<きちたび>2泊3日福岡&対馬の旅⑧ 「大陸との架け橋」対馬の歴史と絶景をレンタカーで巡る

国境の島・対馬は絶景の宝庫だ。

しかも、観光客がものすごく少ない。

公共交通機関が発達していない対馬での観光には、レンタカーが最適だ。

対馬滞在2日目の朝、宿をチェックアウトしてから歩いて「トヨタレンタカー厳原店」に向かった。

店は厳原港の先、町外れにある。

レンタカーを借りて1日対馬を回ってみると、日本人が知らない歴史と絶景がそこら中に転がっていた。

元寇の古戦場「小茂田浜」

まず最初に訪れたのは、厳原の街から山を越えて西海岸に下った「小茂田浜」。

誰もいない静かな海水浴場が広がっていたが、このあたりは鎌倉期には「佐須浦」と呼ばれ、モンゴル帝国の軍勢が攻め寄せた元寇最初の古戦場だった。

砂浜近くにある「小茂田浜神社」には「元寇750年 宗助国公騎馬像」が・・・。

最近立てられたもののようだ。

1274年の文永の役において、蒙古軍による最初の襲撃に対峙したのが当時の対馬国守護代・宗助国だった。

神社に立てられた案内文にはその経緯がこう記されていた。

『文永11年10月5日、蒙古元帥忽敦は兵3万、軍船900艘で対馬の西海岸一帯を侵略した。各地で激しい戦いがあり、宗家の一族がそれぞれの任地で討死している。守護代宗助国は、自ら親兵80余騎を従えて、府中から佐須に討って出、この地、小茂田の海岸に近い「ひじきだん」に人を構えたという。

10月6日午前4時ごろ戦いは始まり、助国らは奮戦したが、午前9時ごろ乱軍の中に武将たちは戦没した。宗助国の墓と伝えられる「お首塚」が下原に、「お胴塚」が樫根にあり、一軍の首将の墓がバラバラであるのも、その最後の壮絶さを物語っている。』

当時の佐須浦は、今よりも深く入江が切れ込んでいて、実際の戦いが行われたのは小茂田浜より500mから1kmほど内陸だという。

2度にわたる元寇は対馬に甚だしい惨禍をもたらした。

「小茂田浜神社」
対馬空港から車で30分、厳原港から車で25分

金田城への道

小茂田浜を離れ、西海岸の一本道「県道24号線」を北上する。

基本的には山道なのだが、所々、視界がぱっと開け、穏やかな対馬海峡と静かな入江が視界に飛び込んできた。

対向車はほとんど通らない。

入江に車を停めて、写真を撮る。

山ばかりの対馬の人口密度は極めて低く、西海岸ではほとんど人に会うこともない。

ただただ静かな海が広がっていた。

車をさらに進めると、道端に仕掛けられた檻の中にイノシシが見えた。

慌てて車を停める。

檻の脇には一人のおじさんが立っていて、「ちょうど今、仕留めたところだ」と言って長い金属の棒を見せてくれた。

棒の先が槍のようになっていて、それでイノシシの心臓を突いたらしい。

今年は全国的にクマやイノシシの被害が多いとニュースにもなっているが、対馬でもひどい損害だと言う。

山林を管理する人間が少なくなるにつれ、かつて人間に追われた獣たちが再び勢力を盛り返しつつあるという構図なのだろう。

県道24号線は海岸線に沿って進路を東に向け、しばらく進むと「金田城跡」と書かれた矢印が見つかる。

県道から外れ狭い脇道に入ると、「特別史跡 金田城跡」と書かれた案内板。

ここが飛鳥時代に築かれた金田城への登山口「城戸」である。

こんな説明が書いてあった。

『金田城は天智天皇6年(667)にこれを築くと「日本書紀」に記載されている。このことは朝鮮半島の情勢から、唐国の侵攻を恐れたわが国が、初めて外敵に備えた防衛の最前線で、太宰府の防護、瀬戸内の固め、そして畿内の本塁と続く戦略配置の要であった。』

つまり、朝鮮半島の百済を助けるために兵を送った倭国が白村江の戦いに敗れた後、唐の侵略に備えて築いた山城がこの「金田城」なのだ。

金田城は、対馬の中央部に大きく口を開けた「浅茅湾」を見下ろす城山(じょうやま)の山頂に築かれた。

関東などから送り込まれた若者たちが「防人(さきもり)」として城に常駐して、敵の侵攻を監視したのだ。

この城戸から狭い山道がぐねぐねと続き、その行き止まりが小さな駐車場になっていた。

レンタカーでないとたどり着くのが難しい場所だが、それはまだ序の口。

目指す山頂まではここからさらに1時間ほど山を登らなければならない。

飛鳥時代の防衛最前線「金田城跡」

ここまで来て初めて、金田城跡に行くにはちょっとした登山の心構えが必要だということを悟った。

「登山道入口」から登り始めるが、途中でたまにすれ違う旅行者は皆、リュックを背負い、トレッキングシューズを履いている。

私はといえば、普段履きのジョギングシューズに買い物袋。

途中で汗をかいてどんどん着ている服を脱ぐ羽目になった。

山頂までの登山道はきちんと整備されている。

ここが対馬でも人気の観光地である証だ。

10分ほど登ると、視界が開けた。

山の急斜面を削って造られた登山道を進んでいくと・・・

まるで北欧のフィヨルドのように細く切れ込んだ「黒瀬湾」に向かって伸びている石垣でぶつかる。

「金田城壁石垣」という札が立っていた。

このあたりはちょうど、巨大な朝鮮式山城の南門があった場所だという。

『南門は平成15年度の調査により、金田城の南を画する石塁上の標高90m前後の位置に発見された。城門の規模は間口3.2m、奥行き平均1.84m。南門は保存状態も良く、未発見の登城道につながっていた可能性があり、将来に調査研究が望まれる。』

そんなことが書いてある。

登山道をそのまま登って頂上を目指すのがメインルートだが、石塁に沿って降りることも可能だ。

南門から海に向かって伸びている石垣が「東南角石塁」。

この石塁には大きな特徴があると書いてある。

『石塁の角部分を前面(外側)に出し、敵の攻撃に備え防御機能を高めた「張り出し」を構築している。韓国では「雉(ち)・雉城(ちじょう)」と呼ばれるこの構造は、国内では他に岡山県鬼ノ城の「角楼」でも確認されている。』

この朝鮮的な特徴もこの城を築いた当時の日本人を知る手がかりかもしれない。

このあたりの石塁の高さは4m前後、敵の侵入を防ぐため当時としては相当大掛かりな城だったことがわかる。

『遺構は比較的良く残り、ここより東側の三つの谷には北から一ノ城戸、二ノ城戸、三ノ城戸が海に向かって築かれています。また、現存する石塁は2〜7mあり、石垣の延長は約2.8kmに達し、築城の様子から朝鮮式山城であることが確認できます』

さらに細い山道を進んでいくと「三ノ城戸」に行き着く。

『城中最も大きいこの谷を三ノ城戸といい、標高約32メートル、三つの城戸を通じて最も高い位置にある。この城戸の石垣は壮大で、底部の水門もいまだ機能している。』

金田城の中を流れる3つの谷を防御する施設の中で、この三ノ城戸が一番近く、保存状態も良いのでお城好きな方は足を伸ばしてみるのも面白いだろう。

ただし、メインの登山道に比べて、こちらのルートは整備状況がかなり悪い。

三ノ城戸から少し山を登ると、「ビングシ土塁・門跡」という比較的平らな場所に出る。

このあたりには、複数の掘立柱建物跡が確認されていて、金田城の中枢だったと考えられて場所だそうだ。

城山山頂に残る旧日本軍施設

南門から石塁沿いに下らず、登山道をそのまま登っていくと、5分ほどで地図の看板のある分岐点に到達する。

九十九折の登山道をさらに上に進んでいくと、頂上までは約30分と書かれていた。

直進する道もあるが、ここは迷わず山頂を目指すのが定番コースだ。

分岐点から20分ほど歩くと、それまでの山城とはまったく趣の違う建造物が忽然と姿を現した。

日露戦争前の明治30年代に旧日本軍が築いた砲台と弾薬庫の跡である。

飛鳥時代の人たちが中国に対する防衛の最前線として築いた山城は、1200年以上の時を経て、ロシアに対する最前線の役目を担ったのだ。

大砲などは残っていないが、たくさんの小部屋が作られていた。

ちょんまげを切ったばかりのアジアの新興国・大日本帝国が大国ロシア帝国を打ち破った日露戦争。

城山の山頂付近に築かれた古い砲台跡は、祖国の存亡をかけた戦いに挑む日本人たちの必死さを今に伝えているようだ。

砲台があった場所に立つと、樹々の間から真っ青な海が眼下に広がった。

日露戦争の勝利を決定づけた「日本海海戦」、その戦場となったのは、まさにこの対馬海峡だった。

対馬最高の絶景スポット

旧日本軍の施設がある所が山頂かと思ったら、「山頂へ」と書かれた矢印があった。

せっかくここまで来たのだから、やはり登らないという選択肢はないだろう。

急な山道を登っていくと・・・

ポスターにも使われている対馬きっての絶景スポットが待っていた。

「おお、ここだ、ここ」

私が対馬に行きたいと思った最初は、この浅茅湾の写真を見た時だった。

「長崎県対馬市 城山 276M」と書かれた場所が本当の山頂のようだ。

その岩の上に立つ。

ここぞ、金田城があった城山の山頂。

朝鮮半島に向かった大きく開けた浅茅湾、その先に対馬海峡が続く。

空気が澄んだ日には、実際に朝鮮半島の南端が見えるそうだ。

太古の昔、日本の祖先は、この海を越えて対馬へ、そして九州へとやってきた。

それにしても、なんと美しい湾だろう。

瀬戸内海や伊勢志摩と比べても決して引けをとらない見事な海岸線だ。

山頂にいるのは、私一人。

しばらくここにいて、ぼーっとしたいところだが、残念ながらこの日の夕方には飛行機に乗って帰らないといけない。

昼になって気温が上がり少しモヤがかかった上に、雲も出てきたようだ。

後ろ髪を引かれながら山を降りて、次の目的地に向かった。

「金田城跡」
対馬空港から車で20分、厳原港から車で25分

ランチは「BAKERY SHINOZUKA」 

せっかく初めて対馬まで来たのだから、島の北端、韓国に一番近い場所まで行ってみようと思い車を北に走らせる。

すると道路脇に、小さなパン屋さんを見つけた。

「BAKERY SHINOZUKA」。

お店に入って食べる時間ももったいないので、ここでパンを買って途中で食べることにする。

店内は実にシンプルな作り。

並んでいるパンの数も少なかった。

確かに対馬でパンを買う人がどれだけいるのか、しかもお店は町からかなり離れた空港の近くだ。

迷うほど種類もないので、直感的にパンを2つ選んだ。

ご主人に聞くと、「GO TO トラベル」の御利益などまったくないとのことだった。

観光客も増えないし、この店ではクーポンの申請もしていないという。

私が買ったのは「くるみチーズ」(140円)と「小倉あんぱん」(120円)、飲み物をつけて370円だった。

どうせなら海を見ながら食べたいと近くの漁港までわざわざ行って、堤防に腰かけてパンをかじった。

対馬ではランチを食べる店を探すのも一苦労だし、そもそも時間がもったいない。

こうして海を見ながらパンを食べるという選択は間違っていなかったと思う。

「くるみチーズ」も「あんぱん」も値段以上に美味しかった。

「BAKERY  SHINOZUKA」 
営業時間:8:00-17:00
定休日:水曜

日本海軍が切り開いた「万関瀬戸」

パンを食べる場所として私が選んだのは、一本の橋だった。

赤いアーチが特徴的な「万関橋」。

対馬の上島と下島をつなぐ重要な橋なのだが、興味深いのはその歴史だ。

下から見ると、この橋が崖と崖の間に架かっていることがわかる。

今では2つに分かれている対馬だが、もともとは一つにつながった島だったのだ。

ではなぜ、2つに分かれたのか?

橋から見下ろすと、2つの島を隔てている海が不自然なほど整然としていることがわかる。

これはただの海ではない。

1900年、大日本帝国海軍によって切り開かれた全長500mの運河、「万関瀬戸」なのだ。

海軍は対馬の一番狭い場所を開削し、西海岸の浅茅湾と東海岸の三浦湾を繋ぎ、軍艦が自由に島の東西に移動できるよう、対馬を2つに分割したのだ。

橋から東に目を転じると、両側の護岸がコンクリートで固められ、ここが運河であることが理解しやすい。

戦争のためならなんでもやる、人間の凄まじさを見る思いがする。

そしてこの「万関瀬戸」が完成した4年後、日本は日露戦争へと突入するのだ。

「万関橋」
対馬空港から車で10分、厳原港から車で30分

対馬国の中心部?「三根湾」

対馬を貫く国道382号線を北上すると西海岸に切れ込んだ穏やかな「三根湾」が見えてくる。

朝鮮半島に向かって門戸を開いた形のこの入江周辺には、縄文時代から弥生・古墳時代にかけての遺跡が多く残り、魏志倭人伝に登場する「対馬国」の中心部ではないかと推定されている場所だ。

水質日本一に輝いたこともある清流「三根川」に沿ってわずかな平地があったため、古くから対馬最大の集落が形成されていた。

この三根地区にある「峰町歴史民俗資料館」を訪ねてみた。

あまり訪れる人もいないらしく、普段は鍵がかかっていて、受付に声をかけると開けてくれる。

入場は無料だ。

資料館には、この周辺から出土した遺物が展示されているが、考古学の知識のない私にはそれを見ても情報は得られない。

「文化の十字路」と書かれたパネルがあって、そこにはこう書かれていた。

『魏志倭人伝に、弥生時代の対馬の人々は「南北に市糴していた」(日本や朝鮮半島と交易していた)と書かれているが、佐賀貝塚の遺物によってもっと古い縄文時代から交易が行われていたことを知ることができる。』

平地に恵まれない対馬では、古くから漁撈とともに交易が盛んに行われていたと見られている。

そして発見された遺跡から想像した縄文時代の集落の絵も展示されていた。

しかし対馬が最も繁栄したのは弥生中期後半から後期前半、つまり紀元1世紀頃と考えられている。

この頃になると墓の数が急増し副葬品の中に数量、種類ともに豊富な青銅器が見られるようになる。

弥生文化の中核は稲作だが、山ばかりの対馬は不向きなので稲作文化はこの島を通り過ぎて九州へと伝わっていった。

「峰町歴史民俗資料館」
開館時間:9:00-17:00
休館日:年末年始

http://www.city.tsushima.nagasaki.jp/culture/mine.html

対馬の一宮「木坂海神神社」

三根地区から湾に沿って西に向かうと、複数の石積み並ぶ不思議な浜に出た。

ここが木坂の集落である。

こうした石積みの塔は、6月に行われる「ヤクマ祭り」という天道信仰、天道社の祭りの際に作られるという。

この木坂集落の山中にあるのが、対馬における一宮「木坂海神神社」だ。

この神社に伝わる宝物には、朝鮮由来のものが多い。

統一新羅時代のものである銅造如来立像のほか、高麗鏡や高麗青磁など。

神社の本殿は海の方向を向き、その先に朝鮮半島がある。

航海の安全を祈願したと考えられるこの神社を建立したのがどういう人たちなのか、朝鮮と日本の関係を知る古代史の手がかりが隠されているように感じられる興味深い場所だ。

ただ、交通の便が悪いこともあって、ここを訪れる人はほとんどいない。

明治4年に国が管理する「国幣中社」に列せられた格式のある神社ではなるが、神社へと続く石段には台風で倒された樹木が散乱したまま放置されていて、荒んだ印象を受けた。

木坂海神神社」
厳原港から車で1時間20分、対馬空港から車で1時間

夕暮れの絶景スポット「和多都美神社」

海神神社を後にして、沈む夕日を追いかけるように南に走る。

波ひとつない穏やかな三根湾に落ちる夕日も素晴らしい。

あまりに美しいので思わず車を止めた。

このままここで夕日を見ていようか・・・。

そんな考えもよぎったが、初志貫徹でレンタカーに飛び乗り、再び南に向かった。

目的地である仁位湾につくと、赤い鳥居が出迎えてくれた。

その下をくぐって先に進む。

海が見えてきた。

まだ夕日は沈みきっていない。

坂を下ったところに車を停め、写真を一枚。

でも、ここが目的地ではない。

私が夕暮れ時にどうしても訪れたかった場所は、こちらの「和多都美(わだつみ)神社」だった。

10世紀に書かれた「延喜式」にも登場する由緒ある神社だが、ここを有名にしているのはこれだ。

本殿の前に立つ5つの鳥居、そのうちの2つが海の中に立っている。

残念ながら今年9月の台風で、一番奥の鳥居が破壊され、少し前までは三重に見えていた鳥居が二重になってしまった。

それでも、私には十分幻想的だと思えた。

私が訪れた時、雑誌の撮影チームが福岡から来ていた。

香港からの依頼でトワイライトタイムの写真を撮影するらしい。

鳥居の下に女性が座っている。

私も後ろから撮影させてもらったが、なるほど確かに女性がいる方が断然いい。

まさに旅行雑誌のグラビア写真である。

プロのカメラマンは光の変化を見ながらベストな時間を待っている。

福岡の人でも対馬に来ることはほとんどないという。

「最高の場所ですね」と話しながら、少しずつ暗くなる海を見つめた。

残念ながら、飛行機の時間が迫ってきた。

夕暮れ色が濃くなる和多都美神社で最後の一枚を撮影したのは5時半。

そろそろ空港に向かわないといけない時間だ。

空港に向かう途中、仁位湾が見える高台で再び車を停めて一枚写真を撮る。

鏡のような海面に消えかかりそうな夕焼けが淡く映り込んでいた。

「和多都美神社」
対馬空港から車で40分

歴史と絶景の島・対馬。

高速道路もないので、目的地の半分も回ることができなかった。

次回来る時にはもっとたっぷり時間をとって、島のリズムに合わせてゆったりとレンタカーを走らせたいと感じた旅だった。

<きちたび>2泊3日福岡&対馬の旅

① 博多駅直結「博多めん街道」で味わう「元祖博多だるま」の「博多セット」

② 初めての太宰府で「九州国立博物館」にガッカリ

③ 天神の再開発で「元祖もつ鍋楽天地 天神本店」が・・・

④ 「ANAクラウンプラザホテル福岡」の朝ごはんが凄い!

⑤ 福岡から「国境の島」対馬へはフェリーがオススメ

⑥ 対馬での宿泊は厳原の「西山寺宿坊」が五つ星!

⑦ 宗氏とかすまきと金あなご・・・日朝を繋いだ港町・対馬厳原を歩く

⑧ 「大陸との架け橋」対馬の歴史と絶景をレンタカーで巡る

1件のコメント 追加

コメントを残す