トランプ大統領が今日、中国を訪問した。世界遺産「故宮」を貸し切りにしての大接待。米中の「G2時代」到来を演出しようとしている。
そんな中国を私も訪れた。2泊3日の福建省旅行。どうしても行きたい場所があった。
「崇武(すうぶ)古城風景区」。
倭寇の攻撃に対抗して明王朝が築いた「海の長城」の一部である。1387年に造られた。倭寇のことを少しでも知りたいと思いここを訪れたいと思った。
崇武古城を訪ねるため前夜、アモイから泉州に入った。
ホテルはアモイで予約した。
「ヒルトン泉州リバーサイド Hilton Quanzhou Riverside」。
英語が通じるだろうという理由で、ちょっと奮発した。
まだ新しくとても高級感のあるホテルなのに、意外に安い。
ホテルに依頼して、朝6時にタクシーを用意してもらった。午後2時40分発の飛行機に乗るため間に合うようにアモイに戻らなければならない。
タクシーは早朝の泉州を抜ける。泉州は「海のシルクロード」の起点として栄えた港湾都市。マルコ・ポーロの「東方見聞録」でも「ザイトン」の名でその繁栄ぶりが伝えられている。
元の時代には、アラブ人やペルシャ人も多く住む国際都市で、「アラビアンナイト」ではシンドバッドが暮らす街として登場するという。
崇武古城はこの泉州から東に40キロあまりの所にある。
日曜の早朝ということで道はガラガラ、わずか40分ほどで目的地に到着した。これが私がチャーターしたホテルのタクシーだ。
この日、私は「時間をお金で買った」。
ホテルから崇武古城に行き、荷物を車に置いたまま1−2時間見学をした後、泉州駅まで送ってもらう。この一連の行動をどうすれば時間のロスなく、安心して行うことができるかを考えて私はホテルのタクシーをチャーターすることにした。800元(約1万5000円)払った。
街場のタクシーを使えばおそらく1/3以下ですむだろう。しかし、言葉が通じないし、荷物を預けておくのもリスクがある。少しでもトラブって午後の飛行機に間に合わなければ、その損失は800元では済まないだろう、と考えた。
午前7時前ということで、ゲートには誰もいなかった。チケット売り場はまだ開いていないが、運転手さん(英語は話せない)が入っていいとジェスチャーで示してくれるのを信じてゲートをくぐった。
そこには確かに石造りの城壁が続いていた。ガイドブックによると、全長2455メートルあるそうだ。
ただ正直言って、イメージが違った。南京で見た見上げるような城壁とは違って私でも頑張れば登れそうな作りなのだ。
それ以前に石が新しい。どうやら戦後改築されたものらしい。
どこまでオリジナルに忠実に再現したのがわからないが、この石の積み方では敵の侵攻を防ぐのは難しいと思えるような城壁だった。
さらに戸惑ったのが、おびただしい数の石像たちだ。
最初は倭寇に関連のある石像なのだろうと想像力を働かせながら見ていたのだが・・・
布袋様???
孫悟空??????
巨大な黒猫?????????
なんで黒猫の巨大な像がここにあるのか、まったく説明がない。
その疑問が解けたのは、倭寇を討伐した英雄・威継光の巨大な像にたどり着いた時だった。
威継光の説明よりも、この像を作った石材会社の来歴が長々と書かれているのだ。
そうか、ここは石材屋たちが己の技を誇示するためのテーマパークのような場所なのだ。だから、倭寇とは関係ない七福神や西遊記、水滸伝、三国志などの有名キャラクターの像が意味不明に置かれているのだということを悟った。
その考えを証明するかのように、中国各地の石材会社のポスターが並ぶ一角も用意されていた。
確かに中国には石の巨大建築が多い。万里の長城といい、ここ海の長城といい、中国は石材屋の国という一面を持つことに気づかされた。
その石材屋のポスターの中に習仲勲の石像もあった。習近平さんのお父さんだ。
帰国後ネットで知ったのだが、やはりここは「中華石彫工芸博覧城」という彫刻公園として整備されていたのだ。決して趣味がいいとは思えないが・・・。
そうとわかると、逆に違和感を捨てて遠い昔の倭寇の時代に想いを馳せることができた。
城壁は海に面して民家を取り囲むように築かれている。日本の城とは違い、中国の城は街を意味するそうだ。つまり、街を守るためにその外側に城壁を作るのだ。
城壁に沿って反対側まで進むと、「崇武古城」と書かれた看板が現れる。
ここは無料で城壁の上に上がることができるオススメの場所だ。
城壁の内側には住居がびっしりと立ち並んでいた。
建物の感じは沖縄の住居に似ているように思える。地理的にも文化的にも福建と沖縄は違い。
城壁の上から海を眺める。茶色く濁った海。この沖100キロほどのところには台湾がある。
この烽火台も、倭寇の襲来を伝える役目を持っていたのだろう。
古い大砲が1門置かれていた。この程度の大砲でも当時としては最新鋭の兵器だったのだろう。
海岸線に降りる。岩場が多い海岸だ。
この石がこの一帯を石材の街に変えたのだろう。
この海岸近くに真新しい石造りの建造物が建てられていた。観光センターがここに入っている。
望楼に上がると、海が間近に迫る。
東京大学教授だった田中健夫氏の「倭寇〜海の歴史」によると、明を建国した太祖洪武帝の治世31年間(1368〜1398年)、「倭寇の記事の見えない年はほとんどない」という。
まさにこの城壁が築かれた時期だ。観光センターには城壁を築く人たちが石細工で描かれている。
『倭寇は沿岸の住民を掠めたり、官米を襲ったり、高麗で行ったのと同様な行為を明でも行った。 明が倭寇の行動を封じるためにとった政策は、まず沿岸の防備を充実することであった。太祖は洪武17年(1384年)湯和に命じて海岸を巡視させ、山東・江蘇・浙江の方面の海に面した地域に59の城を築き、備倭行都指揮使司をおいた。兵士は人民の4丁から1人をとり、5万8700人を集めて各地に分駐させた。洪武20年(1387年)には浙江沿海の諸衛所の兵士6万2853人に対し各人に紙幣5錠をあたえた。翌年にはさらに福建の沿海に五衛指揮使司と12の千戸所をおいて倭寇に備えた。』
前期倭寇と呼ばれる14−15世紀の倭寇。蒙古軍が日本に襲来した元寇の後から倭寇の活動が激化した。朝鮮半島や中国沿岸部で村を襲い、人々を拉致し、食料を奪った。
この時期の倭寇は、中央の権力が及ばない九州などの日本人が中心だった。
後期倭寇と呼ばれる16世紀。明の鎖国で防疫活動が禁止される中で、密貿易としての倭寇は激しさを増した。
倭寇とはいいながら、その首領は中国人だった。最も有名な王直は長崎県の平戸を拠点に日本人を配下に加えて中国各地を襲った。
先の「倭寇〜海の歴史」によると・・・。
『 日本で貿易をした王直は、帰国にあたって博多の助才門ら三人の日本人を誘って、双嶼につれていった。これ以後は朝貢の形式によらない日本人の密貿易商人群が、ぞくぞくと中国の双嶼をめざして渡航し、中国商人やポルトガル商人と貿易を行うようになった。かくて、倭寇といわれる日本人の活動が始まったのである。』
王直は1553年、大軍を率いて中国を襲った。ここから数年間、「嘉靖大倭寇」と呼ばれる最盛期を迎える。この頃の活動の中心は浙江省だった。
しかし1559年、王直が胡宗憲によって捕らえられ斬首されると、倭寇の活動は「浙江を離れて福建・広東の地方が主となり、1560年以前の倭寇のような猛威はみられなくなった」。
そしてその頃に活躍したのが威継光だ。
『胡宗憲の死後、福建・広東方面の倭寇の防衛を担当したのは威継光らである。 1563年、倭寇の大部隊が福建の各地を侵犯した。浙江の温州から来た倭寇と福建の連江の倭寇が合して諸県をおかし、広東から来た倭寇と福建の倭寇が合して玄鐘所を攻略した。彼らは各地を荒らしまわったすえ興化府城を陥落させて平海衛に拠った。副総兵の威継光は浙江から福建にいたって、平海衛に倭寇を破り、ほとんどこれを殲滅した。威継光はさらに仙遊や同安に拠った倭寇をも撃破し、声望隆々たるものがあった。』
倭寇を描いたレリーフを眺めながら、下駄を履いているのが倭寇なのだと気付いた。明の官兵は靴を履いている。
崇武古城でもこんな戦が行われたのだろうか?
南京の虐殺博物館のような詳細な解説は一切ない。中国でも昔の話なのだろう。それに親玉は中国人なので「反日キャンペーン」には利用しにくいということか・・・。
ただ、倭寇のことを知るにつれ、日本と朝鮮・中国の間では昔から住民の「拉致」が行われていたことを知った。北朝鮮による拉致も、ひょっとするとその延長線上にある時代錯誤の出来事なのかもしれない。
観光センターの一角に舞台が用意されていた。ここでは毎日、「恵安女」のショーが行われている。
この地独特の衣装に身を包んだ女性たちのことで、どうやら倭寇から身を守るため男と見分けがつかないようこういう衣装を着ていたという。
残念ながら、彼女たちの舞台を見る時間ない。それにしても、この衣装で海賊の目をごまかせるとはとても思わないのだが・・・。
時間があれば、南門から城壁の中に入ることができる。有料だ。
城内は細い路地が入り組んだ迷宮のような街だという。
ただ私には時間がない。更に言えば、城壁を見るのが目的で、中の街にはさほど興味がなかった。中には入らず、このまま駅に向かうことにした。
待っていてくれたタクシーに乗り込み泉州駅に向かう。
沿道には、数キロに渡って石材店が並ぶ。
崇武はまさに石材の街だということがこの通りを走るだけで、よくわかった。
崇武古城。
倭寇や石像に興味がある人以外にはあまりオススメできないスポットである。
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<参考情報>
私がよく利用する予約サイトのリンクを貼っておきます。
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