<きちたび>3泊4日ウィーンの旅④ 旧市街の朝散歩でハプスブルク家の歴史を味わう

時差ボケの関係で、ヨーロッパに行くといつも夜中に目がさめる。

以前は、何とか現地の時間に体を合わせようともがいたものだが、近頃はもう無理をしなくなった。目が覚めて寝られなくなったらベットから起き上がり本を読んだり、時には暗い中で朝ごはんを食べたりする。

そして空が明るくなってきたら、散歩に出かけるのだ。

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ホテルを一歩出ると、すぐに中心街、リンク大通りに出る。

時間は朝の5時50分。まだ人通りは少ない。

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国立オペラ座をぐるりと回り、裏手に出る。

有名なウィーン国立オペラ座は、フランツ・ヨーゼフ1世の勅命によって始まった帝都大改造の一環として、1869年に完成した。こけら落としはモーツァルトの「ドン・ジョバンニ」であった。

夏はオペラのシーズンオフ。公演はなく、音楽の都ウィーンを堪能しようと思ってやってくると肩透かしを食うことになる。

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まだ静まり返ったウィーンの朝。暑くもなく、寒くもなく、散歩にはうってつけだ。

古い町並みの間から町のシンボル、シュテファン大聖堂の尖塔が顔を覗かせる。まだ、陽は昇っていないようだ。

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狭い路地を進むと、左手に古い教会が現れる。

「アウグスティーナー教会」。宮廷付属の教会として14世紀に作られた。

地下には、ハプスブルク家代々の心臓安置所があるという。

ハプスブルク家では、分割埋葬の不思議な習慣があった。心臓はここアウグスティーナ教会、心臓以外の臓器はシュテファン大聖堂、そして遺体を納めた棺はハプスブルク家の納骨堂であるカプツィーナー教会に納められているという。

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さらに、このアウグスティーナー教会では多くの結婚式も行われた。

マリア・テレジア、マリー・アントワネット、そしてエリザベート。日本でも有名な女性たちもここで結婚式を挙げたのだ。女性ファンにはとても興味深い場所かもしれないが、私のようなおじさんは特段の感慨もないので、スルーする。

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先に進むと、広場に出た。

奥の建物は「世界一美しい図書館」と呼ばれる国立図書館ブルンクザールだ。時間があれば見学したかったのだが、結局今回は叶わなかった。

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外観もなかなかシックなデザインだ。

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馬にまたがっているのは、皇帝ヨーゼフ2世。

マリア・テレジアの長男であり、農奴解放令や宗教寛容令を発布するなど上からの革命を進めた皇帝として知られる。しかし改革の多くは抵抗勢力によって実現しなかった。

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「よき意志を持ちながら、何事も果たさざる人ここに眠る」

生前自ら選んだ墓碑銘が、この皇帝のナイーブさをうかがわせる。

そしてようやく東の空に太陽が昇ってきた。

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路地を進むとミヒャエル広場へと出る。

ここが王宮の正面である。

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ハプスブルク家はもともとスイスのバーゼル近郊を起源とする地方貴族だった。

そのハプスブルクがウィーンに移ることになったのは、神聖ローマ皇帝を引き継いだことによる。

1273年、ドイツ国王に選出されたルドルフ1世は、当時オーストリアを占領していたボヘミア王オットカル2世と激突。1278年8月、ウィーン北東、マルヒフェルトでの決戦でボヘミアを破った。

これが、600年に渡りヨーロッパに君臨したハプスブルク家の始まりだった。

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しかし、ハプスブルク家がユニークなのは、戦争ではなく婚姻によって勢力を拡大した点だろう。フリードリヒ3世とその子マクシミリアン1世の時代、結婚政策によってブルグンド(ブルゴーニュ)、スペイン、ボヘミア・ハンガリーを獲得した。

「戦いは他のものにさせるがよい。汝幸あるオーストリアよ、結婚せよ」

この読み人知らずのラテン語の詩が、そうしたハプスブルク家を象徴するものとして今に伝えられている。

ちょうどその時代、コロンブスが新大陸を発見し、スペインはアメリカやフィリピンに植民地を広げていた。そのスペインを結婚によって手に入れたハプスブルクは、文字通り「日没なき世界帝国」の支配者となったのだ。

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しかし、世界帝国は長くは続かず、オーストリアとスペインに分裂。さらに宗教戦争やオスマン・トルコの来襲、イギリス・オランダなどプロテスタント国の台頭、フランス・ブルボン家との確執など様々な試練が襲いかかる。

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そして18世紀になると、ハプスブルク家に有名な女性たちが登場する。

その先駆けが、マリア・テレジアである。

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美術史博物館の前に立つ彼女の銅像は、とてもふくよかで包容力を感じさせる。

1740年、父カール6世の死によって、23歳でハプスブルク家を相続したマリア・テレジア。カール6世は男子に恵まれず、生前女系にも相続権を拡大するお触れを出していた。しかし、ドイツ諸侯国はこれを認めず、7年に渡るオーストリア継承戦争が勃発する。

果たして彼女はいかにしてこの苦境を乗り切ったのか?

加藤雅彦著「ハプスブルク帝国」から引用させていただく。

『 彼女が宮廷で直面したのは、「金も、信用も、軍隊も、自らの経験も、知識もなく、そのうえさらに助言する者もいない」という誠に惨めな状態であった。しかも、この時すでに三児の母であった彼女は、4人目を宿していたのである。

だが、早々に直面したこの苦境を、自ら乗り越えたところに彼女の非凡さがあった。その翌年の1741年、ハンガリー王冠を戴いたマリア・テレジアは、ハンガリー議会で、ハンガリー死守の決意を明らかにし、切々と救援を訴えた。涙を流しつつ真情を吐露する彼女の姿に、王家に反抗的なハンガリー貴族から、奇跡的な反応が起きた。彼らは「我らの女王マリア・テレジア」と叫んだ。彼女はハンガリー貴族の精鋭軍パンドゥールの支援をうることに成功したのであった。彼女は、天性ともいうべき政治的手腕とともに、人を動かす人間的な魅力を備えていたのである。』

そして40年に渡って国を治めたマリア・テレジア。

政務の一方で、夫との間に16人の子供を産み、夫の死後は死ぬまで喪服を脱がなかった。幸せな家庭を築いたことも、マリア・テレジアが今も多くの人に慕われる所以だろう。

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そのマリア・テレジアの末娘がフランス王家に嫁いだマリー・アントワネットである。

フランス革命の嵐の中で、彼女が断頭台に送られたのはあまりに有名だ。

そして、美術史博物館には女性画家エリザベート・ヴィジェ=ルブランが描いたアントワネットの肖像画が展示されている。

アントワネットと同じ年だったルブランは、生涯で30作以上の肖像画を描いた。

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そして王宮の西側に広がるフォルクス庭園に、もう一人の女性の像がある。

フランツ・ヨーゼフ1世の妃エリザベートだ。

ドイツ語ではエリーザベトと表記するのが正しいらしいが、日本ではエリザベートの方が耳に慣れているのでそのように表記することにする。

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美しい彫像だ。

1854年、16歳でバイエルンから嫁入りしたエリザベートだが、ウィーンでの宮廷生活には馴染めなかった。

美貌の皇妃として知られるエリザベートは、義母との確執、息子の自殺、傷心の旅の果てに、スイスのレマン湖畔で無政府主義者に暗殺された。

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しかし、彼女が生きた時代、ウィーンの街は大きな変貌を遂げる。

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市街地を取り囲んでいた城壁が破壊され、ウィーンの街は一気に城外に広がっていった。

エリザベートの夫、フランツ・ヨーゼフ帝の指示によるものだ。

破壊された城壁の跡地は、リンク大通りとして旧市街を一周する環状道路に整備された。大通り沿いには、オペラ座、教会、帝国議会、大学、劇場、博物館、そして多くの公園が造営された。

路面電車に乗って、こうした施設を巡るのは、まさにウィーン観光の定番である。

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エリザベートの死から20年、ハプスブルク帝国はあっけなく崩壊する。

崩壊のきっかけは、1914年サラエボでオーストリア皇帝の後継者が暗殺された事件だった。オーストリアはセルビアに宣戦布告し、それが第一次世界大戦へと拡大した。

そして、ハプスブルク帝国の最期は、今からちょうど100年前、1918年に訪れる。

この年の1月、アメリカのウィルソン大統領が「14カ条宣言」を発表、民族自決の原則を掲げ、帝国諸民族の独立運動を促した。そして9月、連合軍はバルカンで大攻勢に出て、戦局を逆転させ、ブルガリアとトルコが降伏した。これを受けて、最後の皇帝カール1世は10月16日、帝国を各民族による連邦国家に再編するという「10月宣言」を発表した。しかし、10月28日にはチェコスロヴァキア共和国が樹立を宣言、29日にはクロアチアが帝国離脱を宣言した。

そして、11月3日オーストリアが休戦協定を受諾し、11月11日にはカール1世が退位、翌12日にはウィーンでオーストリア共和国の発足が宣言された。

600年続いた国家も倒れる時には一瞬だ。このスピード感は、1989年の東欧革命と重なる印象を受ける。

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ハプスブルクとはどんな国だったのか?

正直私は今まで、あまり関心を持ったこともなかったが、加藤雅彦著「ハプスブルク帝国」のエピローグに興味深い記述があった。

『 ハプスブルク帝国の解体と消滅は、果たしてそのもとに生きてきた諸民族にとって幸せなことであったのだろうか。

イギリスのチャーチル元首相は、その著書「第二次世界大戦」で、ハプスブルク帝国の完全か解体に疑問を投げかけた。彼はいう。ハプスブルク帝国は、諸民族の通商と安全に役立ち、共通の生活を可能としてきた。帝国崩壊により、各民族は独立したものの、独力でドイツやロシアの圧力に抵抗し、生活する力をもっていなかった。悲劇はそこから起きたのだ。』

ここで言う「悲劇」とは、ハプスブルク帝国崩壊後に生まれた国々がナチスの支配下に置かれたり、ソ連の衛星国に組み込まれたことを意味する。

ドイツやソ連に比べて、ハプスブルク帝国は寛容な国であった。

ドイツ人(23.9%)、ハンガリー人(20,2%)、チェコ人・ストヴァキア人(16.4%)、クロアチア人・セルビア人(10.3%)、ポーランド人(10.0%)、ウクライナ人(7.9%)、ルーマニア人(6.4%)、スロヴェニア人(2.6%)、イタリア人(2.0%)。

文字通りの多民族国家だった。

民族自決という言葉は美しいが、小国の乱立が長く続いた歴史はない。EUのような共同体が多民族国家の代わりを果たせるのか?

ハプスブルクから私たちが学ぶことはたくさんありそうだ。

 

<関連リンク>

3泊4日ウィーンの旅

①オーストリアで“オープン”について考えた

②トルコ軍による包囲戦の置き土産?ウィーン名物のカフェをめぐる

③偉大な作曲家が眠る墓地で「音楽の都」を感じる

④旧市街の朝散歩でハプスブルク家の歴史を味わう

⑤クリムト・シーレ・フンデルトヴァッサー 鬼才たちに触れる

⑥絶対オススメ!スロヴァキアの首都ブラチスラヴァへドナウを下る日帰り旅行

⑦ヒトラーはオーストリアで生まれ、ウィーンで育った

⑧私が利用したホテルと電車とスーパーマーケット

<参考情報>

私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。



 

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