縄文人の世界

カナダ旅行から帰国した後、奥歯の痛みでメシが食えない日々を送り、息子の運転に付き合ったり、孫が泊まりに来たり。
何だかおちつかない8月が続き、ジョギングも長いこと休んでいた。

きのう久々に井の頭公園を一周した。さすがに身体が重い。それでも少し、日常が戻って来た感じがする。

このところ、カナダ旅行のエッセイの執筆に精を出している。書き出すと止まらなくなり、気がつくと真夜中をすぎている。帰国後は時差ボケは大したことはことはなかったが、午前中が眠い。

(注)後日、旅行記を書き上げました。こちらからご覧ください。

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さて、縄文人の続きだ。小林達雄著「縄文人の世界」の中でこんな話が出てくる。

「竪穴住居は、縄文人の造った初めての恒久的な人工建造物であった。これまでの仮小屋とは違い、ここにイエの「ウチ」と「ソト」の意味が出てくる。

イエの外に出るとムラが広がる。さらにその外は、ハラが広がっている。旧石器人はハラの中にすむサルのように自然の中に溶け込んで生きてきたが、縄文人はムラという人工のスペースを確保することによって、ハラというものを対立的なもの、ムラの内とムラの外、すなわちムラとハラの区別をはっきりさせたのである。

だが一方で、ハラは縄文人の食料庫、材料庫であり、こうした生活舞台でもあるハラには名前をつけ、自然を自分たちの息がかかった見方に引きずり込んでいく。

さらに、そのハラの向こうにはヤマがある。ヤマというのは本当の自然であり、そのヤマの向こうにはソラが広がっている。

イエ、ムラ、ハラ、ヤマ、ソラ。ソラというのは、生きてその場所に行くことのできない『あの世』でもある。

イエを抱えるムラは「ヒト」の世界、ハラは「人と自然」の共生の世界、ヤマは「自然」一色の世界、さらに天上に広がるソラは、ヒトと自然を超えたいわば『神』の世界に続くのだ。

この構造こそ、おそらくは縄文人の世界観の大枠をつくる骨組みとなるものと考えられる。」

「この構造こそ、日本の原風景ではないだろうか。縄文時代とそのまわりの景観との関係というのは、その後の日本人の中にずっと生きている。たとえば、この遠近の関係は、日本独自の浮世絵の見事な遠近法や日本的な庭づくりの借景にもつながっていくのである。」

群馬県安中市の中野谷松原遺跡では、ムラの広場の真ん中から墓地を見ると、墓に建っている細長い石は遠くに見える浅間山の方を向いていた。栃木県小山市の寺野東遺跡では、多目的祭祀場と考えられる場所に立つと、冬至の日には、筑波山の山頂から日が昇る光景を目撃できる。

秋田県の大湯環状列石(大湯のストーンサークル)には、万座と野中堂の『日時計』と呼ばれる構築物がある。

それぞれ中心に細長い石を立て、そのまわりに放射状に石を並べている。この2つの日時計は夏至の日没線上に一直線に並ぶ。

「もはや縄文人が冬至や夏至をはっきりと意識し、記念物構築の設計の中にそのことを織り込んでいた事実は疑いようのないものである」

「縄文人がかくも熱心に太陽の運行に歓心を寄せたのは、それがカレンダー、時計だったからである」

縄文人は、昔学校で教えられたようなバカではなかったようだ。学校で習う日本史は、天皇中心の歴史として作られていて、それ以前の時代は神話の世界でごまかされ、詳しく教えてもらえない。すべての文化文明は中国から伝わったと教えられた記憶がある。

しかし、日本人の独自性は1万年におよぶ縄文時代にすでに存在するらしい。今日、世界の中で日本に独自の文化が育ったのは誰かのせいではなく、日本列島の特異な自然環境が育んだものと考えるべきなのだろう。

ことさら日本を礼賛するつもりはないが、考古学の発達で遠い過去のことが分かるようになったなら、正しい歴史を科学的に知りたいと思う。イデオロギーではなく、事実を知りたい。

この本に登場する日本各地の縄文遺跡巡りは、老後の楽しみにとっておきたい。

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