<きちたび>1泊2日北海道胆振の旅⑥ 白老町に完成した国立施設「ウポポイ」でアイヌの歴史に触れる

今回の北海道旅行の目的、それは紛れもなく「ウポポイ」を訪れることだった。

「ウポポイ 民族共生象徴空間」は、コロナ禍の今年7月12日、北海道白老町にオープンしたばかりの国立の文化施設である。

「ウポポイ」とは、アイヌ語で「(おおぜいで)歌うこと」を意味するそうだ。

公式サイトには、こんな説明が書かれている。

『アイヌの歴史・文化を学び伝えるナショナルセンターとして、長い歴史と自然の中で培われてきたアイヌ文化をさまざまな角度から伝承・共有するとともに、人々が互いに尊重し共生する社会のシンボルとして、また、国内外、世代を問わず、アイヌの世界観、自然観等を学ぶことができるよう、必要な機能を備えた空間です。』

要するに、アイヌについて知り、学ぶことを目的とした施設ということだ。

入館整理券

「ウポポイ」がある白老町までは、登別温泉からレンタカーで行った。

私は寄り道をしたが、直行すれば車で30分ほどの距離だ。

新千歳空港からも高速道路を利用して40分ほどで行くことができる。

エントランスの前に置かれた「博物館の予約状況」の案内板を見ると、平日にも関わらずこの日も午後4時以前は予約でいっぱいという。

オープンから間がないということもあり、コロナの影響もあって予想外に混雑しているのだ。

「ウポポイ」の中核施設である「国立アイヌ民族博物館」に行こうとする人は、あらかじめ博物館の公式サイトで「入館整理券」を入手して、それを軸にして旅行の計画を立てた方がいい。

私も新千歳に着いたその足でまっすぐ「ウポポイ」に行く予定だったが、その日の整理券が手に入れられず、やむなく翌朝に変更した経緯があった。

メインゲートの手前には、コンクリート製の壁が迷路のように設けられた「いざないの回廊」が。

その表面には、アイヌの人たちが暮らした時代の北海道の自然が描かれている。

こちらが「ウポポイ」のエントランス棟、アイヌ語で「ホㇱキアン チセ」と呼ばれる。

このように、「ウポポイ」では私たちが聴き慣れないアイヌ語が意識的に使われている。

「ウポポイ」の入場料は、大人1200円、高校生600円で、中学生以下は無料だ。

「GO TO トラベルクーポン」も使えるので、私はクーポン1枚+現金200円でチケットを買った。

ゲートの手前には、「ウポポイ」の土産を売るショップやレストランもあり、アイヌ 料理なども味わえるようだ。

ポロト湖

ゲートを抜けると、「ポロト湖」を中心に広大な敷地が広がっていた。

「ポロト」はアイヌ語で「大きい・湖」。

西側にある「ポント」=「小さい・湖」と対をなしている。

湖の周辺では、縄文時代にまで遡る集落の跡が発見されており、アイヌ にもゆかりの深いこの湖畔に「ウポポイ」が設けられたのだ。

この広大な敷地全体が「国立民族共生公園」と呼ばれ、自然を活かした公園の中に様々な施設が点在している。

1日のうちにたくさんのプログラムが行われているが、事前に整理券ももらう必要があるイベントも多いので、入り口に置かれたタイムスケジュールをまず確認してから「ウポポイ」での滞在を効率的に楽しみたい。

国立アイヌ民族博物館

中でもメインの施設となるのが、こちらの「国立アイヌ民族博物館」だ。

私が「ウポポイ」に来た目的は、まさしくこの博物館を見学するためである。

私は午前10時からの整理券をネットで入手していたので、入場後最初に博物館から見て回った。

博物館の入り口では整理券を見せただけで、そのまま2階の展示室に上がるように指示された。

大きな施設のわりに、展示スペースは「基本展示室 イコロ トゥンプ」と「特別展示室 シサク イコロ トゥンプ」の2部屋に集約されている。

平日ということもあり、学校の研修旅行の一環と思われる生徒たちの姿が目立った。

アイヌについて本当に無知な私には、ほとんどが初めて目にするものばかり。

それでは、博物館の展示から、私が興味を持ったところだけ簡単に書き残しておくことにする。

アイヌの衣服

「基本展示室」に入って、真っ先に目についたのは衣服だった。

アイヌの人たちが纏う独特の衣服はテレビなどでもよく目にするものだが、この服は樹皮でできているという。

『材料は主にオヒョウの樹皮が用いられます。樹皮を剥ぎ、糸になるよう加工し、撚ってから織機で反物にします。それを衣服に仕立て、模様を入れます。一着作るのに、とても手間と時間のかかる衣服で、日常着だけではなく儀礼のときにも着用しました。』

こちらの衣服はイラクサという草の茎から作られたもので、樹皮で作ったものより色が白いのが特徴だという。

しかし時代が下り、和人との接触が増えるに従い、陣羽織など和人から入手した衣服を身に付けるようになったそうだ。

カムイ

「基本展示室」で圧倒的な存在感を示すのがこちらのヒグマを繋いだ高い杭。

説明書には・・・

『樺太アイヌが霊送り儀礼でクマをつなぐ太い杭。イナウの形につくり、祭場でクマを守るカムイとして、杭にも祈りを捧げます。』

これだけ読んでも意味がわからない。

アイヌ文化を理解する上で、極めて重要な「カムイ」と「イナウ」。

まずは「カムイ」から学んでいこう。

基本展示室の入り口を入ってすぐ左の壁面で流れている「カムイ」の関するアニメーション。

ここから展示を見始めると理解しやすいだろう。

「カムイ」とは何か?

博物館の説明文によれば・・・

『人間にとって重要な働きをするもの、強い影響があるものをカムイと呼びます。カムイは、「神」と和訳されることが多いのですが、天地を支配する唯一の存在でもなければ、全知全能なわけでもありません。カムイにも喜怒哀楽といった感情があり、カムイの世界では人間と同じ姿で生活しています。そして、人間の世界を訪れるとき、カムイはそれぞれ動植物や自然現象などに姿を変えます。また、カムイは恵みをもたらすだけではなく、悪いこともしたり、流行病や暴風などをもたらす恐ろしい存在でもあります。善いカムイといえども悪いことを行えばカムイとして尊敬されず、悪いカムイといえども善いことを行えば、尊敬され祭られます。』

どうだろう?

比較的、日本人の持つ八百万の神に近い人間味のある存在だが、西洋の妖精のようでもある。

私の拙い理解で言えば、たとえばクマのカムイやキツネのカムイ、花のカムイや樹木のカムイ、さらには山のカムイや雷のカムイなど様々なカムイが存在するが、カムイたちは日頃は自分たち世界に人間と同じ姿でいて、常に人間=アイヌのことを気にかけて暮らしている。

アイヌが食料に困っていると、クマのカムイがクマの姿となって、鳥のカムイが鳥の姿となって人間界にやってくる。

アイヌは狩りをして、そうしたカムイを我が家に招き丁重に祭ることによって、アイヌは食糧を得ることができ、カムイの方も善いことをしたということで評価が上がるのだと考える。

近世まで狩猟採集の生活を営んできたアイヌの人たちは、こうしてアイヌとカムイの共存共栄の関係を信じ、カムイに感謝しながら暮らしてきたということのようなのだ。

『カムイはいつでも私たちアイヌを見守り、あたたかな光をさすものです。そのため、私たちはあらゆるカムイに感謝の心をもち、敬い謹みながら祈りを捧げます。万が一、私たちの祈りや願いをカムイが聞き入れなかった場合には、威圧の行動をすることでカムイに抗議をすることもあったと伝えられています。私たちはカムイと共に暮らしています。』

私たちには難解だが、アイヌを知ることは「カムイ」を理解することのようである。

イナウ

アイヌの人たちにとって、「カムイ」と共存する上で重要な役目を担う道具がこの「イナウ」である。

説明文によれば・・・

『イナウは、人間からカムイへの贈物、祈り詞を届ける使者、人間のくらしを見守るなどの役割があり、さまざまな形につくられます。』

本当にいろんな形の「イナウ」があり、中にはとてもユーモラスなものもある。

『木の表面を刃物で削り、薄い削掛をたくさんつくりだした祭具です。捧げるカムイや用途に応じて、その素材や形状もさまざまです。』

「イナウ」の使い方もさまざまなようで、こんな写真も展示の中にあった。

「儀礼の最後にカムイにイナウを捧げる」との説明が添えられている。

また、祭壇にもたくさんの「イナウ」が用いられた。

『祭壇では、いろいろなカムイにイナウが捧げられます。イナウの種類や本数などは、イナウを捧げるカムイによって違いがあります。祭壇は神窓の外に設置されます。それは家の東側だったり、川の上流を向いていたりと、地域によって違います。神窓がある付近は、カムイが通るところで、神聖な場所とされています。』

さらに、先ほどのクマを繋いだ杭の先端にも「イナウ」が取り付けられていた。

『枝分かれしたトドマツやエゾマツを素材とし、枝の先端にコケモモで着色したイナウを結びます。高い方のイナウが男性、もう一方が女性だといいます。』

アイヌとカムイの関係、それをつなぐイナウ。

ちょっと不思議で、魅力的な世界観を感じる。

アイヌ語

「基本展示室」の中で、比較的理解しやすく、「へえ〜」と感心するのがアイヌ語に関する展示である。

実際に、画面の中の男性がしゃべるアイヌ語を、日本語と英語の字幕付きで聞くこともでき、アイヌ語が日本語とは全く違う言葉であることを実感できる。

たとえば、こちらの地図。

赤丸がついている場所はすべて「シレトコ」と呼ばれていた。

私たちにとって「シレトコ」と言えば知床半島をイメージするが、実は「シレトコ」とはアイヌ語で「地の先端」という意味で、陸地が突き出たような地形には「シレトコ」と名付けられたのだという。

このように、北海道の地名のほとんどはアイヌ語から来たものが多い。

「北の国から」の舞台である富良野は、「臭いを持つところ」という意味。

北海道の地名に多い、登別、紋別、士別などの「別」や、稚内、神恵内、幌加内などの「内」は、それぞれアイヌ語では「ペツ」「ナイ」と発音され共に「川」を意味する地名だったのだ。

アイヌ語を知れば、北海道の地名にますます興味が持てるようになる。

アイヌの歴史

私がこの博物館を訪れたいと思った最大の理由は、アイヌの歴史、中でも和人による侵略と同化のプロセスを知りたいと思ったことだったが、広い展示スペースの中で、歴史に関する展示はわずかにこの一画だけであった。

でも丹念に見ていくと、おおよその流れは理解できる。

まず最初の説明文はこうだ。

『3万年前、北海道にやって来た人類は、石器で大型動物を狩っていました。9000年前には土器が広まり、植物や海産物を利用するなどして、定住も本格化しました。2900〜2200年前ごろから本州北部より南では稲作が始まり、北海道では狩猟採集が続けられました。こうして、私たちアイヌの先祖は鉄器や和製品などを交易で手に入れ、独自の文化や社会をつくり上げたのです。』

文字を持たなかったアイヌの歴史は、出土品や日本や周辺国の歴史資料から類推するしかない。

順を追って見ていく見ていくが、細かなことはほとんどわかっていないのが実態だ。

3万年前 人類の進出(旧石器文化)

『移動しながら生活していた人類は、地球の寒冷化で北海道が陸続きになると、マンモスなどの大型動物とともに、大陸から樺太を通ってやってきました。24000年前から、石器と骨角牙器を巧みに組み合わせた狩猟具を使う文化が、北東アジアに広く出現しました。』

9000年前 定住化と縄文海進(縄文文化)

『温暖化により大陸と離れた北海道では、9000年前に定住生活が本格化しました。7000年前、海水面の上昇により内湾が発達し(縄文海進)、集落の周辺には大規模な貝塚が残されました。また温暖化が最盛期をむかえ、森林が拡大し、植物資源の利用がさらに加速しました。』

縄文土器の展示には、こんな説明も添えられていた。

『北海道では、14000年前に土器が出現し、9000年前から土器の利用が広く進み、そして東の文化と西の文化に大きく分かれていきました。以後、本州や樺太の文化の影響も受け、変化を繰り返しながら、東と西の文化圏は維持されていきます。』

4500年前 大規模なモニュメントの登場(縄文文化)

『石や土を使ったモニュメント(環状列石、周堤墓、盛土遺構)が北海道で作られるようになりました。それらは墓域や儀礼の場として機能していたと考えられ、縄文文化の中でも規模の大きな構築物です。』

2400年前 狩猟採集と稲作農耕(続縄文文化)

『本州では稲作による農耕が広まっていく一方、北海道や樺太、千島では、これまでつちかった知識や経験を活かし、自然環境に適応しながら、狩猟採集が続けられました。新しい生業を取り入れるよりも、従来の生業をさらに発展させようとしたと考えられます。』

『北海道やその周辺では、海洋での海獣狩猟や大型魚の捕獲、そして河川でのサケ・マス漁が以前より盛んになりました。生活の拠点が、河川沿いや海岸近くにつくられることが多くなりました。』

5世紀 海洋適応した異文化集団の展開(オホーツク文化)

『これまでの北海道の文化集団とは異なる文化(オホーツク文化)集団が、オホーツク海沿岸地域を中心に進出しました。海獣狩猟を行う一方、クマの儀礼も存在しました。交易により、アムール川中流域の大陸の文化から、青銅製装飾品も入手していました。』

7世紀 鉄器の普及(擦文文化)

『3〜4世紀頃から増えはじめた鉄器は、7世紀頃、本州との交易を背景に、一般的に使用されるようになりました。鉄製の小刀や斧などの普及により、木材の伐採・加工技術が格段に向上しました。また、刀剣類や鉄鏃などの武具が墓に副葬されました。』

擦文文化と呼ばれるこの時代は、南の和人の影響が徐々に強まる時代でもある。

8世紀 かまどの出現(擦文文化)

『 5世紀頃に朝鮮半島から日本列島に伝わったかまどは、東日本に広まった雑穀農耕とともに、北海道へ伝わってきました。北海道全域に広がりを見せたかまどをもつ住居は、11世紀頃、樺太南部にも広がります。』

『ヒエ類は以前からありましたが、この時期、アワ類、キビ類などの栽培が定着し、狩猟採集を基盤とした生業に農耕が加わりました。集落は、畑をつくるのに有利な川沿いの段丘上につくられました。』

9世紀 舟の発展(擦文文化)

『この時代には舷側板などの出土から、丸木舟を船底とし、その側面に板を縄で綴じる舟が既に存在していたと考えられます。河川や沿岸での交通・運搬手段として機能していた舟が、外海へ積極的に渡海できるようになり、海路の交通の整備が進みました。』

こうして船を手に入れたアイヌは、単に狩猟採集の生活をしていたのではなく、周辺の諸民族と活発に交易をし必要物資を手に入れていたと考えられている。

この地図は、19世紀の民族分布。

ロシア帝国が極東に進出する前には、多くの北方民族が割拠していたことがわかる。

そして、19世紀におけるアイヌの交易ルートが示された地図がこちら。

日本やシベリアはもちろん、中国やアラスカまでつなぐ広範囲な交易が行われていたのだ。

そうして周辺の諸民族と共存していたアイヌの世界を侵食していったのが和人、すなわち日本人だった。

アイヌと和人の関係についての展示は、日本書紀での「蝦夷」の記述から始まる。

『「日本書紀」「続日本紀」などにみられる「蝦夷(エミシ)」は、本来「勇猛な人」を意味する日本語でしたが、近畿地方を中心とする古代国家が成立していくと、次第に東北地方の異民族を意味する用語に変化しました。この時期の「エミシ」はあくまで政治的な目的でつくられたイメージであり、アイヌ民族との関係ははっきりしていません。12世記頃になると、新たに「エゾ」という呼称が普及するようになります。』

和人が本格的に北海道に進出するのは鎌倉時代だと考えられているようだ。

13世記 津軽安藤氏と和人勢力の北上と拡大

『平泉の奥州藤原氏が滅んだ後、津軽地方で鎌倉幕府に仕える安藤氏が北海道南部への流刑や和人の管理を担いました。北海道で交易が盛んになると、和人を支配する安藤氏が勢力を強めました。和人との交易の拡大に従い、その居住範囲も徐々に広がり、さまざまな抗争が起きるようになりました。』

和人とアイヌの間で起きた有名な抗争が「コシャマインの戦い」である。

1456年 コシャマインの戦い

『1456年、志濃里(函館)付近で、マキリ(小刀)の出来を巡る言い争いの結果、和人の鍛冶屋がアイヌの青年を刺殺しました。このため、翌年、コシャマイン率いる武装したアイヌ勢が多くの和人の館を攻め落としました。しかし、戦いはコシャマインが殺されて集結しました。』

この戦いの舞台は、あくまで函館周辺。

当時はまだ、和人の進出が渡島半島の南部に限られていたことがうかがえる。

しかし、この「コシャマインの戦い」で活躍した蠣崎氏が台頭し、戦国時代には豊臣秀吉や徳川家康に接近、さらに松前氏と名前を変え北海道南部の支配者となる。

そして、徳川家康が松前氏に与えた「黒印状」が、アイヌと和人の関係を劇的に変えたのだ。

1604年 松前氏による対和人交易独占

『コシャマインの戦い以後も、戦乱が続きましたが、16世紀中頃にアイヌのリーダーが蠣崎氏と講和を結び、戦いが終結します。条件に交易利益の分配があったため、交易船は松前城下に集中しました。松前(旧蠣崎)氏が、徳川家康から黒印状を拝領した以降は、松前藩以外の和人と交易ができなくなりました。』

黒印状を手に入れた松前藩は着々と北海道に勢力圏を広げていく。

『松前藩により、17世紀中頃には和人の居住地との境に関所が置かれ、往来は厳しくなりました。また、藩によって場所(商場)という交易場が決められ、そこに武士が派遣する船以外とは交易できなくなりました。18世紀以降、交易相手は、藩などに運上金を払って場所を請け負う商人へと変わりました。』

それまで自由に交易相手を選ぶことができたアイヌにとって、松前藩による独占は大きな不利益となった。

そしてついにアイヌ史上最大の武装蜂起が発生する。

1669年 シャクシャインの戦い

『シベチャリ(静内)のシャクシャイン率いるアイヌ勢が、各地で商船を襲うなど、松前藩に対して大きな戦いを起こしました。背景は交易の交換比率の改悪などといわれています。シャクシャインが和睦の席で殺されて、戦いは終わり、その後、和人の優位が定着しました。』

「コシャマインの戦い」から200年後に起きた「シャクシャインの戦い」では、北海道東部のアイヌも戦列に加わった。

18世紀 交易から雇用へ

『18世紀に入ると、商人が交易を請け負うようになりました。彼らは、藩主や知行主への運上金を負担するため、場所での利益拡大を図るようになり、交易だけでなく、自ら漁場を経営するようになりました。そのため、多くのアイヌが商人に雇われ漁業に従事させられる労働力となっていきました。』

こうした中で、アイヌによる最後の蜂起が起きた。

1789年 クナシリ・メナシの戦い

『場所請負人から、過酷な労働を強いられたり、脅迫を受けたため、クナシリやメナシで和人に対して蜂起し、運上屋、商船などを次々に襲いました。首謀者らは長老達の説得に応じて降伏しましたが、鎮圧に来た松前藩に処刑され、戦いは終わりました。』

この武装蜂起の舞台となったのは、北海道の東端、さらに国後島にまで和人の支配が及んだことを物語っている。

こうして、北海道は完全に松前藩の勢力下に置かれ、アイヌは日本社会に徐々に組み込まれていく。

19世紀 幕府による和風下&アイヌ人口の減少

『1799年、江戸幕府により風俗習慣の和風化が進められましたが、強い不満を懸念して断念されました。1856年に幕府の指示により「野蛮人」という意味の「蝦夷」から、「土着の人」という意味の「土人」と呼ばれるようになりました。髪型や名前も和人化が奨励されましたが、徹底されませんでした。』

しかし、和風化以上にアイヌにダメージを与えたのは、和人が持ち込んだ病気だった。

『1821年に再び松前藩が交易を独占した後、出稼ぎ和人の増加により、和人との接触の機会が増えたため、新たに天然痘などの伝染病が流行しました。このようなときには山中に避難する習慣がありましたが、労働力減少を嫌った商人により、漁場労働を強要されることもあり、人口が急激に減りました。』

そしてこの時代になると、間宮林蔵や松浦武四郎らによって北海道から樺太、千島列島への調査が活発化し、精密な地図が作られた。

しかし、明治新政府のアイヌ政策は、江戸時代とは比較にならない過酷なもので、徹底した同化政策が断行されていった。

さらに、北からはロシアが南下してきた、アイヌの勢力圏だった北海道・樺太・千島は日露の勢力争いに巻き込まれていったのだ。

1869年 明治政府が北海道全体を日本領に編入

『南から和人、北からロシア人がやって来ると、19世紀後半にはアイヌの住む土地に日本とロシアの国境ができました。樺太や千島ではアイヌが北海道へ強制移住をさせられ、北海道では、和人がアイヌの住む場所を移動させました。いくつかの習慣が禁止され、サケ・マス類やシカなどの動物の捕獲も許されず、アイヌの生活は大きな打撃を受けました。』

明治2年に北海道を編入した明治政府は、開拓使を設置して本格的な統治を開始した。

そして明治4年(1871)には、開拓使が伝統的習慣を禁止し、日本語の習得を奨励、戸籍法を施行してこれをアイヌ民族にも適用したのだ。

『1871年、開拓使は農業を勧め、死者のために家を焼いてもたせることや、女性の刺青、男性の耳飾などの習慣を禁じ、日本語や文字の習得を勧めました。また、1877年の北海道地券発行条例では「山林川沢原野」を国有地としたため、アイヌ民族は薪の確保にも困るなど、生活に大きな変化が続きました。』

明治政府はさらに矢継ぎ早の同化政策を実行した。

1873年 ウライ(簗)によるサケ漁の禁止

『開拓使は、河川でウライ(簗)などでサケ・マス類をとることや、毒矢を使った仕掛け弓でシカやクマをとることを禁じました。さらに資源保護などを理由に、サケ・マス類やシカの捕獲そのものが禁止され、アイヌ民族の生活は大きな影響を受けます。その中で人びとは、猟銃の使い方を身につけるなど、時代に立ち向かっていきました。』

太古の昔より行われてきたアイヌの伝統を一切無視して近代化を進めた明治政府の姿は、琉球王国を滅亡させた「琉球処分」の苛烈さと同じである。

天皇を頂点とした大日本帝国はこのようにして築かれ、日本人の中に「単一民族」の幻想が植え付けられたのだ。

1875年 樺太千島交換条約による樺太アイヌの強制移住

1878年 アイヌ民族の呼称を「旧土人」に統一

1884年 千島アイヌが色丹島に強制移住

そして、北海道の広大な土地を目指して多くの和人が移住し、北海道は瞬く間に和人の土地に変貌した。

1899年 北海道旧土人保護法

『アイヌ学校の設置や希望者への農地の下付(15000坪以内、相続以外での譲渡禁止、未開墾の場合没収など)が主な内容。和人を対象とした殖民地選定、区画事業を優先したため、農業に不向きな土地が多く、また和人よりも面積が狭いのが実態でした。』

1904年に日露戦争が勃発すると63名のアイヌ が出征し、日本の勝利で南樺太が日本領となると8カ所に樺太アイヌが移り住むなど激変する国際情勢の中でアイヌの運命も大きく揺り動かされた。

こうした激動の中で、アイヌ語も絶滅の危機を迎えたのだ。

『1871年以来、政府の方針により日本語が強要され、日常生活においてアイヌ語を使用する機会が急速に減りました。また和人が圧倒的多数者となったため、20世紀初頭にはアイヌ語を子どもに教えない状況も生まれました。母語であるアイヌ語が受け継がれないことに危機感を持ち、アイヌ語を書き残す人も現れました。』

1925年 裕仁皇太子が樺太に行啓

大正時代には、アイヌ記念館が開設されたり、アイヌの民族団体や雑誌ができるなどの動きもあったが、昭和に入ると日本人との一体化が進むと同時に、民族差別という新たな問題も浮上した。

1937年 北海道旧土人保護法改正

『給与地の譲渡制限が緩和され、アイヌ学校が廃止されました。和人の児童と区別されたアイヌ学校は、農業実習などもあり、和人の小学校より簡単な内容だったため是正するよう声が高まっていたのです。和人との共学になると民族差別による新たな問題に直面しました。』

こうした民族差別の問題は、戦後も長くアイヌの人たちを苦しめたのだ。

1945年 ソ連軍が樺太、千島、色丹、歯舞を占領

『アジア・太平洋戦争が終わる1945(昭和20)年以降には、ほとんどの樺太や千島のアイヌが北海道に移住することになりました。北海道や本州で暮らすことになった私たちアイヌは、和人からの差別に抗議し、貧しい暮らしを良くするため、互いに手をとり合っていきました。』

1946年 北海道アイヌ協会設立

アイヌの民族団体として設立された北海道アイヌ協会だが、1961年には「北海道ウタリ協会」に名称を変更した。

『生活が苦しくなるとともに、多数者になった和人によって「土人」や「アイヌ」という言葉が差別的に使われるようになりました。そのため、人間を意味する「アイヌ」にかわり、北海道では親戚や仲間を意味する「ウタリ」が、樺太では人間を意味する「エンチウ」が自称のように使われました。』

こうした戦後の差別の末、1994年には萱野茂さんがアイヌ民族初の国会議員となり、1997年にようやく北海道旧土人保護法が廃止された。

さらに、国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されたのを受けて翌年の2008年、日本の国会でも「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が採択された。

苦難の歴史を経て、アイヌはようやく日本人とは違う先住民として正式に認知され、「ウタリ」と名を変えていた協会も2009年に「北海道アイヌ協会」に名称を戻したのだ。

年号が令和に改まった2019年、アイヌ試作推進法(アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律)が公布された。

その法律の第一条には、こう書かれている。

第一条 この法律は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるアイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌ文化(以下「アイヌの伝統等」という。)が置かれている状況並びに近年における先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、アイヌ施策の推進に関し、基本理念、国等の責務、政府による基本方針の策定、民族共生象徴空間構成施設の管理に関する措置、市町村(特別区を含む。以下同じ。)によるアイヌ施策推進地域計画の作成及びその内閣総理大臣による認定、当該認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、アイヌ政策推進本部の設置等について定めることにより、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会の実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする。

この法律に沿って建設されたのが、この「ウポポイ」なのだ。

展示室を出ると、大きな窓からポロト湖を中心とした「ウポポイ」の全景を見渡すことができる。

ベンチに座ってしばらくその風景を眺めていただきたい。

この土地は、太古の昔からアイヌが暮らした土地だったのだ。

シアター

そして国立アイヌ民族博物館を訪れたら絶対に見て欲しいのは、1階にあるシアターだ。

ここで上映されている映像は、日本人がアイヌに何をしてきたのかという歴史を正面から描いている。

「自虐的だ」と批判する人がいるかもしれないが、子どもたちにぜひ見てもらい、何かを感じて帰ってもらえたらいいと思う。

「ウポポイ」の正式名称が、「民族共生象徴空間」という意味不明な名前なのは、歴史に対する日本人の負い目があるからではないかと私は感じる。

日本人の先祖がこの土地で行ったのは、「民族共生」とはほと遠い力による文化破壊だった。

そうした歴史は日本人に限らない。

アメリカでも、オーストラリアでも、ニュージーランドでも、先住民族はひどい目にあった。

しかし、重要なのは、そうした負の歴史を葬り去らずにこうした博物館で多くの人に知ってもらう努力をすることだ。

負の歴史を葬り去ろうとするのなら、中国や北朝鮮のことを批判できなくなるだろう。

ミュージアムショップ

博物館の1階には「ミュージアムショップ」も併設されている。

アイヌ文様をモチーフにした「ウポポイオリジナル商品」もいろいろ揃っているので、ぜひ覗いでみることをお勧めする。

私も「GO TO クーポン」を使って、手ぬぐいと通帳入れのポーチを購入した。

国立民族共生空間

博物館を出た後は、湖畔に広がる公園を自由に散策しよう。

この敷地全体を「国立民族共生公園」と呼ぶようで、所々に建物が点在している。

私が訪れた施設を順に説明したい。

まず私が向かったのは、湖畔に立つ数軒の茅葺の住居群だった。

伝統的コタン

アイヌの集落は「コタン」と呼ばれる。

『海沿いや川沿いに、一戸〜数戸あるいは十数戸からなるコタン(集落)をつくり、問題が起こったときには、村長が解決しました。世界の大多数の民族がそうであったように、アイヌ民族は国家をもつことはありませんでしたが、各地に有力な村長がいました。コタン同士が資源を取り合うことがないよう、狩りや漁をする場所は、コタンごとに決まっていました。』

こうしたコタンを再現したのが、この住居群である。

一番手前に建っている建物は、実物大に再現されたアイヌの住居で「チセ」と呼ばれる。

説明書によると・・・

『「家屋」のことをアイヌ語で「チセ」と言います。伝統的なチセは、屋根や壁の素材にカヤやササ、木の皮など、その地域で入手しやすいものを使います。柱や桁、梁、垂木、茅押さえなどは、腐れにくく長もちする木で、素性のいい真っ直ぐなものを選びます。チセの建築は柱建て等の骨組みから始まり、屋根や壁の茅葺き、囲炉裏や火棚などの内装を完成します。チセの内部は、長方形の一間になっています。チセのまわりには、祭壇や子熊を飼育する檻、食料を貯蔵する倉などをつくりました。』

その奥には、内部が見学できる「ポロチセ」と呼ばれる大型の建物が2棟あった。

スタッフの話だと、これはあくまで見学用で、これほど大きなチセは実際には存在しないとのことだった。

その代わり、内部の作りは実際のチセを忠実に再現しているので、サイズは一回り小さいながら実物もほぼ同じ作りだそうだ。

長方形の一間で、中央に囲炉裏があって、左手にこの家の主人と奥さんが座り、右手に子どもたち、またはお客さんが座るのが決まりだという。

部屋の一番奥には、「神窓」がある。

『伝統的なチセにはカムイが出入りする神聖な神窓があり、儀礼のときだけ使われます。通常、この窓の外から内部をのぞくことは禁止されています。』

神窓の周囲の壁は、装飾を施したござで飾られている。

『ござはさまざまな用途があります。敷物として使うだけでなく、チセ内の壁にはり巡らせたり、屋外で穀物などを干すときにも使われます。赤や黒の布などを編み込んで模様を施したものもあり、儀礼の時など神聖な場所を整えるときに使用されます。』

神窓の近くのござの貼られた場所に置かれているのは、この家の家財道具である。

カムイアイズ

次に入ったのは、こちらの小さな建物「体験学習館別館」。

こちらの施設では、「カムイアイズ」というプログラムが行われていて、ちょうど始まるというので、見てみることにした。

部屋に入ると、一人用の小さなドーム型映像装置が並んでいた。

コンテンツは、鳥やキツネの視線で北海道の大地をVR風に体感するというもので、自分がカムイになったような体験ができるということらしい。

私自身、こうした展示映像の仕事もやっていたので、その苦労はよくわかるが、さほど良い出来とは思えなかった。

ポン劇場

広場に張られた大型テントでは、アイヌ語の人形劇が行われていた。

「ポン劇場」というプログラムだ。

女子大生のような若い女性スタッフ2人で行われるこの人形劇。

アイヌ語と日本語を組み合わせて物語を伝えていくのがミソで、右側の女性が奏でるアイヌの伝統楽器の音色も聞くことができる。

学園祭のようなちょっとチープな舞台だが、意外に面白くアイヌ語に接せられるので悪くないと思う。

カムイユカラ

私が最後に訪れたのは、「体験交流ホール」という名前のこちらの施設。

ここは、「ウポポイ」の中でもメインとなるイベント会場である。

メインイベントは、アイヌの「伝統芸能上演」。

『ユネスコ無形文化遺産に登録されている「アイヌ 古式舞踊」やユカラ(英雄叙事詩)などの口承文芸など、アイヌの伝統芸能を上演します。』

要するに、舞台にアイヌの人たちが登場し、目の前で伝統芸能を披露してくれるショーである。

しかし、私は時間がうまく合わず、もう一つのプログラムを見ることにした。

「カムイ ユカラ」という短編映像の上映なのだが、これが予想外に良かった。

アイヌの間で伝承されてきた物語を、アニメーションで映像化したもので2本立てとなっていた。

1本目は、「カムイを射止めた男の子」というお話。

子供たちの前に大きな鳥が現れ、子供たちが争ってその鳥を射落とそうとするがなかなか矢が当たらない。

しかし、その鳥のカムイは、運動神経が悪くいつも虐められていた男の子の心が美しいことを見抜き、その子の矢に当たることを選ぶ。

その男の子は鳥を自宅で丁重に祀り、やがて立派な猟師に成長した青年を鳥のカムイがずっと応援するというお話だ。

もう一本は、「キツネに捕まった日の神」という物語。

空に輝き常にアイヌたちに尊敬されていた太陽に、悪いキツネが嫉妬し、太陽のカムイの子供を誘拐する。

悲しんだ太陽はずっと姿を消して地上には雨ばかりが降る。

悪いキツネは太陽の子供に問題を出し、間違ったら殺すという罠を掛けるが、心優しいキツネの末娘が太陽の子供を助け、太陽にとって変わろうとするキツネの野望を打ち砕くというストーリーである。

どの民族にもありそうな昔話だが、人間的な「カムイ」という存在が不思議な世界観を漂わせる。

伝統芸能もいいかもしれないが、個人的にはこの短編映像の方で良かったと感じた。

アイヌの叙事詩のことを「ユーカラ」というのは知っていたが、発音通りに表記すると「ユカラ」で「ラ」が小文字になるというのも今回初めて知った。

アイヌに興味がなければ、決して面白い施設ではないかもしれない。

しかし、一人でも多くの日本人が「ウポポイ」を訪れ、アイヌの歴史や文化に触れることは大切だと強く感じた。

それほど私たち日本人は、先住民族であるアイヌのことをほとんど知らないのだから・・・。

「ウポポイ 民族共生象徴空間」
開園時間:【11月1日〜3月31日】 9:00〜17:00
休館日:月曜
https://ainu-upopoy.jp/

<きちたび>1泊2日北海道胆振の旅

①室蘭カレーラーメンを食べに「味の大王 室蘭本店」へ

②「鉄の町」室蘭の絶景スポットを巡る

③登別温泉の老舗旅館「第一滝本館」に泊まる

④地獄谷から大湯沼へ登別温泉を歩く

⑤新千歳空港「ラーメン道場」で味わう「えびそば一幻」

⑥白老町に完成した国立施設「ウポポイ」でアイヌの歴史に触れる

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