江戸開城

海音寺潮五郎の「江戸開城」を読んでいる。

勝と西郷による歴史的会談により、江戸が戦場になることなく、城が官軍に引き渡されたことは知っていたが、詳しいことはこの本で初めて知った。

確かに、徳川幕府があまりにあっけなく薩長連合に敗れたのは、考えてみれば不思議な気がする。会津や函館五稜郭での追いつめられた幕府軍の最期はいろいろと描かれているが、ここで戦った兵は幕府の軍勢のほんの一握りだったのだ。もしも幕府側が江戸で徹底抗戦していたら、官軍がこれほどたやすく全土を掌握することは不可能だっただろう。

それにも増して、インドや中国と同じく、内戦に乗じて海外列強の進出を許し、長期にわたって植民地化される事態も起きたと想像される。その意味では、勝海舟の果たした役割の大きさを改めて理解できた気がする。

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さて、この本の中に、天皇親政についてこんな記述がある。

「日本人は長い間にほんの本来の政治形態は天皇親政であったと考えてきたが、実はそうではなかったのではないかと言うのが、最近の一部の歴史学者たちの考え方である」

「日本書紀や古事記に記述されているヤマト朝廷時代のことを虚心に読むなら、天皇はやはり宗教的最高の、いわば象徴的存在で、政治は豪族らが執り行っていたと解釈しないわけにはいかない。つまり、日本では主権は二本立てになっていたのである」

「この政治形態に対して、日本人が批判的になったのは、聖徳太子の頃からであり、聖徳太子がその批判的日本人の代表者である」

「中国文化に対して強烈なあこがれを持ち、熱心にこれを学んでいる聖徳太子にとって、中国式皇帝のあり方と日本の天皇のあり方とを比べて考える時、あれこそ本物であり、これは野蛮未開な存在であると考えざるを得なかったに違いない」

「大化の改新によって、日本は天皇親政となったのだが、これは長くは続かなかった。平安朝初期の清和天皇ころになると、摂関政治が始まって、天皇は至尊であるだけで政治にはタッチされない存在となった」

「摂関政治に続いては、幕府政治がおこって、途中、建武中興という天皇親政時代がありはしたが、これはごくごく短い期間で、考えに入れるほどのことはない」

「日本の国が始まってから1900年あまり。このうち天皇親政の期間は280年くらいしかない」

「であるとすれば、天皇親政が日本固有の姿であったと考えるより、天皇は宗教的な最高の象徴的存在で、政治にはタッチされず、政治の主宰者は別にいるのが、日本の固有の姿であった。だからこそ、摂関政治が始まるのにも、幕府政治が始まるのにも、ほとんど抵抗らしい抵抗がなくしておちつき、長く続きもしたのだと考える方が納得できるのである」

「幕末・維新頃の人は、昔からの指揮者の言ったことを真向正直に聞いて、天皇親政は日本古代の固有の政治形態だったと信じ込んでいたから、幕府政治を廃して、政権を朝廷が持つようになったことを、王政復古と信じたのであるが、実は復古ではなく新しい政治形態を始めることだったのである。つまり、革命だったのである」

「革命にはある程度の血の祭典が必要なのである。血の祭典という犠牲のない革命ほど困難なものはないからである。現に慶喜の大政奉還という平和事実をもって、いわゆる王政復古はスタートしたのであるが、当時の朝廷ー天皇政府は表面はともかくも、実質的にはまるで権威のないものであった」

「このまるで弱体で、どうせ長続きはしないものと、人々に思われていた天皇政府に力がつき、権威が出てきたのは、伏見・鳥羽の戦争の途中からであった。この戦争は本質は徳川方の先鋒隊と薩長軍との衝突であった」

「この戦争に、薩長軍が勝ち、仁和寺宮が征討将軍宮として錦の御旗をひるがえして陣頭に出られると、形成が変わってきた」

「慶喜が前哨戦だけの負けで江戸に逃げてしまったので、箱根以西の大名はほとんど全部官軍になびいた」

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幕府側は薩長軍よりも多くの兵力と軍艦を持っていたにもかかわらず、慶喜は江戸に逃げ、恭順の意を朝廷に伝えようとする。

勝海舟はこの慶喜の命により官軍との調整役を担う。無血開城の判断にほとんどの幕臣は納得せず、暗殺の危険や一触即発の事態が続いた。これを乗り切って江戸を戦場にすることなく官軍に明け渡したのはまさに奇跡としかいいようがない。

そして勝の交渉相手が西郷でなければ、決して実現しなかったと海音寺は分析している。

有事の際、リーダーの資質によって歴史はまったく違った展開を辿るのである。

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