<きちたび>アイルランド人のルーツ?「ケルト」とはどんな人たちだったのか?

ケルトと匈奴

本はさらに、「ケルトと匈奴」という項へと進む。

私たちが習う世界史の中では、脇役としてちょこっと登場する両者には共通する点が多い。

紀元前6世紀から前3世紀にかけての地図をみると、まことにケルト人の勢力圏は稀有壮大である。なにしろ、ギリシアの支配地域やローマの領土を圧倒的に凌駕するスケールなのである。しかも、ケルト人はそれだけでは飽きたらず、機を窺ってはギリシア本土に侵入し、はては都市国家ローマの富をかたっぱしから略奪するという蛮行をくりかえした。ギリシアやローマは、さぞかし頭の上(北方地帯)が重かったにちがいない。

アジアを目を転じると、ちょうどそのころ、秦の始皇帝が北方の蛮族・匈奴の侵攻に頭を痛めていた。匈奴は西域からモンゴルにかけて大勢力をふるう遊牧騎馬民族で、しばしば南に下ってきては略奪をくりかえしていたのである。神出鬼没の匈奴軍は不気味というしかなく、南方の王朝にとっては、まさに目の上のこぶであった。歴史上、最大の造形物といわれる万里の長城は、この匈奴の侵攻を恐れて秦の始皇帝が築いたものである。さしもの始皇帝も、匈奴にだけは手を焼き、不倶戴天の敵とみなしていたことがよくわかる。

ユーラシア大陸の東西で、奇しくも、同質の事態が起こっていたということは、歴史のおもしろさとしかいいようがない。歴史は未解明な要素が多いほど興味が尽きないのだが、ここで少し、ケルトと匈奴の類似性を並べてみたい。

両者は共に、古代史を騒然とさせたわりには、いともあっけなく歴史の舞台から消え去っている。ケルトは森のなかで雲散霧消し、匈奴は大草原のなかで消滅した。この不可解な現象ゆえに、かれらの正体は今もって深い神秘に包まれ、歴史上の大きな謎とされている。

おもうに、ケルトも匈奴も、互いに土地というものには執着心がうすかった。

匈奴は遊牧騎馬民族であることから定住を習性とはしなかったが、ケルトもおそらく広い意味では、同様の資質を持っていたと思われる。前記の古代地図からもわかるように、ケルトには永住することへのこだわりがなく、かれらは常に新天地を求めてさまよいつづけているのである。要するに、居心地のいいあいだはそこに住み、ひとたび不都合が起きれば平然と居地を捨て去った。すなわち国家という概念をもたず、民族という意識も希薄だったことが、欧州をくまなく席巻するという広大な版図を築かせたのだろう。

しかし、土地に未練をのこさず、気のむくままに居住地を移動するというこの生き方が、次第にケルト民族の単一性を失わせ、ひいてはその存在自体を歴史の中に埋没させることになった。

「司馬遼太郎の風景⑧」より

この記述を読みながら、私は日本の蝦夷のことを思った。縄文人といってもいいかもしれない。どこかケルトや匈奴に似ているのではないか?

それは狩猟採集を生業として、不必要に群れることなく、比較的平和に長い年月を過ごしていた古代人たちという共通性だ。

鉄器などの強力な武器が登場すると共に、彼らが生きた平和な時代は終わった。追い詰められた彼らは、それまでのライフスタイルを改め、「蛮族」として後発の文明社会に戦いを挑んだ末、歴史から消えていったように思える。

ケルトの運命が大きく変わったのは、有名なシーザーの「ガリア戦記」の頃。このガリアこそがケルトとされ、シーザーはローマを長年悩ませたケルトに反撃したことで英雄となった。

ヨーロッパの大地を自由気ままに専横してきたケルト人の住処は、わずかにイギリスとアイルランドの両島にだけ残される結果となった。最後までローマに屈服しなかったケルト人が海を渡り、先に住みついていた仲間たちと合流したのである。以降、ケルト人は広くその地の先住民と混じり合い、現在は「スコットランド人」「ウェールズ人」そして「アイルランド人」とよばれている。したがって厳密にいえば、かれらはケルト人ではなく、ケルト系の人々ということになる。

「司馬遼太郎の風景⑧」より

ただし、考古学の分野は近年目覚ましい進歩を遂げている。

司馬さんの時代とは、ケルトに関する見方も大きく変わってきているらしい。

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