<きちたび>中央アジアの旅2023🐪 ウズベキスタン🇺🇿 大鍋で作る「プロフ」の味とロシアへの秘めた恨み

ウズベキスタンの首都タシケントの新市街。

そのど真ん中にある「ティムール広場」には馬に跨った英雄ティムールの像がある。

高校の世界史でちょこっとだけ習った人物だが日本人の間ではチンギスハンなどに比べて圧倒的に知名度が低い。

しかし、中世アジアを代表する軍事乗って天才で、モンゴル帝国の半分とも言われる大帝国を一代で築き上げた。

しかもモンゴルがこの地を破壊し尽くしたのに対して、ティムールは新たな都を建設し、この地の文化を復興させた文字通りの英雄なのである。

この広場の近くには地下鉄の駅がある。

タシケントには3本の地下鉄が走っていて、そのうちの2路線かこの駅を通っている。

私が泊まったホテルからは歩いて10分ぐらい。

25日の朝、私はこの駅から地下鉄に乗り北を目指した。

料金は片道1400スム、日本円でわずか17円という安さだ。

「Shahriston」という駅で降りると、いきなりタワーが現れた。

「タシケントタワー」というソ連時代に作られた電波塔で、高さは東京タワーよりも高く、中央アジアでは一番高い建造物だそうだ。

しかし私はタワーを見に来たのではない。

別の目的が2つあったのだ。

一つは、電波塔の隣にあるテニスコートなどを併設する謎の施設。

中央部から離れた施設の中に世界中なら人々を引き寄せるある食堂があるという。

それは一部のグルメのための店ではなく、まさに庶民の店なのだ。

店の入口にはウズベク伝統の皿で飾りつけた看板があり、店名が書いてあった。

「BESH QOZOM」とは5つの大鍋のこと。

そしてその下には「CENTRAL ASIAN PILAF CENTRE」と書かれている。

ここは中央アジア全域を代表する郷土料理「プロフ」の超有名店なのだ。

「地球の歩き方」では今も昔からの店名「中央アジアプロフセンター」で紹介されている。

この店の特徴は何といってもその厨房にある。

「5つの大鍋」という店名の通り、広い厨房にはいくつもの大鍋が置かれていて、この鍋でプロフを作るのだ。

プロフは中央アジアで広く食べられているピラフ風の焼き飯のこと、鍋が大きければ大きいほど美味いプロフができるのだという。

しかも誰でも厨房で調理する様子を間近から見て撮影できるのだから、世界中の観光客岩塩集まって来るのも不思議ではない。

何を隠そうこの私もその一人というわけだ。

この日はスケジュールがタイトで、私は9時の開店に合わせて駆けつけたつもりだったのだが、どうも様子がおかしい。

客が私以外におらず、店員たちも一向に店を開けようとしないのだ。

200〜300人は一度に座れるほどの大きな店だが、実は言うほど人気がないんじやないかと疑った。

たくさんいる店員もまだダラダラと掃除をしたりして、私が店に入っても英語で話しかけても見向きもしない。

私は後の予定が気になって、一人の店員を捕まえてGoogle翻訳で質問をした。

「9時なのになぜ店を開けないのか?」

それを見た店員が私のスマホに何かを書き込む。

「今はまだ8時だ」

スマホの時計は9時を過ぎてると指で示しながら、私は気づいた。

そうだ!ウズベキスタンは他の国より1時間遅いんだった!

私は前日にキルギスからウズベキスタンには入国したのだが、その際にスマホの時間を変えるのを忘れていたのだ。

私は一人で納得し店を出ると、木陰の椅子に座って店が開くのを待つこととなった。

あと1時間待たなければならないのだけれど、ちょっと時間の余裕ができたようで変な気持ちだ。

そのうち、ポツポツと客が集まり始め、厨房にも活気が出てきた。

中央に置かれた一番大きな鍋にも火が入り、刻んだ野菜が煮えていく。

広大な厨房は、調理場と言うよりも町工場のようだ。

この中で決められた工程があるのだろうが、素人が見てもよくわからない。

ただ、中央の大鍋で炊かれた野菜が分けられて、様々な肉や米と一緒にたきあげられ、最後に焼かれるのではないかと想像した。

力のいる作業なので、ほとんどは男性の職人の手でプロフづくりは進められるが、中にはおばさんの姿もある。

何かを切る役目なのだろうか。

待っている間に注文するものを決めようと再びお店に入ってメニューを見せてくれと頼む。

するとおばさんはテーブルの上に置いてあったQRコードを指差した。

スマホでそれを読み取ると、お店の紹介とともにメニューも見ることができた。

ただし全部キリル文字、これがウズベク語なのか、ロシア語なのかさえ私にはわからない。

ただ写真があるので、それを見て選ぶことができる。

翻訳機能を使えばある程度は書いてある内容も理解できた。

こうして9時になると私はすぐにこの写真のプロフを注文した。

するとおばさんはそれはないからこちらにしろと、別のプロフを私に勧めた。

まあ、プロフであれば何でもいい。

私はおばさんに勧められたプロフとミネラルウォーターをGoogle翻訳を使いながら注文した。

おばさんは手に持っていた端末にそれを打ち込んでそれが印字された紙をくれた。

この店がいっぱいになるくらいの客が来たら、やはりデジタルを使わなければ捌ききれないだろう。

開店直後だったためか、プロフはすぐに運ばれてきた。

初めて対面する中央アジアの代表料理。いかにも美味そうである。

てっぺんには肉がゴロゴロ。

何だろう?

牛か? それとも羊だろうか?

チャーシューらしきものも1枚。

ウズラの卵も2つ。

そしてこちらはトルコ料理で有名なドルマ。

挽肉などの具材をブドウの葉で巻いたものである。

ベースとなるのはあの大鍋で煮た野菜や豆。

アクセントに干し葡萄も入っている。

ひと口食べると、もうやみつきになった。

炭酸入りのミネラルウォーターが脂っこいプロフにこれがまたよく合う。

これこれ!

これを待っていたのだ。

これまでに食べてきた中央アジアの料理とは桁外れに美味しい。

日本人とはやはり味覚が違うのかと思い始めていたが、本当に美味いものは誰が食べても美味しいのだ。

ペロリと平らげて店を出る頃には外のテーブルにもプロフヲ待つ客が座っていた。

時間はまだ9時半。

この調子で行くと、ランチタイムにはどんなことになるんだろうと思いながら次の目的地に向かった。

次の目的地は歩いてすぐ、タシケントタワーの目の前にある。

古ぼけたタワーに大してこちらはまだピカピカだ。

最近整備されたに違いない公園の中に立つこのモニュメントは「タシケントでの抑圧被害者の慰霊碑」。

誰に抑圧されたかと言うと、ロシアとソ連だと言うのだ。

記念碑の天井にはウズベク語と共に英語でもこんなメッセージが刻まれていた。

「この国自由のために倒れた者たちの記憶は永遠に生き続ける」

今でもウズベキスタンとロシアの関係は深いと思っていたが、どういうことなのか?

それを知るために隣にある博物館も覗いてみた。

「抑圧犠牲者の博物館」

2002年にオープンした歴とした国立の博物館である。

入場料は25000スムだが、写真撮影を希望するとプラス40000スム払わねばならない。

合計780円ほどになる。

ほとんど客はいないのに、チケット売り場には3人もおばさんがいて、展示室にも監視員やら掃除のおばさんやら妙に関係者が多い。

展示を見ているとチケットを見せろとは言ってくるし、写真を撮っていると別のおばさんが寄ってきて撮影許可のチケットを見せろと言う。

おばさんたちはみんな権威をかさに来て高圧的だ。

昔の社会主義国の嫌な感じを思い出す。

肝心の展示内容は、パネルがほとんどで、英語は見出しのみ。

だから正直なところほとんど詳細は理解できない。

たとえばこのパネルには「帝政ロシアによる植民地政策の確立」と書かれ、破壊された神学校の写真などがあしらわれている。

帝政ロシアによるタシケントへの軍事侵攻があったのは調べると1865年の出来事のようだ。

こちらのパネルは、1892年のタシケントでの反乱と1898年のアンディジャン事件のものだ。

アンディジャン事件を調べてみると、Wikipediaにこんな説明があった。

『アンディジャン事件は、ウズベキスタン東部フェルガナ地方のアンディジャン市で発生した武力衝突事件のこと。市民に多数の死傷者が出たことからアンディジャンの大虐殺 (Andijan massacre) とも呼ばれることがある。』

中央アジアはすんなりとロシアの軍門に降った訳ではないのだ。

アンディジャン事件の犠牲者の顔写真が載った新聞記事。

どこの国でもそうだが、犠牲になった人たちの顔はインパクトが強い。

ロシア革命直前の1916年にも大規模な反乱が起きたようだ。

参加者たちの写真や資料が残っている。

男性ばかりではなく女性たちの写真もあるので、民族を挙げての抵抗だったのだろう。

ロシア革命によってロシア帝国が倒れると、今度は抵抗の相手がソビエト連邦に変わった。

特に1930年代、ソ連が集団農業を推し進めると、農民は困窮しこの地を逃げ出す者も多かったようだ。

ソ連に抵抗する活動家たちは拘束されて強制収容所に送られた。

このパネルに映る人たちを見ると、みんなインテリ層だったことがうかがえる。

ソ連政府は労働者や囚人を過酷な環境の中での強制労働に当たらせた。

さらに、民族のリーダーたちを公職から追放する。

それは政治指導者だけでなく、芸術家や教育者など幅広い層にも及んでいく。

第二次世界大戦が勃発すると、少数民族に対する強制移住もう始まった。

極東から多くの朝鮮人がウズベキスタンに地に送り込まれた一方、ポーランド系やタタール人が追放された。

ソ連による抑圧は戦後も続き、その代表として1980年代の「コットンスキャンダル」が大きく展示されていた。

ウズベキスタンはソビエト中央の指示の下、全ての耕作地を綿花栽培に特化させた結果、生産量が伸ばす環境が破壊される壊滅的な結果となる。

しかし、当時の地方権力は嘘の報告を続けその背後では大規模な汚職も起きていたというのがコットンスキャンダルのようである。

こうして計画経済は破綻し、改革を掲げて登場したゴルバチョフは皮肉にもソ連を崩壊させた張本人としてロシアでは今も極悪人扱いだ。

中央アジアの人たちにとって、ロシアやソ連に対する感情にはとても複雑なものがあることは理解できる博物館である。

ただなぜこのような博物館をあえて建設したのだろう?

それがわかる展示が博物館の最後にあった。

ソ連の崩壊と共に独立を果たしたウズベキスタン。

その初代大統領に就任したのがカリモフ氏である。

彼は急死する2016年まで独裁者としてこの国に君臨した。

たくさんのカリモフ氏の写真と合わせて、ティムールなどかつてこの地に繁栄をもたらした英雄たちの肖像も並ぶ。

書いてある文字は理解できなくても、この博物館を建てたカリモフ氏の狙いは分かる。

ソ連時代の抑圧から国民を解放し、再び栄光あるティムールの時代を取り戻す、そのリーダーがカリモフ氏自身だとアピールしたかったのだろう。

子供たちに囲まれて笑顔を見せるカリモフ氏。

独裁者がなぜか好む構図だ。

帝政ロシアからソビエト連邦時代の抑圧は紛れのない事実であろう。

しかし、カリモフ氏自身、ソ連の最高幹部だったし、独立後も政敵を手段を選ばず潰し、違法選挙や報道規制、拷問によって圧倒的な権力を維持してきた。

西側では、カリモフ氏は世界最悪の独裁者の一人と目されてきた人物がこの博物館を建てた狙いは、民族主義と愛国心を煽って自らの権威を揺るがないものにすることであろう。

ただ、この博物館が示すようにロシア離れを進めてきたのも事実のようで、他の中央アジア諸国と比べると、ウズベキスタンはロシアの色が薄まっている印象を受ける。

独裁者がいなくなったウズベキスタンがどこへ向かうのか、この博物館を訪ねて少し興味が湧いてきた。

中央アジアの旅2023🐪

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