ベルリンの壁崩壊から30年

11月9日、ベルリンの壁が崩壊してから30年目の記念日だった。

Embed from Getty Images

歴史がひと回りしたような不思議な感慨がある。

30年前、現役の記者として働いていた私にとっても、思い出すことがいろいろある。

Embed from Getty Images

ベルリンの壁が崩壊する直前、私は東ベルリンを取材し、壁の前から中継もした。

東欧諸国では西側へ脱出する人々が増え、体制が揺らぎ始めた時期だった。

東ベルリンの空港に降り立った時、タクシーが一台もいなくて途方に暮れた。後で分かったのだが、東ベルリンを取材するジャーナリストはみんな西ベルリンに宿を取り、東ベルリンの取材をするのが常識だった。

金はかかる。でも、西側のやり方がそのまま通用した。

当時、番組のディレクターとして取材していた私にはそんな知識はなく、普通に現地に乗り込みそこで何とかするつもりだった。

結局どうしたのか覚えていないが、車を持っているドライバーに金を握らせホテルまで連れて行ってもらったのだろう。

結局、東ベルリンでは車も通訳も手配できず、西ベルリンから呼び寄せた記憶がある。

通常、社会主義国を取材する場合、車と通訳は当局からあてがわれるのが普通だった。彼かは公務員であり、我々の監視役だった。当局にとって都合の悪い質問や答えは訳さない。

しかし、東ドイツは違った。取材ビザだけ発行して、後は勝手にどうぞ。随分進歩的だと思った。

私たちの取材の名目は、東ドイツ建国40周年の式典を取材すること。世界中から取材陣が集まり、我々の面倒など見る余裕はなかったのかもしれない。

でも、ほかの社会主義国ではありえない対応。この時、すでに体制は崩壊しつつあったのかもしれない。

そのわずか1ヶ月後、ベルリンの壁が崩壊した。

私は日本で、興奮しながらそのニュースを編集していた。

建国40周年式典の主役だったホーネッカー議長の解任は、それまで辛うじて保たれていた国の秩序を壊し、誰も予想しないスピードで東西の冷戦構造を崩壊させたのだ。

壁開放のきっかけは、一人の広報担当者の勘違いだったという。

11月9日、東ドイツ政府は外国への旅行の自由化を決議したが、スポークスマン役のシャボフスキーは決議内容をきちんと把握しないまま、「ベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」とテレビの生放送を通じて間違った発表をしてしまった。「いつからか?」と質問されると、シャボフスキーは「私の認識では『直ちに、遅滞なく』です」と答え、これを聞いた東ベルリン市民が一斉に壁の前に集まり、当局の計画とは関係なく「歴史的な夜」が実現したのだ。

シャボフスキーの話は、かなり後になって明らかになった。初めてその事実を知った時、私は笑ってしまった。

戦後の世界を規定し、多くの人間がそのために命を落とした東西対立という絶対的な秩序がたった一人の勘違いで終わってしまったのだ。

歴史というのは、本当に面白い。

壁が崩壊した翌年、私は再び東ドイツを取材した。

なんだか気の抜けたような弛緩した空気が漂っていた。

ソ連製の戦車が次々に解体される工場を取材したり、まったくヤル気を失った東ドイツ軍の基地も取材した。つい半年前まで、東西冷戦の最前線で東側最強の最精鋭部隊として西側と対峙していた兵士たちがこれほどまでに士気を失ってしまうのかと、驚きながらカメラを回したのをよく覚えている。

ベルリンの壁崩壊から30年。

東西冷戦の終結は、世界に平和をもたらすと思われたが、すぐにそうではないことが明らかになった。

社会主義によって押さえ込まれていた宗教や民族対立が各地で頻発し、グローバリズムの広がりが貧富の格差をますます広げている。ソ連に代わって中国が世界のスーパーパワーとして台頭し、ITと金融を武器に米中の覇権争いが本格化しようとしている。

そんな世界の変化を解説する様々な記事が出ていたが、その中で私の印象に残ったのは、ロイター電が伝えたメルケル首相の言葉だった。

『旧東ドイツ育ちのメルケル独首相は南ドイツ新聞に対し、共産党支配下の旧東ドイツでの生活はより簡素で、ときとして「ある意味ではほぼ快適だった」かもしれないと語った。』

自由な西ベルリンと抑圧された東ベルリン。

多くの人がなんとなくそんなイメージを持っているが、私の印象はまったく違う。

壁が崩壊する直前、壁の東西を取材した経験から言えば、「退廃の西ベルリンと静寂の東ベルリン」というのが私の印象だった。

周囲をすべて塀で囲まれ、西側の橋頭堡であり、ショーウィンドーでもあった西ベルリンはまさしく退廃しきった街だった。壁に沿って風俗店が並び、東側から西側に入った途端、街の汚さや落書きの多さ、派手なネオンと喧騒に圧倒された。

一方、東ベルリンは中世の風情の残るきれいな街だった。商店もあまりなく、レストランも多くない。それでも、東側で食べたトマトスープの美味しさは今でも忘れることができない。

「西ベルリンか東ベルリンか、どちらに住みたい?」ともし聞かれたら、若い時なら西ベルリンと答えただろうが、今の年齢になると東ベルリンを選ぶかもしれない。自由と同じくらい平穏や安定が重要だからだ。

メルケルさんが言う通り、社会主義体制の大枠にさえ異議を唱えなければ、仕事は安定していて、個人の生活がそれなりに大過なく過ごせた。静かで平穏な暮らしだったのだろう。

競争や成長に最大限の価値を置く西側の価値観だけが真理ではない。

格差が広がるアメリカで、社会主義的な主張が一定の支持を広げてきているのも、ベルリンの壁崩壊後の世界が再び曲がり角に差し掛かっていることを示しているのかもしれない。

広告

コメントを残す