最後の将軍

欠けていたピースがピタリとはまる、とはまさにこの事である。

今まで腑に落ちなかった明治維新の謎が一冊の本によって魔法のように解消した気がする。

司馬遼太郎著「最後の将軍 徳川慶喜」。

江戸幕府15代将軍となった一橋慶喜の数奇な運命、というよりむしろ数奇なキャラクターを描いた小説だ。

「あとがき」の冒頭、司馬氏はこう書いている。

『無用のことだが、あとがきを書く。この小説をかき終えてからも、なお私の胸にさざめきだっている波がおさまらず、それをわずかに、あとがきを書くことによってしずめたい。』

この「胸のさざめき」と同じかどうかはわからないが、この小説を読み終えた後、私の胸もさざめいている。維新の志士を描いたどの小説よりも深いところを揺さぶられた気がした。

慶喜が将軍でなければ、明治維新は実現しなかった。したとしてもまったく別の形になった。慶喜という得意な人物こそ、維新の真の主役だということを初めて知った。

司馬氏もこう書いている。

『維新後30年を経て、政治事件のすべては歴史になり、事柄はすべて冷却し、いまになってふりかえれば、あのとき慶喜がおだやかに徳川の天下を返上しなかったならばその後どうなっていたであろうと考えるゆとりもでてきた。宮廷ではあからさまにいう者はまだなかったが、明治政府成立の最大の功績者は徳川慶喜ではなかったかとひそかに考えている者も多い。その機運のなかで慶喜に爵位をあたえねばという動きがあり・・・』

私にとって明治維新の謎は、徳川幕府はなぜ戦わなかったのかという点だった。

旗本の弱体化や軍の近代化の遅れなどという説明を聞いても、ほとんど戦わずして負けを認めた幕府の態度にはどうしても違和感が残っていた。

鳥羽伏見の敗戦で江戸に逃げ帰った慶喜をただの臆病者と理解していたことがその違和感の原因だということがこの本によってわかった。

慶喜はただの臆病者ではなかったようだ。

歴代将軍の中でも突出した知力と才覚を持ち、一時は徳川の救世主として幕臣のみならず、諸大名や攘夷の志士たちの期待までも一身に集めた。そのような才人がなぜ愚行を繰り返したのか、それを司馬氏は描いていく。人間という生き物を考えるうえで、慶喜はとても興味深い人物だ。

14代将軍家茂が死んだ後、慶喜は将軍職就任の要請を拒み続けた。

『慶喜の不幸は、さきがみえすぎることであった。 もはや幕藩体制では日本を運営してゆけないということは、冷静な頭脳をもつ者ならばたれの目にも明らかだった。嘉永六年以前には単に装飾的存在にすぎなかった京都朝廷が、雄藩や有志に擁せられて国政上の拒否権をもつようになり、いまや最悪の二元統治の状態になり、幕府は外交上のことはなにひとつきめることができない。この事情をみた英国の外交官などは日本の国体、政体をヨーロッパ風の分析法で解明し、この国の主権は京都朝廷にあり、将軍は主権を委託されているのみで将軍には主権がない、・・・(中略) 悪いことにこの西洋風の法制解釈をもっともよく理解できる頭脳を持っているのが、慶喜であった。』

『<盟主は、武力さかんでなければならない>それが、盟主の原理であった。(中略)もはや盟主ではない。その時勢に将軍家を継ぐなどということは、なにごとを意味するかを慶喜は知っていた。 「千載の賊になることだ」と、慶喜は原市之進に言った。徳川幕府はほろびる、といっても朽木のように風倒木のように自然に倒れるということではない。それならば良い。それはたとえ一日でも将軍になり、徳川の宗統に列する栄誉をえるのもいいであろう。しかし過去の歴史は、権力の倒壊は植物のようにはいかないことを物語っている。慶喜は、歴史主義者であった。歴史主義の水戸学の家に生まれたことが、その傾向をいっそうに濃くしている。水戸史観は合理的頭脳のかれについに合わなかったが、その思考法も事象の把握法も、かれの場合は歴史主義であった。過去にあっては、衰弱した権力を決して自然倒壊させていない。新興の者が地平線のいずこからかおこり、必ず天子を擁し、過去の秩序に賊名を着せ、それによって天下を糾合して寄ってたかって討とうとする。将軍になれば、慶喜はその討たれ者の役になるであろう。』

確かに一つの組織が弱体化し瀕死の状態になったとき、それに属する人たちは救世主を求め、その一人にすがりつこうとする。それは現代社会でもよく目にする光景だ。

企業でも政党でも国家でも。

しかし、成功する人は少ない。末期を迎えた組織を託された人は孤独だ。みんなが逃支度をしながら推移を見守っているのが、手に取るようにわかる。共に格闘してくれる仲間がいるかいないか、結果はどうあれそこが大きな違いとなってくる。

慶喜は結果的に徳川家を継ぐ。そして継いだ瞬間、長州への「大討込」を宣言し、帝から勅命と節刀を賜った。その10日後、今度は「大討込」の中止を宣言する。高杉晋作の小倉攻めにより勝てないと考えたのだ。

朝令暮改。

慶喜の将軍就任を口説き続けた松平春獄もこう嘆いたという。

『「つまるところ、あの人には百の才知があって、ただ一つの胆力もない。胆力がなければ、智謀も才気もしょせんは猿芝居になるにすぎない」と、言った。 が、慶喜はこの軽薄さについて内々にも悔いず、人に対しても恥じらわなかった。胆力といえばこの点の胆気は見事にすわっており、慶喜の行動は慶喜自身が常に支持し、自分ひとりが支持しているだけで慶喜はもう自足しているようであった。これは胆気ではなく別のものであり、いわば、本来の貴族というものであろう。』

そして長州大討込を中止した慶喜は勝海舟を呼び出し、和平交渉を命じた。ここから勝海舟が一気に幕府方の代表として歴史を動かすことになるが、勝海舟ほどに慶喜の考え方を理解できる人物は当時ほとんどいなかったであろう。その意味では勝海舟は慶喜の分身とも理解できる。

人の何手も先を読んでいる慶喜の行動は周囲からはただの愚行にしかみえないが、それはそれで底流に流れる信念のようなものがあり、それを勝海舟は具現化したとも言える。

そして大政奉還。

坂本龍馬が構想し、後藤象二郎が工作したこのいわば無血クーデターを慶喜はあっさりと受け入れた。司馬氏の記述によれば、慶喜自身が政権放棄を考えており、渡りに船といった感じだったようだ。

300年続いた徳川幕府を閉じる決断。龍馬は慶喜が大政奉還を受け入れたことを聞き、将軍の心中を察して涙したとされるが、慶喜はさらに合理主義者だったということだろう。

そして、自ら家臣を集めてその意味を説いた。社長が社員集会で会社倒産の経緯を説明するようなものだが、そうした役回りに関しては慶喜は天才的な役者ぶりだったようだ。

『いま天下の諸侯はもはや戦国の頃のように割拠している。幕府の威令おこなわれず、召せども来ぬ。このままでゆけば日本は三百の大小国に分裂するほかない。徳川家が政権を返上しさえすればそれが一つにまとまる。すべては天下安寧のためである。神祖は三百年以前、天下安寧のために業を創められた。いま天下安寧のために政権を棄つ。神祖の御志と同じである。棄てて持ってそのご遺志を継ぐことになる』

こうして大政奉還を素直に受け入れた慶喜に対し、容赦ない挑発を仕掛けたのが大久保一蔵(利通)と岩倉具視だ。慶喜の辞任と領地のめしあげを命じる「辞官納地」である。

この策を編み出した大久保は、慶喜の弱点を見抜いていたと司馬氏は見る。

『岩倉はちょっと首をひねった。官位を捨て領地も捨てれば慶喜は浪人ではないか。「いくら朝命を持ってそれを要求したところで、慶喜はそこまで思い切るまい」 まして慶喜には大政をみずから奉還したという史上空前の功績がある。その功績にみずからたのむだけに、ゆめ承知をすまい。

「いや、慶喜のおもしろさは」と、大久保はいった。弱点は、と言いかえてもいい。朝命を怖れるところである。というよりも朝敵になることを、世に慶喜ほど怖れる者は稀であろう。慶喜は歴史主義者だけにその目は常に巨視的偏向があり、歴史の将来を意識しすぎていた。賊名を受け逆賊になることを何よりもおそれた。 世に読書人のあふれすぎている時代に生まれ、慶喜自身が家康とは格段の教養人であった。このため文字に書かれる自分を常に意識せざるをえず、文字の中でも後世の歴史を最もおそれた。そこが、水戸人でもあった。南北朝のころの足利尊氏を逆賊に仕立てることによって独自の史観を確立した水戸学の宗家の出身であり、彼が受けた歴史知識はそれ以外にない。彼は自分が足利尊氏になることを何よりもおそれ、その点で常に過剰な意識を持っていた。

それを、慶喜と同じ体質の大久保一蔵はありありと見抜いている。もしこの辞官納地という無理難題を、朝命をもって迫れば慶喜は平伏し、さっさと衣冠を脱いで平民になろうとするに違いない。』

慶喜は受け入れるが旗本八万騎は納得しないと見た。幕臣たちの反発を予想し、それを朝廷への反逆とみなして戦争に持ち込もうという策略である。

大久保の読み通り、慶喜は辞官納地を受け入れた。そして諸隊長を集めて訓戒した。

『この慶喜が腹を切って死んだと聞けば、汝らはどのようにでもせよ。しかしこのようにして生きている限りは、我が下知に従え。盲動はならぬ』

『内乱が起これば徳川家は負ける。薩の挑発に乗らぬという原則を決めた以上、慶喜はあくまでも狂いなくそれを通してゆきたい。「それだけが、薩の手に対抗する道だ」と、慶喜はいった。』

そして慶喜は、京を捨て大阪に下る決断をする。ここから身内を欺き続ける。リーダーとしてあるまじき策を弄し、京から大阪へ、大阪から江戸へと逃げる。薩長との対決を主張する幕臣や会津・桑名の兵たちを見捨てて逃げる。

当時、幕府の兵力は薩長をはるかに上回っていた。フランスによって訓練された洋式歩兵も養成していた。軍艦の数でも薩長をはるかに凌駕していた。慶喜が戦う決断をすれば歴史は大きく変わっていただろう。少なくとも、西郷と勝による江戸無血開城は実現しなかっただろう。

江戸に戻った慶喜はひたすら恭順の姿勢をとり続けた。

『慶喜は、現世のなまのあの顔見知りの京都の公卿、大名、策士どもに恭順するのではなく、後世の歴史に向かってひたすらに恭順し、賊臭を消し、好感をかちとり、賊名をのぞかれんことを願った。それ以外に、あの策士どもと太刀打ちできる手はない。ひたすらに弱者の位置に自分を置こうとした。この国の芝居好きたちは悲劇付きでとりわけ悲運の英雄を愛し、義経を愛し、そのために判官びいきという言葉すらあるほどであった。慶喜は、その主題に生きようとした。 彼はその恭順を守るためには、容赦なく他をも犠牲にした。』

自らの美学を守るために、率先して敗北を受け入れ、多くの部下たちを見捨てた。

慶喜の脳裏では、大久保や西郷との知略の対決という意味合いしかなかったのかもしれない。

江戸城を出て、上野寛永寺、さらに水戸で謹慎生活を送り続けるうちに、時代は明治へと変わった。明治2年、慶喜は謹慎を解かれ、静岡に移った。

この時、まだ33歳である。趣味に没頭した。大弓、鉄砲猟、放鷹、謡曲、油絵、刺繍、そして写真。自ら画材を作り、暗室を作って現像もした。

ほとんど人にも会わなかった。例外は渋沢栄一と勝海舟。

そして多くの子供をもうけた。成人した者だけで10男11女の子沢山となった。

慶喜は大正2年、77歳まで生きた。

明治維新に関する書物をよく読んだという。中でも大久保利通のことは丹念に調べていたそうだ。薩摩を生涯恨みながら、明治の世を生み出した傑物として評価もしたのだろう。

一橋慶喜、面白い。

 

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