<きちたび>3泊4日ウィーンの旅⑦ ヒトラーはオーストリアで生まれ、ウィーンで育った

スロヴァキアの首都ブラチスラヴァへの日帰り旅行の帰り、バスの車窓からおびただしい数の風力発電機を見た。

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ヨーロッパ諸国では再生可能エネルギー導入に積極的で、オーストリアでも緑の党前党首のファン・デア・ベレン氏が現在大統領に就任しているように環境保護派がかなりの影響力を持っている。でも、それだけではない。

ブラチスラヴァからの帰り道、もう一つ印象に残ったことがあった。

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スロヴァキアとオーストリアの国境で、かなりしっかりとしたパスポート検査があったのだ。武装した兵士がバスの中まで乗り込んできて、乗客のパスポートを確認する。

国境だから当然と思うかもしれないが、同じEU加盟国であり、国境審査を無くするシェンゲン条約に加盟している両国の間で、パスポートチェックが行われることは異例で、個人的には驚きだった。

これは明らかに、移民の流入を防ごうというオーストリア政府の強硬姿勢の表れだろう。

シリアからの難民が増加するにつれ、ドイツへの通り道となっているオーストリアにも大量の難民・移民が流れ込んだ。その結果、オーストリア国内では反移民を訴える極右政党・自由党が支持を伸ばし、昨年中道右派の国民党との連立政権入りを果たした。その影響がこうした国境警備に表れているに違いない。

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オーストリアの政治について、どれだけの日本人が知っているだろうか?

私はこれまで、ほとんど知らなかった。

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昨年行われた総選挙で、第1党となった国民党は第3党の自由党と連立を組み、31歳の国民党党首セバスチャン・クルス氏がオーストリアの首相に就任した。ヨーロッパで最も若い国家指導者である。

帰国後、クルス首相の母体となる国民党と自由党についてそのルーツを調べると、興味深い歴史がわかってきた。

増谷英樹・古田善文著「図説 オーストリアの歴史」から引用する。

『 オーストリア=ハンガリー二重帝国の版図において反ユダヤ主義の活動が目に見えて展開し始めるのは、すでに1848年革命の時期においてのことである。中世以来のキリスト教的反ユダヤ主義に加えて、民族主義と社会運動が入り混じった形での反ユダヤ主義の暴動が、ハンガリーのブレスブルクやボヘミアのプラハなどで勃発した。暴動の担い手は、没落しつつあった都市の中間層、手工業者や営業者あるいは当時「プロレタリアート」と呼ばれていた雑業層の労働者であった。しかし、その指導者たちはユダヤからの借金に苦しめられていた商人や官吏、町の有力者、教会関係者などであった。』

1867年には、宗派の自由、移動の自由が定められ、ユダヤ教徒も法的には解放され、帝国内のどこにでも住むことが可能となった。ウィーンなどの都会に住むユダヤ教徒が急増する。

これが新たな偏見と差別を生み、それが1873年の経済恐慌で一気に表面化した。

『恐慌はさまざまな形で泡沫会社設立に投資した中間層に大きな打撃を与えた。ウィーンでは特に、資本主義的大量生産と既製品販売によって打撃を受けていた手工業者・営業者たちが、恐慌の原因をユダヤの被服・靴などの既製品工場生産やそれらを売りさばくデパートに求めた。

そうした手工業者・営業者を基盤とし、若手司祭のカトリックの刷新運動を理論的支柱とした運動を展開したのが、カール・ルエーガーの率いる「キリスト教社会党」であった。ルエーガーは敵をユダヤの資本家ないし経営者と定めることによって、没落する手工業者・営業者を結集することに成功し、1891年にキリスト教社会党を結成したのである。そして、1895年のウィーンの市議会選挙において最大多数を獲得し市長に推薦された。しかし伝統的にユダヤの保護者である皇帝は、ルエーガーを市長にすることを三度にわたり拒否し、ようやく4度目に妥協が成立し、ルエーガーはヨーロッパの大都市で最初の反ユダヤの市長となった。

こうしたキリスト教社会党の運動は、最初はウィーンを中心に、のちには農村部のカトリック教徒を加えたひとつの陣営を形成し、戦間期の権威主義的体制の基盤を形成していく。第二次世界大戦後はカトリック的性格を残しながら国民党と改名してオーストリアの二大政党の一方を担っていく。』

 

そうなのだ。

クルス首相が党首を務めるオーストリア国民党のルーツは「反ユダヤ政党」だったのである。

そして、もう一つの気になる政治勢力がオーストリアには存在した。

 

『 こうしたルエーガーの手工業者・営業者を基盤とした反ユダヤの運動に対して、ドイツ民族主義を基盤とする反ユダヤの運動を展開したのがゲオルグ・シェーネラーであった。

シェーネラーはドイツの統一とそれを実現したビスマルクを賛美し、オーストリア=ハンガリー二重帝国を解体し、そのドイツ的地域をドイツ帝国に組み込むべきであると主張した。そのために、カトリックからの解放運動やチェコのドイツ語地域のドイツ急進主義運動を指導した。その延長としてシェーネラーは反スラブ、反ユダヤを主張し、学生や学校の教員、知識人、官僚などにその支持を広げていった。シェーネラーはユダヤを宗教的に捉えるのでもなく、経済的グループとして理解するのでもなく、民族的ないし人種的に把握し、ドイツ人の帝国からは排除されなければならないと主張した。

そうしたシェーネラーの主張は、のちにウィーンに滞在することになったヒトラーに大きな影響を与えたと言われている。

シェーネラーのドイツ民族主義は、ルエーガーのキリスト教社会党とヴィクトーア・アードラーの社会民主党とならんで、その後のオーストリアにおける第三の政治勢力を形成していった。』

 

極右政党とかポピュリズム政党とも言われるオーストリア自由党は、その直系とは断言できないようだが、その民族主義的主張は、過去にシェーネラーが担った第三勢力を現実に形成している。

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こうしたオーストリアの政治史を知ることは、ヒトラーという戦争指導者がなぜ生まれたかを理解するうえで極めて重要である。

それ以前に、ヒトラーがドイツ人ではなく、オーストリアで生まれたことを、恥ずかしながら私は今回初めて知った。事前に知っていれば、もう少し関連の取材もできたかもしれないが、それはまたの機会に取っておきたい。

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アドルフ・ヒトラーは、1934年8月2日オーストリアの北部ドイツ国境の町ブラウナウ・アム・インで生まれた。

父親のアロイスは税関事務官だったが女癖が悪く、47歳の時24歳の召使いクララと3度目の結婚をする。アドルフはアロイスとクララの4番目の子供として生まれ、上の兄弟が幼くして亡くなり、異母兄も家出したためヒトラー家の跡取りとなった。母親との関係は良好だったが、強権的な父親には強く反抗していたという。

1900年、小学校を卒業したヒトラーは、オーストリア第3の都市リンツにある実科中等学校に入学する。ハプスブルク帝国の支持者だった父親への反抗もあってか、この頃からドイツ民族主義に傾倒していく。その父が亡くなり、ヒトラーは成績不良で中等学校を退学となった。母親の元でぶらぶらしていたヒトラーは画家になる夢を抱くようになり、1907年父親の遺産を受け取りウィーンへの移住を決意する。しかし、ウィーン美術アカデミーを2度受験するも結果は2度とも不合格だった。

ヒトラーがウィーンで暮らしたのは、18歳から24歳の多感な時期だった。

この時期、ヒトラーは美術館や図書館を頻繁に回り、ワーグナーの歌劇に心酔していた。また自ら描いた絵葉書や風景画を売って小銭を稼いでもいたという。そして、当時ウィーンで人気だったルエーガーやシェーネラーの民族主義的思想にも強い影響を受けた。24歳でウィーンを離れ、ドイツのミュンヘンに移住するが、これは兵役逃れが目的だったとされる。

いずれにしても、若き日のウィーンでの体験がヒトラーの思想に大きな影響を与えたことは間違いなさそうだ。「図説 オーストリアの歴史」にも、こんな記述がある。

『 裁判での演説と牢獄で口述筆記した「我が闘争」は、ヒトラーを一躍名の知られた扇動家にしたが、その「我が闘争」の大部分は、1907年から13年までの彼のウィーンでの生活を描き、そこで仕入れた思想や経験をさらに展開させたものであった。

「我が闘争」の中で、ヒトラーは、自分は徹底した反社会主義者、反ユダヤ主義者となってウィーンを去ったと述べている。特にヒトラーが思想的に師と仰いだ二人の人物としてカール・ルエーガーとゲオルク・シェーネラーの名を挙げていることは重要である。』

ホロコーストを実行したヒトラーの強烈な反ユダヤ思想は、ヒトラーが独自に生み出したものではなく、世紀末のウィーンを広く覆っていた時代の気分だったことは心に留めておかねばならない。狂気は突然変異で現れるのではなく、時代の空気を吸いながら大きく育っていくのだ。

まさに、ヒトラーはオーストリアで生まれ、ウィーンで育った。ヒトラーの人格を読み解く鍵は、20世紀初めのオーストリアにこそあるのかもしれない。

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ウィーンが世界に誇る「美術史博物館」を訪ねた。

古代から19世紀にいたるヨーロッパ各地の美術品を展示するこの美術館は、大規模の都市改造が行われていた1891年のウィーンに誕生した。

ウィーンにやって来た画家志望の若きヒトラーが、完成して間がないこの美術館を訪れたのは間違いないだろう。

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入り口を入ると、高いドーム屋根が威厳を示す。

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重厚な階段の周囲にはクリムトの華麗な壁画が残る。

そして、名画の数々が・・・

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ブリューゲル「バベルの塔」

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ラファエロ「草原の聖母」

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ベラスケス「白い服の王女マルガリータ・テレサ」

そして、ここにヒトラーが愛したフェルメールの一枚の絵があるという。

「絵画芸術」と名付けられたフェルメールの代表作だが、見当たらない。私が見落としただけなのか? いや、あれば人が集まっていてわかるはずだ。

世界中で人気のフェルメール。どこかに貸し出されているのかもしれない。仕方がないので、ネット上から拝借して来た。

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ヒトラーが愛したこの「絵画芸術」。

ドイツの独裁者としてオーストリアを侵攻したヒトラーは、オーストリアに所蔵されていた絵画作品の接収を指示した。そしてこの「絵画芸術」もヒトラーの個人コレクションとして代理人が買い上げたという。

若き日、画家を夢見たヒトラーは、幼い日に暮らした故郷リンツに巨大な美術館建設を計画していた。そのため、ナチスは占領地で膨大な数の美術品を接収しオーストリア国内の岩塩坑に隠したのだ。

私もパリ支局時代、ナチスの接収を恐れて「モナリザ」などルーブルの美術品を守るためフランス国内の古城などに疎開させた人たちを取材したことがある。そうした知られざる人々の努力によって、パリの美術品の多くが守られたが、オーストリアでは多くの美術品がナチスの手に渡り、戦後行方不明になったものも数知れないと言われている。

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また、ナチス・ドイツとオーストリア国民の関係も大変興味深い。

「図説 オーストリアの歴史」から引用する。

『 1938年3月12日未明、ドイツ国防軍は戦闘態勢を整えて、数カ所で国境を越えオーストリアに進軍した。国境には警備兵も見当たらず、予期されていた抵抗は何もなかった。それどころか国防軍は進軍した村や町で春の花を持った女性や村人たちに歓呼をもって迎えられたのである。

ドイツ国防軍の進軍を追いかけてオーストリアに足を踏み入れたヒトラーは、12日の午後4時に故郷のブラウナウ・アム・インとリンツで住民から熱烈な歓迎を受けた。翌13日にはリンツで「オーストリアのドイツ帝国との再統一法」を発布し、15日にはかつて苦い青春時代を送ったウィーンに凱旋する。鉤十字の旗に埋め尽くされたウィーンの英雄広場に面する新王宮のバルコニーから詰めかけた数十万の群衆に向かい、ヒトラーは合邦の完成を宣言した。ここに、オーストリア第一共和国は消滅し、その版図は1945年までナチ・ドイツの一部を構成することになった。』

それでは、ドイツ支配下のオーストリアはどうだったのか?

『 ナチの支配に期待し、その政策に積極的に加担したオーストリア人も数多かった。「合邦」後、ナチへの入党希望者が殺到し、オーストリアにおけるナチ党員やナチ系戦闘団員の数は激増した。そのためヒトラーは、オーストリアでの党員を国民の10%以内に抑えることを指示し、入党希望者はウェイティングリストに載せられた。

彼らの多くは東方のドイツ占領地域で活躍し、強制収容所などでの仕事において重要な役割を果たしていった。ユダヤ人迫害の責任者となったアイヒマンはその部下たちの大部分をオーストリア人からリクルートしていた。』

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こうしたナチスへの協力は、戦後長い間オーストリアの歴史から削除された。

そして、東西冷戦の微妙なバランスの中で、オーストリアはナチスの野蛮な侵略政策の「最初の犠牲者」として、1955年「永世中立国」としての独立を認められる。

永世中立国オーストリアの暗部を、私は今回初めて知った。

 

成田からウィーンに向かう飛行機の機内で名作「サウンド・オブ・サイレンス」を数十年ぶりに観たが、ナチスに抵抗してアルプスを越えて亡命するトラップ大佐一家の姿は、「最初の犠牲者」オーストリアを世界に印象付ける狙いがあったのかも知れない。

そして、ヒトラーを熱狂的に迎えたメンタリティーのかけらが、今もオーストリア人の心の底に消えずに残っているのではないかとの疑念を私は抱いて戻ってきた。

日本だけではない。70年以上前の戦争を未だに総括できていない国がここにもある。

 

<関連リンク>

3泊4日ウィーンの旅

①オーストリアで“オープン”について考えた

②トルコ軍による包囲戦の置き土産?ウィーン名物のカフェをめぐる

③偉大な作曲家が眠る墓地で「音楽の都」を感じる

④旧市街の朝散歩でハプスブルク家の歴史を味わう

⑤クリムト・シーレ・フンデルトヴァッサー 鬼才たちに触れる

⑥絶対オススメ!スロヴァキアの首都ブラチスラヴァへドナウを下る日帰り旅行

⑦ヒトラーはオーストリアで生まれ、ウィーンで育った

⑧私が利用したホテルと電車とスーパーマーケット

<参考情報>

私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。

 

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