<きちたび>桃太郎伝説の舞台「鬼ノ城」へ!岡山吉備路の古代史めぐり

岡山に帰省した際、矢掛という町に初めて泊まった。

翌日、以前から行きたいと思っていた「鬼ノ城」を目指す。

桃太郎伝説に登場する「鬼ヶ島」のモデルになったとされる山城である。

この城の主、ヤマト王権から「鬼」として征伐された「温羅(うら)」は、朝鮮半島からやってきた「百済の王子」だったという。

いにしえの吉備の里で何が起きたのか?

私たちのルーツに関わる興味深いミステリーがそこには隠されている。

吉備真備公園

11月5日、私が宿泊したのは倉敷市の西に位置する岡山県矢掛町。

江戸時代の風情が残る宿場町だ。

参考記事

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吉祥寺@ブログ

翌朝、宿を出て「鬼ノ城」を目指して東へ進む。

途中、矢掛町のはずれにある「吉備真備公園」に立ち寄る。

この場所は、奈良時代の偉人・吉備真備の居館跡と伝えられるが、私が訪れたのは午前8時半、境内にはまったく人影はなかった。

公園の一画に、吉備真備の銅像が立っている。

しかし、吉備真備と言われても、大昔に学校で習った記憶がある程度で何のイメージもない。

果たしてどんな人物だったのか、改めて調べてみると・・・

吉備真備は、695年にこの地の有力氏族・下道氏に生まれ、716年留学生として遣唐使に加わった。

14年ほど唐で学び735年に帰国、朝廷内で重用され瞬く間に右大臣にまで昇りつめる。

皇太子の教育にも携わった真備は、生家の下道氏から吉備氏に改姓し、現在の岡山県から広島県東部までを支配下に置く大豪族となったという。

藤原仲麻呂の台頭で一時不遇の時代を過ごすが晩年は朝廷の中枢に復帰し、地方豪族出身者としては異例の出世を遂げた人物だった。

銅像の台座部分には、「吉備大臣入唐絵詞」というレリーフが描かれていて、吉備真備をこのように紹介している。

『奈良時代正二位右大臣に昇り軍制を改め、新暦を定め、農産を奨め、民訴を聴き、律令を定め、内乱を除き、人倫を諭し、カタカナを創始する等、善政を布いた吉備真備は朱烏9(695)年下道国勝の長男として此処に誕生した。』

公園には、芝生に人工的に石を並べたストーンサークルのようなものもあった。

これが何を意味しているのか、説明がないのでよくわからないが、吉備真備が新暦を定めたとあるように天体の動きにも通じていたことと関係しているのかもしれない。

さらに吉備真備は、日本における囲碁の開祖とされているらしく、公園内には「囲碁発祥之地」と刻まれた石碑が立っていた。

案内文によると、その経緯はこうだ。

『平安時代後期に書かれた江談抄には吉備公が在唐中、唐の囲碁名人と対局し、知恵をもって勝った説話があり、これが日本の著作に現れる囲碁に関する最初の説話であるところから、吉備真備公が、日本における囲碁の開祖として伝えられ、その後の各種辞典、又著作に現れております。』

古代史有数の国際人だった吉備真備。

当時の瀬戸内海は、大陸や朝鮮半島と大和を結ぶ主要な交易ルートだった。

軍事上も経済的にも重要な拠点だった吉備の国を巡って、昔々何があったのか、それが私の関心事であり、「鬼ノ城」を目指す理由だった。

「吉備真備公園」
井原鉄道三谷駅から車で5分

鬼城山の鬼ノ城

矢掛町から北東に走り、総社市の山道をウネウネと登っていく。

標高400mの鬼城山の山頂に突然姿を現すのが・・・

鬼ヶ島のモデルとなったとも言われる国指定の史跡「鬼ノ城」である。

現地に設けられたビジターセンターには、この山城発見の経緯が記されていた。

『昭和46年(1971)、伝説の舞台に登場する温羅(うら)の居城として親しまれてきた鬼ノ城で列石や水門が発見され、古代に築かれた山城であることがわかりました。

昭和53年(1978)には、鬼ノ城学術調査委員会による調査で山城を囲んでいる土塁や石垣が2.8kmにわたって築かれており、白の推定地や第一水門を確認するなど、山城としての全体像を浮かび上がらせることができました。』

現在、見ることができる山城は、発掘調査をもとに復元されたものだ。

この山城は朝廷の文献に載っていないため、まだ多くの謎が残されているが、案内板には築城の背景についてこんなことが書いてあった。

『築城の時期については諸説ありますが、大和朝廷が朝鮮半島の百済軍救援のため出兵した白村江の海戦(663年)において大敗した後、唐・新羅連合軍の日本侵攻を恐れ、急ぎ西日本各地に築城した城の一つと考えられています。鬼ノ城は当時の東アジア情勢を鋭敏に反映した遺跡と言えます。』

まさに、最近訪れた太宰府の大野城や対馬の金田城と同じ時代、同じ防衛網の一角を担う山城であり、四国の屋嶋城とともに瀬戸内の最重要拠点として築かれたと推測されているそうだ。

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吉祥寺@ブログ

鬼ノ城に立つと、眼下に岡山平野を一望できる。

その戦略的な位置付けについて、こんな説明が書かれていた。

『鬼ノ城からの眺めは、総社平野が一望できることはもちろん児島湖から児島半島、さらには小豆島や四国山脈も遠望できます。現在の児島半島は、かつて「島」であり、北岸は「吉備の穴海」と称され、東西に往来する船の航路となっていました。鬼ノ城からも航海する船を見張ることができたのでしょう。また、重要な陸路である古代山陽道が総社平野の南端を通行するなど、政治、経済、文化、交通の要衝の地でした。その背後に鬼ノ城が築かれています。』

これが当時の鬼ノ城周辺の地図。

瀬戸内海の海岸線が今とはかなり違い、鬼ノ城近くの「吉備穴海」は港に最適の地形だったことがうかがえる。

しかも、この吉備の地は、朝鮮半島への玄関口となる博多港と大和朝廷の入り口にあたる難波港のちょうど中間地点に位置していた。

この場所を抑えることがいかに戦略的に重要だったかが理解できる。

復元された鬼ノ城のシンボルは、この「西門」と「城壁」である。

鬼ノ城跡からは4つの城門が見つかっているが、その中でもこの西門は非常に良い状態で発見されたという。

『西門跡は、きわめて良好な状態で残っていました。12本の柱の位置と太さ、埋め込まれた深さ、各柱間の寸法も正確に知ることができ、また通路床面の石数や石段、敷石もよく残っていたので、城門の規模と構造を具体的に知ることができました。

そこでこれらの資料をもとに、関連資料を参考にし、戦闘の場賭しての機能も考慮して三階建ての城門に復元しています。一階は通路、二階は城壁上の連絡路、三階は見張りや戦闘の場としての機能をもつものです。屋根は調査時にも瓦は出土していないので、板葺きにしています。

古代山城の城門の復元例としては、日本で初の事例です。』

西門の大きさに関してはこう書かれている。

『西門は、南門と同規模の大型の城門で間口3間(12.3m)、中央1間を通路とし、2間の奥行きをもち、12本の柱で上屋を支えます。柱は一辺最大60cmの角柱を2mほども埋め込んでいます。

本柱に合わせたくり込み、方立柱穴、軸摺穴、蹴放しが一体的に加工された門礎をもつのは、鬼ノ城のもののみです。西門は日本最大の古代山城大野城の太宰府口城門(間口8.85m)をしのぐ、壮大堅固な城門です。』

鬼ノ城の城壁は、周囲2.8kmにわたって鉢巻状に山頂部をぐるりと取り囲んでいる。

『城壁は直線を基本とし、多少の高低差はあるものの、下幅約7m、上幅約6m、高さ約6mの規模をもち、城壁で囲まれた城内面積は約30haに及ぶ広大さです。

城壁の大部分は、、土を少しずつ入れて突き固めた「版築土塁」で、要所の6カ所には高い石垣を築いていますが、基本的には土城です。また城壁の上面には板塀が巡らされており、城壁の高さと一体となって攻略の難しい一大防御壁となっています。』

「版築土塁」というのは、『壁となる位置に柱でおさえたせき板を置き、内部に土を入れて一層ごとに突き固める工法』のことをいうそうだ。

写真は明治時代に行われた作業の様子で、多量の土砂や石だけでなく、多くの労働力が必要なことがわかる。

試算によると、鬼ノ城の建設には延べ数十マン人が動員されたと想定されているという。

現在はこの城壁に沿って遊歩道が整備されているので、時間があればぐるりと見て回ることも可能だ。

西門から少し離れた城壁の上には「角楼」の跡があり、ここに立つと山城の構造が一番よくわかる。

鬼ノ城には他の山城とは違う特徴がいくつかあるが、この「角楼」もその一つだ。

『日本の古代山城では、初めて具体的に確認された特殊な施設です。中国の城郭でいう「馬面」、朝鮮半島での「雉(ち)」に当たります。

ここは、尾根続きで攻められやすいため、城壁の死角を補い防御力を高めることを目的として、城壁の一部を長方形(13×4m)に張り出しています。最高所の鬼城山・西門と一体となって、強固な防御ゾーンを形成しています。』

もう一つ、この城に特徴的なのが、この「敷石」である。

『鬼ノ城では、城壁の下の面に接して敷石を多数敷きつめています。幅は基本的に1.5m幅で、城内側の広い所では5m幅にもなる所もあります。敷石は多くの区間に敷かれており、総重量は数千トンにもなります。

この石畳のような敷石は、通路としての役割もあるものの、敷石の傾斜などからみて、もともとは雨水等が城壁を壊すのを防ぐことを目的としたものと考えられます。

敷石は、日本の古代山城では鬼ノ城にしかなく、朝鮮半島でも数例知られるだけの珍しいものです。』

このほか、鬼ノ城には水門が6カ所あり、城内の生活に必要な水を確保するため、5つの谷に貯水池が設けられていたという。

さらに城内の中央には7棟の建物が配置され、金属加工のできる鍛冶工房も見つかっている。

こうして鬼ノ城のことを知れば知るほど、この山城が当時の日本の築城技術を超えた最先端の城だったことがわかる。

それにも関わらず、朝廷の文献に登場しないのは何故なのか?

ここからは私の勝手な推理だが、現在発見されている7世紀の遺構の以前に、この山頂には大和朝廷とは関係のない山城が存在したのではないかと考えている。

ビジターセンターに展示されていたパネルの一枚には、こう書かれていた。

「城造りには幾多の厳しい攻防の中で培われた朝鮮半島の築城技術が用いられたと考えられます。』

そうなのだ。

この城を築いたのが、朝鮮系の人たちだったと考えると、いろんなことがスッキリしてくる。

大和朝廷が誕生する以前から、交通の要衝であったこの地には朝鮮半島から多くの人たちが移り住み、吉備国を作った。

その吉備国が大和朝廷に攻め滅ぼされたのが、桃太郎のベースとなった「温羅伝説」ではなかったのか・・・?

「鬼ノ城」
JR総社駅からタクシー約30分、下車徒歩約10分
ビジターセンター営業時間:8:30~17:00(月曜定休)

桃太郎と温羅伝説

『日本遺産「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま』

ビジターセンターに貼られたパネルには、こんなことが書いてある。

『誰もが知っている昔話「桃太郎」。岡山には桃太郎と鬼のモデルになったといわれる「吉備津彦命と温羅」の物語「温羅伝説」が語り継がれてきました。

伝説ゆかりの地を巡ると、いにしえの岡山を舞台にした壮大な物語を感じることができます。』

鬼ノ城を舞台にした温羅伝説とはどんなものなのか?

ビジターセンターに書かれていた説明はこうだ。

『その昔、吉備と呼ばれた岡山では温羅と呼ばれる鬼が鬼ノ城をすみかに暴れまわり、村人を苦しめていました。そこで、大和朝廷の王は、吉備津彦命に温羅を退治するように言いました。

吉備津彦命は、「吉備の中山」に陣を構え、巨石の盾を築き守りを固め、得意の弓矢で攻撃します。一方、温羅も城から弓矢で迎え撃ちます。互いの矢がぶつかり合う激しい戦いでした。戦いの末、傷を負った温羅は鯉に化けて逃げますが、吉備津彦命は鵜に変身して温羅を捕まえて見事に退治しました。』

鬼ノ城に登る坂の途中にある「鬼の釜」、ここも温羅伝説が残る場所だ。

釜の口径は185cm、深さ105cmの大釜の脇には、こんな説明が・・・。

『その昔、鬼ノ城に住んでいた温羅(うら)と呼ばれる鬼神がいけにえをゆでたと言い伝えられていますが、江戸時代に近くの湯釜谷から出土したという事実からも、山岳寺院であったここ新山寺の湯屋に使用された湯釜と考えられています』

鬼城山を下って岡山方面に少し行った場所にあるのが「矢喰宮(やぐいのみや)」。

田んぼの中に唐突に建てられた神社だが、ここも温羅伝説にまつわる場所の一つだ。

『矢喰宮は、「吉備の中山」に陣を構えた命と鬼ノ城の温羅が互いに放った矢が食い合い(ぶつかり合い)、落下した場所と伝えられています。鳥居の近くにある巨石は、矢が姿を変えたものといわれたり、温羅が投げた岩といわれたりしています。

この地のすぐ西には、温羅の血が流れたとされる血吸川が鬼ノ城の方向から流れています。』

「矢喰神社」の案内板には、温羅について少し詳しい説明が書かれていた。

『吉備津宮縁起によれば、第十代崇神天皇の時、百済の王子温羅と云う者があった。両眼大きく、毛髪赤く、頬骨強大、身の丈抜群、その性勇敢腕力絶大、常に仁義を守らず、日本を覗わんとする志があった。本朝に来り諸州を一覧する内、遂に吉備の国新山に登った。この地方の勝れたるを見てこの所に大門を起し、城壁を築き、矢倉を立てて城郭となして居を構え、時には西国より帝京に送る貢物を奪取した。近里に往来して人民を悩乱せしめた。時の人この城郭を鬼の城と称し恐れた。』

これこれ、これこそが私の推理に近いストーリーだ。

ただし、あくまで大和朝廷サイドから見た物語ではあるが・・・。

『天皇勅して大吉備津彦命を派遣して之を征伐せしめられた。すなわち彦命は兵数千を率いて東の方吉備の中山に陣し、西の方は楯築山に出て石楯を築き甲兵を率い鬼の城に向い温羅と戦った。』

ここから先の戦いの様子は荒唐無稽だが、日本にやってきて交通の要衝を押さえた百済の王子を大和朝廷が攻撃して征伐したという大まかなストーリーは歴史的な事実を現代に伝えている気がする。

ウィキペディアによれば、第十代・崇神天皇は「実在した可能性のある最初の天皇で、実在ならば治世時期は3世紀後半」、そして「祭祀、軍事、内政においてヤマト王権国家の基盤を整えた」大王だったという。

さらに、「四道将軍」を各地に派遣し自らに従わない豪族を次々に征伐していった。

即位9年、天皇は神が夢に現れたと称し大和国の東口に座す墨坂神と西口に座す大坂神を盾と矛をもって祀った。そして即位10年、四道将軍を派遣して全国を教化すると宣言した。大彦命北陸道に、武渟川別東海道に、吉備津彦西道に、丹波道主命丹波山陰道)に将軍として遣わし従わないものを討伐させることとなった。

出典:ウィキペディア

吉備津彦命は、この「四道将軍」の一人とされる皇族であり、吉備の支配者だった温羅を攻め滅ぼした後、弟・稚武彦命とともに吉備の国を治めたとされる。

吉備真備は、この稚武彦命の末裔に当たる家柄だったようだ。

「矢喰神社」
JR足守駅からからタクシー約5分

吉備津彦神社と温羅神社

古代史を探る岡山吉備路の旅。

最後に訪れたのは、備前国の一宮とされる「吉備津彦神社」である。

入り口には「安政の大石灯籠」と呼ばれる巨大な灯籠が2基立っている。

6段造りで高さは11m、笠石は八畳敷の広さがあり、「まさに日本一といわれている」大灯籠だそうだ。

「吉備の中山」の麓に建つこの「吉備津彦神社」は、備中國一宮の「吉備津神社」と共に、古代の現人神「吉備津彦命」を祀る。

温羅伝説も実は、これらの神社に伝わる言い伝えなのだ。

しかし、私がこの神社を訪ねたのは、英雄・吉備津彦命に会うためではない。

神社の拝殿前を左に曲がって境内を出ると、朱色に塗られた「稲荷神社」の鳥居が並んでいる。

その鳥居を潜った先に私の目的地はあった。

百度石や小さな祠が並んだこの辺りには訪れる人もほとんどいないが、百度石の隣に立つ祠にぜひ注目していただきたい。

木に隠れるように立っている石碑には「温羅神社」と彫られている。

そうなのだ。

吉備津彦命を祀る立派な神社の脇に、温羅を祀る小さな祠が立っているのである。

大和朝廷から見れば「鬼」とされた温羅も、吉備の人たちからは、百済から製鉄技術をもたらし、吉備地方を繁栄させた百済の王子として尊敬されていたという説もある。

吉備津彦神社の境内にひっそりと立つ温羅神社は、それこそが歴史の真実だと私に語りかけているように感じた。

「吉備津彦神社」
JR岡山駅からJR桃太郎線 備前一宮駅下車 徒歩3分(正面鳥居まで)

鬼ノ城のビジターセンターに展示されたパネルには、こう書かれていた。

「鬼は本当に悪者?」

『鬼とされる温羅については色々な解釈があります。この戦いは大和と吉備の争いで温羅は一方的な悪者ではなかった、温羅は吉備に製鉄を伝えた人物だった、などなど・・・。また、温羅は吉備津彦命との戦いに敗れた後も人々を占いで導いてくれます。

もしかすると、温羅は鬼などではなく、吉備に住む優しい人物だったのかもしれません。』

鬼とは何か?

日本人はどこから来たのか?

天皇家のルーツはどんな人たちなのか?

吉備の里には、古代史の謎がたくさん眠っている気がした。

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