カザフスタンとの国境を越えてキルギスに入国すると、白タクをチャーターして東へと向かった。
目的地は「ブラナの塔」。
11世紀に建てられたカラハン朝の都バラサグンの遺跡としてキルギスでは貴重な世界遺産に認定されている。

国境から“中央アジアの真珠”と呼ばれるイシククル湖に向かう途中、トクマクという町で横道に入り、交通量の少ない道を進む。
世界遺産と言っても地元の人が「ブラナの塔」を訪れることはほとんどなく、その名も所在地もさほど知られていない。
だから、私が乗った白タクの運転手もこの塔の場所を知らず、何度か車を止めて地元の人に道順を確認していた。

そうしてようやく辿り着いた。
この裏寂れた門が「ブラナの塔」の入り口である。
観光客はおろか、受付もなければ警備員もいない。
当然、入場料は無料である。

ゲートを入ると、申し訳程度に世界遺産の看板が立っていた。
この塔単独ということではなく、「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の構成遺産の一つとして2014年に登録された。

何の前触れもなく「ブラナの塔」が眼前に現れた。
誰もいない。
この日は空も雲に覆われ、なんとも淋しい世界遺産である。

それでも細部を見れば、イスラム風の幾何学模様に覆われた手の込んだ塔であることはわかる。
もともとはモスクに付随するミナレットとして建てられ、45メートルの高さがあったが、度重なる地震で上部が倒壊し、現在は高さ24メートルになっている。
ソ連時代の1974年から何度か修理が施され、昔の美しさを想像できる状態を取り戻したのだそうだ。

塔の内部には人がようやく1人通れるだけの狭い階段があり、なんとか塔のてっぺんに上がることができる。
人気の観光地であったら、順番待ちがすごいことになるところだが、訪れる観光客がほとんどいないのは幸いと言えなくもない。

暗い階段を抜け塔の上に立つと、一気に眺望がひらけた。
南に見えるのは天山山脈。
北側にもその支脈が走り、その間を流れるチュイ川が作り出した「チュイ渓谷」にバラサグンの都はあったのだ。
シルクロードの天山北路を行くキャラバン隊もこのミナレットを目印にしたことだろう。

乾燥した草原地帯にあって、この渓谷は豊富な雪解け水で常に緑を保ち、農耕を営むには最適な場所だったに違いない。
広大な草原を走り回った遊牧民たちにとっては巨大なオアシスだったのだろう。

塔の北西に小高い丘のようなものが見えた。
正確にはわからないが、おそらくこれは有力者の墓「クルガン」だと思われる。
クルガンとは、イスラムが中央アジアに進出する以前、青銅器時代の草原で活動した遊牧民たちの墳墓である。
小高い丘を作り、その表面に石を敷き詰めたもので、まさに日本の古墳とよく似ている。

塔を降りて横からこのクルガンを眺めると、2つの丘からなっていることがわかる。
日本の皇族が眠る前方後円墳とどこか形が似ていないだろうか。

クルガンの上に登ってみると、幾つもの大きな穴が残されていて、発掘調査が行われたと推察される。
これはあくまで私の推測なのだが、ブラナの塔ができるずっと以前にこのクルガンが築かれ、このあたりはその頃から権力の中枢であったということなのだろう。

中央アジアにおける「クルガン」の歴史は古い。
キルギスの首都ビシュケクにある国立歴史博物館を訪ねた時、「クルガン」の模型が展示されていた。

その説明によれば、紀元前にこの地に支配していたイラン系遊牧民族サカ人はすでにクルガンを作る習慣があり、キルギスでも各地にクルガンが残っているとのことだった。
死者を埋葬してその上に丘を作り、石を敷き詰める。
まさに方墳にしか見えない。
こうした北方騎馬民族の風習が、どのようにして海を渡ったのか興味は尽きないところである。

さらに興味深いのは、クルガンの北側には「石人」と呼ばれる石の像がたくさん立っているのだ。
高さは大きいもので1メートルくらい。
ちょっとひょうきんな顔が描かれ、お地蔵さんのようでもある。

石の形もまちまち、並べ方にも規則性はないものの、みんな同じ方向を向いている。
この石人は、死者を弔うために立てられたと考えられており、石の下に眠るのは突厥の軍人たちではないかとも言われているようだ。
突厥といえば、6世紀に華北からカスピ海沿岸まで広がる大帝国を築いた遊牧民である。
そして突厥も一時、このバラサグンに都を置いた。

石人の中には明かに弁髪を編んだ者もいる。
突厥も弁髪だった。
弁髪といえば満州族が築いた清王朝のヘアスタイルとして有名だが、北方の草原地帯では古くから多くの遊牧民族が弁髪だったとされる。

石人たちの多くは右手に器を持っている。
これは一体、何を意味しているのだろう?
こうした石人が作られたのはイスラムがこの地に入ってくる前の6世紀から10世紀だと見られている。

石人が並ぶエリアの端には、丸い車輪のような石が一列に並べられている。
石臼や砥石の類らしいが、私には石の車輪のように見えた。
これとは大きさは異なるが、日本の古墳からも「車輪石」と呼ばれるよく似た形の装飾品が出土していて、こんなところにも勝手に民族的なつながりを感じてしまうのだ。

石人エリアの背後には、土塁のような高まりがぐるりと取り囲むように残っていた。
ブラナの塔があったバラサグンは城壁に囲まれたかなり大きな街だったと考えられている。
「ブラタモリ」や「英雄たちの選択」をよく見ている私としては、こういう何の説明もない高まりにどうしても意味をもたしてしまうのだ。

ブラナの塔は石人よりも後の時代の建造物だ。
カラハン朝の権力者たちは、先の支配者たちが遺したクルガンや石人を巧みに利用して、この場所にイスラムモスクを建て、そのシンボルとなるミナレットを作ったのではないか。
そんな想像を勝手に巡らせた。

敷地の一角に小さな博物館があった。
この遺跡から出土したさまざまな品が展示されているが、多くはイスラム化された10世紀以降のものである。
特に貴重な出土品は、すべてロシアが持ち去ってモスクワやサンクトペテルブルクにあると言われている。

展示されているもののほとんどはアラビア語が刻まれた石などカラハン朝以降のもので、私が興味のある突厥以前の姿を知ることはできなかった。

素人でもわかりやすいところで言えば、修復される前の「ブラナの塔」を写した写真。
この遺跡の研究が進められた背景には、ロシア人学者たちの貢献も大きいという。

研究をもとに作られたブラナの塔が建てられた頃の街の様子。
まだわかっていないことも多く博物館にも詳しい説明は書かれていないので、こうした写真を見ながら遠い昔の様子を自分なりに想像するしかない。
当時バラサグンの街は20〜30平方キロメートルもの広さがあったと考えられているそうだ。

実はこのブラナの塔の北数キロのところに、同じく世界遺産に認定されている「バラサグン遺跡」がある。
こここそがより古い6世紀ごろ突厥時代の都の跡と見られ、西遊記でお馴染みの玄奘三蔵もインドに向かう途中にこの地を訪れ、突厥の王と面会したとされる。
現在、日本の帝京大学も参加して発掘調査が進められているそうで、謎に包まれていた遊牧民の大帝国の全容が次第に明らかになるかもしれない。
ただこちらの遺跡には、ブラナの塔のような素人にもわかりやすいシンボルはなく、掘り返された穴ぼこがあるだけだというので、こちらまで回ることはしなかった。

ひと通りの見学を終え、博物館を出たところで塔を見上げるツアー客を見かけた。
全員、欧米からの観光客。
ここは歴史や世界遺産に興味がある人だけが訪れる場所のようだ。

それでも私は、わざわざこの地を訪れてよかったと思う。
イスラム時代の塔はさておいて、居並ぶ石人たち、そしてその脇に打ち捨てられたように存在する古代人の古墳、クルガン。
どうしても日本人のルーツと関連づけて想像を広げてしまうのだ。

中央アジアの荒野にポツンと立つこのブラナの塔。
交通の便は悪いが、日本人にもぜひ訪れてもらいたいスポットである。