今日で2月も終わり、アラビア半島への旅の記録もこれが最後である。
旅の最終目的地ジェッダで体調不良のために果たせなかったことについて書いておきたい。
それは9.11世界同時テロの首謀者であり、「アルカイダ」のリーダーだったウサマ・ビンラディンの足跡を辿るという今回の旅のもう一つの目的だった。
彼は1957年3月10日、サウジアラビア有数の富豪の家に生まれた。
父親はイエメン出身のムハンマド・ビンラディン、建設業で財をなし22回の結婚を繰り返して54人の子供をもうけた。
母親はシリア出身の女性で、ムハンマドの10番目の妻となり、リヤドでウサマを産んだ。
ムハンマドにとってウサマは17番目の子供であった。
しかしウサマが生まれてすぐに母親は離婚し、別の男性と再婚して4人の子供を産んだ。
こうしてウサマは父の違う4人の弟妹とともに、敬虔なスンニ派ムスリムとして育てられた。

ウサマの人生が大きく変わったのは、ジェッダの名門「キング・アブドゥルアジーズ大学」に入学した後だったようだ。
ここで彼は一人の師と出会う。
この大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームである。
パレスチナ人の神学者だったアッザームは、当時ソ連の軍事侵攻に抵抗していたアフガニスタンに義勇兵を送り込む活動を行なっていた。
「文明の衝突」を不可避的なものと考え、世俗的な政府の打倒を目指すアッザームの教えに共感したウサマ・ビンラディンは、1979年にパキスタン、アフガニスタンを訪れ、ムジャヒディンを支援する活動を始めたのだ。
私は彼が「世界一のテロリスト」と呼ばれるきっかけを作ったジェッダの大学を訪れてみたかったのである。

ジェッダは、ウサマ・ビンラディンの父親が起こしたサウジアラビア有数の建設会社「ビンラディン・グループ」の本拠地でもある。
Googleマップで確認すると、ビンラディン・グループの関連施設がいくつかジェッダ市内に見つかった。
9.11の惨劇とアメリカ特殊部隊によるビンラディン暗殺の後も、父親の会社は無傷で、今もサウジを代表する大企業としてあの世界一を目指す「ジェッダタワー」も受注したという。
本社の建物を見ても別にどうということはないが、アメリカを震撼させた「最悪のテロリスト」がどういう背景で生まれたのかを理解するうえで、一度訪ねてみたいと思っていたのだ。
ただこれも体調不良のために叶わなかった。

ウサマ・ビンラディンがアメリカを敵視し、ニューヨークの象徴であった世界貿易センタービルに2機の旅客機を突入させた裏には、どんな思想的な背景があったのだろう?
今回サウジアラビアを訪問する前に読んだ高尾賢一郎著『サウジアラビア 「イスラーム世界の盟主」の正体』という本の中にヒントになるような記述が見つかった。
直接的な動機ではないが、我々とは違う思想のバックボーンをイスラム教徒として生きてきた彼は持っていたに違いない。
かなり長くなるが、高尾さんの本から引用させていただこう。
サウジアラビアと過激主義のかかわりを、ここで時系列に、二つの潮流にもとづいて紹介する。現実世界の多くの暴力が「正義」を目指して生まれるように、過激主義者の思想・行動もまた、サウジアラビアやイスラーム世界をより正しい方向に導こうとの意思をとおして現れた。このことは、サウジアラビアがイスラーム世界の盟主としての資格を満たしていない、あるいはイスラームに背いているという考えを過激主義者が持っている状況を意味する。したがってサウジアラビア政府とすれば、彼らは社会の治安を乱すだけでなく、国家の看板を大きく傷つける存在となりうる。
【イフワーン】
まず一つ目の潮流について、時計の針を20世紀初頭に巻き戻し、「イフワーン」と呼ばれた人々を紹介したい。
イフワーンとは20世紀初頭、サウード家のアラビア半島征服に協力した遊牧民の戦闘部隊である。もともとイフワーンとはアラビア語で「兄弟」を意味し、転じて同じムスリム、すなわち同胞を意味する言葉だ。彼らの主たる役割は周辺の地を制圧し、代わりにサウード家からその土地と戦利品の一部を受け取ることで、サウジアラビアの領土拡大に貢献することであった。
アブドラアジーズ初代国王は、周辺大国と外交関係を持たずに滅びた第一次王国と同じ轍を踏まぬよう、半島制圧の過程でイギリスとの同盟関係を築いた。さらに、安定的な支配を優先して東部のシーア派住民が領土内にとどまることを認めた。こうした戦略的な政治手腕は、イフワーンの目には国王によるワッハーブ主義の妥協と映った。
また、支配地を拡大するにつれてイフワーンは統治権を要求したが、アブドラアジーズ国王はこれを拒否し、自身の一族を辺境の知事に配した。こうしたことへの不満がイフワーンとアブドルアジーズ国王の対立につながり、1928〜30年にかけて両者はついに戦闘に突入したのである。この結果、アブドルアジーズ国王は自身の覇権に貢献したイフワーンを壊滅させた。
これだけなら過去の話で済んだのだが、イフワーンを源流とする過激主義の潮流が、1979年に国内を揺るがす事態を生んだ。同年11月にメッカで起こった聖モスク武装占拠事件である。首謀者のサウジアラビア人、ジュハイマーン・ウタイビーは約1000人の人質に当時のハーリド国王の廃位を訴えた。ウタイビーは、アラビア半島中部の有力部族ウタイバ族の出身であり、彼の祖父はイフワーンの一員として活躍していた。つまりウタイビーにとって、サウード家は一族の仇と呼べる存在なのである。
もっとも、ウタイビーによる国王廃位の要求はたんなる私怨によるものではなかった。彼の主張は、アメリカをはじめとした西洋諸国と手を組み、経済発展と国際社会におけるプレゼンスの向上に心を奪われたサウード家に、ワッハーブ主義を国是と掲げる資格も、イスラーム世界の盟主を目指す国家の統治者たる資格もないと断罪するものであった。
戦略や展望に富んだ政治運動ではなかった点、この事件は一部の狂信的な人々による単発的な事件と捉えられ、ひとたび鎮圧すれば済む話であった。それでも、この事件が国内で頻繁には語られてこなかったことからは、「サウード家はイスラームに反している」とのウタイビーの主張が掘り起こされたくないものだった事情が推察できる。事件からちょうど40年たった2019年、国内で初めての占拠事件を描いたテレビドラマが放映された。ウタイビーを演じたサウジアラビア人俳優は、役柄の心情を「幼稚で自分勝手」と評した。事件を公の場で語るのに、40年の歳月を必要としたのである。
【1979年】
ところで、聖モスク占拠事件が起こった1979年は、サウジアラビアだけでなく、中東全域にとっての大きな転機といえた。1月にはペルシャ湾対岸のイランで革命が起こり、バフレヴィー朝が倒れて現在のイラン・イスラーム共和国が誕生した。3月にはエジプト・イスラエルの平和条約の締結、7月にはイラクでサッダーム・フセインが大統領に就任した。そして12月にはソ連がアフガニスタンに侵攻するなど、騒擾続きの一年となった。
こうした地域の不安定化は、イスラーム世界の盟主を目指すという、サウジアラビアの地域外交における青写真の大きな一歩となった。ペルシャ湾岸諸国の新たな協力体制としてGCCを設立し、イスラエルからパレスチナを守護する立場をエジプトに代わって担い、また資金援助や義勇兵派遣によって、ムジャーヒディーンと呼ばれるアフガニスタンの現地抵抗勢力に協力した。
サウジアラビア人の人類学者、マダーウィー・ラシードは、こうした地域情勢に触れつつ、1979年を「サウジアラビアの過激化が始まった年」と説明する。聖モスク占拠事件を機に、政府が国内の治安維持の必要性を痛感し、社会の規制を強めたためである。またサウジアラビア史を専門とするナビール・ムリーンは、1979年について、サウジアラビアが「古い権力・権威構造を再び必要とした」、つまり「サウード家とウラマーの暗黙の連帯が復活した」ことで、宗教界のプレゼンスが向上したタイミングと説明する。
1980年には勧善懲悪委員会による風紀取り締まりが活発化し、町からは映画館などの娯楽施設が姿を消した。聖モスク占拠事件で背教者との汚名を着せられたサウジアラビア政府が、再びワッハーブ主義にもとづいた社会形成に舵を切ったのである。ただし、こうした変化は内政に限り、外交面では依然としてアメリカとの強力な関係を維持していた。このことが、過激主義の第二の潮流につながる。
【ムスリム同胞団の流入】
第二の潮流として取り上げたいのはムスリム同胞団だ。ここで、同組織とサウジアラビアの関わりを確認したい。
1920年代後半にエジプトで誕生したムスリム同胞団は、1950年代以降、弾圧を逃れるために一部のメンバーが周辺諸国に移住した。そんな彼らを積極的に受け入れた場所の一つが、サウジアラビアをはじめとするペルシャ湾岸のアラブ地域である。
この時期、サウジアラビアでは現在の主要な国立大学が設立され始めた。メッカのウンムルクラー大学、リヤドのイマーム・ムハンマド・イブン・サウード・イスラーム大学(通称イマーム大学)とサウード国王大学(旧リヤド大学)、メディナのイスラーム大学などだ。同胞団メンバーには、教育分野を始め、公的機関を中心に活躍の場が与えられ、とくにウンムルクラー大学では幹部として厚遇された。
湾岸地域で同胞団のメンバーが受け入れられ、重用された背景にはいくつかの理由がある。まず、まだほとんどの国が独立以前であった当時の湾岸地域にとってエジプトは、同じスンナ派アラブの目指すべき近代国家であると同時に、域内に社会主義の陣営を築こうとするアラブ民族主義の中軸として、ワッハーブ主義と思想的に対立する立場にあった。このためサウジアラビアは、同胞団を支援することで域内におけるエジプトの影響力拡大を防ぎ、なおかつ自国の影響力をエジプト国内に浸透させることを目指した。
ただし、サウジアラビア政府は同胞団メンバーの役割を国内のインフラ整備のためのアドバイザーや労働力にとどめ、彼らが政治・宗教的影響力を持つことは認めなかった。まだエジプトで本格的な弾圧が開始する前、同胞団の創設者であるハサン・バンナーはサウジアラビアを訪問してアブドルアジーズ国王に謁見し、同胞団の支部を国内に設立することの許可を求めた。しかしサウジアラビアでは政党をはじめとした各種結社の設立が禁じられており、国王はこの要望を断った。
一方、同胞団の影響は個々人の教育活動を通して国内に根づいていった。この代表的な人物がムハンマド・クトゥブである。彼はハサン・バンナー亡き後のエジプトで同胞団の理論的指導者を務めたサイイド・クトゥブの弟で、兄がエジプトで処刑されたことを受けてサウジアラビアに移住した。そしてウンムルクラー大学やジッダのアブドルアジーズ国王大学で教職に就き、兄サイイドのイスラーム主義に関する著作の内容について講義を続けた。
サイイド・クトゥブのイスラーム主義思想の柱は、西洋の帝国主義と非イスラーム的な政治体制の排除であり、これらはイギリスと社会主義による支配を経験したエジプトの同胞団の歴史を反映したものである。これに対してサウジアラビアのワッハーブ主義は、社会に根づいていた民間信仰や中世の伝統などを排除の主な対象とし、政治体制の非イスラーム性を糺すことは優先事項としてこなかった。いずれもイスラーム的な社会形成を目標に掲げはするが、そのために何を標的とするかにおいて、両者は決定的に異なるのである。
【湾岸戦争と「サフワ」】
ムハンマド・クトゥブの思想的影響を受けた新しい世代が、1990年〜91年の湾岸戦争をきっかけに現れた。イラクのクウェート侵攻に端を発した湾岸戦争は、クウェートと国境を接し、石油輸出国としてイラクと地域覇権を争うサウジアラビアにとって重要な意味を持った。サウジアラビアはアメリカ主導の多国籍軍の国内駐留を認め、対イラク陣営としての立場を示した。しかし、異教徒を中心とした多国籍軍を国内に招き入れる一方、同じスンナ派アラブのイラクと戦うという姿勢は国内の一部から不信を招き、彼らが政治改革要求を始めた。
この中心人物に、ウンムルクラー大学でムハンマド・クトゥブの薫陶を受け、同大学でイスラーム学の教員を務めていたサファル・ハワーリー、またカシーム州の州都ブライダの人気説教師であり、同州のイマーム大学分校でイスラーム学の教員を務めていたサルマーン・アウダがいた。二人を筆頭に、誓願書の提出という形で政治改革要求を行ったメンバーは、後に「サフワ」(アラビア語で「覚醒」を意味する)と呼ばれた。
彼らは、より厳格なイスラーム法の適用にもとづいた国家形成を政府に求め、さらには立法権や司法権の独立、ウラマーの地位向上、政府機関からの腐敗一掃といった、従来の国家体制に対する明らかな不満を誓願書に書き綴った。誓願書の署名者には宗教界や教育界、また法曹界の人々が含まれていた。
政府は、宗教界の中枢でないとはいえ、本来なら体制側と呼べる宗教エリートたちが体制を批判していること、さらに宗教学者に限らない幅広い有識者が政府への不満を公にしたことを重く見た。そして最高ウラマー委員会を通じて、政治改革要求を「社会に不安をもたらす行動」と批判し、サフワのメンバーを公職から追放したほか、海外渡航禁止や自宅軟禁の処分を科すなどして、彼らの影響力が広がる事態を防いだ。
ウタイビー同様、サフワも政府批判の運動としては一過性のものにとどまった。しかしこれは、その後の大きな過激主義の潮流につながった点で、今日なお重要な出来事として語られる。
【ウサーマ・ビン・ラーディン】
サフワの政治改革要求運動を牽引したのは、主として国内で公職に就いていた知識人層である。一方、そんな主流派と袂をわかち、より直接的な行動を選んだ庶民層もいた。サフワの停滞に伴い、身の振り方はさまざまであったが、一部は政府当局の取り締まりを逃れるため海外に活動の場を求めた。この中には、後に名を世界に知らしめたウサーマ・ビン・ラーディンもいた。そしてこれが、イフワーンとムスリム同胞団に続く、過激主義の三つ目の潮流につながったのである。
ビン・ラーディンはサウジアラビアの大手ゼネコン、ビン・ラーディン・グループの経営一族の出身である。経済的な意味で庶民層とはいえないものの、ウラマーとしての素養などがあるわけではない点で、サフワの主流であった知識人層には該当しない。彼はアブドルアジーズ国王大学に在籍時、ムハンマド・クトゥブの講義に出席しており、サフワを率いたハワーリーの弟弟子といえる。
知られているように、ビン・ラーディンは1980年代にパキスタンにわたり、イスラーム世界の防衛のため、義勇兵として当時アフガニスタンを侵略していたソ連と戦った。このときの彼は、同胞であるムスリムを共産主義国から防衛する気概にあふれていた。しかし1989年のソ連撤退を経て帰国した後、彼が目にしたのは湾岸戦争で母国がアメリカに協力してイラクと戦っている状況だった。これを機にビン・ラーディンは、サウジアラビアに駐留する米軍と、アメリカに依存する母国政府を批判する活動に身を転じた。
この結果、1994年にビン・ラーディンはサウジアラビア国籍を剥奪されて国外追放の身となり、再びアフガニスタンに活動の場を移す。彼にとって、これはイスラーム世界の防衛のための新たな戦い(ジハード)の始まりといえた。
この点、サウジアラビア政府にとっては二つの誤算が生じたといえる。
一つ目は、「ムスリムの土地を占領する異教徒に対して武器を取って戦おう」という至極単純なビン・ラーディンのメッセージが、おそらくはサフワの知識人による啓発以上に、サウジアラビア国内、また世界各地のムスリムの間で支持を得たことである。サフワを率いた人々は、個々人で啓発活動を継続する中で、湾岸戦争に参入したアメリカを「新たなる十字軍」と評して、次第に主張の軸を政府への政治改革要求からアメリカ批判へと移していった。アメリカに頼る政府を批判する点は同じだが、外敵批判は国内でより多くの支持を集める効果もあった。国外追放となったことで、ビン・ラーディンは、アメリカ批判によって反政府運動が大衆化する状況を、国際的な舞台で作り出すことができた。
二つ目は、ビン・ラーディンが率いた過激主義組織アル・カーイダが、アフガニスタンを根城としつつ、自然発生的な組織となったことである。彼の呼びかけは、世界中のムスリムが自発的に武装蜂起を行うよう促すもので、この結果、ビン・ラーディン自身も知らない人々がサウジアラビアやアメリカを標的に武装活動を起こし始めた。
【9・11の影響】
9・11により、サウジアラビアはビン・ラーディンという鬼子を産んだ「テロリストの温床」とのイメージを世界に印象づけてしまった。このため政府は、国内の過激主義勢力の掃討だけでなく、テロリストと戦うという自国の立場を世界に向けて示す必要に迫られた。加えて、政府はイスラーム自体のイメージ改善という責任を負うことになった。9・11によって「イスラーム=過激な宗教」という図式が欧米社会に広がったためである。サウジアラビアが目指すイスラーム世界の盟主が、海外にとっての「過激主義の首領」を意味してしまったわけだ。
まず求められたのは、アメリカへの協力である。2001年10月、アル・カーイダのメンバーを匿っているとされたアフガニスタンに対して、アメリカは空爆を開始した。これに際し、サウジアラビアは直接的な軍事参加はしなかったものの、上空通過を許すことでこれに協力する姿勢を見せた。過激主義が浸透した背景に両国政府の蜜月関係があったことを考えれば、こうしたアメリカへの協力は政府への不信感と反米感情を市井の間で強める側面を持っていた。
実際、ブライダに程近い村に生まれ、イマーム大学で教鞭を執っていたフムード・アクラー・ジュアイビーは、9・11を支持する声明を出した。そして彼に賛同する一部の過激な説教師たちは、国内のモスクでアル・カーイダを称賛する主張を繰り返して市民の反米感情を煽った。これを受けて2002年5月、すでに釈放されていたハワーリーやアウダといったかつてのサフワの顔役はアル・カーイダを批判する署名を発表したが、逆にシュアイビーの支持者による激しい反論を受けた。
【政府主導のイスラームへ】
9・11は最高ムフティーやウラマーが国内の反体制勢力を非難して済む問題ではなかった。むしろ国際社会に対して、過激主義を拒むとの強い政治的なメッセージを発信する必要があった。
このため、政府は宗教界ではなく、政府主導のイスラーム言説の形成に着手した。これを率いたのが、1995年に脳卒中で倒れたファハド国王に代わって政治を取り仕切っていたアブドッラー皇太子(2005〜15年に国王)である。彼は、2003年5月に開かれた「思想的対話のための第一回祖国会議」で、「中庸と穏健」という政策路線を掲げた。
中庸と穏健という言葉に込められた意図は、一つは過激主義勢力への対応として従来の弾圧や追放以外の方法を求めるというものだ。この一環で導入されたのが、内務省が元アフガニスタン義勇兵や過激活動の容疑者を対象にリハビリテーションを行う「思想矯正プログラム」である。政府は、アル・カーイダに所属したメンバーがおおむね低学歴であることを背景に、テロ対策における基本方針を「無知な者を正しいイスラームに導く」ことと定めた。
中庸と穏健に込められたもう一つの意図は、過激主義対策となりうる国家の宗教的立場を確立することだ。この一環で取り組まれたのが「宗教間対話」である。アブドッラー国王は2007年、サウジアラビア国王として初めてローマ教皇と会談した。2008年6月にはメッカでイスラーム諸国の代表者を招いて「イスラーム世界対話会議」を開き、各国の指導者にイスラームと同じセム系一神教であるユダヤ教・キリスト教との対話を呼びかけた。
こうした活動が過激主義を封じ込めるうえで実際にどれほどの成果を上げたかはさておき、アブドッラー国王は従来の、保守的で閉鎖的な「テロリストの温床」というイメージとは異なった、他宗教の指導者と手を携える自国像を世界にアピールし続けた。
【「寛容」が意味するもの】
中東諸国では、20世紀後半の過激主義の台頭以来、「寛容」が重要な政治議題となってきた。寛容に限らず、「穏健」や「中道」といった類似の標語が、過激主義の対極を指す言葉として普及し、過激主義を封じ込めたい各国政府はこれらを政策の方針として好んで用いた。
9・11以降、これらの標語は国家、および多国間レベルで急速に広がった。たとえば2004年にヨルダンのアブドッラー2世国王が発出した「アンマン・メッセージ」の中で、若者を過激主義から引き離すための方法として「中道」が掲げられた。また2008年に採択されたイスラーム協力機構の新憲章では、「中道と寛容に基づくイスラームの知識と価値を拡散、促進、保護すること」が加えられた。
寛容は西洋近代が社会にとっての不可欠な秩序の一つとして掲げてきたものだ。この文脈では、寛容は端的には宗教的多様性を指し、政教分離を主な方法として、伝統宗教であるキリスト教を管理するものであった。今日では、こうした西洋固有の文脈や政治と宗教の関係を超え、寛容は「他人の言動などをよく受け入れる」という個々人の生活態度や倫理・道徳観のあり方と捉えられ、現代の世界で最も否定しがたい価値観の一つとなった。
サウジアラビアが掲げる中庸・穏健を含め、今日、イスラームをめぐって掲げられる寛容をはじめとしたさまざまな標語の第一の目的が、過激主義の封じ込めであることには疑いがない。そこには政府が許可する「公式」イスラーム言説とその担い手を確立しようとの意図が見られる。つまりここでは、寛容が「他人の言動などをよく受け入れる」新世界の価値観などではなく、「正しいイスラーム」を独占的に形成・所有しようとする、ヘゲモニーの旗印として機能しているといっていい。
引用:『サウジアラビア 「イスラーム世界の盟主」の正体』

9・11が植えつけた「イスラム=テロ」という単純な見方は間違っていると多くのイスラム指導者は反論する。
キリスト教でも仏教でも、時として敵を倒す時、「正しい教え」を広めるという大義が使われる。
イスラム教も同じである。
ただ、キリストやブッダと異なり、イスラム教の創始者であるムハンマド自身が武力を使って異教徒を征服し信者を増やしていったのだから、その教えの中にもともと戦争が含まれているといえる。
イスラムの教えに忠実であろうとすればするほど、現実路線を取る世俗的な政府とは対立せざるを得なくなる宿命なのだ。
イスラム国家が、私たちと共通に基盤に立ち国際協調路線を取ろうとすれば、原理主義者からは正しいイスラムからの逸脱だと糾弾される。
そうした矛盾を抱えるイスラム国家が真の意味での民主主義に移行するのは難しいということを今回の旅で学んだ。
サウジアラビアに限らず、今回旅したクウェートもバーレーンも政党の設立には慎重だ。
王家に対する批判を絶対に許さない現在の国家運営がいつまで続けられるのか、サウジアラビアを筆頭にアラブ諸国は国際社会と国内の原理主義との間で危ない綱渡りを続けているのである。