<きちたび>沖縄3泊4日の旅④  「非武の島」琉球を「基地の島」沖縄に変えたのは誰か 

今回、2月に沖縄に行ってみようと思ったには理由がある。

中国や韓国への旅で旧日本軍の「加害」の跡をたどるにあたり、日本の「被害」の跡も見ておかなければと思ったためだ。その場所として選んだのが、「国内唯一」の地上戦の舞台となった沖縄だった。

しかし、沖縄の歴史について少し知ろうとすると、そこにあったのは日本の「被害」と言うよりも、日本による「加害」の痕跡だった。

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那覇市街から車で少し走ると「旧海軍司令部壕」がある。

琉球王朝時代には中国や薩摩からの船の入港を知らせる「火番森(ヒバンムイ)」が置かれた小高い丘だ。第二次大戦末期、日本海軍の司令部壕がこの丘の地下に掘られた。

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昭和19年、日本海軍設営隊によって掘られた司令部壕は450mあった。

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重要な軍事拠点だった小緑飛行場の防衛を目的にこの地に築かれた地下壕は、最高の軍事機密とされ、周辺の防空壕建設のため住民が大量に動員されたのとは違い、兵士3000名のみで掘られた。

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暗号室や作戦室、幕僚室など、いくつかの部屋が坑道でつながれている。

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暗号室はそれなりの広さがある。

司令部壕の建設は敗戦が濃厚となった昭和19年8月に着工、沖縄が大空襲にさらされた10月10日の十・十空襲の後工事が本格化し12月には完成した。

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戦闘が始まると、米軍の艦砲射撃に耐え持久戦を続けるため、この地下陣地に4000人余りの兵士が収容されていた。

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そして司令官室。

この部屋で大田實司令官が拳銃で自決した。

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司令官室には大田司令官の辞世の句が残されている。

「大君の御はたのもとにししてこそ 人と生まれし甲斐でありけり」

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この大田司令官は、沖縄県民の献身的作戦協力について訴えた電報の主として知られる。

「沖縄県民はこのように戦いました」と題された電文の現代語訳が壕内に展示されている。

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『 昭和20年6月6日20時16分発

次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう、取り計らって下さい。

沖縄県民の実情に関して、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は県知事から頼まれた訳ではありませんが、現状をこのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。

沖縄に敵の攻撃が始まって以来、陸海軍は防衛のための戦闘にあけくれ、県民に関してはほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためにかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずがに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所の小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。

しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運びや斬り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が生き別れになるのを覚悟で娘を軍に預ける親もいます。

看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。

これらをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。

沖縄の実情は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえ全てが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。

沖縄県民はこのように戦いました。

県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。』

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沖縄戦の悲惨さは、日本でも繰り返し伝えられてきた。

しかし沖縄はなぜこんな悲劇の島になってしまったのか?

NHKの番組制作者が書いた「クロスロード・オキナワ」という本に、そのヒントが記されていた。

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本の冒頭、一枚の地図に目を引かれた。沖縄を中心に置いた地図だ。

東京を中心とする普段私たちが目にする日本地図とは明らかに印象が違う。中国や東南アジアがものすごく近い。

このことは最近、中国や韓国に行く時、機内誌のマップを眺めていて私も感じていた。漠然と私の中に根付いた距離感のイメージが実際の距離とはずれているのだ。

例えば、ソウルは那覇よりも近いこととか、ロシア極東のウラジオストックも実はソウルや沖縄と同じ距離にあること。

それが那覇を中心に見ると、東京はマニラよりも遠く、上海は福岡とほぼ同じ距離にある。

円の中心を日本の最南端である与那国島に置くと、さらに東南アジアは近くなる。

相手の立場に立つことの大切さを子供たちに教える学校で、このことを習った覚えばない。相手の立場に立って物事を見てみると世界は違った風に見えてくる。

沖縄の視点から歴史を見てみると、日本は本当にひどい国だった。

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欧米列強が琉球周辺に出没し始めた時代、琉球はヨーロッパで「非武の島(武力を持たない島)」として知られていたという。

1816年に琉球にやってきたイギリス軍艦の艦長バジル・ホールが帰国後発表した「航海記」。ホール艦長はセント・ヘレナ島で流刑の身だったナポレオン・ボナパルトと会談し琉球について対話したと記している。その中身だ。

『琉球の人々が武器を持たないと聞いたときほど、ナポレオンが驚いたことはなかった。彼はこう叫んだ。「武器を持たないだと。大砲もなく、小銃すら持っていないのか?」マスケット銃さえも持たないのです、と私は答えた。「何だと、槍もない、弓も矢もないのか?」私はナポレオンに、いっさいありません、と答えた。ナポレオンは益々声を高めて「短刀もないのか?」と叫んだ。「いいえ、ありません」「しかし・・・」と、ナポレオンは拳を握りしめて叫び、一層高い声で「武器なくして、彼らは一体どう戦うというのだ?」と問うた。

私は、私たちが観察し得た限りにおいて、島の人々は戦争をしたことがないと申し上げるのみです、と答えた。そして、そうすることで人々は内政的にも対外的にも平和な状態を維持してきたのだと伝えた。』

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その後琉球を訪れたペリーも、この「非武の島」の話に大きな関心を抱いていた。

ペリーは琉球を詳細に調査し、「琉球人は温和で正直であり、法や支配によく従う人々であった」と記している。

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そんな「非武の島」を決定的に変えたのは明治政府だった。いわゆる「琉球処分」の過程で、日本は大日本帝国陸軍の熊本鎮台分営隊の軍事施設を琉球に設置すると通告した。

そのあたりの経緯を、「クロスロード・オキナワ」から引用する。

『これに対し、驚いた琉球側は次のような回答を送った。日本政府を刺激せず、自らへりくだるような姿勢を漂わせながらも、確固たる信念をもって守ってきた琉球独自の「安全保障」のあり方を訴えている。

「琉球は南の辺境にある小さな島で、従来、兵を置かず、(他国に対しては対話による)礼節によって(国を)存続させてきた。外国船が来航した時も、(力に頼った対応などせず)もっぱら言葉によってのみ応対し、今日まで無事に過ごしてきた。新たに兵営を設置するようなことになれば、それだけ外国からも強硬手段に訴える圧力が増し、かえって困難な状況になってしまう」

この訴えを、明治政府の琉球処分官となった松田道之は、「それは琉球をひとつの独立国とみなして、独力で他国にあたる責任を持つと言っているかのような論である。琉球の防衛は琉球だけの問題ではない。日本全国の問題として防衛にあたるのだ」として退けている。

熊本からの兵営の設置場所は古波蔵(現那覇市)に定められ、約1万8670坪の広大な土地が軍用地として接収されることになった。

この、日本の近代化における国境確定という歴史の交差線上に、「防衛拠点としての沖縄」という道のりが始まるのである。そして沖縄戦の前には島中が要塞と化していたのだ。

「非武の島」から「基地の島」へと沖縄を変えた張本人は、アメリカではなく日本だった。そのことを私たち日本人は知らなければならない。

「クロスロード・オキナワ」のプロローグに沖縄の人たちの歴史観を端的に表す記述がある。

『沖縄で取材中、私たちは「琉球処分」という言葉をなんども聞いた。いうまでもなく「琉球処分」とは、明治時代に大日本帝国が琉球王国を組み入れた過程を指す。その歴史が「今も、また、くりかえされている」と言う。年表を繰ってみると、日本が西欧列強にならい、明治から大正、昭和へと「一等国」としての歩みを進める中で、日本が国家としての歴史的選択を迫られた時、その「岐路」には、いつも「沖縄問題」があったことに気づかされる。沖縄の幾人かの人々は、「沖縄を切り捨てることによって、日本は国家としての生き残りを図ってきたのではないか」とも語っていた。

「第一」の「琉球処分」が明治時代のものだとすれば、第二次世界大戦において本土の防波堤と位置づけられ凄惨な地上戦の舞台となった「沖縄戦」は、彼らにとってその「第二」と言えるものであり、敗戦後の日本が「平和憲法」を軸とする国家再建に乗り出すかたわらで本土から切り離され米軍統治下に置かれた「戦後処理」は「第三」の「琉球処分」である。

そして1972年。「平和憲法」下の日本に復帰する以上、基地はなくなり、奪われてきた自分たちの土地も帰ってくるという望みを抱いたにもかかわらず、米軍基地が存続することになった沖縄本土復帰は「第四」の「琉球処分」だったのではないかと言う。

その米軍基地は戦後の様々な時代に役割を大きく変えていった。「冷戦」期は、共産圏に対する「太平洋の要石」と位置づけられ、朝鮮戦争やベトナム戦争への出撃拠点とされた。ベルリンの壁が砕かれソビエト連邦が崩壊した「冷戦」後になると、沖縄の米軍基地の役割は、中東をにらむアメリカの世界戦略を支える範囲まで拡大され、イラク戦争にも多くの兵士が派兵された。

さらに今。米軍基地の沖縄県内への移設計画や、垂直離着陸型輸送機MV22オスプレイの沖縄への配備が、人々の憤る声を押し切るかたちで進められている。沖縄の人々からすれば、これもまた、沖縄の住民の意思よりも「日米同盟」の結束が優先された結果であり、日本の国家としての生き残り戦略として沖縄が利用される「また、くりかえされている」「第五」の「琉球処分」として受け止められる。』

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「琉球処分」により無理やり併合された日本の戦争で多大な被害を被ったにもかかわらず、日本への復帰を願った沖縄の人たちの思いに私たち日本人はどう答えるのか?

「非武の島」を「基地の島」に変えてしまった責任は、間違いなく日本にある。

少なくとも、そのことをしっかりと心に刻んでから沖縄と向き合うべきだろう。

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<関連リンク>

沖縄3泊4日の旅

①「ステーキ」と「軍用地主」アメリカとの複雑怪奇な関係

②日本人の知らない琉球王国の歴史に己の無知を知る

③博物館で見る沖縄の歴史「港川人」から「琉球処分」まで

④「非武の島」琉球を「基地の島」沖縄に変えたのは誰か

⑤沖縄基地問題の原因は私たち日本人の心の中にある

⑥「万国津梁」アジアをつなぐ架け橋「浜辺の茶屋」で見た沖縄の豊かさ

<参考情報>

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