🇯🇵 香川/小豆島 2021年10月14日~15日
岡山帰省のついでに1泊2日レンタカーで小豆島を回った。
特に目的はなく、妻が興味を示しそうなお醤油とオリーヴを中心に行き当たりばったりで目的地を探す。
そんな適当な小豆島めぐりで私たちが訪れた場所をまとめておく。
東海岸ドライブ
岡山県の日生港からフェリーで1時間。
私たちがまず降り立ったのは小豆島北岸の大部港だった。
この港からは南に向かって小豆島観光のハイライト「寒霞渓」に登るか、西に向かって中心地の土庄に向かう車が多いのだが、私はさしたる理由もなく東に向かってみた。

海岸線に沿って舗装道路が伸び、ところどころに展望台が設けられている。
小豆島から東の方角を望むと、淡路島や姫路の街が見える。

小豆島の北東に位置する福田港からは姫路行きのフェリーが1日7往復運航されている。
特に何があるというわけではないが、のんびりとドライブを楽しむには悪いルートではない。

とにかく、ほとんど走る車もなく、人家もあまりない。
小豆島の中でも離島気分を味わえるエリアだ。
この東海岸で特に目立つのは、採石場である。

日本遺産「天狗岩丁場」。
江戸時代、大坂城の石垣に使われた大量の石を切り出した場所である。
案内板にはこう書かれている。
大坂夏の陣において灰塵に帰した大坂城を再築するため、江戸幕府の2代将軍徳川秀忠は、元和5年(1619)に豊臣大坂城をはるかに凌駕する新しい大坂城の築城を63藩、64家の大名に命じました。
築城工事は、元和6年(1620)から3期に分けて行われ、寛永6年(1629)まで、10年の歳月を要しました。
新しく築かれた徳川大坂城の石垣は、総延長12km、高さ32m、使われた石材の総数は100万個を超えるといわれ、世界屈指の巨大石像構造物となっています。
巨大で良質な石材を確保するため、諸大名は、小豆島をはじめとする瀬戸内の島々等に石切丁場を開き、争うようにして大坂の地へ石材を運搬し、石垣を築き上げたといわれています。
この天狗岩丁場は、福岡藩黒田家の初代当主である黒田筑前守長政とその嫡男である忠之が採石した場所であり、岩谷地区に残されている八人石、豆腐石、亀崎、南谷、天狗岩磯の各丁場跡とあわせて、石切丁場としては、唯一の国指定史跡となっています。
案内板「大坂城と小豆島の石切丁場について」より

時間の関係もあって、私は現場を見に登らなかったが、黒田家が残した残石がまだ多く残っているそうだ。
いずれにせよ、戦国時代の人たちが人力で築いた城のスケールを感じることができそうだ。

「天狗岩丁場」からさらに南下して行くと、突然ヤシの木が植えられた展望台が現れる。
ここは「南風台」と呼ばれている。

この場所は、有名観光スポット「エンジェルロード」同様、潮の満ち引きに合わせて島との間に砂の道が現れる「トンボロ現象」が見られるもう一つの場所なのだそうだ。
日本列島で「トンボロ現象」が見られる場所は11カ所あって、そのうちの2カ所が小豆島にあるわけだ。

「エンジェルロード」は町から近いので多くの若者が訪れるが、こちらは車もあまり通らない東海岸。
ある意味では穴場と言えるかもしれない。
「天狗岩丁場」 小豆郡小豆島町岩谷 https://www.my-kagawa.jp/point/486
マルキン醤油
東海岸を回って最初の目的地「醤(ひしお)の郷」にたどり着いたのは10時半ごろだった。
小豆島南東部の中心地・草壁港の近くにあり、大部港でフェリーを降りてから1時間20分ほどドライブしたことになる。

「醤」とは塩を加えて発酵させた塩蔵品の総称で、醤油の原料となる調味料のことだそうだ。
小豆島名産のお醤油は自然な旨みにあふれ、今回の旅行でおいしいお醤油を買い求めることは妻の第一の目的となっていた。
この「醤の郷」のシンボル的な存在となっているのが、1907年創業の「マルキン醤油」である。

島の有力醤油醸造家8名により設立されたこの工場は、昔ながらの風情が残り、工場そのものが歴史的建造物である。
マルキンの社名は金刀比羅宮の社紋(丸に金)にあやかったものだそうだ。

登録有形文化財にも指定されている国内最大規模の天然醸造蔵では、今でも人為的な温度調節を行わず、昔ながらの作り方で醤油が作られているという。
その内部は覗き窓からチラッと見ることができるだけだが、その建物の外観だけでも一見の価値がある。

併設された「マルキン醤油記念館」には、創立当時の工場の全景写真が飾られていた。
そのスケールと整然とした建物群が当時の一流企業だったことをうかがわせる。

記念館では、昔ながらの醤油作りの道具を見ながら、どうやって醤油が作られるのかその工程を学ぶことができる。
私も全くこうした分野は無知なので、この機会に展示されているパネルを見ながら工程の勉強をしてみた。
・小麦を炒る
小麦は、粒を選別してから炒機に入れられる。炒機は小麦をまんべんなく炒るために回転し、直火で焦げないように砂の粒と一緒に炒る。炒った小麦は細かく割られてから大豆と混ぜられる。
・大豆を蒸す
きれいに洗ってあらかじめ浸漬され十分に水を含んだ大豆は、釜の中へ入れられ蒸気で蒸される。良い麹を作るためには、大豆の持っている成分を変化させないように、むらなく蒸さなければならない。
・種こうじを混ぜる
おいしい醤油を作るためには良い麹菌が必要。醤油作りに適した麹菌から良い種こうじが育つ。そのために、マルキンでは醤油づくりに最も適した麹菌を独自に培養している。

・麹づくり
大豆、小麦、種こうじを混ぜ合わせ麹を作ります。その工程を製麹(せいきく)と言う。良い麹を作るには、麹菌の成長に合うように温度と湿度を調整した空気を常に送り込む。そうして麹菌がまんべんなく働くように18〜20時間後に混合物をかき回す。これを一番手入れといい24〜26時間で二番手入れを行い、約45時間で麹ができあがる。
・食塩水を混ぜる
良質の食塩が槽の中に氷山のように積まれ、槽の床に敷き詰められたパイプから出る水の圧力で食塩の山を溶かす。こうしてできた食塩水を麹に混ぜ合わせる。食塩の濃度はいつも23%〜25%にしなければならない。食塩が薄いと、もろみは腐敗し、濃すぎると酵母の働きが抑えられて発酵が充分できないこともある。
・もろみを熟成させる
麹と食塩水を混ぜ合わせた混合物は諸味倉に仕込まれ「もろみ」となる。もろみは、麹菌の作った酵素の働きで、大豆や小麦からアミノ酸や糖が出て、醤油の旨味や甘味になる。乳酸菌の働きで醤油にコクをつける。酵母の働きによってアルコール類ができる。このような作用を発酵といい、この営みを繰り返し12ヶ月かかってもろみは熟成する。
・もろみを搾る
熟成もろみは、布の上に広げられる。一枚の布に30リットルのもろみを入れ、500枚の布が重ねられる。重ねた布の上に重りを乗せ、さらに上から大きな力をゆっくりとかけて醤油がしぼられて行く。しぼる力は3段階にわけてだんだん強くなり、3日間かけて醤油をしぼり切る。搾られた醤油は火入し、濾過しておいしい醤油となる。
・容器に詰める
できあがった醤油はすべて味や成分などの検査が行われた後、オートメーション化された工場で2リットルや1リットルパックなどの各種容器に詰められて製品となる。

そうして作られた「マルキン醤油」は全国に出荷され、メディアでも大々的に宣伝された。
醤油メーカーというのは当時としては大企業だったのだろう。

記念館の中には、「こうじ室」が再現されていた。
こうじ室は、大豆、小麦、種こうじを混ぜ合わせたものを寝かせ麹を作るところで、室内は温度や湿度を自由に調整でき、麹菌が育ちやすいように工夫されていた。
身の回りにあるものだけで作られるお醤油。
しかしその製法を考え出した先人たちの知恵と観察眼には驚かされる。
これぞ和食の原点であり、日本が誇る「うまみ」を生み出す発酵文化なのである。

マルキン醤油記念館の向かいにはお土産が買える物産館があり、妻はそこで何本かのお醤油を買い求めた。
「お醤油ソフトクリーム」(300円)が人気だそうで、訪れた若いカップルたちはみんな食べていたが、私はどうもその気にならなかった。
「マルキン醤油記念館」 小豆郡小豆島町苗羽甲1850 電話:0879-82-0047 営業時間:9:00~16:00 定休日:不定休 http://moritakk.com/know_enjoy/shoyukan/
井上誠耕園 らしく園
お醤油を調達した後は、同じく小豆島名物のオリーブへ。
道の駅でもある「小豆島オリーブ公園」が有名だが、妻は違うところに行こうと言った。
私はまったくその名を知らなかったが、「井上誠耕園」という有名なお店があるのだそうだ。

草壁から土庄に向かう途中、高松行きのフェリーが発着する池田港の近くに「井上誠耕園」が運営するショップ&レストランがあった。
まだ移転したばかりで新しくてモダンな建物だ。
本当はここでランチを食べる計画だったのだが、生憎この日は定休日、仕方なくショップだけ訪ねることにした。

店内には、オリーブにまつわる様々な商品が並べられている。
小豆島は全体として昭和の香りが色濃く残る島だが、このお店は洗練されて令和の雰囲気があった。
しかし全体的にお値段は高い。

妻のお目当てだったオリーブの苗木も売られていた。
小さな苗木が880円、妻が買いたかった大きさだと2000円ほどする。
ケチな妻は他の店よりも値段が高いと言って、結局ここでは買わず安い店に戻って苗木を一本買った。

テラスからは海沿いに広がるオリーブ畑がよく見えた。
「井上誠耕園」では約4500本のオリーブの木を栽培しているという。
親子3代にわたってオリーブづくりを続けてきた「井上誠耕園」、その公式サイトには初代の苦労話が書かれていた。
この小豆島で昭和15年、私の祖父である井上太子治がどんぐり林の開墾をはじめ、当時はなかなか手に入らず苦労して入手した一本の蜜柑の苗木を、そして21年に小さなオリーブの木を植えたのが私ども井上誠耕園のはじまりです。
引用:公式サイト
それから十数年、昭和30年代に初めてオリーブの収穫を迎え、父・勝由がオリーブ加工の研究をはじめました。
そして、出来上がったのがオリーブの酢漬けであるオリーブのピクルスでした。
しかし、お酢につけると日持ちはするものの、オリーブの美しいグリーン色が失われてしまい、味も日本人の口には合わないものでした。そこで、浅漬けにしたところ大変好評で「フレッシュグリーンオリーブ」の名で販売を開始し、後の「新漬けオリーブ」となる島の名産のひとつとなったのです。

ショップの前に植えられたオリーブの木にもたくさんの実がついていた。
妻が買い求めたオリーブの苗木を岡山の畑に植えてみたのだが、果たしていつの日か実る日が来るのだろうか?
「井上誠耕園 らしく園」 小豆郡小豆島町蒲生甲61-4 電話:0879-75-1133 営業時間:9:00-17:00 定休日:無休 https://www.inoueseikoen.co.jp/rashiq/index.html
樹齢千年のオリーヴ大樹
オリーブつながりで言えば、「樹齢千年のオリーヴ」というのが小豆島にある。
巨樹好きの私としてはぜひ見に行かねばならない、と思って島の南西部に車を走らせた。

それは海を見下ろす丘の上にひっそりとあったが、私が想像していた神々しい大樹ではなかった。
近くに案内板が立てられている。
実は、このオリーブの木、もともとここに生えていたわけではないという。
2011年の記念日に合わせて、スペイン・アンダルシア地方からはるか10000kmの海を旅して、樹齢千年を超えるオリーブの樹がオリーヴの森にやってきました。
平和と繁栄を象徴するオリーヴは、「生命の樹」とも呼ばれています。
瀬戸内・小豆島からオリーヴの輪を日本中そして世界中に広めたい。樹齢千年のオリーヴ大樹は、その想いを象徴するシンボルツリーとして、小豆島ヘルシーランド株式会社「オリーヴの森」に植樹されました。
現地案内板より

ということで、この木はスペインから10年前に運ばれてここに植えられたのだということがわかった。
人間というのは勝手なもので、ずっとここにあったと言われるとありがたい気になるのに、他から運ばれたものと聞くといきなりどうでも良くなってしまう。
それでも、本当にこの木が樹齢千年を超えているのだとすると、それを移植すること、移植ができるという事実だけでもすごいことだと思ったりもする。
じっと、そこにいること。
植物の凄みは、時間に対する人間の常識を遥かに凌駕して悠然と存在していることである。

ちなみに、オリーブは初夏に小さな白い花を咲かせ、秋にたくさんの実をつけるのだそうだ。
そして3月15日が「オリーブの日」とされる。
1950年3月15日に昭和天皇が小豆島を訪問し、オリーブの種を手蒔きしたのが始まりだという。

「樹齢千年のオリーヴ」の脇には広々としたウッドデッキが作られていて、ここからボ〜ッと海を眺めながら1000年の時を感じるのもいいかもしれない。
「樹齢千年のオリーヴ大樹」 小豆郡土庄町甲2473 見学時間:9:00-17:00 無休 https://taijyu.shl-olive.co.jp/
小豆島の巨樹では、「宝生院のシンパク」と「誓願寺の大ソテツ」がオススメ!
世界一狭い海峡「土渕海峡」
小豆島に「世界一狭い海峡」という地味なギネス記録があるというので見に行ってみた。

どこにでもありそうな運河の上にアーチ状の構造物が作られて、「世界一狭い土渕海峡 ギネスブック認定」と書かれている。
まさに土庄の町のど真ん中、町役場の目の前である。

ということは、このコンクリートの護岸で囲まれた運河のようなものが土渕海峡ということになる。
現地の案内板には、こう書かれていた。
小豆島の西部に位置する土庄町の前島(土庄地区)と小豆島本島(渕崎地区)に挟まれた「土渕海峡」が、世界一狭い海峡として、1997年版ギネスブックに掲載されました。「土淵海峡」は、延長2500メートル、最大幅400メートル、最小幅9.93メートル(永代橋下)で、漁船やレジャーボートなどの小型船が航行する海峡です。
現地案内板より

ちゃんと探せば、世界にはもっと狭い海峡もあると思うのだが、ギネスブックは所詮申請したもの勝ち。
その意味では、この海峡をギネスに申請しようと思いついた小豆島の人は偉いと思う。
ただ残念ながら、この海峡には感動がない。
それでも私がわざわざやってきたように、知恵を絞れば観光スポットは作れるということを教えてくれる貴重な場所ではある。
さすがに、町役場でもらえるという「横断証明書」をもらおうという気にはならなかった。
「土淵海峡」 小豆郡土庄町甲559-2 https://www.town.tonosho.kagawa.jp/kanko/sightseeing/581.html
肥土山農村歌舞伎舞台
「渋い」ということでいえば、こちらは本物である。

小豆島の内陸部に入ると、すぐに山間の風景に変わり美しい棚田が広がるエリアもある。
戦国時代、豊臣秀吉によって棄教を命じられたキリシタン大名・高山右近や宣教師たちが、小豆島を治めていた小西行長にかくまわれこの地に潜伏したとも伝えられている。
そんな肥土山地区にちょっと素敵な場所がある。

小豆島農村歌舞伎を今に伝える国指定重要有形民俗文化財「肥土山の舞台」である。
正面の藁葺き屋根の家が舞台になっていて、舞台が見やすいようにスロープを使った桟敷席が設けられている。
「日本遺産」にも指定されていて、個人的には訪れて良かったと思える場所だった。

小豆島の農村歌舞伎は約300年前から始まり、島内で33カ所もの舞台が確認されていて日本一の密集度を誇ったとされる。
「肥土山の舞台」はその代表的なもので、花道や廻り舞台、せり上がりや奈落まで揃っている。

江戸時代、ため池の完成を祝って離宮八幡神社の境内で芝居をしたのが始まりで、毎年5月3日の例祭には神社奉納歌舞伎が上演される。
役者から義太夫、三味線、大道具、着付け、床山などすべてを肥土山の住民が自前で行っていて、奉納歌舞伎の運営肥土山の6地区が輪番制で担当するという。

今はひっそりとしているこの桟敷席に多くの人が詰めかけて、舞台を楽しむ光景は、世界各地で昔から営まれてきたエンターテインメントの原点を思わせる。
神への祈りと芝居は、良くも悪くもその時代時代の人々に生きるための教訓を与えてきたのだ。
誰もいない境内で自分の心と向き合う時間はとても気持ちがいい。
「肥土山農村歌舞伎舞台」 小豆郡土庄町肥土山甲2303 https://shodoshima.npnp.jp/spot/812/
富丘八幡神社
小豆島旅行の最後に駆け足で立ち寄ったのが土庄の高台の上に建てられた「富丘八幡神社」。
全国に8800もある八幡宮の一つであり、島内に点在する「小豆島五社八幡宮」のうち最初に建てられたものだ。
日本書紀に記されている応神天皇ゆかりの場所に建てられた神社なのだという。

神社に登る石段の入り口には、広場を取り囲むように石垣造りの桟敷がたくさん作られている。
「富丘八幡神社の桟敷」と呼ばれ、神社のお祭りを見物する目的で江戸時代から次々に作られた。

戦前には420面あまりあったそうで、お祭りの日、住民たちはこの桟敷に陣取り太鼓や神輿を楽しんだのだという。
土庄町指定の文化財として日本遺産にも登録されているが、特別面白いわけではない。

それよりも個人的に興味深かったのは、神社に上がる参道の途中に立てられていた「若潮の塔」と「陸軍船舶特幹生の像」だった。
この塔の由来はこうだ。
第二次世界大戦の末期、風雲急を告げる国難に殉ぜんとしてここ小豆島の陸軍船舶特別幹部候補生隊に率先志願した若人たちは昭和19年入隊の第一期生から翌年の第四期生まで八千余人、夜を日につぐ特別訓練を経た第一期生は海上挺進隊員として小型舟艇に爆雷を搭載し比島沖縄台湾方面の第一戦に出陣敵艦隊に肉迫攻撃を敢行その多くは護国の神と散華した。
15歳から20歳未満という候補生はけなげにも青春の生命を殉国の生命に、ペンを操舵に握りかえその猛訓練の血と汗を小島の土にはたまた瀬戸の潮に染めこの美わしき自然と風土の小豆島を第二のふるさととしたのである。
現地にある「若潮の塔由来記」より
「海の特攻」と呼ばれた海上挺進隊の幹部候補生を育成する部隊、通称「マルレ」が、戦時中この場所にあったのである。

塔の脇には錆びたエンジンが置かれていた。
陸軍海上挺進隊の特攻艇に搭載されていたもので、マニラ南方での米軍と戦闘で全滅、川底に沈んでいたこのエンジンを引き揚げて遺骨代わりに日本へ持ち帰ったものだという。

さらに参道を登っていくと、眼下に瀬戸内海の絶景が広がった。
今でこそ、のどかな瀬戸内海の島々も戦時中には軍の秘密基地がたくさん置かれたのだ。

この絶景を望む山頂に作られたのが、八幡神社である。
全国各地にある八幡宮同様、「武運の神」としてすべての武家から崇敬を集めた「八幡神」を祭神とし、応神天皇とその母である神功皇后をお祀りしているのだ。
日本書紀には、応神天皇が吉備への行幸の途上、小豆島に立ち寄ったことが記されている。
小豆島は、母である神功皇后が「三韓征伐」を行った帰路、船が遭難し流れ着いたとされる場所で、応神天皇は母の足跡を辿って島を一周したとされる。

そういう関係で皇室との関係も深く、神社には平成の天皇一家の肖像が飾られていた。
朝鮮半島を征伐したとされる神功皇后は戦前までは教科書で教えられる伝説の女帝であり、多くの兵士たちが武運を祈ってこの神社にもお参りしたのだろう。

そうした戦前の記憶について、詳しく説明する案内板などはない。
それでも、戦争の歴史に興味を持つ私のような人間にとっては、小豆島に存在する5つの八幡神社や戦時中にあった軍事基地について、もう少し知りたいという欲求を抱いた。
「富丘八幡神社」 小豆郡土庄町淵崎甲2421 https://wakuwaku-shodoshima.jp/51
1件のコメント 追加