<きちたび>江戸東京歴史散歩🚶‍♂️【四谷三丁目〜新宿三丁目】新宿の名前の由来とは?(1699年・内藤新宿開設)

この秋から始めた「江戸東京歴史散歩」、2回目のお散歩エリアは新宿に決めた。

新宿は言わずと知れた東京でも最大の繁華街。

日本一の売上高を誇る新宿伊勢丹をはじめ新宿エリアの年間販売額も日本一、そして多くの私鉄が乗り入れる新宿駅は世界一の乗降客が行き交うターミナル駅である。

私は学生時代にはよく行ったが、社会人になってからはどうもあの人混みが苦手で足が遠のいている。

ということで、前回「吉祥寺」の名前の由来を調べたのに続き、今回は「新宿」の名前の由来を調べてみようと思い立ち、久しぶりに新宿界隈をブラブラすることにした。

新宿歴史博物館は四谷三丁目にある

吉祥寺から荻窪で乗り換えて丸の内線で四谷三丁目に向かう。

社会人の頃、荒木町界隈の飲み屋には時々訪れていたが、タクシーで来ることが多く、この駅で降りたことはほとんどない。

駅の出口を出るとすぐに「錦松梅」の本店ビルが目に入った。

子供が小さい頃よく食べていたので懐かしさのあまり店に引き込まれた。

この「錦松梅」、創業者の道楽から生まれたふりかけなのだという。

 江戸の人々は「 おご りに往く」といっては、月に二度ほど家のもの全員で料理屋に足を運んだといいます。それほど味を楽しむ気風にあふれた時代だったのでしょう。「錦松梅」はその江戸の風味を今に伝える伝統の「ふりかけ」です。
 創業者の旭翁きょくおうは掛川藩の武士の家に生まれ、うまいものを求めて全国を歩いたという食道楽の豪傑でした。その旭翁が子供の頃、寺子屋でいつも食べた弁当のおかずがかつお節を削ったもの。それが気に入らず、後年自らの手で長い年月をかけて完成した独自のふりかけが「錦松梅」でした。

「錦松梅」公式サイトより

せっかく四谷三丁目に来たのも何かの縁。

540円の一番安い袋を一つお土産に買い求めた。

ぶらぶら散歩を楽しみながら、目的外のところで引っかかる。

本当にお気楽なご身分である。

路地を曲がって住宅街を進んでいくと、真正面に防衛庁の高い鉄塔が見えてくる。

しかし、その途中にはかなり深い谷があり、意外に起伏に富んだ地形だということがわかる。

私の目的地は、この路地の右手にあった。

新宿区立新宿歴史博物館。

1989年にオープンしたこちらの博物館では、旧石器時代から昭和初期までの新宿の歴史を知ることができる。

常設展示だけなら入館料は一般300円だ。

徳川家康が江戸に来る前と後

この日の私の知りたいテーマは新宿の名前の由来。

そのため、江戸時代を中心に展示を見ていくと、こんな記述に出会った。

新宿区域が記録上に登場してくるのは中世になってからです。これら記録上には、現在の新宿の地名のいくつかが記されています。人々の動きがうかがえるようになるのは、中世の中後期になります。

新宿歴史博物館の展示より

この時代の地図を見ると、牛込、市ヶ谷、落合、幡ヶ谷などの地名はあるが、新宿という地名は見当たらない。

ちなみに、徳川家康が江戸に入る以前の関東はどんな所だったのだろう?

室町時代中期以降、関東全域はまさに戦いの場でした。室町幕府が設置した関東公方の勢力が衰え、その重臣、扇谷(おおぎがやつ)・山内両上杉家、扇谷上杉の家宰、太田家、古河公方、堀越公方が戦いを繰り広げる中、次第に勢力を広げ、一大領国を築き上げたのが後北条氏です。後北条氏は2代氏綱の頃には江戸城を手に入れ、新宿区内もその勢力範囲にしていました。牛込の地名にゆかりのある牛込氏は、江戸衆として後北条氏に編成されていました。

新宿歴史博物館の展示より

1590年の小田原攻めで後北条氏が滅び、豊臣秀吉の命を受けた徳川家康が江戸城に入ると、北条の残党の反撃に備えて伊賀の鉄砲隊が新宿のあたりに配置された。

今も残る「百人町」の地名は、この伊賀組百人鉄砲隊の屋敷があったことに由来する。

1600年、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、公用の輸送などを円滑に行うため江戸日本橋を起点として五街道の整備に乗り出す。

街道沿いには一里塚や宿場が築かれる。

江戸に幕府を開き、翌年には、街道の里程を、一里を三十六丁、道幅を五間と定めました。そして、江戸日本橋を基点とした諸街道に一里塚を築かせました。その塚の上には、榎や松の木を植え、遠方からでも目立つようにしました。塚の上の木は大木で、夏は旅人にとって涼しい木陰となりました。また、人夫や馬子などは、里程を知ることができて、駄賃銭を決めるのに便利でした。

伝馬の制度は、宿に人馬を常備し、宿駅ごとに宿継ぎをして物資などを輸送する制度です。公用旅行者は無料で人馬を利用できました。当時の交通体系は幕府の公用を中心としたものでありましたが、次第に経済的余裕のできてきた人々は寺社仏閣の参詣などで旅行するようになり、これらの街道も賑わうようになりました。

新宿歴史博物館の常設展示解説シートより

日本橋を出発して最初の宿として、東海道は品川宿、中山道は板橋宿、日光街道と奥州街道は千住宿、そして甲州街道には高井戸宿が設けられた。

品川、板橋、千住の宿はいずれも日本橋からおよそ2里の距離にあったのに対し、高井戸宿だけは約4里離れていて、旅人が不便であることから元禄時代の1698年、新たな宿が開設されることになった。

それが「内藤新宿」である。

新宿の名前の由来「内藤新宿」とは?

新宿歴史博物館には、この内藤新宿の模型がどどーんと展示されている。

街道に沿って整然と民家が立ち並んでいて、もし今日この街並みが保存されていたら、さぞ観光客が集まるだろうと思ったりした。

江戸四宿の一つ内藤新宿は、日本橋を起点とした甲州街道の最初の宿場です。はじめ下・上高井戸宿が最初の宿場でしたが日本橋から4里(約15km)と遠いため、元禄11年(1698)江戸浅草阿部川町の名主喜兵衛(のち喜六)らが、茅野原だったこの辺を開発しました。こうして日本橋から2里のところに宿場集落ができ町の一部が内藤家の屋敷地でしたので内藤新宿といわれました。

新宿歴史博物館の展示より

この内藤新宿こそ、今日の新宿の名前の由来であり、この小さな宿場が日本一の大繁華街に成長したのである。

内藤新宿があったのは、現在の地名で言うと、四谷四丁目から新宿三丁目にかけてのエリアだった。

日本橋から伸びる甲州街道は、現在の新宿通りと同じ場所を通っていたのだ。

四谷側の入り口には石造りの門が築かれた。

これが新宿御苑にその名を止める「大木戸門」である。

甲州街道の南側を流れているのは玉川上水。

江戸時代には、多摩川から江戸市中に飲料水を届ける重要な水道の役割を担っていた。

玉川上水の南側に広がる広大なお屋敷は、信濃国高遠藩の藩主・内藤家の下屋敷である。

この屋敷の一部を幕府に返上させて作られた宿場だったため「内藤新宿」の名がついた。

高遠藩といえば、「天下第一桜」として名高い「高遠の桜」が有名なところ。

まさか遠く離れた東京にその名を残しているとは知らなかった。

そして甲州街道は西に伸びて、現在の新宿三丁目、追分交番のあたりで青梅街道と分岐する。

直進すると青梅街道、甲州街道は玉川上水沿いに南に折れて、現在の国道20号線(甲州街道)へとつながっていく。

ところが、こうして誕生した内藤新宿はわずか20年足らずで廃止されてしまう。

通行人が少ないというのが表向きの理由とされたが、「飯盛女」という名目で遊女を多数働かせていて風紀取締りの一環として廃止されたといわれる。

内藤新宿が再開したのは1772年のこと。

宿場の窮乏対策として風紀面の規制緩和が進められたためで、その後明治維新まで品川宿に次ぐ賑わいを見せるまでに発展する。

新宿歴史博物館には、当時の商家のたたずまいを偲ばせる蔵造りの建物も作られている。

火事が多かった江戸の町では、蔵造りの建物は防火対策として広まっていき、幕府もこれを奨励したという。

明治に入ると、ますます蔵造りが普及し、東京の表通りには蔵造りの家が建ち並んだ。

当時の新宿もそんな街並みだったに違いない。

江戸時代に多かった職業ランキングも展示されていて、一番多かったのが古着商売、続いて日雇稼、時の物商売とその日暮らしの人たちがベスト3を占め、大工、畳刺、髪結、屋根、仕立、小間物、荒物、餅菓子、玉子、豆腐・・・などなど生活に密着した商売が並んでいた。

私が一番興味深かったのは、江戸時代の人口ピラミッド。

男女のバランスも年齢バランスも、今よりもずっと優れた理想的な釣鐘型である。

元治2年のデータのようだから幕末のもの、長年泰平の世が続いているとこうした美しい人口ピラミッドができるのかと感心した。

四谷三丁目から四谷四丁目界隈を歩く

新宿歴史博物館で必要な情報を手に入れて、実際に内藤新宿があった場所を歩いてみることにした。

四谷三丁目の交差点から新宿通りを西に向かう。

ここが昔の甲州街道だったと思われる。

「丸正」というスーパーマーケットの入り口に、何やら怪しげな場所を発見した。

赤い暖簾には「お岩水かけ観音」と書かれている。

四谷でお岩とくれば、これは「四谷怪談」。

ここがその舞台かと一瞬錯覚する。

しかし、そこにはこの観音像の由来が書いてあり、この読みにくい碑文を読み写した奇特なサイトも見つけた。

ここにはこう書かれているという。

  お岩水かけ観音由来 

 貞享年間(1684~1687)四谷左門町に住む御家人宮又左衛門の一人娘お岩は迎えた婿養子伊右衛門の放蕩が原因で哀しくも狂乱行方知れずになりそれからと云うものは種々怪奇な事件が頻発したが田宮家の菩提寺にてお岩の霊を供養したところようやく平穏になったと伝えられています
 この伝説をもとに脚色したのが鶴屋南北の東海道四谷怪談で文政八年(1825)三代目菊五郎の浅草市村座で初演大評判を得ました
 爾来約三百年お岩稲荷は幾度か災禍をこうむり太平洋戦争でも焼失したが地元世話人によって再建され家庭円満無病息災商売繁盛などに霊顕霊■かと言われ参詣人はあとを絶たず崇敬者は広がって現在に至っております
 当お岩水かけ観音は縁あって再建の世話人をつとめた飯塚五兵衛が昭和四十六年九月■丸正食品株式会社本社屋建築施行の際■かけ昭和四十九年九月二十三日満願にあ■稲荷と観音様の慈愛をこめて祈願成就のしるしとして新たに分祀建立したものです
  昭和四十九年九月二十五日

引用:東京都新宿区の歴史

これだけではよくわからないのでさらに調べると、「お岩さん」を祀った「於岩稲荷」というのはもともと四谷左門町にあったが、火災で焼失して現在の中央区新川に移転。

縁あってこの場所に分祀という形で「お岩水かけ観音」を建立したということのようだ。

要するに、ここが四谷怪談の直接の舞台ではないということらしい。

それにしても、お岩さんの神社が中央区にあるとは知らなかった。

そのまま新宿通りを進んでいくと、今度は石灯籠とともに大木戸門の絵がかけられているのを見つけた。

説明の紙が添えられていて、こんなことが書いてあった。

四谷四丁目交差点は江戸時代は「四谷大木戸」と呼んでいた。そこはここに大木戸という関所があったからである。天正18年(1590)家康は江戸入府にあたり、武田・北条の残党から江戸を防衛する為、家臣の内藤清成に陣をかまえさせた。後に、幕府は元和2年(1616)内藤氏の陣を廃止して、四谷大木戸門を設けた。この年は、大坂夏の陣で豊臣が滅びた翌年で、その残党の侵入を防ぐのが目的であった。寛政4年(1792)大木戸は取り払われた。

四谷歴史研究会より

この絵を見ると、単なる門というよりも城の一部のような厳重さである。

勝ったとはいえ、関東に君臨した武田・北条の残党は油断のできない相手だったのだろう。

そしてここが四谷四丁目の交差点。

私の中では、アイドルの岡田有希子が飛び降り自殺をした場所という印象が残る。

当時は所属事務所の「サンミュージック」の看板がかかっていたと思うが、事務所はすでに移転したようだ。

交差点の脇には「日本橋まで7km」と書かれた標識が立っていた。

7キロといえば昔の単位を使えば2里弱ということになる。

そして四谷四丁目交差点を通り過ぎた先に古びた大きな石碑が立っていた。

これは「水道碑記(すいどうのいしぶみき)」と呼ばれ、玉川上水開削の由来が記されている記念碑だという。

玉川上水は四谷大木戸までは川のように流れてきて、ここから江戸市中へは石樋や木樋といった水道管を地下に埋設して水を流したのだとか。

そしてこの場所に水番所が設けられ、水番人が水門を調整して水量を管理したりゴミの除去を行なっていたという。

そして・・・

同じ場所に新宿区教育委員会の案内板が立っていて、「四谷大木戸」はここから80メートル東の四谷四丁目交差点のところにあったと書かれていた。

岡田有希子が自殺したあの交差点に江戸時代、大木戸門があったわけだ。

新宿御苑は高遠藩主・内藤家の下屋敷だった

都心のオアシス「新宿御苑」。

ここは江戸時代、信州高遠藩内藤家の下屋敷だった。

近くにあった「大木戸」の名前が新宿御苑の門の名として今も残る。

園内にある「玉藻池」を中心とする回遊式日本庭園は、内藤家下屋敷の庭園『玉川園』の遺構である。

この庭園は安永元年(1772年)に完成したもので、樹齢400年を誇る樹木もたくさん残っているという。

私は全く知らなかったのだが、この新宿御苑の北側に小さな小川が流れている。

玉川上水にしては水量が少ない。

せせらぎの脇に案内板が立っていて、そこにはこう書かれていた。

新宿区では、「まちの記憶」として次世代に受け継ぐべき財産である「玉川上水」の流れを偲ぶため、環境省をはじめとした多くの関係者の協力のもと、新宿御苑内に玉川上水・内藤新宿分水散歩道を整備いたしました。

分水散歩道の延長は約540mあり、「旧新宿門」「大銀杏」「大木戸」の3区間から成り、水源には、国道20号新宿御苑トンネル内の共同溝に湧出した地下水を利用しています。水路底には、粘土を使用し、自然な流れを再現しました。

「玉川上水・内藤新宿分水散歩道」案内板より

というわけで、あくまで人工的な小川ではあるが、かつてここを玉川上水が流れていたことは間違いない。

私が暮らす吉祥寺を通った水がこの場所を経て江戸市中の庶民の喉を潤していたのである。

案内板には、水番屋の絵も描かれていた。

江戸の貴重な水資源を守るため、玉川上水は、厳重に管理されていました。上水で魚を捕ることや、水浴びをすること、洗いものをすることを禁じていました。このため、流域の村々の利用は厳しく制限され、羽村、代田村(現杉並区)、四谷大木戸には、水番屋が設置され、水質、水量や異物の監視を行なっていました。

四谷大木戸の水番屋は、構内の総坪数が630坪(約2082平方メートル)余りあり、流れてきたごみを止める「芥留(あくたどめ)」、満水時に渋谷川へ水を排出する「吐水門(はきみずもん)」、暗渠へ入る「水門」がありました。「水門」では、水量を測定する「歩板(あゆみいた)」が設けられ、この板と水面までの間隔から水量の増減を調べました。

「玉川上水の水番屋」案内板より

江戸時代の水路はほとんどが埋め立てられてしまったが、もしもそのまま残っていたら、東京の景観は今よりもずっと潤いのあるものだったろうなと想像を膨らませる。

内藤新宿ゆかりの寺社仏閣をめぐる

旧甲州街道だった新宿通り。

このあたりがまさしく内藤新宿があった場所だが、今は道の両側にどこにでもありそうなビルが立ち並び、昔の痕跡を今に伝えるものは何も見つけられなかった。

実に惜しい。

しかし、新宿通りから少し入ると、内藤新宿ゆかりのお寺や神社が実は残っている。

こちら浄土宗「太宗寺」は、高遠藩内藤家の江戸での菩提寺。

5代藩主正勝がこの寺に埋葬されて以来、歴代藩主や一族の墓地が置かれた。

境内にある墓地には内藤家の墓所が今も残る。

昭和27年の区画整理事業で57基あった墓は3基に減らされたが、中央には5代藩主正勝の墓塔が残されていた。

太宗寺の境内には「新宿ミニ博物館」と題された案内板も立てられていて、内藤新宿の歴史が歴史博物館よりも詳しく書かれていた。

たとえば・・・こんな感じである。

「内藤新宿」は東西9町10間余(約999m)、現在の四谷四丁目交差点(四谷大木戸)から伊勢丹(追分と呼ばれ甲州道中と青梅街道の分岐点であった)あたりまで続いていました。

宿場は大きく三つにわかれ、大木戸側から下町・仲町・上町と呼ばれました。

太宗寺の門前は仲町にあたり、本陣(大名・公家・幕府役人などが宿泊・休息する施設)や問屋場(次の宿場まで荷を運ぶ馬と人足を取扱う施設。内藤新宿の場合、人足50人・馬50疋と定められていたが、のちには共に25ずつとなった)、高札場(法度・掟書・罪人の罪状などを記し周知する立札)がありました。

「内藤新宿」は、江戸の出入口にあたる4宿(品川・板橋・千住・新宿)のひとつとして繁栄しましたが、それを支えたのが旅籠屋と茶屋でした。

これらには飯盛女と呼ばれる遊女が置かれましたが、元禄15年(1702)には当時幕府公認の遊興地であった吉原から訴訟が出されるほど繁昌しました。

「甲州道中と内藤新宿」案内板より

この寺には江戸時代より「内藤新宿のお閻魔さん」として庶民の信仰を集めた閻魔像がある。

かつて藪入り(1月と7月の16日に商家の奉公人が休暇をもらい家に帰ること)には閻魔大王の縁日が賑わったり、泥酔者が閻魔像の目を取る事件が起きて江戸中の評判となるなど様々なエピソードが閻魔像だそうだ。

またお寺の入り口には大きなお地蔵様が座っている。

この「銅造地蔵菩薩坐像」は江戸時代に江戸の出入口6カ所に置かれた「江戸六地蔵」のひとつである。

内藤新宿のほかに、品川の品川寺、浅草の東禅寺、巣鴨の真性寺、白河の霊厳寺、富岡の永代寺に同じような地蔵が据えられたという。

靖国通り沿いにある「成覚寺」には、内藤新宿の闇の部分が詰まっている。

内藤新宿の隆盛を築いた飯盛女たちは死後この寺に埋められ「投げ込み寺」と呼ばれた。

鬱蒼とした境内には樹木に隠れるように「子供合埋碑」と書かれた墓があった。

江戸時代の内藤新宿にいた飯盛女(子供と呼ばれていた)達を弔うため、万延元年(1860)11月に旅籠屋中で造立したもので、惣墓と呼ばれた共葬墓地の一角に建てられた墓じるしである。

飯盛女の抱えは実質上の人身売買であり、抱えられる時の契約は年季奉公で年季中に死ぬと哀れにも投げ込むようにして惣墓に葬られたという。

もともと墓地の最奥にあったが昭和31年の土地区画整理に際し現在地に移設された。

宿場町として栄えた新宿を陰で支えた女性達の存在と内藤新宿の歴史の一面を物語る貴重な歴史資料である。

「子供合埋碑」案内板より

その脇には「遊女白糸塚」。

内藤新宿の遊女白糸と情死し家名断絶となった武士鈴木主水の物語は江戸時代後期、瞽女歌などで流行し、八木節や歌舞伎の題材ともなったという。

また境内の隅に置かれていたのは「旭地蔵」。

玉川上水で心中した遊女と客7組を供養するために上水の北岸に建立されていたものが、この寺に持ち込まれたものだ。

内藤新宿で起きた厄介ごとは全て引き受けるようなこの寺を訪れる人はほとんどいないようだ。

日本一の繁華街新宿の闇は昔から深かったようである。

成覚寺の隣にある「正受院」には「綿のおばば」と呼ばれる奪衣婆像がある。

奪衣婆は、閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽重を計ったというお婆さん。

さすがに、なかなかインパクトのあるお顔だ。

正受院の奪衣婆像は咳止めや子供の虫封じに霊験があるとして人気を呼び、太宗寺の奪衣婆像は内藤新宿の妓楼の商売神として「しょうづかのばあさん」と呼ばれ信仰された。

内藤新宿ゆかりの寺社仏閣めぐり、最後に訪れたのは新宿の総鎮守とされる「花園神社」。

参道沿いにはいつもながらに怪しげな土産物屋が並ぶ。

ちょうど酉の市が終わったばかりだったので、まだ縁日の装飾の名残が境内に残っていた。

花園神社は古来新宿の総鎮守として内藤新宿における最も重要な位置を占め来たった神社である。徳川氏武蔵国入国以前の御鎮座にして大和国吉野山より御勧請せられたと伝えられる。寛永年中以前の社地は現在の株式会社伊勢丹の地域にあり、東西65間、南北75間にわたった神域であった。朝倉筑後守此の地に下屋敷を拝領されるに及び、神社をも下屋敷の内に囲い込まれたのでその由を御訴えに及び、現在の社地を代地に拝領したと伝えられる。

「花園神社由緒記」案内板より

靖国通り沿いの入り口に置かれた銅製の唐獅子像は、内藤新宿の氏子たちにより奉納されたもので、台座には発願者・援助者・世話人等の名が刻まれているという。

ちなみに、都市化が進む以前の新宿ではトウガラシやカボチャが盛んに作られていた。

トウガラシは内藤家の下屋敷の中で栽培されたのが初めで「内藤トウガラシ」と呼ばれ、収穫の時期には新宿周辺から大久保あたりまで一面真っ赤になるほどだったという。

そして新宿三丁目の交差点に立つ「追分交番」。

この「追分」は江戸時代、甲州街道と青梅街道の分岐点だった「追分」の名残りである。

大型商業施設が立ち並ぶこの界隈もかつて内藤新宿と呼ばれた宿場の一角に当たる。

商売繁盛の表の活気と遊女たちの裏の闇。

何もなかった茅野原に人工的に出現した内藤新宿の二面性は、見事なほど今日の新宿に引き継がれているのかもしれない。

<きちたび>江戸東京歴史散歩🚶‍♀️【本駒込〜水道橋】本当の「吉祥寺」を探しに行く(1657年・明暦の大火)

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