躍した多くのジャーナリストやカメラマンたちについても展示されている。

ベトナム戦争は、歴史上最もカメラマンたちが輝いた戦争でもあった。

IMG_6410

最初に展示されていたのは、有名なロバート・キャパ。

ハンガリー生まれのキャパは、第二次大戦はじめ多くの戦争を取材し、ベトナムで死んだ。ただ彼の場合、ベトナム戦争ではなく、1954年に雑誌「LIFE」の依頼を受けフランスとベトナムが戦ったインドシナ戦争を取材中、地雷に触れて死亡した。

IMG_6421

イギリスの写真家ラリー・バローズは、「LIFE」のカメラマンとして1962年からベトナムを取材し、3回にわたってロバート・キャパ賞を受賞した。

そして71年、ラオスで乗っていたヘリコプターが北ベトナム軍に撃墜され死亡した。

平敷安常著「サイゴンハートブレーク・ホテル」には、ラリー・バローズがベトナムに来たてのカメラマンにアドバイスした言葉が載っていた。

『スタッフ(正社員)の仕事を探したり待つ必要はない。すぐにフリーランスで始めろ。いきなり「ニコン」が手に入らなくても気にするな。ハード・ワークと君のカメラ・アイでカバーできる。どんなカメラも飛んでくる弾丸や弾道を写すことはできない。当然、被写体は弾丸の行き先、つまり負傷者だ。一番厳しく難しいのは、どんな状況であっても、いかに自分の感情をコントロールするかだ。被写体の凄さに圧倒された時は、精神的に傷つかないようにしろ。』

ベトナムには世界中から野心溢れたカメラマンが集まった。

IMG_6418

彼らは、危険を顧みず戦場にあふれる悲劇の一瞬を記録した。

IMG_6419

IMG_6426

中には、思わず目を背けたくなるようなむごたらしい写真もある。

IMG_6514

IMG_6516

こうした写真は、政府の発表とは明らかに違う戦場の真実を遠く離れたアメリカに伝えた。

IMG_6434

そしてベトナムの戦場では多くの日本人ジャーナリストも活躍した。

代表的な日本人カメラマン沢田教一のコーナーも博物館に設けられていた。

IMG_6431

沢田の代表作「安全への逃避」。

青森県出身の沢田はUPI通信のカメラマンとしてサイゴン支局に雇われ、1965年に撮影したこの「安全への逃避」でピューリツァー賞を受賞する。

しかし、彼も1970年カンボジア取材中に国道2号線で襲撃され死亡した。

IMG_6435

受賞後、被写体となった家族に再会し、「安全への逃避」のパネルを手渡している沢田の写真も展示されていた。

ベトナム戦争において日本人ジャーナリストは、欧米のジャーナリストとは違う独特の役割を担っていた。それはより中立的で、市井の人に寄り添った報道姿勢である。

IMG_6471

ベトナム戦争を生き抜いた日本人カメラマン石川文洋。

IMG_6469

彼の展示コーナーには、日本語のメッセージも掲げられていた。

『私は沖縄で生まれました。アジア・太平洋戦争の時、日本軍と上陸した米軍との戦闘に巻き込まれた沖縄の人々は、人口の4人に1人の割合、12万人以上が犠牲となりました。米軍の爆撃、艦砲射撃、砲撃は人命を奪うだけでなく、文化財、自然も破壊しました。

ベトナムの戦場で多くの民間人が命を失い国土が破壊されていく状況を私は沖縄戦と重ねながら撮影しました。今でも存在する沖縄の基地が、ベトナム戦争での米軍を支えていたことも沖縄人として心を痛めました。』

IMG_6457

アメリカ人ジャーナリストが入れない「解放区」でも、日本人カメラマンは取材した。

IMG_6459

腕を失った母親が授乳するシーンには、胸が詰まる。

そこには、こんな説明文が・・・。

『南ベトナムの農村は“サイゴン政府支配区”、“解放区”、昼は政府支配区だが夜は解放区となる“競合地区”の3つに分かれていた。戦争は民間人を犠牲にする。農村の7割は完全解放区で、絶えず米軍、サイゴン政府軍の爆撃・砲撃、地上軍による攻撃にさらされ、多くの農民が死傷した。』

IMG_6475

そして日本人ジャーナリストたちは、北ベトナムも取材した。

戦後、石川が再会を果たした北ベトナムの英雄ボー・グエン・ザップ将軍。「赤いナポレオン」と呼ばれ恐れられた戦略家のとても温和な笑顔だ。風評とは違うありのままの真実を、写真は捉え、それが見るものの感性に訴えかけるのだ。

IMG_6436

こうしたカメラマンたちの功績の一方で、「MISSING」と書かれたポスターが掲げられていた。

ベトナム戦争取材中に行方不明となったジャーナリストたちの顔写真が並んでいる。

その中に、実に多くの日本人がいることに私は驚いた。

柳沢武司(日本電波ニュース)、高木祐二郎(フジテレビ)、中島照男(大森国際研究所)、石井誠晴(CBSニュース)、日下陽(フジテレビ)、坂井幸二郎(CBSニュース)、ワクヨシヒコ(NBCニュース)。

なんとポスターに載っている行方不明のジャーナリストのうち、実に7人が日本人なのだ。

彼らは全員、1970年カンボジア取材中に拘束され行方不明となった。そしてその後に行方不明になったジャーナリストも何人もいるという。

IMG_6520

それでもベトナム戦争は、カメラマンたちが最も輝いた戦争だったかもしれない。有名・無名の多くのカメラマンたちの仕事が、世界的な反戦世論を喚起した。

世界最強のアメリカ軍は、命を顧みず戦場に分け入ったジャーナリストたちに敗れたのだ。

その教訓からアメリカ軍はその後、戦場取材を徹底的に軍のコントロール下に置くようになった。自由な戦場取材は極めて難しくなった。

一方で、テロリストたちもジャーナリストを標的にするようになった。シリアでは「イスラム国」などの武装勢力が多くのジャーナリストを捕らえ、処刑した。他の紛争地域でも身代金目的にジャーナリストを拘束するケースがあとをたたない。

戦場取材は、ベトナム戦争当時とはまた違った危険なものとなっている。

IMG_6450

こうした世界の中で、ジャーナリストはいかに戦争を取材し、真実を掘り起こし、反戦の世論を喚起するのか?

ベトナム戦争の歴史を知り、そこで活躍したジャーナリストたちの仕事を見直すことで、戦争の惨禍を防ぐ方法を少しでも学べればと思う。

 

<関連リンク>

3泊4日ホーチミンの旅

①1925年開業の老舗ホテル「マジェスティック」でよみがえる若き日の記憶

②グルメでない私たちがドンコイ通りで食べた美味しいベトナム料理

③旧大統領官邸で1975年4月30日「サイゴンのいちばん長い日」に思いを馳せる

④200キロにおよぶ地下のゲリラ戦!クチトンネルの穴に潜る

⑤戦争証跡博物館で見るベトナム戦争の歴史とジャーナリストたち

⑥忘れてはならない枯葉剤の悲劇!「ベトドク」の思い出を胸に夕暮れのホーチミンを歩く

<参考情報>

私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。



 

1件のコメント 追加

コメントを残す