適塾と鳩居堂

「翔ぶが如し」も「龍馬がゆく」も続きが借りられず、仕方なく同じ司馬遼太郎さんの「花神」を読み始めた。蘭学の医者から近代兵制の創始者となった大村益次郎を描いた大作だ。

あまり期待していなかったのだが、この本が意外に面白い。

 

上巻を読み終わった。学者の話なのでまったく派手さはない。しかし、江戸時代末期の日本人たちの向学心には驚かされるものがある。明治維新後、猛然と世界に乗り出して行く日本人のエネルギーの源はこの凄まじいばかりの知識欲にあったと感じさせられる。

その中で、のちに大村益次郎と名乗る村田蔵六が大阪に出て入門したのが緒方洪庵の「適塾」である。緒方洪庵は備中足守藩の出身で、彼の「適塾」は当時3000人の門弟を抱える「全国第一の蘭学塾」だった。福沢諭吉もここ適塾で、大村の後輩として学んだ。

その教え方はこうだった。

『 輪講というのが、教える制度の中心になっている。これはどの塾でもそうだが、塾生をその学力によって八学級に分けてしまってあるのが適塾の特徴である。その学級ごとに輪講をする。その輪講は月に6回ある。 輪講とは要するに塾生自身が蘭書の講義をすることで、トップにそれをやる者をくじで決める。首席者という。それが蘭書の一くだりを和訳すると、つぎの順番の者に質問をし、それに答えられなければ「敗者」になって黒点がつく。うまく答えられた者は「勝者」で、白点である。それらの審判をくだす者が、塾頭もしくは塾頭次席の「塾監」である。そのようにして1ヶ月たつと、1ヶ月間の点数をしらべ、白点の多い者によい場所の畳をあたえ、わるい者はその逆になる。一般に3ヶ月つづいて白の勝ち越しをした者には上級の学級に昇格させる。 その輪講の前夜になると、全塾生がほとんど徹夜で勉強した。 ちょっと言いわすれた。塾が、先輩が後輩におしえるといういわば塾生同士の相互学習制度(輪講)であるとすれば、師匠の緒方洪庵の出る幕はなさそうである。 が、幕はある。洪庵は塾頭や塾監、もしくは最高学級である最上級生にだけおしえた。 その機会は、わりあいすくない。』

『 ロウソクといえば、この塾で輪講の前夜ともなれば、畳一枚ずつにそれぞれ机を構えている塾生がほとんど徹夜するため、三十ほどの机の上にそれぞれロウソクがかがやき、春日明神の万燈会のような光景を呈する。村田蔵六が入塾して最初に感動したことのひとつは、この月に六回あるこの夜の異様な熱気であった。  その光景は、雑踏のごとく夜市のごとくであります。 と、国許の父親に書き送った。かれの連想はあまり詩的ではない。 「塾生たちは、畳一枚のあらそいのために必死に勉学します。事はまことに単純で、西の畳にいるのが東の畳にうつるというただそれだけのことにすぎないのに、そこが人間のおもしろさでありましょう。一枚の畳に一身の面目を賭け、たとえ高熱で眼光もうろうたる者でも手拭にて頭を冷やしながら徹宵しておのれの面目をあげようとしています」 人間の情熱をうごかすものは畳一枚という物質もしくは物理的空間ではなく、どうやらそれ以外の、意外に奇妙なものであるらしいということを、蔵六はこの塾にきて知った。 「学問勉強ということになっては、当時、世の中に緒方塾生の右に出る者はなかろうと思われる」と、福沢諭吉もその自伝で語っている。たとえば福沢などは塾にいる期間、勉強につかれると夜昼なしにその場にたおれて眠り、さめると机にむかった。このため着の身着のままで、枕というものを用いたことがないという。』

村田蔵六は、父親に帰郷を命じられて適塾をやめ長州に帰り医者をする。その後、請われて四国の宇和島藩に渡り、軍艦や砲台を作る仕事に従事する。これが兵学との出会いだった。

それが一段落すると、蔵六は江戸に出た。ここで開いたのが「鳩居堂」という塾である。

教える科目は、オランダ語及び物理学や生理学などの基礎的なものの他に、医学コースと兵学コースがあった。入塾生は、諸国から来た。ほとんどの雄藩を網羅していた。長州藩から官費留学生として久坂玄瑞も入塾したが、オランダ語ができずものの1ヶ月ほどでついてゆけず退塾してしまった。

「鳩居堂」と聞いて、すぐに銀座の鳩居堂を連想した。あれば大村益次郎が作った店なのかと思い、ネットで調べてみた。しかし、違っていた。

銀座の鳩居堂は、もともと京都のお店で、創業は1663年だという。創業時は薬などを扱う店だったようだ。18世紀に入り、香や書画用品を扱うようになり、頼山陽らの文人からも評価される店に発展した。

ということで、大村益次郎が鳩居堂を開くずっと前からお店は存在していた。大村がその存在を知っていたかどうかはわからない。

いずれにせよ、「花神」には幕末の志士たちとはまったく違う感覚を持って、同じ時代を生きた若者たちがたくさん登場する。「志」を掲げて行動力を武器に走り回った志士たちと、大村のような知識に裏打ちされた技術者がつながることによって時代が大きく動いた。

それぞれの人たちは、当時、その後訪れる時代を正確に想像することなく日々を懸命に生きたのだろう。その総和が結果として明治という時代を生み出した。歴史の面白みである。

 

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