県立博物館

岡山への帰省2日目は一日中冷たい雨が降り続いている。竹やぶの作業はできないので、午前中博物館に行くことにする。

岡山県立博物館は、日本三名園の一つ「後楽園」の向かいにある。旭川沿いの駐車場に車を止め、後楽園の塀に沿って歩く。小雨が降り、人通りはほとんどない。冷え込んでいる。

三連休だがこの天気だと後楽園を訪れる観光客も少ない。

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岡山に住んでいた頃も、後楽園に行ったのは学校の行事で行った一度きりだと思う。子どもにとってはまったく魅力のない公園だった記憶がある。成長してからも帰省中に後楽園に行こうなどと考えたこともなかった。

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また時間がある時に一度のぞいてみることにしよう。大人になると良いと感じる場所は確かにある。自分の成長の度合いが測れるかもしれない。

そしてお目当ての岡山県立博物館は、後楽園の正門の反対側になった。去年訪れた群馬県立歴史博物館のモダンな建物に比べていかにも昔ながらの地味な博物館だった。

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この博物館には、岡山県の歴史が年代別に説明されているのだが、はっきり言って大したお宝はない。

一般に興味がありそうなのは日本刀だろうか。戦国時代、備前の国は日本一の刀の産地だった。備中、備後でもそれぞれ特徴的な名刀が作られた。しかし、写真撮影は一部を除いて禁止。日本刀の写真も撮ることはできない。何のための禁止なのか知らないが、歴史と文化を広く発信することを目的とする施設ならば、官僚的な規制は改めるべきだと思うのだが・・・。

それでは、展示されている岡山の歴史を私が興味を持ったものにしぼって主観に基づいて記録する。

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まずはナウマン象の化石だ。これは写真を撮ってもいいことになっている。旧石器時代のものらしいが1万5千年〜40万年前というきわめてざっくりした表記だ。瀬戸内海に沈んでいたものが漁網に引っかかって発見された。昔は陸には恐竜も闊歩し、瀬戸内海にも海竜が棲息していたのだろう。

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およそ4000年前の縄文時代には、瀬戸内海沿岸に多数の貝塚遺跡が確認される。倉敷市の中津貝塚からは多くの縄文土器が出土し、弓矢の先につける石鏃や漁網につける石錐が発見され、狩猟や漁労が盛んだったことがうかがえる。

紀元前4〜3世紀の弥生時代、現在の岡山県から広島県東部にかけて、「特殊器台」を用いて、首長の葬送儀礼を行なう文化圏が広がり、「吉備」の原型となった。

この「吉備」が繁栄したのが3〜6世紀の古墳時代。岡山県内だけで約1万2千基もの古墳が築かれた。その中には、造山古墳、作山古墳、両宮山古墳など、近畿地方の大王墓に匹敵する巨大古墳もあった。朝鮮半島などからやってきた渡来人が新たな技術や文化を伝え、鉄や焼き物の生産が盛んになった。

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この三角縁神獣鏡は岡山市北区の備前車塚古墳から発掘された11面のひとつ。邪馬台国の女王卑弥呼が中国魏王朝から授けられた銅鏡100枚の一部との説が有力だそうだ。吉備の国は大和政権と深い関係があったと推測される。

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博物館の入口に展示されていた「陶棺」は、津山市の水原古墳から出土した。

この古墳は、仁徳天皇とのロマンスで「古事記」に登場する黒媛の伝承地にあり、黒媛塚とも呼ばれている。黒媛は容姿端麗だったため召されて仁徳天皇の寵愛を受けたが、皇后に嫉妬され、故郷に帰った。仁徳天皇は黒媛を慕って吉備を訪れ歌を詠んだとある。

展示されている陶棺が誰のものか書かれていないので分かっていないのだろうが、全長2m24cmの大きなもので、土器や玉、鉄製武器などの副葬品とともに発見された。ちなみに、こうした陶棺の8割が岡山県で出土しているのだという。

しかし、繁栄した吉備の国も飛鳥・奈良時代には、天皇を中心とする律令に基づく国づくりが進められると、備前国、備中国、備後国に分割され、さらに備前国の北半分が美作国となった。そんな時代、備中国南部を拠点とした下道氏出身の吉備真備が遣唐使として活躍した。

平安時代末期には、平氏と源氏の争いの舞台となり、鎌倉時代には美作国の法然が浄土宗を開き、備中国の栄西が臨済宗の開祖となった。

さらに南北朝時代を舞台にした軍記物語「太平記」には岡山の武士たちが数多く登場する。九州から攻め上がる足利の軍勢に対し篭城戦を戦った福山合戦の舞台となったのは総社市にある備中福山城だ。

高瀬舟といえば、森鴎外の小説で有名だが、全国各地の河川で活躍したこの高瀬舟は室町時代に岡山の河川(吉井川、高梁川、旭川)が発祥の地らしい。下りは流れにまかせて下るが、上りは帆をあげて風の力を使い、急流では船頭が岸から引っ張ったり、肩に担いで押したりした。浅瀬を乗り越えるために船底が平たく浅くなっていた。

室町時代は、細川氏、山名氏、赤松氏ら有力守護大名が治めていた岡山地域だが、戦国時代に宇喜田氏が台頭し備前国と美作国の戦国大名となった。備中国は毛利氏が地元勢力の三村氏などと結びついて進出。1582年の備中高松城水攻めは、羽柴秀吉率いる織田軍と毛利軍の直接対決だった。

岡山城は宇喜田氏が築いたが、関ヶ原の戦い後は宇喜田氏に変わって小早川秀秋が備前・美作の領主に。さらに1632年、鳥取からの領地替えにより、池田光政が岡山藩主になる。名君と讃えられた光政と、その子の綱政の代に、藩学校や閑谷学校の建設、後楽園の造成、大規模な新田開発などを行い岡山藩政の基礎を作った。閑谷学校は、建物が現存する中では国内最古となる庶民のための学校だ。

江戸時代には、日本近代医学の祖と呼ばれる緒方洪庵、日本各地の地理調査を行った古川古松堂、山水画の浦上玉堂、金工作家の正阿弥勝義などの人材が岡山から生まれた。正阿弥勝義の作品はいくつか実物が展示されている。

日本刀は十口ほど展示してある。「備前長船」という名は素人の私でも知っている。

ちなみに、日本刀の数え方を調べてみたが今ひとつよく分からない。「一振り」「二振り」と数えるのが普通らしいが、表記は「一口」と書いて「ひとふり」と読ませるなどという解説もある。マスコミでは「一本」「二本」と数えることが多いそうだ。

日本刀については、改めて長船まで足を運んで調べてみたいと思う。

もう一つ、備前焼のコーナーがあった。備前焼は岡山を代表する焼き物である。

私が「片上のおばちゃん」と読んでいる母方の叔母が備前市伊部という備前焼の中心地で商売をしていた。すでに亡くなった「片上のおじちゃん」は備前焼の陶工たちと交流があり、家には一流作家から若手までのたくさんの作品を集めていた。売るとすごい金額になるのかもしれない。

備前焼も奥が深いので改めて勉強することにしよう。

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ほとんど忘れていたが、私は中学時代、歴史研究会のようなクラブに所属していたことがある。必修のクラブ活動だった気がするが、なぜそんな部を選んだのか覚えていない。

クラブのメンバーで古墳を見学に行った記憶がある。その頃は、まったく興味がなかった。どこの古墳だったかも覚えていない。地味な経験すぎて今回博物館に行くまで何十年も忘れていた。

ただ、最近歴史に興味が出てきたので、地方の博物館巡りを画策しているのだ。実際それぞれの地域にそれぞれの歴史がある。特に日本の古代史は謎が多い。これが少しずつ解き明かされつつあるのはエキサイティングではある。多くの考古学ファンが発掘現場に殺到しているニュースを見ながら「暇な年寄りが多いなあ」などと思っていたのだが、自分がその「暇な年寄り」になりつつあるのだろう。

 

 

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