<きちたび>1泊2日広島の旅⑤ 海軍の街・呉のシンボル「大和ミュージアム」&「てつのくじら館」

もともとは、のどかな瀬戸内の農漁村だった呉浦が一変したのは、1889年に、横須賀に次いで海軍鎮守府(海軍基地)が開かれてからである。以後、「帝国海軍第一ノ兵器製造所」をめざすという明治政府の方針のもと、軍艦や大砲を製造する海軍工廠が建設され、対岸の江田島には海軍兵学校が開かれ、呉浦一帯は帝国海軍の一大拠点につくりかえられた。

そして日清(1894−95年)日露(1904−05年)の戦争、上海事変(1931年)、日中戦争からアジア・太平洋戦争にかけて、呉は海外出兵の最前線基地であり、侵略戦争のための重要拠点として発展した。

引用:「観光コースでない広島」

これは「観光コースでない広島 被害と加害の歴史の現場を歩く」(高文研)という書籍からの引用である。

明治の海軍鎮守府設置から今日の海上自衛隊まで、ずっと海軍の街として発展したきた我が国の中でも特異な町・呉。

そのシンボルであり、観光の中核を担っている2つの博物館を訪ねた。

「大和ミュージアム」と「てつのくじら館」である。

大和ミュージアム

今回初めて、呉を訪れた私は、港のすぐ隣にある「大和ミュージアム」を訪ねたのだが、妻を待たせたまま急いで見学したので、呉の歴史や戦艦大和に関する肝心の展示を素通りしてしまったらしい。

ということで、ミュージアムの展示内容を十分この記事に反映できないため、「観光コースでない広島」からの引用を加えながら書くことにする。

ミュージアムへの入館料は、一般500円。

「大和ミュージアム」の正式名称は「呉市海事歴史科学館」、2005年にオープンした。

入場者は40万人の目標を大きく上回り、開館1年で170万人を動員、その後も毎年80万人を超える人を集める人気の観光施設となり、呉市のみならず広島県の観光客増加に大きく貢献したという。

ミュージアムの中央にあるのは「大和ひろば」。

ここに置かれた実物の10分の1の大きさの戦艦大和の模型がミュージアムのシンボルだという。

公式サイトには、こんな説明がなされていた。

『全長26.3メートルもある10分の1戦艦「大和」は、設計図や写真、潜水調査水中映像などをもとに、可能な限り詳細に再現しました。この10分の1戦艦「大和」は大和ミュージアムのシンボルとして平和の大切さと科学技術のすばらしさを後世に語り継いでいます。』

この模型が「平和の大切さ」や「科学技術のすばらしさ」を語り継ぐとは到底思えないが、軍事マニアや模型オタクにはたまらないのだろう。

この「大和ひろば」の周囲には螺旋状に通路が設けられていて、大和をあらゆる角度から眺めることができる。

「大和ミュージアム」の第一のコンセプトは、「大和をつくった世界一の技術が戦後日本の産業を支えた」ということらしく、この模型にそのコンセプトが凝縮されているのだ。

私は大和に関する展示を見損なっているので個人的な感想は述べることができないが、「観光コースでない広島」の執筆者である是恒高志氏はこんなことを書いている。

一見中立的な「技術」の強調が、いつ、何のために造られたかという大和の本質を隠しているようだ。

第二のコンセプトは「平和の尊さ」だが、これは1945年の大和の沖縄出撃で3300人の乗組員中三千人が犠牲になったことと、証言ビデオのコーナーで呉空襲のことが語られている程度。

別のコーナーでは、零式艦上戦闘機や特攻兵器の回天、特殊潜航艇海龍の実物展示がある。そこでは回天乗組員の声の遺言を聞くことができる。「平和の尊さ」といいながら、「愛国」と「殉国」の精神が称賛されている。

引用:「観光コースでない広島」

「加害」には目をつぶり、日本人の「被害」だけを伝える日本の博物館のスタンダードがここにもあるようだ。

こちらが、ミュージアムに展示されている「回天」十型の試作型。

このあたりの「大型資料展示室」は私も見たが、「回天」に添えられた説明文はこんな感じだった。

『「回天」は、人間が魚雷を操縦しながら、目標とする艦艇に体当たりする特攻兵器で、「人間魚雷」とも呼ばれます。一型・二型・四型・十型などのタイプがあり、実戦投入されたのは、「九三式酸素魚雷」を用いた一型のみで、約420基が製造されました。戦没者は搭乗員だけでも100名以上にのぼり、その多くが20歳前後でした。

当館展示の「回天」十型は、潜水艦用の電気推進魚雷である「九二式魚雷」を利用し、本土決戦の近距離用として開発されたものです。』

「回天」の脇には、この人間魚雷を搭載した潜水艦「伊号第37潜水艦」の100分の1模型も展示されていた。

そこには、こう書いてあった。

『乙型と呼ばれるタイプの潜水艦で、小型の水上偵察機を1機搭載しました。最初の回天特攻部隊「菊水隊」の回天4基を後部甲板に搭載し、昭和19(1944)年11月8日に呉を出撃しましたが、同月19日に南太平洋パラオ諸島方面で、アメリカ海軍駆逐艦の攻撃を受け撃沈しました。』

さらに、回天で命を散らした若者たちの遺品も・・・。

短刀「武勲」。

『呉鎮守府司令長官金澤正夫中将から在高知県須崎第23突撃隊・河崎春美一等飛行兵曹(予科練甲13期)へ贈られた短刀』だという。

仁科関夫中尉の短刀。

『昭和19(1944)年、「回天」出撃前の短刀授与式で、第六艦隊司令長官・三輪茂義中将から手渡された短刀です。出撃直前にこの短刀を預け、黒木大尉の遺骨を抱いて出撃しました。』

塚本太郎少尉の遺品

『昭和20(1945)年1月、「回天」特別攻撃隊金剛隊としてウルシー湾に突入し戦死後、残された塚本太郎少尉(戦死後 大尉)の遺品です。』

そして、塚本太郎海軍少尉の遺言とされる肉声が流れている。

父よ、母よ、弟よ、妹よ。そして永い間はぐくんでくれた町よ、学校よ、さようなら。

本当にありがとう。こんな我儘なものを、よくもまあほんとうにありがとう。

僕はもっと、もっと、いつまでもみんなと一緒に楽しく暮らしたいんだ。愉快に勉強し、みんなにうんとご恩返しをしなければならない。

(中略)

然し僕はこんなにも幸福な家族の一員である前に、日本人であることを忘れてはならないと思うんだ。

日本人、日本人、自分の血の中には3000年の間受け継がれてきた先祖の息吹が脈打ってるんだ。鎧兜に身をかため、君の馬前に討死した武士の野辺路の草を彩ったのと同じ、同じ匂いの血潮が流れているんだ。

そして今、怨敵撃つべしとの至尊の詔が下された。12月8日のあの瞬間から、我々は、我々青年は、余生の全てを祖国に捧ぐべき輝かしき名誉を担ったのだ。

人生20年。余生に費やされるべき精力のすべてをこの決戦の一瞬に捧げよう。 怨敵撃攘せよ。おやじの、おじいさんの、ひいおじいさんの血が叫ぶ。血が叫ぶ。全てを乗り越えてただ勝利へ、征くぞ、やるぞ。

痛ましい遺言だ。

塚本少尉はこの言葉を録音して、死地に赴いた。

慶応大学1年の時に学徒動員された若者だった。

『怨敵撃つべしとの至尊の詔が下された』

「至尊」とは、天皇を指す。

ミュージアムでの展示には、若者の心意気を讃えるトーンしかなく、その背景は一切説明されていない。

塚本少尉を紹介するパネルには、こう書いてあった。

『塚本太郎海軍少将は、長男であったため、「回天」搭乗員の志願を断られましたが、「弟がいますから構いません」と血書を書いて嘆願しました。訓練先の大津島基地からの最後の帰省のとき、母親に「お母さん、その着物で座布団をつくってください」と言って、その座布団とともに出撃をしました。

塚本少尉は、「金剛隊」として昭和20年1月21日23時20分、伊号第48潜水艦から発信し、ウルシー泊地攻撃のため突入しました。母の最期の日、家族は生前の願いどおり、袖で塚本少尉への座布団をつくった着物を着せてあげたそうです。』

まるで戦前のような愛国ストーリー。

この展示を行った人は、これで何を伝えたかったのだろう?

国のために命を投げ打った若者たちには心から冥福をお祈りしたい。

しかし、なぜ彼らが死地に赴くことになったのか、そもそもこの戦争は誰が何のために始めたのか、そうした全体像なしに戦死した若者たちを英雄視することの危険性を私は強く感じる。

これでは、自分に都合の良い情報しか展示しない中国や韓国の戦争博物館と変わらない。

むしろ彼らの方が、戦争の全体像がわかるだけマシかもしれない。

戦争を扱った日本の博物館の展示内容には、戦争を防ぐための「教訓」が決定的に欠けているのだ。

特殊潜航艇「海龍」。

『「海龍」は世界初の有翼潜水艇です。水中を飛行機のように自由に潜航・浮上することをめざして開発されたもので、操縦装置も飛行機と同じものを使用していました。

呉海軍工廠などでは潜航実験や研究・開発が行われ、横須賀海軍工廠と海軍工作学校を中心に建造されました。後期量産型では艇首に600キログラムの炸薬を装備し、両脇に抱えた魚雷発射後、目標の艦艇に突入する「水中特攻兵器」となっていました。』

そして「零式艦上戦闘機」、いわゆる「ゼロ戦」。

その説明では・・・

『昭和15(1940)年に海軍の制式機として採用された「零式艦上戦闘機」は、その機動性、装備、航続距離において当時世界に類を見ないもので、太平洋戦争などで活躍しました。

しかし、戦域の拡大と連合国側の新戦法による攻撃、新型戦闘機の登場などで次第に消耗も激しくなり、昭和19(1944)年10月からの「神風特別攻撃隊」編成以降、爆弾とともに飛行機ごと体当たりする攻撃法によって若い尊い生命が数多く失われました。』

太平洋戦争の末期は、空も海も展望のない特攻の連続だった。

果たして、この展示でどれだけの人にその愚かさが伝わるだろう。

若い人たちに聞いてみたいと思った。

戦後75年、平和を守った日本。

ある意味、若き英霊たちの死に報いたとも言えるが、戦争を知らない子供たちにどのような教訓を残していくのかも、日本の将来を考えるととても大切なことだ。

その意味では、日本各地に戦争について伝え考える施設を作り、学校の活動として全員で学習することは重要だが、問題はどのようなメッセージを子供たちに伝えるかである。

地元の人たちの熱意で「大和ミュージアム」ができたこと、そしてその博物館に多くの人が足を運んでいることは良いことだと感じつつも、もっと多面的で詳しい情報発信を行って欲しいと感じた。

ちなみにミュージアムショップでは、海軍カレーなど様々な大和グッズと並んで、山本五十六元帥の色紙が売られていた。

男の修行  山本五十六

苦しいこともあるだろう

云い度いこともあるだろう

不満なこともあるだろう

腹の立つこともあるだろう

泣き度いこともあるだろう

これらをじっと こらえてゆくのが

男の修行である

アメリカとの戦争に一貫して反対した山本五十六の言葉。

その歴史を知っている者と知らない者で受け取り方がまったく違うだろう。

歴史を正しく教えないで、こうした断片的な言葉だけを伝えるのはやはり危険だというのが、大和ミュージアムを見た私の感想である。

「大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)」
電車: JR呉駅から自由通路経由で徒歩約5分
車: 山陽自動車道 広島東JCTから約35分
電話:0823-25-3017
開館時間:9:00~18:00
休館日:火曜

てつのくじら館

「大和ミュージアム」の西側に、巨大な潜水艦が置かれている。

ここが「てつのくじら館」、正式名称は「海上自衛隊呉史料館」である。

公式サイトを見てみると、こんなことが書いてある。

『ドキドキの乗艦体験! 日本で唯一、実物の潜水艦を展示! 機雷掃海や潜水艦の活動を中心にご紹介。無料でご覧いただけます!』

そうここは、海上自衛隊のPR施設。

施設外のフェンスには、「平和を、仕事にする」という自衛隊のリクルートポスターが貼られている。

「広がるフィールド!未来の自分!」という自衛官募集のパネルも堂々と掲げられて施設の目的をしっかりアピールしている。

公式サイトには、この史料館建設の目的がこう書かれている。

『海上自衛隊呉史料館は、海上自衛隊佐世保史料館の水上艦、鹿屋航空基地史料館の航空機と並んで、潜水艦と掃海を展示する史料館です。
海上自衛隊の有する資料の展示・保存等を通じて、海上自衛隊員の教育及び、広く国民一般等への広報活動により海上自衛隊に対する理解の促進並びに地域との共生に貢献することを目的としています。』

海上自衛隊は3つの史料館をテーマで分けていて、呉の史料館は「潜水艦」の展示を中心に据えている。

そうした趣旨を踏まえた上で見学すると、ほとんど知らない海上自衛隊の活動について本格的な知識を得ることがちょっと面白い施設だ。

国民の税金で活動している自衛隊について、私たちも最低限の知識は持っておいた方がいい。

でも、「大和ミュージアム」に比べると展示物は地味で、お客さんも少ない。

まず入り口を入って2階に上がると、そこは「掃海作業」の展示である。

「掃海」というのは海に仕掛けられた機雷の除去作業のことであり、これまでの自衛隊の海外派遣の中で大きなウェイトを占めてきた。

しかし、掃海の歴史は思いのほか興味深いものがある。

パネルばかりで面白味はないが、写真撮影はOKなので順を追って掃海の歴史を辿ってみた。

『第2次大戦末期、米軍のB29は我が国で通航量の多い海峡や湾港に航空機雷約1万個を投下、海外と本土、本土諸港間の通航を不可能にし、事実上海上封鎖し、飢餓状態に追い込んだ。米軍の航空機雷の寿命は1週間から10日間と言われながら戦後も爆発を繰り返し、20万t にのぼる船舶の沈没・損傷、約1300人の犠牲者を出し、安全な航行を困難にした。』

600万人の復員や引き揚げのためにも、経済復興を進めるためにもまずは掃海から始める必要があったのだ。

主要港湾、水路308カ所の掃海が終わったのは昭和27年だった。

驚いたのは、平成に入ってもまだ米軍機雷の処分が行われていて、平成26年の段階で残存数は297個と表示されていた。

これまた驚いたのだが、日本の掃海部隊は朝鮮半島にも派遣されていた。

『後退する北朝鮮軍を追いつめるため、昭和25年10月、元山に上陸作戦を計画する米軍から海上保安庁に掃海隊派遣要請があった。首相の吉田茂は、講和会議の成功と国連に協力する政府方針に基づきこれを受諾し、田村久三を総指揮官に延べ7個掃海隊、延べ43隻が派遣された。敗戦後の戦争否定の風潮と新憲法の下で、政府は掃海隊派遣を秘密にし、29年の国会質疑でもその事実を認めなかった。』

この時の掃海では、1隻が機雷に触れて沈没、1名が死亡、18名が負傷したという。

1954年に海上自衛隊が発足すると、掃海任務は自衛隊が担い、米軍の新しい掃海法を導入した。

その後、機雷も進化し現代では「沈黙の機雷戦」が展開されている。

貨物船などからこっそり落としたり、潜入した潜水艦から発射する方法などで敵に気配を感じさせないで敷設する。

機雷そのものも、船底に触れずに艦船の発する磁気や音響を感じて発火する「感応機雷」も普及していて、掃海が困難なため近年ではこのタイプが主流となっているという。

機雷の進化に伴って、掃海の道具も進化している。

今では、処分用爆雷を搭載して目標に近く「海中ロボット」を使用するのが掃海の主流で、自走能力を有し、テレビカメラやソナー、ワイヤーを切断するカッターをを備える。

掃海の展示を見終わったら3階へ、このフロアには潜水艦に特化した展示がなされている。

まずは、潜水艦の威力とは何か?

『潜水艦の威力は、相手に対して海面下に潜水艦が潜んでいるかもしれないと思わせ、不安にさせる隠密性にある。科学技術が長足の進歩を遂げつつある今日においても、いまだに潜水艦の存在を確実に捉える技術はなく、今後も隠密性の威力が損なわれることはないとみられている。近年、潜水艦は一層静粛化に成功し、より深く潜ることによって隠密性を高め、一層探知を困難にさせている。』

なるほど。

では、潜水艦の任務とは?

『アメリカをはじめとする軍事大国は、潜水艦の隠密性を利用して戦略核ミサイル基地化した。この結果、潜水艦には長距離ミサイル発射型と、海域を哨戒し潜水艦・水上艦艇・商船等を襲う攻撃型の二つに分かれた。だが、イラク戦争における米攻撃型潜水艦は長距離巡航ミサイルを多数発射し、攻撃型の役割も変わってきている。

我が国の潜水艦は攻撃型に属し、専守防衛の国是に則り哨戒を主たる任務とし、国土に脅威をもたらす敵艦艇を排除する能力を有する。平時において最も重要な任務である哨戒行動の詳細を明らかにできないが、何隻かが常時この任務についている。』

さらに、原子力潜水艦と通常型潜水艦の違いは?

『長期間潜航できる原潜は有利だが、潜水艦の本質は隠密性にあり、その点では、必ずしも原潜が有利とは言えず、通常型の方がすぐれている面も少なくない。

水中でも大出力を取り出せる原潜は、通常型にはない大型艦が建造可能であり、原潜保有国(米露英仏中)はこの利点と隠密性を生かし、都市や軍事基地を標的とする戦略核ミサイルや巡航ミサイルの発射基地にした。しかし、水中・水上の目標には、原潜も通常型も同じ魚雷を主な攻撃兵器とし、ほとんど差がない。静粛かつ潜航深度が取れる通常型であれば、原潜に引けを取ることがないといわれる。原潜は建造費や運用コストが高いだけでなく、退役後に原子炉処分の問題が残り、国家財政への負担は通常型の方がはるかに軽い。』

なるほど、勉強になる。

続いては、日本における潜水艦の歴史が展示されている。

日本が保有した最初の潜水艦は明治時代、日露戦争の最中にアメリカから購入したホーランド型潜水艦5隻だった。

日本式潜水艦は、三菱や川崎が外国の技術を導入しつつ開発を進め、伊1型や伊51型などが生まれた。

戦後、海上自衛隊が保有した潜水艦第1号はアメリカから貸与された「くろしお」で、この「くろしお」が横須賀から呉に移った1935年、戦後初の国産潜水艦「おやしお」が竣工した。

その後、「はやしお」「なつしお」「おおしお」「あさしお」と続き・・・

さらに「うずしお」「ゆうしお」「はるしお」「おやしお」、そして最新鋭の「そうりゅう」へと改良が重ねられていった。

展示の最後に「新しい対潜戦の模索」というパネルがあった。

『冷戦期、潜水艦の水中高速化、静粛化、潜航深度の増大が進み、水上艦艇や対潜航空機による潜水艦の探知、攻撃が困難になったため、潜水艦に相手潜水艦の探知が課され、新しい重要な任務となった。

しかし近年、潜水艦のさらなる静粛化が進み、潜水艦による相手潜水艦の探知と音紋による敵味方識別が困難になり、潜水艦同士の戦いが起こりにくくなっている。』

そして、潜水艦開発の趨勢とは?

『潜水艦の真価は隠密性にあり、そのためにより深く、より静かに、見つかりにくく、を目指し、各国が激しい開発競争をしている。

静粛化については、モーターの低回転化、ギア部分の廃止、スクリュー低雑音化によって、これ以上不可能に近いとさえいわれている。そのため潜水艦のパッシブソーナーでは、敵潜水艦の発する音をキャッチするのが困難になり、水上艦や対潜航空機のアクティブソーナーによる探知が重視されるに至った。これに対して潜水艦に吸音材を貼りつけ、船体形状をステルス化するのが、世界の潜水艦の趨勢になっている。』

まさに、盾と矛。

武器の進化は止まることを知らず、それに伴って戦術の変更を迫られる。

人類の歴史はずっと同じことの繰り返しであり、令和の時代になっても基本的に何も変わっていない。

様々な制約を課された自衛隊が果たしてどの程度の実力を有するのか、正直なところまったくわからないが、米露や中国にはかなりの差をつけられているのだろうと考えざるを得ない。

そんな潜水艦の展示を見終わって外に出ると、例の本物の潜水艦が目の前に見えた。

この潜水艦は、2004年に除籍となったゆうしお型潜水艦「あきしお」で、現在は展示用として船内を見学できるようになっている。

こちらは潜水艦で実際に使用されていたトイレとシャワー。

潜水艦では真水は貴重品なので厳重な使用計画が決まっていた。

汚れた食器は海水で洗い、仕上げだけ真水を使ったり、水を流しっぱなしにできないよう水道の蛇口は手を離すと水が止まる構造にしてあり、乗組員が使用できる真水の量は1人1日当たり15リットル前後と平均的な日本人の20分の1だという。

こちらは「居住区」。

三段ベットの間隔はものすごく狭い。

こちらが台所。

思ったより広いが、火が見当たらない。

ここはおそらく「士官居住区」。

『士官室は士官が作戦会議や事務作業に使うとともに食事や休憩にも使われるマルチスペースで、テーブルは簡易手術台として使うこともできる。』

ベッドは士官も一般の乗員と同じ三段ベッドだ。

潜水艦「あきしお」の全長は76m、その密閉空間でともに過ごす乗員は75名だという。

そんな中でここだけ装備が充実しているので、おそらく艦長室なのだろう。

やはり館長だけは特別扱いだ。

様々なケーブルやパイプが交差する狭い通路を抜けると・・・

こちらは「通信室」だろうか?

『潜水艦で唯一施錠された場所で、艦長が許可したごく限られた者しか入ることが許されない。潜水艦の通信や暗号に関わる様々な機器が設置してある。』

「発令所」。

すべての情報が集約される潜水艦の「頭脳」である。

『発令所は潜水艦の中で最も重要な場所であり、艦長はここで艦を指揮する。潜航、攻撃、航海等に関する装置が集中しており、潜望鏡が装備されているのもここである。』

ここは、「操舵席」なのか?

『外の見えない潜水艦では、操舵員が計器だけを頼りに艦を指示通りに三次元運動させている。海上自衛隊の潜水艦では魚雷員が操舵を担当する。』

こうして潜水艦「あきしお」の船内見学が終わると、あとは出口だ。

入場無料で機密のベールに包まれた潜水艦についての知識を得られる「てつのくじら館」。

展示内容は地味だが、私には「大和ミュージアム」より数倍も面白かった。

「てつのくじら館(海上自衛隊呉史料館)」
電車: JR呉駅から徒歩約5分
車: クレアライン呉ICから約5分
電話:0823-21-6111
開館時間:9:00〜17:00
休館日:火曜

映画「この世界の片隅に」の舞台ともなった呉。

今も海上自衛隊の主力艦が母港とする「海軍の街」である。

東アジアの安全保障環境が厳しくなっていると政府が主張する時代、訪れる価値のある街だと思う。

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