<きちたび>バルカン半島の旅2024🚌 ボスニアヘルツェゴビナ🇧🇦 険しいディナル・アルプスを越え思い出の街サラエボに入った

🇧🇦ボスニアヘルツェゴビナ/モスタル~サラエボ 2024年10月30日

ボスニア紛争の激戦地モスタルでは、世界遺産の石橋や旧市街を歩くほかにもう一つやりたいことがあった。

それは、セルビア人地区に行ってくれるタクシー運転手を探すことである。

内戦時モスタルでは主にイスラム教徒のボスニャック人とカトリック教徒のクロアチア人がネレトヴァ川を挟んで戦った。

だが、この戦争の過程でこの街に住んでいたセルビア正教徒のセルビア人住民の多くは街を出て、ボスニアヘルツェゴビナ領内のセルビア人支配地域に逃れた。

今では、川の東岸にはボスニャック人、西岸にはクロアチア人とモスタルの街の中での棲み分けが出来上がったが、ボスニアヘルツェゴビナ全体で見れば、ボスニャック人とクロアチア人が手を結んで「ボスニアヘルツェゴビナ連邦」を構成する一方、セルビア人は自らの支配地域を「スルプスカ共和国」と名乗り、国土をほぼ二分したまま戦後30年を迎えようとしているのだ。

戦争取材で訪れて以来、ほぼ30年ぶりにボスニアヘルツェゴビナを訪れるに当たり、サラエボだけではなく、当時「民族浄化」と呼ばれ虐殺や集団レイプが行われた村にも行ってみたいと思った。

強制収容所での組織だったレイプが認定されたフォチャ、セルビア人勢力に包囲され孤立したゴラシュデ、そして最大の虐殺が起きたとされるスレブレニツァ。

いずれもセルビア人支配地区「スルプスカ共和国」内にある。

どうせモスタルからサラエボに移動なら、タクシーを1日チャーターしてそれらの村を一気に回ってそのままサラエボ入りしよう、そう考えたのだ。

しかし結局、セルビア人地区に行ってくれるタクシーは見つからなかった。

ホテルで相談すると、それらの村を一気に回るのは遠くて時間もかかるし、トラブルの可能性もあるのでオススメしないと言われた。

それでもお願いすると、タクシー会社に電話をかけてくれたが、やはり難しいと断られた。

街に止まっていたタクシーにも直接聞いてみたが、セルビア人地区に行ってもいいという運転手はいなかった。

私が想像していた以上に、両者の溝は深いようだ。

仕方なくタクシーのチャーターを断念し、バスでサラエボ入りすることに決めた。

10月30日の朝、ホテルをチェックアウトし、モスタルのシンボルである世界遺産の橋「スタリ・モスト」を渡り、歩いて東岸にあるバスターミナルに向かう。

まだ7時前ということで、旧市街の土産物屋も閉まっていてほとんど人通りがない。

少し早めにホテルを出たので、丸石が敷き詰められた路地を抜けてのんびり歩く。

モスタル、なかなかいい街だったな。

20分ほど歩いて、東バスターミナルに到着した。

モスタルには2つのバスターミナルがあり、東は主にボスニャック人、西はクロアチア人が使うらしいが、旅人からすると間違いやすく、利用するバスが東西どちらのバスターミナルから出るのかしっかり確認しないと乗り損なう危険性がある。

ちょっと早く到着しすぎたようで、バスターミナルにはまだほとんど人がいなかった。

バスターミナルの目の前にあるパン屋でパンを買い、簡単な朝ごはんを済ませる。

素朴なパンと自動販売機のコーヒーで3.50兌換マルク(約300円)。

もう少しまともなカフェで朝ごはんを食べるつもりだったけれど、バスターミナルのカフェでは「食べものはない」とあっさり断られてしまった。

ボスニアの人は全般的にあまり商売熱心ではない。

サラエボ行きのバスは、なんだかやたらに格好いい車両だった。

モスタル〜サラエボ間はボスニア有数の主要路線。

運行本数もそれなりに多いようだ。

ここで日本人の3人組に声をかけられた。

私とほぼ同年代のご夫婦とその友人のようで、スペインからイタリアを回ってバルカン半島に入り、もうかれこれ3ヶ月も旅行しているのだという。

今回の旅で初めて遭遇した日本人だった。

モスタルを定刻午前8時に出発したバスは、ネレトヴァ川に沿って北上する。

20分も走ると道の左右に高い岩山が見えてくる。

バルカン半島を貫く「ディナル・アルプス」の山々である。

空は相変わらず真っ青に晴れ渡り、それを映してネレトヴァ川の水面も青く輝く。

次から次へと現れる峰々はどれも猛々しく、見ているだけで心踊る。

ボスニアの山々がこんなに魅力的だったとは、紛争取材で訪れた時には全く記憶に残っていなかった。

この辺りの山の特徴は、石灰石でてきたカルスト。

白い山肌が長い年月をかけて雨水で削られ、このような険しい山々を形作った。

それでも植物たちはわずかな岩の隙間に根をはって急峻な山を緑に変えていくからすごい。

そうして車窓からの眺めに見惚れていると、突然宙に浮いたレールが目に飛び込んできた。

ネレトヴァ川が削った細い峡谷には、私たちのバスが走る道路以外に鉄道も通っているのだが、この鉄道の橋脚が流されてレールが浮いてしまったらしい。

そういえば今回の旅行に出発する前、ボスニア中部で洪水が発生したとのニュースを見ていた。

おそらくこれは、その際に土石流が襲ったのだろう。

被害はかなり広範囲に及んでいて、民家にも被害が及んでいるのがはっきりと確認できる。

私たちが通っているこの道路も間違いなく土石流の被害を受けていて、もう少し旅行の時期が早ければ通行止めでサラエボへの道が閉ざされていたかもしれない。

標高2000メートル級の山々に降った雨は全部この狭い谷に集まり、一気にアドリア海へと流れ下る。

山と海に挟まれたボスニアヘルツェゴビナは、日本列島と似た風光明媚と自然災害が背中合わせになった国土なのだ。

雲ひとつない青空が、気がつくと次第に雲に覆われていった。

たいりくせいディナル・アルプスを通過する間に地中海性気候から内陸性の気候に変化するのだ。

モスタルとサラエボは直線距離にすれば100キロも離れていないけれど、モスタルは地中海性気候、サラエボは内陸性気候で天気も街の印象もかなり違うらしい。

モスタルを出発しておよそ1時間。

ようやく最初の町に着いた。

ヤブラニツァは、第二次大戦中の有名な「ネレトヴァの戦い」の舞台として知られる。

ドイツ軍などの総攻撃により河岸まで追い詰められたチトー元帥率いるパルチザン部隊が橋を爆破することで敵を欺き奇跡的にネレトヴァ川を渡って脱出に成功したという物語。

ユーゴスラビアでは戦後映画化され、日本でも広く知られる英雄譚となった。

バスがサラエボに近づくにつれ、高い山は見えなくなり、代わりに紅葉の森が広がった。

空はますます厚い雲に覆われる。

突然、真新しい高速道路が現れた。

走る車はごくわずかで、私たちのバスも高速を横目に見ながら一般道をうねうねと走る。

ボスニアでは近年高速道路の整備を進めていると聞くが、なぜ利用しないのか、理由は不明だ。

そうこうしているうちに、バスはサラエボ市内に入った。

東西に伸びた大通りをモダンな路面電車が走っていく。

1994年、戦争の最中にこの町に入った時には、電車はおろか車も全く走っていなかった。

市の中心部に近づくにつれて新しい建物も目立つようになる。

戦争で破壊され尽くしたサラエボも、30年の歳月が再生させていた。

しかし、よく観察すると、内戦当時からあった古いビルの壁面には、機関砲によるものと見られる無数の傷跡が残されていた。

ボシュニャク人最大の拠点だったサラエボは、紛争が始まった1992年から95年の戦争終結まで、常にセルビア人勢力に包囲され、絶え間ない砲撃にさらされたのだ。

モスタルを出発して2時間40分、バスはサラエボのバスターミナルに到着した。

まだ11時にもなっていないので、ホテルにチェックインするには早すぎるとは思いつつ、荷物を担いだまま街を散策するのも疲れるので、とりあえずホテルに向かい最悪荷物だけでも預かってもらおうと考えた。

ただその前に一ヶ所寄りたい場所があった。

バスを降りると、Googleマップを頼りにその場所を目指す。

バスターミナルを出ると、左手にガラス張りの超高層建築が見えた。

ボスニア随一の高さを誇る「Avaz Twist Tower」だという。

ただ、このどんよりと曇った空の感じは当時と変わらない。

10分ほど歩くとお目当ての建物が見えてきた。

「ホテル・ホリデー」

ボスニア紛争当時、世界中から取材に訪れるジャーナリストたちの溜まり場で私も宿泊した「ホリデーイン」は、名前も外観の色も変わってはいるが今も同じ場所に残っていた。

「ホリデーイン」の前を走る大通りは当時『スナイパー通り』と呼ばれた。

ホテルのすぐ南側はセルビア人勢力が占拠していて、ビルの屋上に陣取った狙撃兵が昼夜の区別なく大通りを監視し、道を渡ろうとする者は誰であろうと狙われ、多くの市民が命を落としたことから、「ホリデーイン」にいたジャーナリストたちの間でいつの間にか「スナイパー通り」の名前が定着したのだ。

ジャーナリストといえども自由に外出することはできず、ホテルで行われる記者会見を元にニュースを発信するのが基本的な業務なので、目の前で起きるスナイパーによる殺戮は過大に世界に広まった面もある。

「ホリデーイン」の前で起きていたようなことはおそらくサラエボの他のエリア、ボスニアの他の町でも起きていたに違いない。

「ホテル・ホリデー」の壁には、1984年に開かれたサラエボオリンピックのエンブレムが刻まれていた。

私が宿泊した当時にもあったのだろうか?

全く記憶にない。

当時は建物の外観をのんびり観察する余裕などなかったのでそれもまた致し方ないことであろう。

今回もまたこの思い出深いホテルに泊まることも考えたけれど、少し町外れにあって観光には不便なので、旧市街のホテルを予約していた。

「ホテル・ホリデー」前の駅から路面電車で旧市街まで行こうと思って、待っている人に聞いてみると、ちょうど線路の工事を行なっていて旧市街の手前で折り返し運転になっていると教えてくれた。

旧市街まで行くならバスの方がいいと勧められ、停留所に来たバスに飛び乗った。

2両連結のモダンなバスで、料金は路面電車と同じ1.80マルク(約150円)だった。

バスは川沿いの道を進み、橋のたもとにある停留所で止まった。

この川はサラエボを東西に貫く「ミリャツカ川」。

そして、このありふれた石橋が、第一次世界大戦の引き金となった「サラエボ事件」の舞台となったことで有名な「ラテン橋」である。

1914年6月28日、この橋の上でオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子夫妻がセルビア民族主義を信奉する青年に暗殺された。

ラテン橋の上空をたくさんの鳩が舞っていた。

平和の象徴としてこの場所で餌付けされたものなのか、単なる偶然で鳩の群れに遭遇したのかはわからない。

でも、人類最初の世界大戦のきっかけを作った場所を鳩が飛ぶ光景は、なかなか印象深いものがある。

旧市街に入っていくと、オスマン帝国時代の遺跡が保存されている広場があった。

16世紀に建てられた「キャラバンサライ(隊商宿)」の跡だとか。

そして、その遺跡の向こうに見えるのが、この日私が泊まるホテルだった。

「ホテル・アート」

旧市街のど真ん中、観光には最高のロケーションに建つホテルである。

私が到着したのは、まだ11時を回ったばかりの時間だったけれど、フロントの女性は部屋はすでに準備できているのでチェックインできると言ってくれた。

ラッキー!

もうそれだけで、ホテルの評価は爆上がりだ。

部屋は最上階、応接セットが置かれたリビング付きのスイートルームだった。

これで2泊2万5780円は安いと思って、このホテルを予約したことを思い出した。

リビングの奥にはベッドルーム。

置かれているベッドは余裕のキングサイズである。

窓からはサラエボとそれを取り囲む丘の様子がよく見える。

夜になると、丘の斜面に張り付くように建つ家々の窓に明かりが灯り、満天の星のように煌めくのだ。

それはそれは美しい、不思議な夜景に息を呑む。

そして、なんと言ってもこのホテルで嬉しかったのが、大きなバスタブを見つけた時だった。

今回の旅行で初めてお目にかかったバスタブだったが、残念なことにお湯をためるために欠かせない栓がどこにも見当たらない。

それでも、熱いお風呂にゆったり浸かるというイメージが一旦出来上がってしまったら、もうどうにも止められないのだ。

この日の夜、タオルを沈めて栓の代わりにしてバスタブにお湯を充し、念願のお風呂に入ったのだった。

部屋に荷物を置くと、私はすぐに外出した。

ボスニア紛争のシンボルとなったサラエボの街でやりたいことがたくさんあったからだ。

5階のエレベーターホールからはサラエボ旧市街のバザールがよく見えた。

一般的にはここがサラエボで一番の観光スポットなのだが、私には他にもっと訪ねてみたい場所がある。

それは、サラエボを取り囲むように今も存在するセルビア人支配地域「スルプスカ共和国」だった。

コメントを残す