王宮占領

先日のソウルへの旅行で、私は初めて朝鮮の王宮が日本軍によって占領された事実を知った。

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漠然としか知らなかった日清・日露の戦争について今更ながらちゃんと知らなければならないと思い、手始めに中公新書「日清戦争」を読み始めた。著者は専修大学の大谷正教授だ。

 

この本の中に「朝鮮王宮の武力占領」という項目があった。

ちょっと長いが引用させていただく。1894年、李氏朝鮮の都、漢城(今のソウル)での出来事である。

『 連合艦隊が朝鮮への清軍増派を阻止するために佐世保を出航した7月23日、朝鮮の首都漢城では、日本軍が朝鮮王宮を攻撃して占領。朝鮮国王を「擒(トリコ)」にするという驚くべき事件が発生した。

日本が「第一次絶交書」を清の駐日公使に手交して対清開戦への道をたどりはじめたにもかかわらず、ロシア・イギリスの干渉によって開戦への道が頓挫していた7月初め、朝鮮では開戦理由を探せという陸奥外相の指示に従い、7月3日、大島公使は内政改革の具体的提案を朝鮮政府に行っていた。10日に朝鮮側改革委員と大島の初会合が行われたが、16日に朝鮮政府は、内政改革着手は日本軍撤兵後であると、撤兵を要求した。

朝鮮政府の対応に改革の意思がないと判断した大島は、日本軍で王宮を包囲して軍事的威嚇によって要求実現を図る計画を立てた。7月18日付で、大島は王宮を包囲して要求実現を図ることを提案する電報を陸奥外相宛に送り、陸奥はこれを容認した。だが、閣議では王宮包囲のような強硬手段を執ることへの異論が出る。その結果、陸奥は19日付の大島宛返信で、大島に「正当と認むる手段を執らるべし」と指示する一方で、欧米諸国が不審に思う王宮包囲計画は禁止する。さらに李鴻章が朝鮮への増派を決したことは「清国は兵力を以って我に向けて敵対するものと認定」できるので、日本は対抗手段を取る(開戦する)ことを伝えた。

大島の主張する王宮包囲策を否定しながら、対清開戦を伝え、大島に「正当と認むる手段を執」るように指示したこの電文の真意は掴みがたい。その結果、漢城では外相の中止指令を無視して大島とすでに漢城にいた大島義昌混成第9旅団長が動き、対清開戦が混乱する。

大島公使は、20日、清軍の退去を朝鮮政府に求めることなどの照会を行い、回答期限をこれと同時に、大島公使は本野一郎参事官を大島混成第9旅団長のもとに派遣し朝鮮政府の要求を受け入れない場合、まず1大隊の兵を進めて王宮を囲み、朝鮮側が屈服しなければ旅団の全力をもって王宮を囲むことを依頼した。大島はその後に、高宗の父で閔氏政権と対立していた大院君を王宮に入れて政府の首脳とし、朝鮮政府に牙山にいる清軍への攻撃を日本に依頼させ、対清開戦の口実を得る計画を考えていた。大島旅団長はこの計画を承諾して、7月22日から牙山に進軍する計画を一時延期。1大隊ではなく、はじめから全旅団兵力を動員して朝鮮王宮攻撃を実行する。

7月22日夜、朝鮮政府の回答が日本公使館に届く。予想通り拒否の回答であった。23日午前0時30分、大島公使より大島旅団長宛に「計画通り実行せよ」との電報が到着すると、混成第9旅団は龍山を出発して漢城へ向かい、大島旅団長は日本公使館に入り指揮を執った。

歩兵第21連隊長武田秀山中佐が率いた第二大隊と工兵一小隊が、午前5時頃に王宮の迎秋門から侵入、警備の朝鮮軍と交戦のうえ占領し、国王を拘束した。朝鮮軍との戦闘は散発的に午後まで続き、日本軍兵士1名が戦死した。同日、日本公使館の杉村書記官が、日本による担ぎ出し工作を頑強に拒絶していた大院君を連れ出して王宮に入り、翌24日、大院君の下で新内閣が組織された。』

そして重要なのはここからだ。

『後日、不都合な事実は隠され、ここでも歴史の書き換えが行われる。日露戦争の開戦後に出版された公刊戦史の参謀本部編「明治二十七八年日清戦史」第1巻(1904年)では、王宮占領は先に射撃をしてきた朝鮮兵に反撃して日本軍が王宮を占領した自衛的・偶発的事件と説明された。著名な日清戦争研究者である中塚明は福島県立図書館佐藤文庫に所蔵されていた「日清戦史草案」を検討することで、草案段階で詳細に描かれていた日本公使館と混成旅団が事前に計画して実行した王宮占領事件が、公刊戦史では書き換えられ、ここでも「歴史の偽造」が行われたことを解明している。

この「歴史の偽造」が行われる以前には、王宮占領事件の概要を当時のジャーナリズムは事実をほぼ正確に伝えていた。たとえば当時の著名な新聞記者川崎三郎が著した浩瀚な日清戦争の通史、「日清戦史」全7巻(1896〜97年)の第1巻には、大島公使と混成第9旅団が計画的に朝鮮王宮を攻撃して占領した事実が述べられており、事件が計画的であったことを知っている国民も実は少なくなかった。』

この事件が、日清戦争、いやその後敗戦まで続く日本の半世紀に及び戦争の時代の幕を開けたのだ。

そんな重大な事件を、私はこれまで知らなかった。

王宮が他国によって占拠されるというのは、韓国の人たちにとって忘れ難き屈辱であろう。その歴史的な事件が起きた王宮というのが、先日私も訪れたソウルの観光名所「景福宮」である。

<参考>「景福宮」などを訪れた時のブログはこちら。

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日本人も多く訪れるソウル有数の観光地。この「景福宮」で120年あまり前、そんな事件が起きたことを、一体どれほどの日本人が知っているのだろう?

加害者はすぐに、あるいは意図的に忘れる。だが、被害者は忘れない。忘れないように語り継ぐ。そこに大きなギャップが生まれる。

日本と韓国の不幸か関係の根っこにはそうした歴史認識のズレが大きく横たわっている。

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